ニュージーランド移住記録「西蘭花通信」

人生の折り返しで選んだ地はニュージーランドでした

祈りの場

2003-06-28 | 移住まで
NZ南島。目の前の湖面には夕闇が広がっていました。風は冷たく、自然に服の前をかき合わせ、腕組みをしていました。私と夫は迫り来る闇に背中を押されるように、湖畔に立つ小さな石造りの教会に入りました。奥行きも幅もない小箱のような空間の先には、大きな横長のガラス窓があり、その向こうには今しがたまで目にしていた夕刻のテカポ湖が広がっていました。2人ともその美しさに、思わず息を呑みました。外の冷たさとは裏腹に、そこには昼間の暖かみが満ちていました。


外と同じ眺めなのに、ガラスの向こうの風景はまるで一幅の絵でした。教会の中は外よりも一段と暗かったため、夕闇に包まれていたはずの外の眺めは、まるで一日の残光の中でほのかに輝くように明るく見えました。完全な逆光の中、建物の壁は黒い額縁のように、はかなく消えていく光を縁取っています。雄大な眺めをこの黒縁の中に切り取ったことこそが、この建物の傑作たるゆえんでしょう。まさに静謐という言葉そのものでした。

私はクリスチャンではありませんが、南島のほぼ真中に位置する「善き羊飼いの教会」ほど、祈りの場に相応しい場所を他に知りません。大自然を切り取って目の前に差し出すことで、この教会に足を踏み入れる者に祈る対象を授けているのです。同じ眺めであっても、教会の外では広大過ぎて、その美しさに心を奪われることはあっても、祈りにはつながらないのです。現に私たちは、圧倒的な自然を前に言葉を失い、ファインダーをのぞくのも虚しく、茫然と立ち尽くしているばかりでした。

ここは教会でありながら、人々が本当に祈りを捧げてきたものは窓の前に立つ小さな十字架ではなく、その向こうの大自然そのものではなかったのかと思い当たりました。十字架は切り取られた風景に一つの焦点を与えているに過ぎないように思います。それがゆえ異教徒でも無宗教の者でも、この場所に足を踏み入れたならば、膝まづいたり手を合わせたりせざるを得ない気持ちになっても不思議はありません。それぐらい、そこは信仰で満ち、視界のすべてが神々しく見えました。

こんな場所では祈るという、神への語りかけを通じた自問自答をしてみたくなります。小箱のような部屋全体が懺悔室そのものとなり、「悔い改めよ」という水先案内をする牧師がいないからこそ、直接自らの心に、ひいては神に語りかけ、悔いたり決意を新たにしたりしながら、自分の思考を深めていくことができそうな気がしました。静寂、雄大さ、人工的なものが視界から消える清廉な1日の終わりの一刻。その日の自分を振り返るには最適の場所に思えます。

NZ北島。私の知る限り、NZにはもう一つ祈りの場として相応しいところがあります。それはロトルアにあるアングリカン教会です。こちらもロトルア湖の湖畔に建っていますが、善き羊飼いの教会に比べて規模も大きく、建物も立派で、同じ敷地内にマオリの集会場マラエもあり、北島らしいローカル色豊かな教会です。裏手には戦没者をはじめ、町の人々が美しい湖を臨みながら、とこしえの眠りについています。

方角は北(北半球での南)向きで、朝の祈りに向いた場所です。教会内の右手には大きなキリストを描いたステンドグラスがあり、その向こうにはロトルア湖が広がっています。キリストがちょうど水面に片足を踏み出し、渡って来るような構図になっているのが見事です。顔立ちはどう見てもマオリで、磔にあった痩せ細った姿とは似ても似つかぬ骨太の逞しい姿で、羽毛でできたマオリの長老の服をまとっています。わかり易い容姿を施すことで、マオリたちへの布教に役立てたのでしょう。

でも、私はこの雄々しいキリストがけっこう気に入っています。朝日を背にして後光を放ちながらこちらに向かってくる姿には、信仰心の高揚という目的を超越したものを感じます。親しみ易いキリストと背後の湖とが一体化した構図は人々を惹きつけ、ここを訪れる者は知らず知らずのうちに、外に広がる美しい自然を拝んでいたのではないでしょうか?善き羊飼いの教会の黒く影になる窓枠の中の小さな十字架のように、このキリストは人々に祈る対象を与えてきたのかもしれません。そして、本当の信仰と神はその向こうの無限の空間に在ったのではないでしょうか?教徒でない私には、そんな風に思えてなりません。

私は神の存在を信じています。ただし宗教心はありません。ですから教会だろうが神社仏閣だろうが、道教の廟だろうがヒンズーの寺だろうが、祈れるものには何でも手を合わせます。それぞれ構えが違っても、その向こうの存在は同じもの(少なくとも同じ起源のもの)だと思っているので、見た目の違いは気になりません。そして祈りは決して一方向の"おねだり"ではなく、願うと同時に自分も実現に向けてまい進し、何かが起きれば反省したり喜んだりし、何も起きなければ起きない意味を掘り下げて考え、最終的には感謝につながっていくものだと信じます。朝な夕なに自然に祈れる、神々に近い暮らしの中で、心穏やかに生きていければ・・・と、心から願っています。

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編集後記「マヨネーズ」 
善き羊飼いの教会は日本人観光客に最も人気の高いコースの一つでしょう。午前中に行ったことがありますが、辺りは観光バスで乗りつけた年配の日本人でいっぱいでした。みな嬉しそうに湖をバックに代わる代わる写真に収まり、教会に入りきらない人は外に列を作っていました。しかし、それほどの盛況(?)にもかかわらず誰一人お布施をしていかなかったのにはがっかりでした。


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後日談「ふたこと、みこと」(2023年3月)
これは移住前の2002年の話でした。善き羊飼いの教会には20年後の2022年に夫婦で再訪しました。柵で囲まれたり周辺の遊歩道が整備されていましたが、基本的には変わっておらずホッとしました。


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