SSF 光夫天 ~ 詩と朗読と音楽と ~ 

◆ 言葉と音楽の『優しさ』の 散歩スケッチ ◆

秋の詩 「落葉」

2015-12-13 11:37:49 | 「尾崎喜八を尋ねる旅」
穏やかな日曜日の朝(大阪府箕面市)

北側に位置する、この身近な風景(空と雲と山と樹木と人の生活)は、美しく思うと同時に心地よい安堵感を与えてくれる。


自註 富士見高原詩集(尾崎喜八)より

「落葉」

ひろびろと枯れた空の下で

白樺や楡の葉がたえまなく散っている。

一枚一枚が太陽に祝別され、

昔の色の空の青に

これを最後と染められながら。


ああ 没落の空間に幾変転して

その転身によこたわる秋の木の葉の美しさ。

世界じゅうの美術館や諸国の画廊の

静寂のなかでも散っている。


コンステイブル、ミレー、テオドール・ルソーらの

不朽の画布や素描のなかで

きょうも散りやまぬ彼らの姿が永遠だ。

【自註】
私の住んでいる分水荘の森は広くて、樹木は無数、その種類も豊富だった。その中でもすべての広葉樹の葉という葉が、折からの晩秋を黄や赤にもみじして、毎日の風に散るのだった。静寂の中に時おり響く小鳥の声と絶えまもない落葉の眺め。それが今ではほとんど忘れられた昔の画家の名とその作品とをなつかしく思い出させた。

「美しい」かどうかは知らないが、「没落の空間に幾変転して、その転身によこたわる秋の木の葉」は同時に私の姿でもあった。



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ジョン・コンスタブル(John Constable、1776年6月11日 - 1837年3月31日)は、19世紀のイギリスの画家である。終生、故郷サフォーク周辺の身近な風景を描き続けた。(ウキペディアより)
自画像


代表作『乾草の車』は画家の地元サフォークの平凡な風景を詩情豊かに描き出したもの。



秋の詩 「充実した秋」

2015-12-09 13:22:06 | 「尾崎喜八を尋ねる旅」
第17回富士見高原詩のフォーラム記念公演(2014年8月)の下見で、昨年5月に富士見を訪れたが、あいにく天候悪く、「美ヶ原」を断念し、急遽予定を変更し「安曇野」を訪れた。
写真は、大王わさび農場(安曇野)



自註 富士見高原詩集(尾崎喜八)より

「充実した秋」

深まる秋の高原に霜のおとずれはまだ無いが、

林の木々や路の草には

もう赤が染み、黄の色が流れている。

大空をしずかに移る鱗雲、

きのこの匂い、鷹の叫び、

きつつきも堅い樹幹に

堅い穴を掘りはじめた。


沢沿いの栗山に いが栗がぎっしり、

里はどこでも枝をしなわせて林檎があかい。

もっと遠い盆地へかこむ

あの南へ向いた大斜面には、

幾村々の葡萄園が

琥珀や紫水晶の累々の房で重たかろう。


乾いた音のする両手を揉みながら、

「今年はなりものの出来がよくて・・・・・・」と

目を細くして言う八十歳の老農の

その栗色の皺深い顔や、はだけた胸にも、

物を制して物の自然を全うさせる

あの「よろず物作り」の

かくしゃるたる秋の結実が笑み割れている。


【自註】
高原の多彩な秋はまた充実の秋でもある。都会に近い田舎などとは全く違って、一切が落ちついて、豊かで、堅実で生きるという事の意味や生の自覚が、至る処に実り、至る処に光彩を放っている。こんな時に野や村を歩くのは本当に楽しい。自然も人間も一体となって、自信に満ちた顔をしている。だから、「もっと遠い盆地」、隣国甲斐の葡萄の豊作にまで思いを馳せる余裕が生まれるのだ。物を規正して物の天命を全うさせる八十歳の老農の、そのかくしゃくとした笑顔こそこんな秋を代表するものではあるまいか。

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この「充実した秋」の詩は、自然とともに生きた先人たちの「力強さ」を感じることができる詩であり、
昨年、訪れた「安曇野」で感じた「自然と人」を振り返り、あらためて「満たされた心地よさ」を感じた次第。

北アルプスの山々には、まだ雪があり、安曇野の原風景を楽しみました。(2014年5月26日)


(写真は、大王わさび農園)

安曇野のわさび田を流れる水は、すべて、この大王わさび農場のわさび畑の中から湧き出す北アルプスの雪解け水(伏流水)だそうです。

秋の詩 「十一月」

2015-12-08 11:29:46 | 「尾崎喜八を尋ねる旅」
空気ひんやり。
太陽の活躍に期待。
(晩秋初冬の大阪府豊中市:20151208撮影)


自註 富士見高原詩集(尾崎喜八)より

十一月

濃い褐色に枯れた牧場の草が

いちめんに霜の結晶でおおわれている。

春には桜草の咲きつづく湿めった窪地に

けさは寒い霜が灰色に立ち込めている。

どこかで鶫(つぐみ)の声はするが姿が見えない。

しかし今、山のうしろから晩秋初冬の朝のよろこび、

大きな真赤な太陽がゆらゆらと昇って来た。

霜の高原が見るまに金と薔薇いろに染まる。

湿地の霧がきれぎれになって消えてゆく。

ふりかえれば西の山里も朝日をうけて、

その上に菊日和のきょうの空が

まっさおに抜けたようだ。


【自註】
晩秋初冬の高原に、朝の太陽の昇って来る時の美しさ晴れやかさを書いた。その太陽は十一月だと八ヶ岳の南の裾にあたりから昇る。振り返って見る西の山里は入笠山の下に点在する富士見のだ。そこではどんな農家でもみんな菊を作っている。それぞれ自慢の菊が朝日をうけて、綺麗に掃き清められた各戸の仕事場や庭の片隅を一層美しく見せていることだろう。そしてそんな結構な菊日和には、私の行くのを心待ちにしている老人や若者の一人や二人はきっといるに違いない。




野紺菊(のこんぎく)

キク科の多年草。山地に生える。薄紫色の花を茎の上部に咲かせる。ヨメナとよく似ているがノコンギクには4~6mmの冠毛(花の付け根にがくが変化してできた密集した毛)がある。
唱歌の「野菊」はこの花の歌だそうだ。
検索:「菊 富士見」
富士見町では、多くの菊を栽培し、たくさんの種類があるのだと思いますが、
「野紺菊」の写真がありましたので、転載します。
富士見町 http://www.town.fujimi.lg.jp/site/flower-irikasa/nokongiku.html

鶫(つぐみ)

中華人民共和国南部、台湾、日本、ミャンマー北部、ロシア東部。
夏季にシベリア中部や南部で繁殖し、冬季になると中華人民共和国南部などへ南下し越冬する。日本では冬季に越冬のため飛来(冬鳥)する。和名は冬季に飛来した際に聞こえた鳴き声が夏季になると聞こえなくなる(口をつぐんでいると考えられた)ことに由来するという説がある。日本全国で普通に見られる。(ウィキペディアより)


秋の詩 「巻積雲」

2015-12-07 13:07:21 | 「尾崎喜八を尋ねる旅」
雲の種類(見出し写真)

今年の秋の初め、おもしろい雲をいろいろ撮影できた。(大阪府豊中市)
ひつじ雲  秋の初めに撮影<20150912>



西の空から雲が東の空へ駆け抜けるような、そんな雲に見えた(笑)<20150920>



自註 富士見高原詩集(尾崎喜八)より

巻積雲

赤とんぼやせせり蝶の目につく日、

家畜たちが人間に一層近く思われる日、

人が"おもいぐさ"の鴇色の花を

光りさざめく尾花の丘に見出す日、

日光は暖かく 風爽やかなこんな日を、

ああ、高原の空のかなたに

真珠の粒を撒いたようなひとつらなりの巻積雲。


その昔、階段になった教室で

音の事をならう物理の時間に、

クラドニの音響図形の実験を見た。

薄い金属の板のへりを

ヴァイオリンの弓でこすって見せる先生の、

その薄給の服が私の心を痛ましめた。

だが、指先の支点をかえるたびに

さまざまに変化する砂絵の模様を

なんと先生が美しい微笑で示したことか!


今あの空につらつらとならぶ巻積雲が

少年の日のクラドニ図形を思い出させ、

遠い昔の先生の

おそらくはもう此の世で再び見るよしもない

あの笑顔や素朴な姿をなつかしませる。


なぜならば家畜や虫や花野や空が

彼らの無常迅速の美で

なお永遠を彷彿させる

こんなにも晴れやかな瞑想的な秋ではないか。


註)"おもいぐさ"は、「なんばんぎせる」の別名。


【自註】
秋の青空の一方を美しく飾っている雲を眺めているうちに、ふと中学時代の物理の時間に或る実験をして見せてくれた先生の事を思い出して、懐かしさの余りにこの詩を書いた。

巻積雲は空の上層の現れる雲の一種で、日本では俗に「いわし雲」とか「さば雲」とか呼ばれている。高さ地上約八〇〇〇メートルと言われているが、もっと低い場合もあり、天気の変わり目に出ることが多い。しかしこの日は幸いその天気が悪化するどころか、綺麗に晴れた夜になった。この雲は四季を通じて現れるが、秋のそれは空が澄んでいるせいか最も美しく、「秋の雲とでも名づけられたよう」と言っている気象学者さえある。

その美しい雲形の模様から私が連想した「クラウド図形」というのは、円形又は方形の金属板のまんなかを万力で固定して、その上に細かい粉を振りまき、板の縁の或る一点を指で押え、他の一点をヴァイオリンの弓でこすると板が振動して音を出し、粉は節となる線の上に集まって美しい模様を作る。そしてその摩擦する場所と指で押える位置を変えると、その度にいろいろ複雑な模様が出来る。これをクラドニ図形と言って、発音体の振動の事を習う時に見せられる実験である。

その貧しげな物理の先生の服の痛みと、それに気づいた少年私の心の痛みとの思い出が、巻積雲を縁に結びついたのも、まことに瞑想的な秋のなす業であった。

秋の詩 「秋の林から」

2015-12-07 10:27:41 | 「尾崎喜八を尋ねる旅」
寒い朝、爽やかな朝を迎えることができました。
冷たい空気を、今日は、太陽が暖めてくれそう(^^)


自註 富士見高原詩集(尾崎喜八)より

秋の林から

秋の林には、時おり、ふと、

なにか小鳥の声の響くことがあった。

その声は澄んだこだまを生んでじきに消えたが、

回復された沈黙はもう元のようではなかった。

或るまったく新しい感情が

そこに住んで生きることをはじめたように思われた。


そのように、林を通るしぐれもあった。

乾いた苔や下草を濡らす程ではなく、

やがて夕日に華やぐかろい木の葉を

しっとりとさせるぐらいの訪れなのに、

其処には何かこまやかな語らいがあったように

ほのぼのとした空気が醸されて残った。


そんな秋の林で見出されたさまざまな きのこが

とりどりに眼や心を悦ばせる色と形で、

畳へひろげられた白紙の上、

山荘の黄いろい燈下にぎっしりと押し合っている。


【自註】
秋の森や林から採って来たキノコを眼目に書いたのではなく、この詩のこころは初めの聯とそれに続く聯とによって語られている。小鳥の声にしろ時雨の音にしろ、それが忽然(こつねん)として消えた後に全く新しいものして生れて来る感情や、余韻として残るものの美しさを書いたのである。事実私にはこいう心境から出来た詩が少なくない。

白紙の上へ拡げられたキノコは食うための物ではなく、菌類図鑑でそれぞれの名を調べるための物だった。尤もその中の食用キノコの幾つかは結局食ったが・・・。