刻は 夜半過ぎ
ムクリ 起きて ゴソゴソ 🎣準備
ふと ナビを つけると
BS1スペシャル 「コロナ新時代への提言~」 放映中
始めは 釣り道具を整理しつつ 何とはなしに 聴いていた。。。
他の番組やら エンヤを 聴く 選択もあったけど
僕の中の 意思の奥底が
チャンネルを 変えることを 拒んだ
その理由は。。。
僕が 最近 何となく 疑問に思っていた
そのことへの 貴重な示唆が あったからだ
國分 功一郎さん(哲学者)によれば
イタリアにて 新型コロナウイルスが 大流行した折
ジョルジオ アガンベン(哲学者)が
異議を唱え 物議となった
アガンベンは
ウイルスに 罹患した 死者は
葬儀を認められず
ひとつの モノとして 処理されていく
そのような社会で良いのか
死者を 弔うことが できない 社会で良いのか。。。と
國分さん
生存以外 自由が 認められない 社会で良いのだろうか
死者が 「葬儀の権利」を 持たない 社会で良いのか
死者に 敬意を持たない社会は 軽薄そのものでは ないだろうか。。。
無論
今 述べたことは そうたやすく 答えが 出るものではない
それでもなお 問いを発信 しつづけていく
それが 哲学者たる 私たちの 役目である。。。と
僕自身
これまで 新型コロナウイルスにて 亡くなった方が
弔うという 儀式が許されることなく
葬られてきたことは 知っていた
それは やむを得ないとも 理解していた
でも。。。
頭では 分かってはいても ハートが
心が それって 違うのではないか! と
ずっと くすぶり続けていた。。。
おそらく。。。
義父が 亡くなった際
その弔いが 僕自身 不十分だったこと
最期の電話を 受けた際
自ら 死を選択しようとしている 義父の心情を
察知 止めることは できなかったのか
その 悔やんでも 悔やみきれない 思いと
新型コロナウイルスによって 亡くなった方々と
何かしら 繋がっているからなんだと 思う。。。
幸いなことに
改めて 人が死ぬという 事象と
思いがけず 向き合うことが できた
連日 ウイルスによって 亡くなった方の数が
報道などで 明らかになるけど
僕は その数字だけじゃなく
その後ろにある ひとりひとりの人に
思いを 馳せよう。。。
そして
義父のことを これからも ずっと
思い続けよう
それが
亡くなった すべての方への 供養
これからも アナタも 僕も
最期の その時が 来るまで
精一杯 駆け抜けて いこう
たとえ 今
家の中に居ることが 主であったとしても
できることは 結構 ある!
そして。。。
僕は あきらめが 悪いのデス 😉
痛み 悼み は 消えない ままで いい
誰にも 奪えない 魂
終わるには まだ 早い