出先で使って、帰ってきてから、
めがねがないことに気付いた。
車に乗り込む前には首にかけてたから、
どこかにはあるんだろうけど。
めがね~~~!!
どこ行ったの~~???
本も読めない。
麺の茹で時間もわからない。
さっきは<つめ替え方法>が、
くつの替え方※◇に見えた。
もう、まったくもって不便だ。
ブログを書くのは
モニターの文字を大きくすればいいんだけど、
一行の行数の感覚が違ってきて、
リズムが悪いぞ~~~~。
普段のように書けないぞ~~。
まったく、どこにいるんだか、めがね。
帰っておいで~~!
自分の目で見ているつもりのものが、
実際はこれほどまでに道具に依存しているなんて、
びっくりよ。コワイ話だ。
ある日、世界中のめがねが一斉に反乱を起こして、
赤が見えないようにしたら、
地球上が、とても落ち着いた
宇宙空間みたいな世界に見えるんだろうか?
あ、特定の色が見えない人って、そういう感じ?
その色が見えてないことに
自分では気づかないって聞いたことがある。
昔は、色覚異常と正常に分けてたけど、
今では、その境界線はあいまいで、
グラデーションだと言われているそうだ。
自閉症スペクトラムもそうだよね。
正常と異常の境界線なんかない。
私たちは、
つい自分が正常だと思ってしまう。
だけど、
自分に何かが見えてないことに、
自分で気づくのって、難しい事なんだろうな。
実際、人の視野は180度くらいだけど、
馬は350度くらいの範囲が見えてるらしい。
そんなことを聞いても、
「人は世界の半分しか見えてない」とか、
「馬くらいの視野を見るためのめがねが欲しい」とか、
思わないよね?
あ、魚眼レンズはそうか。
でも、
日常的にあの視野で暮らしたいとは思わない。
酔うわ(^^;)。
だとしたら、
人としてやっていくには
人に与えられた機能で充分だ、
っていう話かもしれない。
そうだとしたら、
めがねが必要になったら、
文字を読まなくていい、ってことなのか???
その代わりに何が必要なんだ??
新しい事を学ぶよりも、
今までの経験から考えたことに行動を一致させろ、ってことか?
それとも、身の回りのお鍋や人から学べってことか?
それともそれとも、自分から外に繰り出す番だってことか?
物理的に外が見えにくい影響だからか、
今日はエッジの効かない考えが、
自分の中でぐるぐるして、
どうにもまとまりません。
身体と思考って、ホントに密接に関係してるね。
って、これまた自由の哲学じゃん。
脳内に「自由の哲学フィルター」がかかってるのかも。
お互い、認知のゆがみに気を付けましょう。
「どうも合わないなぁ…」って思ってる人が、
案外、自分と同じタイプだったりするのは、
よくあることですもの(^^)。
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