精神までを進化の考えに入れず、
肉体までを進化の範疇に捉える進化論者が、
その基本の捉え方から唱えうるのは、
今の人の行動が猿から進化して生まれた、
ということまでだ。
人の行動が自由か自由でないかどうなのか、
つまり、こういうのが自由な行動だ、と決めるのは、
人が猿から進化したかどうかには関係なく、
自分の行動を直接見て判断するのがふさわしい。
また、精神までを進化の考えに入れず、
肉体までを進化の範疇に捉える進化論者は、実際に
「今の人は、なんとか原人とかから進化した」
としか唱えていない。
人の成り立ち(生理・物理・心理・精神を含む)が、
どうなっているのかを知りたければ、
人が人自身を見ることで確かめるのがふさわしい。
そこで確かめられたところが、
肉体器官の進化までしか入れない進化論ではなく、
もっと広く、精神までの進化を考えに入れた進化論に
矛盾することはないだろう。
ただ、そこで確かめられたところが、
自然の秩序を寄せ付けない
(=自分勝手な思いこみ、形而上の考えの遊び、
他者と噛み合わない…など)なら、
自然科学が今もずっと
新しく進化し続けているという方向と矛盾するだろう。
※
力強い一元論です。
進化論の知識がなくても、
じかに自分を見たら精神が見いだせる、と。
そして、自分なりの精神や法則が見えるなら、
それは、今の自然科学の知識と矛盾しないでしょう、と。
今も進化し続けている自然科学の新しい方向。
これは、なんか詳しくは忘れましたが、昔、
裸子植物とか、脊椎動物とか、
「進化の系統樹」というのを学習しました。
今、生きている私たちは、
そのてっぺんに位置するだけじゃなく、
そこからまださらに進化している途中なのです。
私たち一人ひとりが、
日々どう行動し、どう進化していくかで、
進化の系統樹の伸び方が変わっていく
と思えてならないのです。
未来の進化のために、私が今できること。
自分を育て、周囲と一緒に幸せになっていくこと。
心折れる日には、状況を嘆いたり
相手を責めたり自分を卑下したりするより、
静かに繭の中で休んで、
安全なところで状況を理解し、充電すること。
充電できたら、また、
自分も周囲も、同じように大事にできるから。
一元論ですもの(^^)/
肉体までを進化の範疇に捉える進化論者が、
その基本の捉え方から唱えうるのは、
今の人の行動が猿から進化して生まれた、
ということまでだ。
人の行動が自由か自由でないかどうなのか、
つまり、こういうのが自由な行動だ、と決めるのは、
人が猿から進化したかどうかには関係なく、
自分の行動を直接見て判断するのがふさわしい。
また、精神までを進化の考えに入れず、
肉体までを進化の範疇に捉える進化論者は、実際に
「今の人は、なんとか原人とかから進化した」
としか唱えていない。
人の成り立ち(生理・物理・心理・精神を含む)が、
どうなっているのかを知りたければ、
人が人自身を見ることで確かめるのがふさわしい。
そこで確かめられたところが、
肉体器官の進化までしか入れない進化論ではなく、
もっと広く、精神までの進化を考えに入れた進化論に
矛盾することはないだろう。
ただ、そこで確かめられたところが、
自然の秩序を寄せ付けない
(=自分勝手な思いこみ、形而上の考えの遊び、
他者と噛み合わない…など)なら、
自然科学が今もずっと
新しく進化し続けているという方向と矛盾するだろう。
※
力強い一元論です。
進化論の知識がなくても、
じかに自分を見たら精神が見いだせる、と。
そして、自分なりの精神や法則が見えるなら、
それは、今の自然科学の知識と矛盾しないでしょう、と。
今も進化し続けている自然科学の新しい方向。
これは、なんか詳しくは忘れましたが、昔、
裸子植物とか、脊椎動物とか、
「進化の系統樹」というのを学習しました。
今、生きている私たちは、
そのてっぺんに位置するだけじゃなく、
そこからまださらに進化している途中なのです。
私たち一人ひとりが、
日々どう行動し、どう進化していくかで、
進化の系統樹の伸び方が変わっていく
と思えてならないのです。
未来の進化のために、私が今できること。
自分を育て、周囲と一緒に幸せになっていくこと。
心折れる日には、状況を嘆いたり
相手を責めたり自分を卑下したりするより、
静かに繭の中で休んで、
安全なところで状況を理解し、充電すること。
充電できたら、また、
自分も周囲も、同じように大事にできるから。
一元論ですもの(^^)/
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