シュタイナーの行のひとつ。
「一つのことに集中して
それについて、5分だけ考えてみる」
それについて、5分だけ考えてみる」
これをやってみようと言って、
各自でこの時間を持とうとするんだけど、
5分間、集中することの難しいこと!
何かに集中しようと思ったら、
「あ、先にあれやらなきゃ」とか、
「あの返事どうしたっけ?」とか、
「あとでホコリ拭とこー」とか、
「打ち合わせいつにしよーかな」とか…、
鬼火のようなゴミのような考えが飛び交い、
野放図にあちこちとっちらかっていく。
「えーと、何考えるんだっけ?」って。
「コレ」についての考えに集中したいのに、
それが、こんなに難しい。
普段は、あらゆる刺激が押し寄せて来る環境で、
自分の集中力があるんだかないんだか、
5分間、集中することの難しいこと!
何かに集中しようと思ったら、
「あ、先にあれやらなきゃ」とか、
「あの返事どうしたっけ?」とか、
「あとでホコリ拭とこー」とか、
「打ち合わせいつにしよーかな」とか…、
鬼火のようなゴミのような考えが飛び交い、
野放図にあちこちとっちらかっていく。
「えーと、何考えるんだっけ?」って。
「コレ」についての考えに集中したいのに、
それが、こんなに難しい。
普段は、あらゆる刺激が押し寄せて来る環境で、
自分の集中力があるんだかないんだか、
よくわかんないような状況にいる。
自分に集中力がないことを、
「この本、つまんない」とか言って、
自分以外のもののせいにしがち。
「この本、つまんない」とか言って、
自分以外のもののせいにしがち。
そして、どんどん知性が目減りしていって、
誰でも思わず同じ反応をしてしまう
強い刺激のものが増えていく。
そしてますます、
繊細な感受性も思考能力も失っていく。
つまんない~~!
じゃあ、そんな刺激をブロックして、
集中して自分の考えたいことを考えればいいよね?
って話なんだけど。
って話なんだけど。
もちろん「出来る」と思ってたよ。
たった5分でしょ。
でも、難しいんだよね~、これが。
いい考えが浮かばないんじゃなくて、
考えに集中すること自体ができない。
だから、外からの刺激に頼ろうとする。
「サルでもわかる〇〇」系の本やセミナー、
「誰でもこれを見れば〇〇出来る!」的な動画など。
それって、ノウハウ的なことなら役立つけど、
自分の本質的なことには答えてくれないから、
結局、自分で実証=失敗していく必要があるんだけどね。
なんか、
失敗しないってことは、
たった5分でしょ。
でも、難しいんだよね~、これが。
いい考えが浮かばないんじゃなくて、
考えに集中すること自体ができない。
だから、外からの刺激に頼ろうとする。
「サルでもわかる〇〇」系の本やセミナー、
「誰でもこれを見れば〇〇出来る!」的な動画など。
それって、ノウハウ的なことなら役立つけど、
自分の本質的なことには答えてくれないから、
結局、自分で実証=失敗していく必要があるんだけどね。
なんか、
失敗しないってことは、
学んでないし、進んでない、
ってことと似てるような気がしてきた…。
失敗だけして落ち込んで、
ってことと似てるような気がしてきた…。
失敗だけして落ち込んで、
そこで「向いてない」って終わることも多いけど、
そこがスタートって考えられる程度に、
ふてぶてしくなった方が楽しいかもねー。
え、ちょっと待って!
というか、失敗するのが怖くて、
「向いてないんじゃない?」ってためらって、
始めないことの方が多い気がする!!!!
あ、でも何かするなら責任感とかも必要だし、
あれ、私の目的、仕事を辞めた理由は、
失敗しないことだっけ???
それなら、自由とか理想とか考えずに、
一日中、動画見てゲームして
お菓子食べてたらいいのよ。
しばらくは、それでも楽しめるだろうけど、
究極に自分がそれを望んでるとは思えない。
不安と怠惰に拘束された状態でしかないから。
嫌々ながら学ぶと記憶が損なわれる。
そして後には何も残らない・・・
「自分で」学び理解することは
「教育」よりも大事なことである。
だからこそ、大人は自己教育。
自分をどう育てたいか、が大切なんでしょうね。
失敗することを恐れるから教育に頼ろうとするわけです。
教育を受けることは失敗しないようにするために、団体旅行のパッケージツアーに参加するようなものだと思います。
行き先も行程も決まっているからつまらなくなるわけです。
痛い目に遭う機会を与えることです。
教育を受けることで痛い目に遭う。
自分を育てるとは自分を痛めることです。
つまり、自己を否定することが学ぶことです。
良い意味でも悪い意味でも・・・