読了 『なまけ者のさとり方』&『カミーノ』

2011-09-27 13:56:08 | 読書ログ
■2冊セットで読む

2冊をセットで読む、というのは、相互補完的に読め、本を没頭しているときに陥りがちな視野狭窄を防ぎ、視野を高い位置に維持できるのでオススメです。

今回は、『なまけ者のさとり方』&『カミーノ』。

■『なまけ者のさとり方』 タデウス・ゴラス著 

なまけ者のさとり方

は タイトルが魅力的(笑)な本ですが、決してなまけ者は読み通せない感じでした(^^;)

この本は悟りについて語っていますが、世界を内省する一般的な論理思考から飛躍することがない。

スピリチュアル系の本ではありません。分類でも思想のところに入っています。そこがいいところです。

世界のなりたち、人の生き方、悟り、宗教的な天使や過去生、霊魂を持ち出さずに説明できるなら、そのほうが良いではありませんか?

私が気に入ったのは、宇宙(Universe)の表現です。

すべてのものを基本的に、拡張するか、収縮するかで定義しています。 これは2元論でとても西洋的ですが確か宇宙の起源を説明する理科の教科書で出てきたような?

   ↓       ↑
  →・←    ← ・ →
   ↑       ↓

私達は、拡張し続ける世界の一部であるというわけで、宇宙と一体化することは拡張し続けることです。  

人の意識が拡張しつづけているとき(スペース状態と呼んでいる)、その人は全世界のものと一体化しているといえます。これがつまりこの本でいう”悟る”ということです。 

逆は収縮状態の”かたまり状態”。 その間に、無限のあらゆる状態が含まれます。ポイントはどの状態であっても良いということ。

基本的にすべてのものが同じ力学で説明できる、という意味で、”平等”が使われています。

また、愛という言葉は色々に説明されていますが、シンプルに言ってしまえば、収縮した状態=かたまり状態にならない、ことです。

平たくいうと、何かに抗い、何かに執着し、何かから逃げ、何かを否定し・・・というような 意思的に、→・← に向かう運動(バイブレーション)ということになります。

この方向性を表す言葉でバイブレーションという言葉が使われています。が、態度(Attitude)と読み替えても同じ意味が通じます。 

また実際のところ、人間を含めすべてのものが何もしないでいても拡張しているのですから、その拡張していることを理解する(=受け入れる)だけで良い。そういう意味で
自己受容は今のありのままを認めること。 

悟りのために大変な苦行難行を自分に課す一般の悟り向け修行とはまったく違います。

この本の愛の概念が他とくらべ、少々難しく感じますが、愛するということはありのままを受け入れることです。

私は思うのですが、愛というのも 愛されない経験をして始めて愛されていることが理解できるのかもしれません。愛という積極的な行動、例えば善行を積むなどは突き詰めればむしろ自己愛ですし。愛とは、無条件の受容、Unconditional(易しいようですが難しくないです?)ということだろうと思うのですが、これを愛と呼ぶには読む側の人生経験と理解力が要なのかもしれません。

愛しなさい、はその意味で特に何かをしろ、ということではなく、認める、事実を受け入れる、相手を受け入れるというよう意味で、否定の逆エネルギーです。

■ カミーノ シャーリー・マクレーン

カミーノ ― 魂の旅路

カミーノというのは、”スペイン版お遍路”です。 シャーリー・マクレーンがカミーノを旅した手記ですが、この旅路での彼女の内的対話をかいています。つまりカミーノは彼女の精神的成長(Spritual Growth)の記録です。

後のほうでは『エイラ』を髣髴とさせ、物語チックになります。例えば白昼夢を見て、古代アトランティス文明が滅びるところなど。

で、小説のようにおもしろく読めるのですが、この本がなんで『なまけ者・・・』とペアで読むべきかというと・・・

翻訳者が同じだからです。山川夫婦。 このご夫婦はご夫婦ともに東大卒で、共訳で主にスピリチュアル系の本を専門に訳出されているようです。 

シャーリー・マクレーンがスピリチュアル系の本を出していることは結構海外では有名で私も読んだことはなかったのですが知ってはいました。

で、この『カミーノ』ですが、『なまけ者・・・』がアブストラクトとすると、カミーノがその西洋的具現化という感じです。

ですので、自分の思考の傾向として具体的なほうが入りやすい人は、カミーノなど誰かの心の成長記録を読んだほうが同じことを学ぶのでも学びやすいと思います。

『なまけ者・・・』は言葉が平易ではあっても、実はとっても抽象的なのです。

シャーリーの思考回路は自問自答です。その意味ですべては自分の中にある、のです。自分に起る出来事、出会う人、すべてが自分自身をよりよく知るための鏡です。
カミーノも同じで、巡礼によりどんな精神的探求が起ったか?如実な描写で知ることができます。

それより羨ましいのは山川夫妻です。何しろ、このスピリチュアル系翻訳という仕事を、自分達が成長する道具としてやっているに違いないからです。いや羨ましい境遇です。自分が知りたいと思ったものを訳す。一人で訳していたら思い込みによる思わぬミスもしますからパートナーとやる。 これはおもしろくてやめられない仕事になりそうですよね。もちろん、どんな人生にも困難はつきものですからご苦労も色々されているとは思いますが、非常にうらやましいなぁと思いました。

■ 精神的成長

すべてに共通するのは、精神的成長をやめない、という姿勢(Attitude)です。

この精神的成長、英語ではSpiritual Growthだと思うのですが、日本語では、霊的成長とも訳せます。しかし、霊的成長と言った場合と精神的成長と言った場合、なんだかニュアンス的に違いますよね。

日本語で霊的成長と訳してしまうと、優劣があるようなイメージを持たせかねないと危惧しました・・・ 
人間には上下はありませんが、魂にも人間の社会にあるような上下関係、上司と部下のようなものはありません。

今日は日経ビジネスのコラムで、”上司が尊敬できない!”とあり、このビックリマークに逆にびっくりしてしまいました(笑)!

上司なんて尊敬の対象になるわけがないではないですか~。上司と部下は社会的な上下関係。

精神の上下とはまったく関係ないので尊敬と関係ないのはあたりまえ・・・年齢さえ、社会の中では精神的成長には無関係ですよね。子供のほうが親より大人であることなんてよくあることですから・・・(^^;) その上、上下だと感じている関係は非常に一時的で、限定的な能力を比べた場合のことで、総合すると人間には上下の別はなかったりしますから、あるのは個性だけ。だからそもそも詮索しなくていい。

英語ではSpritual Growthはどちらかというと、例えば、瞬間湯沸かし器みたいだった人が精神的に成長して大人になり、怒りをコントロールできるようになる、というようなケースで日常では出てきます。

日本語だって「彼も成長したね」といったりしますが似ています。

シャーリーマクレーンも文脈で見るかぎり同じようなニュアンスで使っているようで、例えば、犬を恐れていた気持ちを
乗り越えることができるようになったりします。 (このような、乗り越えるべき精神的課題、をコアテーマと言っています。
で人生はコアテーマを乗り越えるための課題、ちょっとしたレッスンというようなものとなっています)

もっとも彼女のコアテーマはさらに深く定義されています。このカミーロの旅事態が彼女の精神的出発点となるためのもの・・・「終わったときに旅は始まる」 

元に戻ります・・・ ”スピリチュアル・グロース”つながりで、『なまけ者・・・』『カミーノ』”山川夫妻”がつながるわけです。

成長ですから、その後が気に掛かります(笑) 

タデウス・ゴラスは、その後、予想外の方角に傾いたようです。このサイトでは、『なまけ者・・・』が音読されています。神秘主義に傾いたのでしょうか…良い本なのにその後はありません。こちらでは、テキストが読めます。

シャーリー・マクレーンは今年の4月に次の作品を発表したようですが、まだ翻訳が出ていないようです。

I'm Over All That: And Other Confessions

山川夫妻は天使に傾倒されたようです。最新刊は天使の本でした。

それぞれの精神の旅路を辿ってみる読書も出来るかもですね。


畑を頂くバランスの良い料理本『大地の野菜レシピ』

2011-09-25 15:55:22 | 読書ログ

人参ご飯&とうがんカレースープの献立
人参ご飯はジュースをいれて炊くだけなのにケチャップライス味

■旬=収穫期?

今年畑で野菜作りをしてみて、収穫期と一般に言われている旬が、必ずしも一致していないことに気がつきました。

トマトは夏が旬ですが、一年中あります。でも、露地栽培の畑では、9月に入り秋の雨が増えると、トマトは雨にとても弱く、皮が破けるため、収穫はあっても見た目に美しくなくなるせいか、まったくスーパーには出回っていませんでした。出回っているのはきっとテント付きの畑に育ったトマトですね(笑)9月は露地栽培のトマトは煮込み向きですね。

9月初旬からキャベツとにんじんがとっても安いです。にんじんときゃべつは9月からが旬らしい? 9月に出回るのは涼しいところで育った野菜ですから、山梨は高原が結構あるからかもしれません。私達は5月や6月に植えておかねばいけなかったみたいです。でも植え付け時期9月とかいてあるんだけどなぁ…

秋になり、ネギやたまねぎがたくさん出回るようになりました。それに春にみた谷中しょうがもよく見ますね。春と秋口、二つ旬があるんですね。 

秋は体が冷えやすいので、ねぎやしょうがを食べなさい、ってことかしら?

トウモロコシは盛夏に収穫した後に植えた種で2度目の収穫が9月の中旬~下旬に出来ました。久しぶりに食べるとうもろこしでした。 スーパーでも出回っていますが2度目の旬の価格は、ちょっと真夏より高く128円くらいでした。

ししとうは盛夏のもののようです・・・ 9月に入ると、鋭い辛味のピリ辛ししとうばかりになってしまい、不思議。

カラーピーマン(パプリカ)はなかなか上手に育てられず、緑色のピーマンの状態のまま秋に突入。日照が足りなかったのか、植えた時期が遅かったのか、おいしい太ったパプリカにはありつけませんでした。実りがないまま、秋の長雨にさらされ腐ってしまいそうです。そう、野菜には雨が多くても心配なものですね。

パプリカは国産があまり出回っていないのは、もしかして、ピーマンと同じと思っていては育たないからなのかもしれません。ピーマンは楽に収穫できましたから。

とうがんは夏のカラダを冷やす野菜ですが、出回っていたのは、9月から・・・暑い8月に大きくなるものみたいです。最近、とうがんのカレースープにしています。 とうがんは味が薄いので、はっきりした味付けと合うようです。冬まで保存できるから、冬までとっておくといいのですかね(笑)?

9月に入るとぐんとかぼちゃが出回り始め、ほっくりしておいしい。かぼちゃといえば、秋を思わせるものですが、実はまだ秋ではないですよね。晩夏の夏野菜。 かぼちゃは保存が効くのでたくさん買っておいて冬に備えるといいのかもしれません。

九州では毎日のように食べていた長ナス。こちらでは余り見ません・・・。おいしかったのになぁ。小さな短いナスは焼きナスにしてもあまりおいしくありません。もっぱら炒め物です。油と相性が良いみたい。 

こうしてみるとちょっとの差のように見えますが九州と関東ではずいぶん野菜の時期も
取れるものも違うものです。もちろん土台になるベースのようなものはあるのですが。

■ ぶどうと栗

フルーツは桃が終わり、ぶどうへ。でも、ぶどうはずいぶん実りが悪かったようです。台風が収穫期のぶどうを直撃し、ついでに今年は結実する春の時期に長雨が続いたこともあり、もともと豊作とはいえなかった裏山のブドウ畑のぶどうは、貧弱でさみしそう。同じ山梨でも天候の条件が良い穂坂では、もう少し立派なぶどうが採れたようです。

まだ秋らしくはないけれど栗も既に採れていますね。栗も9月。結構足が速いので、渋皮煮にしてしまいました。生の栗、ほんのちょっとで十分ですね。栗は料理の腕次第というか、料理に手が掛かります。

こうしたことが分かるには、スーパーではなく産直市場に、産直市場よりも畑に、出かけていかなくてはならないようです。

こうしたことを踏まえて、借りてきた料理の本が・・・

お日さまごはん―大地の野菜レシピ


この本の好感の持てるのは、出てくる野菜の順番が収穫の順番だということです。
収穫した野菜、どう食しようか、と考えたときにすんなりはまるレシピなのです。

洋と和のバランスがちょうど良いです。 田舎のおばあちゃん料理・・・例えば、ふきの炊いたん、など、素朴ですがなかなか西洋化してしまった生活スタイルに合わなかったりします。 

逆にフランスの野菜料理の本を見ても、バターやオイルを多用するフレンチが多かったりして、やはり日本の食卓で毎日の食にするには気取りすぎているなと感じるもの・・・

そのあたりの洋と和のバランスが取れているのは、著者の田中久美子さんが若いせいと、パトリスジュアンさんのレストランで修行されたおかげですね。

日本のおいしい野菜(往々にして採れ過ぎるくらい収穫できる)を洋食の手法も加え、今の人がたっぷり食べるための料理。洋と和がミックスした普段着の料理、背伸びしない毎日の食だけど、見慣れない田舎料理でもなく、センスの良すぎる料理でもない。出てくる洋レシピはキッシュやハンバーグ、シュクルート止まりなのです。

とっても良いバランスです。

《9月の野菜》
にんじん、きゃべつ、たまねぎ、かぼちゃ、とうがん、ねぎ、しょうが、栗、ぶどう


読了 『自然に学ぶ生活の知恵』 石川光男

2011-09-14 18:05:52 | 読書ログ
自然に学ぶ生活の知恵―「いのち」を活かす三つの原則


この本はけっこう意外な良い本でした。地味ですが誠実な感じが溢れ、東洋医学なども慎重に神秘主義を避けています。

意外というのは、この石川光男さんがインテリでありながら、拾っているテーマが生活観溢れることです。

幸せの新しい”物差し”として、《つながり》 《はたらき》 《バランス》をあげています。

全体的には戦後、日本的なものを古いもの、非科学的なものとして排除し、西洋的に傾きすぎた価値観をゆり戻すような格好です。きっと時代を生きた方なのでしょう。言葉に反省の色もあります。 2007年出版。

《つながり》や《はたらき》というのはホリステックということですね。 例えば胃は胃、腸は腸で専門家の医者がいても相互に連絡がないと連携プレーができません。

《つながり》《はらたき》などで見てみると日本の伝統的な考え方は意外にもつじつまがよく合うものだ、という発見がベースです。 基本的には陰陽のバランスを取る、という考え方です。

おもしろかったのは、栄養学です。 栄養を、

摂取する → In → 陽
排出する → Out → 陰

ということで、摂取するだけでなく、いかに排泄するか、というデトックスの考え方は”栄養学”というのかどうかですが、確かに入れるだけでなく出さなくてはバランス取れませんよね。。

たしかに私達はちょっと体調が悪いと「何を摂ったらいいかな?」と考えますが、実は”入れる”のではなく、”出す”ほうが重要ポイントなのかもしれません。

これは医学も同じなのだそうです。

西洋医学 → ついた汚れを取る医学 → 陽 
東洋医学 → 汚れがつかないようにする医学 → 陰 

心筋梗塞や大腸ガン、など”体内の汚れを出すこと”がスムーズに行かなかったことで起る病気ですよね。

私はアトピーもちなのですが、アトピーも本来尿や便として出るべき物質が形と場所を変えて出ているのだ、という考え方もあります。 

この本の中にあまり一般に知られていない科学的事実として、牛乳を飲むと日本人はガラクトキナーゼが少ないため代謝できず、ガラクトースが溜まって白内障の原因になる、と書かれていたのですが、日本の本は西洋の本と違って、
出典が書いてありません。 書いてくれたらいいのに・・・・

そういう甘さはあっても書いてあることは非常に合理的で理にかなったことだったので、ひとつの健康法に固執して何を食べたらいいのか分からなくなっている人にオススメできる好感が持てる本でした。


PS こんな牛乳情報サイトをカンタンな検索で見つけました。牛乳を飲むと白内障になるという科学的データはないようです。 

原発=核兵器

2011-09-09 10:35:35 | 読書ログ
今日の小田嶋さんのコラムは、久しぶりに良かったです。

思うに、小田嶋さんの良さは、建前とホンネ、ぶっちゃけトークが垣間見えたその一瞬の隙を見逃さずに「ほんとのところ」(議論の本質)を芋づる式に引っ張り出してくれる力と、それを説得力ある平易なセリフで、他の人に伝える技にあると思います。たまに用語が難しんだけど・・・でも小田嶋さんなりのインテリ防衛策なんでしょう。

 ①ぶっちゃけが見えたときに見逃さない → 繊細な注意力
 ②議論の核心を見破る              → 洞察力
 ③説得力のある言葉で人に伝える → 文章力と思考力
 ④概念に分かりやすいネーミングを与える → 抽象化力

だと思います。 というワケで、ちょっと今回の面白ポイントを整理したいと思います。 小田嶋さんはホント筆が達つなぁ・・・ さすがですね♪


■ 原発 → 核兵器 という指摘

今回のお第は

私も原子力について本当の事を言うぞ
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110908/222523/

です。 (ーーー内は引用)

① 繊細な観察力  

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ごらんの通り、読売新聞社は、『核兵器の材料になり得るプルトニウムの利用が認められている現状』が、『潜在的な核抑止力として機能している』ことを、『事実』として認定している。

驚嘆すべき主張だ。

というのも、読売新聞は、原発が核兵器である旨を半ば公認しているわけで、この事実は、何回びっくりしてみせても足りない、驚天動地の新説だからだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

② オモテの世界のプロトコル(社交儀礼)の解説
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
・とはいえ、オモテの世界では、原発はあくまでも「原子力平和利用のエース」である。

・「プルトニウムは兵器に転用できる」だとか、「原子力技術は核兵器開発技術とイコールだ」といった「穿ち過ぎた」見方は、「軍事オタクの世迷言」として、即座にしりぞけるのが、オモテの世界の言論人の基本的な外交儀礼になっていた。

・政府の人間はもちろん、お役人も、大学の先生も、新聞の論説委員も、この種の議論には乗らない。

・なんとなれば、「原発核兵器論」は、「それを言ったらおしまいでしょ」的なぶっちゃけ話で、そうでなくても、 著しくたしなみを欠いた議論だからだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

③ 議論の本質の分かりやすい提示
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
・個人的には、
「要するに『核拡散防止条約』ってのは、実質的には『核兵器保有国利権現状維持条約』なわけだわな」

「っていうか、『てめえら弱小国が核兵器を持とうだなんて百年はえーんだよ条約』と呼ぶべきだと思うが」

 と言っているのとそんなに変わらないと思う。

・でも、パワーだけは別だ。 あの桁違いの出力と、暴力的な物理的なパワーには、どうしても魅了されてしまう。 理屈ではなく。生理として。

・原子力は男の世界だ。
・そういう著しく男密度の高い場所では、「怖い」という言葉は、事実上封殺される。誰もその言葉を口にすることができなくなるのだ。

・でなくても、一定以上の人数の男が集まると、その集団は、必ずチキンレースの原理で動くようになる。

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④ 何が争点かの提示
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
・「君らは色々言うけどさ、原発を持ってるとそれだけで周辺国を黙らせることができるんだぜ
 という、このどうにも中二病なマッチョ志向は、外務官僚や防衛省関係者が、内心で思ってはいても 決して口外しない種類の、懐中の剣の如き思想だった。
 が、一方において、中二病は、彼らの「切り札」でもあったわけだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 
そう、このコラムでぶっちゃけているのは、2点。

原発は核兵器であり、武器だ。 で、武器がほしいのは、欲しいから欲しいというだけ、つまり幼児性からだ、です。

武器なんだからアブナイのは当然。使い間違ったら人が死ぬのは当然。
怖いから使えないなんて、理由にはならない。
でも、持ってなかったら、あいつら(仮想敵)が攻めてきたらどうするんだ?!

となるとフクシマの立場は? かなり考えるだけでイタイです。 

オウンゴールした、とか、銃をあやまって自傷したとかそういう類のことになる。
図らずも、ウェポンの威力を敵に証明したとなれば、傷が浅いことは逆効果ですから、傷は深くなければならない。反面、痛手を負いすぎた、弱ったと思わせてもいけない・・・。

要するに、原発推進派の核心は、おもちゃが欲しくて泣き喚いている子供と同じ、与えておけば、それが役に立とうが立つまいが満足していられる・・・と、そういうものが、原子力発電所、なるものの本質、ということにもなるわけですね。

まぁそれにしても高額な大人のオモチャですこと・・・ 

お子様の国ニッポンとは良く揶揄されますが、それとこれとは関係があるのでしょうか?ないのでしょうか(笑)?

国防が問題なら、いっそ電力問題としてでも、経済問題としてでもなく、国防問題として語ってみたらどうなのでしょうか。
 

読了 『日々の暮らしを楽にする』

2011-09-08 10:11:03 | 読書ログ
日々の暮らしを楽にする

良い本だったのですが・・・そして私のものの見方とも一致するのですが・・・
問題は、因果関係に根拠が乏しい事も書かれていることです。

例えば、

人間は、喜ばれるとうれしい → 普遍的事実として納得感あり
今日という日は過去の中で最高位であり、未来に向けてはもっとも低い → 真実 ☆
投げかけていると倍返しになる → ???
投げかけたものは3年+2週間で帰ってくる →???
強い人は打たれづよい人 → 真実
年齢×ありがとう1~3万回で奇跡が起きる →???
自分がいかにたくさんのものを既に手にいれているかに気づいた人から幸せになる → 感謝 ☆
目の前のことに幸・不幸はない 自分が色をつけているだけ → 事実  ☆☆
お金を貸してほしい人は自分ではなくお金に用事がある → 事実
霊は水につきやすい → ???
人間は10万回輪廻する → ??? 

どうも数が絡んでくると、クリシン力にとっては、なんだか根拠希薄な気がしてくるようです。

なんでどの人が9万6000回目あたりの生を送っている人で、他の人が9万3000回辺りと分かるのか?

そんなことを思わせてしまうのは、数が理性と結びついた概念だからですね。

この本はスピリチュアル系なので、クリシン力発揮して読むとダメです。 なんでトイレ掃除すると臨時収入があるのか?そんなことが合理的に説明できるはずはありません・・・(^^;)

ただ書いてあることが、まったく役に立たずデタラメかというとそうでもない。

ものの考え方、受け取り方、というのは、後天的に刷り込まれたものが多いので、それを一旦脇において、ニュートラルな見方をするのはいい事です。

例えば ☆、や ☆☆ など実際その通りではないでしょうか?

人生で一番若い日は今日ですし、人生で一番年を取っている日は今日です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「どこかで汚染された原乳が混ざってしまったが、基準値以下です」という論理が、
いつの間にか「汚染度の高い原乳は他のものと混ぜて、基準値以下に薄めています」
にすり替わっていくのではないかという懸念である・・・

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー『日経ビジネスより引用』

これは”目の前のことに幸・不幸はない 自分が色をつけているだけ”という
物事に2面性という真実をビジネスに応用したらこうなるともえます。


そういう意味で、数が絡んでくるところは、心持半ばに、ものの見方のところは素直な心で、聞いてみても損はない本ではないかと思いました(^^)。

乙女で透明感のある快眠CD

2011-09-05 22:05:12 | 読書ログ
ケン先生のTTでは、快眠CDをシャバーサナでは使っていました。

・・・シャバーサナは寝ていい・・・ということで、ずっと、波の音にしていたのですが、そろそろ別のんないかなーと思っていました。

夜のレッスンを担当するようになり、リラックス系のCDも探していたのですが、ためしに買ったものが入眠効果絶大!! これはいい。 すぐ眠くなります。頭の中でメロディーがめぐる・・・・

多分、繰り返しが多いと人間は退屈してきて眠くなるみたいです。リフレインが多いリラクゼーションCDはリラックス効果というより、、眠くなってきます(笑)

クリムゾン・コレクション6&7祈り

これ祈りと題されたCDで、クリムゾンというコレクションの6、7巻です。 シク教のマントラらしいのですが、まったくお経(マントラ)ぽくなく(つまり辛気臭くなく)、エスニックっぽくもなく、ニューエイジぽくもありません。
(ジャンルとしてはニューエイジ)

YouTubeでも視聴できます。http://www.youtube.com/watch?v=M2Ws6CYy74Y

路線としては、エンヤ。 ケルトハープがステキ。

シク教って、ヒンドゥー教から派生しているんですね。ヒンドゥーと違い、カーストと全否定しているそうです。なんか好感。どうも現代的な感覚では、カーストは肯定しがたい考え方ですから・・・。シク教ウィキペディア

■ エンジェルボイス

エンジェルボイスと言われている、シング・コウルさんの美しい歌声・・・この方知らなかったのですが、エンヤよりうんと早く同じようなメロディを作っていたんですねぇ・・・。 インドのチャンティングを西洋風に解釈した第一人者らしい。

ウィキペディア情報です.......

Singh Kaur (1955–1998) was a new age music composer, vocalist and instrumentalist, who had a prolific
career that lasted from the early 1970s to the late 1990s, releasing 23 albums. With her angelic voice and haunting
melodies, Singh Kaur was a pioneer in the growing genre of Western interpretations of Indian chanting music.
.......

能書きはともかく、とてもキレイな歌声と繰り返し(HauntingMelodies)が眠くなるCDでした♪

エンヤ好きな人にはオススメです☆

個人的悩みへの個人的解

2011-08-22 11:28:27 | 読書ログ
■ 秋は球根とタネ

昨日はひどい雨でした。もう寒いほど。朝から畑に行ってズッキーニをもいでこよう!という計画は無しに。

夫はどうも体調が悪いらしく出かけたがらないので、彼らしい休日の過ごし方をしてもらうことにしました。

それで私のほうは、というと、畑にいけないのであれば、この先晴れた日に畑で必要になるものを買い出しておこうと、近所に買い物に出かけました。

近くのホームセンターでは、晩秋のこの時期は、ネギ類と球根類が植え付け時期のようです。苗は少なく、色々な種類の大根や葉野菜のタネが一杯!

都会ではない土地に暮らす楽しみは、”野菜の品種に強くなる”、ということかもしれませんね~。

買ったのは、わけぎ、エシャロット、にんにく、長ネギ、しょうが・・・。後はタネ。珍しいのはサラダごぼうの種です。ごぼうってどうできるのか今から楽しみです。


■ にんにくが楽しみです

にんにくなど、国産を買うと実はものすごく高いのです。ウチでは消費量が多いため、自給自足しがいのある野菜だけれど、なかなか種芋のようなもの、種にんにくは売っていないものなのです。ちょっとラッキーな気分で一そろい買ってきました。

実は、キャベツを自作できるより、にんにくができるほうがうれしい☆ キャベツは旬なら98円で食べられるのに、にんにくはあんなに小さいのに、国産は一個250円もするのです~!

青森が産地として有名ですが、なんでにんにくは国産、こんなに高いのでしょうね?作るのもカンタンで保存も効きそうなものなのに。

中国産は20個くらい入って398円などのものもあり格安です。が、中国の土は安全なのか微妙・・・?不安はありますね。

にんにくはそもそも強そうな野菜なので、とくに農薬などの散布は無しでも育つのかもしれない、という期待に望みを託し、我が家は、たまにセール品の国産を買うほかは、一個98円の中国にんにくで妥協しています。

炒め物やパスタに使う程度なら少量なのでそれでいいけれど、にんにくそのものを食べるバーニャカウダには、やっぱり国産のにんにくでないと・・・と不安に思ってしまいます。

そうすると、国産のガーリックで作るバーニャカウダ、かなりの個数がいるので、ありえないほど不経済な料理になってしまうんですね。言うなれば、ただの野菜のディップなのに(汗)。 MY畑でにんにくが取れば、バーニヤカウダが食卓に登る日も近づきそうです(^^)。

■ 欲しいものしか買わなくていい、というインスピレーション

花売り場もついでに覗くと、草花もこの時期は種類は豊富でなく、球根で咲く花が出ていました。
にんにくはうっかりして花を咲かせるとまん丸の花、それが園芸品種並みにかわいいのです。そのにんにくの花にそっくりの花の球根がいっぱい出ていました。

欲しいもの以外は欲しくないもの・・・。そんな単純なことなのに長いこと買えなかったテラコッタを買いました。

ベランダに置くには、テラコッタの鉢は重すぎるのです。ベランダには耐重量とかありますし、持ち帰るのも一苦労で扱いにくいということがあったんですよね。 でも庭付き一軒屋に住む予定は今後もありませんし(^^;)、草花のないベランダってのも考えられません。

それでベランダの定番は小さくて軽い素焼きか、プラ鉢になってしまっていたのですが、プラスチックがきらいなのでインスピレーションが湧かず、ベランダそのものも気に入った空間にならず不満でした。

それで思い切って買ってみたら・・・とても満足感のある買い物になりました。なんで今まで買えなかったんだろう?

植木鉢売り場で長いこと放置されて、苔が生えたベトナム製のテラコッタの四角い鉢・・・苔がいい感じ。


そもそも、私はプラスチック自体が素材として好きでありません。それは昔からなので、家の中ではできるだけプラスチックを使わないようにしています。

テラコッタは非常に重く、やっぱり持ち帰るのにはかなり苦労しましたが、中に長いつるの出た、ちょっと紅葉したクランベリーの小さなブッシュをいれ、一杯売り場に出ていた百日草の白いほうを寄せ植えにしてみると、自然で可憐な雰囲気になり、大満足の買い物でした。

うーん。買えなかったのは、賢い消費者シンドローム?

普段は、デザインも良く軽い植木鉢なんてモノ、二律背反なお品、を探してしまい、プラ鉢で質感のいい物ってないので探しても唸ってしまい、結局、買いたいものが売っていないと欲求不満を募らせてしまっていました。

が、良く考えてみると欲しくないものは買わなくていいんですよね。 なのに、花は植えないといけないからと機能面で考えて欲しくないもないプラ鉢を買っていたのです。欲しくものは欲しくないもの、なのに。

よく考えると本来の優先順位ではない価値観で買い物していたのかしら?


■ 海外が楽なわけ

最近、漫画家の柴門ふみさんの恋愛談義の本を図書館から借りてきて読みました。そして、なんだか気がついてしまったのです・・・。

私は ほとんど同時代人と言える柴門さんより、200年前の『大きな森・・』のローラや『若草・・・』のジョーにむしろ共感してしまうのだと・・・。現代のアメリカ作家、エイミー・タンなんかにもとても共感するので、時代というよりむしろ文化的なものかもしれません。

実は、私は正直日本の作家の本そんなに読んでいないのです。好きな作家もいない。村上春樹は中学の頃好きで読んでいましたが、彼は西洋文学の影響が濃いし、私はむしろ当時のヒット作では『アルジャーノンに花束を』のほうが『ノルウェイ・・・』
より強烈に印象に残っています。

日本の映画やドラマはたまのNHK大河ドラマ以外見ないし、日本の歌謡曲はかろうじてサザンやドリカムが好きですが、わざわざ買って聴くほどでもない。お気に入りはエラ・フッツジェラルド(スタバに行けば聞こえてきます)とか、キャロル・キング・・・。

好きな日本の女流作家はいないのに、『若草・・・』のフルテキスト版の挿絵がターシャ・チューダーってことには、すぐ気がついてしまいます。

柴門さんの本はものすごく手垢だらけでした・・・とてもたくさんの人に読まれていそうな使い込まれ方です。一方、『若草・・・』は、簡略版はそれなりに使われた形跡があるものの、5センチ以上はある分厚いフルテキストのほうは、時代がかった古い翻訳で、「○○ではなくって?」なんて今では誰も言わないような言葉遣いに溢れているほど古いのに、ページは日焼けもなくきれいなまま。

つまり、柴門さんの本を読む人のほうが圧倒的多数派のはずであり・・・ということは多分、私は精神の形成期に多数派に入り損ねているのです。

それが憧れという意味での海外にはとうの昔に幻滅していても、なぜかしつこくあちらでの暮らしのほうが精神的居心地の良いと感じるわけなのかもしれません。影響されている精神構造といえば、海外の人のほうが近いのです。

事実、打ち解けて話せる親しい友人はといえば、ドイツ留学経験者の友人以外は、国外の人ばかりです。悩みを打ち明けるのは英語です…慰めてもらうのも英語で。心の支えは海外の友人。初対面で会った人にさえ私の悩みは一目瞭然のようです。

夫には私の行動原理が理解できないのは仕方ないかもしれませんね。彼よりむしろ私が国内エイリアンなのです、多分(汗)。

■ 古くさい日本語

しかし、あんな古くさい訳、誰も読まないのは無理ありません。図書館だから新しい版をいれていないのでしょうが…。

『星の王子様』とか『チボー家・・・』とか、次々新しい訳が出ますけど、必要ですね、児童文学には。あれじゃ子供が退屈しても仕方ありません。

・・・てか、子供の当時そういう言葉のを平気で読んでいた私ですが・・・当時、口語が硬いといわれた覚えが・・・(^^;)

一方、英語の原文のほうは別に色あせてもおらず、今でも普通に話されている英語でした。日本語って時代の束縛が強い言語なんだなって実感します。  

『赤毛のアン』もですが、有名になった第一巻とは別に実は素晴らしいのは後続の巻なので読んでみたいのですが、古い訳では・・・ちょっと読む気になれません。

■ やることは自分で作る

私はたまたま見た映画に触発されて、同じ物語を3つの版で読んでみたくなったのです。 

それで作品を評価する軸が、成長、であることを発見したわけですけれど、振り返ってみれば、英文学部時代、文学批評を書くのに、そうした版を比較する手法を発案する事自体が非常に難しかったですね。

たぶん、文学部という場所はそうしたことを日常にするべき学部なのですが、現実的には、詰め込み学習しか知らない学生にできるのは”読書感想文”を少々堅苦しくした程度のものです。 

特にレポート提出になると、まず課題の本を原書で1冊読むだけでみんなほとんどノイローゼです。 あの頃は何でこんなにカンタンなことがあんなに大変だったんでしょう? 教授が呆れたのも分かります。

課題を見いだし、自らやるべきことを作り、それを探求して、つぶしていく・・・それは、社会人になって仕事で身につけたような気がします。

仕事で何か新しい依頼がやってくると、やったことがなくても”もちろん、やります!”と引き受けるのが、派遣の掟(笑)でした。

対象を知らなければ、本を10冊くらい読んで概要を把握し、にわか博士になります。仕事をし終わった頃にやっとプロの入り口に。決して逆ではありません。それがおもしろくて仕事してたんですよね。

だからやったことがある仕事はつまんない仕事。 本で足りないところはセミナーなんかに出かけていきます。仕事しながら仕事で仕事を学ぶ。 テーマが自分で選べないだけで仕事の成果はどうやったって自分色です。

初めて、コンピュータ言語をマスターしたときはまったく製品になるのか未知数で大きなリスクでした・・・超冷や汗ものです。ハッタリで、できます!と言ったものの・・・(笑) でも、1ヶ月でプログラムを書きました。書いたというか必要な部分をコピペしてうまく機能するように再構築した、という感じです。破綻なく論理構築するのに、文学部で必要だった論理構成力が・・・クリシンですね・・・、が役に立ちました。整合性です。

その他の仕事に移っても特にイチイチ上司から指示があるわけでもなく、自分でやることを作ってせっせとスケジュールしては、そのレポートを書く時間に追われる。仕事は作るもの。ある意味、仕事を作っていたらやらなくてもいい仕事、ともいえます。でもやれば、そこでタネが撒かれるのです。撒かれないタネには芽が出ない。私の撒いたタネから新しいソフトウェアを輸入したり新しい営業ツールを入れたりしました。

…ということを考えると、今こうして主婦となり、会社人生に例えるならば閑職といえるような立場にいるわけですが(主婦業は暇ではないのですが私にとってあまりチャレンジではないという意味で)それは、実はベストタイミングなのかもしれないですね。

今なら自ら課題を見つけ自律的に進むスキルがついていますから。山へ行けば友人を得、その友人からまた得て広がるものがある。

暇をつぶすネタにはそう事かかない。やるべきこと、あるいはやりたいことを発見する方法を知らない若いときであれば、目先の楽しみに向けて、例えば夜の街を飲み歩くとか、不良化しても仕方ないのかもしれません。

今日一日、ふとんにゴロゴロしながらパソコンをしていて、満足そうな夫を見ながらそう思いました。生産性ゼロだけど、人にはそれぞれ季節がある。

ただ、日々読書三昧と家事、ヨガばかりしていると大学生活にまた舞い戻りたい、という気分がしてくるのですけどね。多くの人が漏らすことですが、勉強のやり方が当時は分からずに、大学時代には十分それをせず、むしろ日々の糧に働いてばかりいたような気がするからです(^^;)。

まぁ考えてみると、私が文学部を卒業したのは、自分で自分を楽しませるスキルを主婦になったときに発揮するため?!かもしれません。 

■ 経費のこと

この静かな夏に、私は計30冊以上の本を消費してしまいました。ほとんど図書館から借りてきた本ですが、その中で役立つと思ったものはアマゾンで購入し、ヨガのDVDを購入して自習課題とし、畑に入れる新しい作物の球根を買ったり、前述の寄せ植えを
作ったり、食器棚を手づくりするSPF材を買ったり、新しい定番レシピを発見して牛乳を大量に買ってきて各種牛乳でカッテージチーズを作って実験したり、友人に会いにゆきがてら、ランチに出かけたり、多分経費としては、一人分の温泉旅行にいけるくらいはかかっていそうです・・・(汗)。

家においておくと経費ばかりが掛かる・・・まぁ、妻というのはそんなものです(笑)。
 
一方の夫のほうはというと、大阪に帰省したほかは、私に連れられて、ランチに2回出かけただけで、後は一日中家でゴロゴロとしていたのですから、どちらが経費が掛かるかというと私のほうです。 

会社でも出張の多い営業マンと数件しか行かない営業マンではかかるコストが違います。会社では経費が掛かる人が優秀なのに、家にいると経費が掛かる人はダメな人となってしまいますね・・・(汗)

転勤についてきて甲府に来て以来、私はヨガを教える以外は、家事といってもフルタイムで外に仕事を持っていた頃ほどのエネルギーは必要なく、盛大に余ったエネルギーを近所の図書館へつぎ込む、という貴族的な時間の過ごし方を許されているわけですが、実態としては、戦っているのは退屈という名の敵です(笑) やりがいのなさ。自己完結性。

飽きやすい性格の私には、この生活は試練なのです。 

家でゴロゴロするのが何より楽しみという人には天国でしょう。というのも、こちらに来て友達になった女性の友人はそういう人ばかりで、転勤について来て結婚間じかなのです。外に出て働きたくないから結婚。働かなくて良くて幸せ。なので、色々な場所にお誘いしても家からでてきません。かろうじて温泉には一緒に行ってくれましたが、それもわたしが誘ったのではなくあちらが行きたかったのに、なぜかわたしが一緒に行ってくれてありがとう、という立場です…(謎)。

私には絶対にできません・・・それこそストレスで死んでしまうでしょう。

家事は感謝される仕事ではないので、進歩を実感することは難しい・・・。

それでも私は正直に言うと、自分が作った料理が一番おいしくて、夫はなんで自分で好きなものを作って食べる技術を身につけることに興味がないんだろうなぁ?なんて思ったりします。 

でも、彼の得意な分野からすると、合理的作戦なのかもしれません。

なにしろ、好物が焼きそばUFOで、スーパーで買ってきたコロッケなのです。同じ市販品でも私のパンのように、ヨーロッパで食べるやつみたいなの、と求めるものがハッキリしているわけでもなく、ケチャップをつけて食べるのでどこのコロッケでも違いは気にならない。味わいの違い(つまるところ私にとっての幸せ感)に、時間と労力の価値を見出せないのであれば、ある意味当然かもしれませんね。

彼にとっては、仕事をして出来合いのものを買う経済力を得るほうが、作る技術をマスターするよりうんと効率的です。

でも、おいしさという喜びもその分少ないような気がするのですが。

■ 自信の根拠

最近、スタジオに新しいアルバイトの人がきました。先日レッスン開始時間ギリギリに到着するとお客様が退屈げに私を待っていました・・・(汗)
アレ?音楽なし? それで、イントラがいなくても、率先して音楽でもかけておいてくれるよう頼みました。

相手は、仕事の指示と受け取ってくれましたが、私は上司ではないし、私だったら、自分の仕事はイチイチ言われなくてもやれます。指示待ち人間ではない。

最初は、もう気が利かないんだなぁ、なんて思ったのですが、ふと、こういう経験が私の自信の源泉になっていると気がつきました。

今までは昔から、自分には根拠無き自信があると漠然と思っていたのです。根拠無き自信の理由を母親の愛情を幼児期に一杯受けたからかしら?なんてのんびり考えてみたり・・・。

それもあるかもしれませんが、多分、単に私は飽きっぽい性質なのです。バイト先で掃除していると、私がいれば洗面台の染みは取られ白くなり、毎日花は違う風に生けられ、古い張り紙は剥がされ、カーテンのほころびは直され、棚の中は箱で区切られ整理され、特別なお客様はリスト化され・・・日々どこかしら目に入る景色が変わっていきます。お客様は気がついて声をかけてくれます。

頼まれなくても、こうするべき姿というのが思い浮かぶし、お客様に喜ばれるとはそういうことだと思うことをやる。それが原動力になって仕事に張りがでる。それに、やらないと自分が時間をもてあましてしまうのです。暇な仕事=つまんない仕事、成長がない仕事です。でも同じ事を他の人には期待できません。

私にとって仕事とは、今日が昨日と違うこと。私がその職につく前より、ついた後のほうが状態が良くなっていること。依頼されたことをやって満足ではない。 その依頼の理由を考え、より以上のことをしないと仕事をした気分になれない。

それが私にとっての”結果を出す”ということで、それはたとえ時給700円のバイトでも年収700万円のソフトウェアエンジニアでも、同じにしか仕事できないのです。多分、誰だってそうやって仕事をしていると思いますが、飽きっぽいのでそのサイクルが人より短いのです。

夫の場合は、例えばゴミ捨てだとゴミだけ捨てて終わりです。捨てるときに冷蔵庫を覗いて、他に捨てるものがないか、とまでは考えないし、お皿を洗っても、洗っただけで、それを乾かして、仕舞うプロセスまで考慮しないし、ましてや、たまには熱い熱湯をかけて消毒する、なんて事は考えません。 私に言わせれば、子供の使い、な仕事振りです。

で、うっかりすると私はイライラとしてしまうのです。最初からやってもらわないほうがラクかしらなんて思ってしまいます。でも家庭は2人で運営するものですからやっぱり多少は何か参加しないといけないと思いますし…。それに、バイトの主婦の方だって子供3人もいてそんなでしたから、普通はそんなもんなのかもしれません。 

それは、私が日本人としては例外的にプロテスタンティズムに毒されているのかもしれません(笑)。それも子供時代の読書癖のせいで。うん。何しろ、友人の少ない生活を当時からしていましたから。

家の中も同じで、中で暮らす人間のニーズに沿って、生活を包んでいる、家具や生活道具の配置を変えずに生活していけるのが不思議な気持ちです。生きている人間のニーズが変わるのに、それをサポートするためのものの配置が変わらないなんて。

日々マイナーチェンジに加え、太陽の位置による変化への対応を繰り返し、何かしら変わっています(笑)。ニーズに合わなくなったものは捨てられ、新たなニーズを満たすものが入ってくる。

そうでもして日々私は日常の中で変化し成長しているというわけで、今現在私の情熱を傾ける仕事が家庭の外にないのは、ある意味、予定調和なのかもしれないなぁと思いました。 

何のために大学に行ったのか?何のための仕事だったのか?それは何も働いてお金を稼いで家族を養うためではなく、家庭を作るときに自分が飽きてしまわないため、だったのかもしれないのです。

後は、私史上の最高年収を、最近越えた夫が、私のこうした生活を理解してくれればいいのですが、まったくコストが掛からない、寝ていることを休日の至上の喜びとする、仕事に追われる彼のライフスタイルから、それを理解してくれ、というのは難しいことなのかもしれませんね・・・。

まぁそこのところは人間は一人として同じ価値観はなく、分かり合えるということは幻想なのだ、ということなのかもしれません。

現に私も夫が何に喜びを見出してゴロゴロしているのか分かりませんしね。
疲れていると言ってもそれが5日も続いた日には…

リトルウィメン

2011-08-21 12:04:08 | 読書ログ
若草物語、脚本版、簡易版、フルテキスト、英語版を読みました・・・ 海外の古典作品は大概無料でテキストが公開されています。

たしかにウィノナ版 『若草物語』 は、フルテキストとは違う脚色がされていました。ファンの一言は的確ですね。

ページ数が短いので各章が要約されているのは仕方がないとして、一番削られているのは、人見知りで怖がりのベスとローレンスおじいさんの友情の成り立ちのところ。ベスがおじいさんの死んだ孫娘に似ていたのです。

このエピソードを削るなんて許せん、というファンの思いも納得の物語の盛り上がりに当たる良い話。というのも、これでベスは臆病という恐怖心を乗り越えるから。このおじいさんにベスはピアノを贈られるのです。孫娘とベスを重ねて。そこは病気とは関係がない話なのに映画では病気のお見舞いになっています。

それから、ローリーとエイミーの恋人になる経緯もフルテキストにはないし・・・叔母との外国旅行中にベスの死と叔母の寝たきりという苦難を迎えたエイミー(手紙でしか知らされない)。それを支えたのがローリーだということくらいしか2人が結婚に至った経緯は分かりません。

ローリーは第一巻ではジョーにプロポーズしない・・・ローリーはジョーを女性としてみているのに、ジョーにはローリーは兄弟です。その兄弟らしい絆を映画では描き損ねているのでジョーが断るときになんだかリアリティがありません。ジョーは男の子になりたかった女の子。 

ジョーは姉が結婚するときにも反対で姉を奪われたと感じるのです。恋だの、結婚だのっていうのにジョーは嫌悪感があるほど、ボーイッシュです。つまりジョーは子供から大人の女性になるのに人一倍苦労が大きいのです、女性性が受け入れられない。そこが映画では美少女なので分かりづらいんですよね。

お話が、映画ではまぁ、かいつまんで言うと四人の娘の結婚をゴールに進んで、めでたしめでたし、とくくられることに、小説を読んでいるファンは多少違和感があるのは納得できます。

■ 200年前から人口過密

読んでいて気がついたのは、『若草』は、『大きな森の小さな家』より早いお話だということです。コンコードの町を描いて
いるので(郊外の小さな町の暮らし)気づきにくいですが、『大きな』は、開拓民の暮らし。 自然の描写が多いのでより原始的に
感じられるだけなんですね。『大きな・・・』の父さんは、森が人であふれ獲物がいなくなった(つまり生態系が人間によって破壊された)
ことが理由で、GoWest, 西を目指したんですよね。未開の地を求めて。 

昔から人口は過密という意識が流れていたんだなぁ。 

■ プロテスタンティズム

思うに『若草・・・』の最大の魅力は、古きよきアメリカのミドルクラスの、プロテスタンティズムに支えられた宗教的生活の牧歌的な美しさではないですかね? 

重要なのは、この話は、クリスマスにプレゼントがない、ってので始まることです。サラッと流されていますがここ重要。

なぜなら、クリスチャンのクリスマスは日本人にとってのお正月です。家族がいないお正月とプレゼントのないクリスマスは同レベル。

なのでプレゼントがないクリスマスなんて大事件なんです。 が、それは、彼女達の父親が戦争(南北戦争)に出兵中で、”利己心を慎む”ため。日本的に言ったら、自粛ですね。

自粛モードで始まるお話。そして、緊縮財政(父親不在)の中、プロテスタント風のけなげな行いから、幸福や不幸がつむぎ出てくる話です。

ひとりぼっちの少年ローリーに親切にした → 将来ローリーは家族の一員に
貧しい家を支援した → ベスがしょう紅熱をもらって危篤状態に → ベスの若死につながる
エイミーと喧嘩 → ジョーの作品消失 → エイミーの事故 → かけがいのないものの理解
お金持ちの家に遊びに行った → 自分の家が一番とわかった
遊ぶだけの日を実験した → 働くことが生活に張りをもたらすと分かった
一人嫁に行き損ねたおてんばジョー → お金持ちのおばさんから遺産を相続
ベスの死 → ジョーの最高傑作
ジョーの最高傑作 → 出版 →ジョーの結婚

とまぁ大雑把にいうと、こういう話の顛末具合につながるわけです。そこで流れる行動原理が、プロテスタントの行動原理なのです。

「隣人に親切にする」 「貧しいものには施しをする」 「利己心を押さえる」 「勤勉」 「弱い自己に打ち勝つ」

そうして得るものは 「幸せな結婚」「良い友人・知人」「出版」です。

このプロテスタンティズム、今の価値観では多少良い子ぶりっ子的というか純朴すぎてカマトトぶって感じられるときもあるほどです。例えば、ジョーは自分の5,6年かけた労作の作品をエイミーに燃やされてひどい兄弟げんかをし、絶交状態になります。そのとき、エイミーがスケートにいくジョーを追っていて、凍解しかかった池に落ちます。やっとのことでエイミーを助けたジョーは、”利己心”を反省するのです。エイミーが死んでいたら自分のせいだと・・・。

利己心の問題になってしまったのは…映画ではわからないのですが、本では、ジョーの
脳裏にかすむエイミーに聞こえなかった「池の真ん中アタリはあぶないよ」というローリーの声をエイミーに伝言してやらなかったという後悔。で本では、ジョーは動転して動けない。やっぱり女の子なんです。でローリーが頼りになるところを発揮します。なのに映画では颯爽とローリーより先にエイミーを助けるので単なる仲直りエピソードになります。成長したという感じはあまりなく一件落着した感じです。

■ ウィメンという単語のニュアンス

そして、もっとも重要なのはタイトル。なんで”若草”なんだ?だめじゃん! 

リトル・ウィメンというのは、”少女”ではないですよね。ウィメン、Womenという単語には、敬意が込められています。 Girlsでもなく、Childrenでもなく・・・Women。

そしてこれが父親から発せされているというのは非常に重要です。だって、外国のオトウサンは普通自分達の娘を”My girls”といいます。

そう女性に敬意を払う言葉がウィメンなのです。自立した個人として。日本語のニュアンスでいうなら、社会人が近いかと思います。

つまり、ガールズやチルドレンは、自分で自分の気持ちに落とし前をつけれないまだ子供です。大人になったらちゃんとしなきゃ、と日本人が思うときの、大人になったら、状態はウィメン、メンに当たります。拗ねてる=精神的子供ですよね。

そういえば、以前アメリカにいた頃に、友人の家で彼の大学生になろうかという息子さんを”BigKid”と呼んだら、的を得ていたみたいでみんなに大うけしたことがありました。 男性はBoyと呼ばれることはかなりな蔑称です。 男性の場合はいくら大きくなっても少年の心を忘れないのがいい、っていうのは、万国共通みたいですね(笑)。 ”BigBoy”だとニュアンスが違ってしまいます。
”BigChild”でも違います。 やっぱり”Kid” ですね。いたずらっぽく。

私は妹のことは大人ですが”MyBabySister”といいます。こうすると妹、それも依存的な感じの妹であることがニュアンスに出ます。

で、ウィメンに戻ると、これが父親から発されていることで、父親の願いがこれまたプロテスタント流であったことが分かります。

精神的自立。 そう、これは4人の娘の精神的自立の物語なのです。というわけで
精神的成長のプロセスがうまく描けたかどうか、というのがこのお話の成否でしょう。

そこが女性の場合「結婚」にしか向かっていかないのがなんだかなー。現代人としては納得がいきません(^^;)。

だだ、ジョーのモデルである原作者のオルコット女史は生涯独身で作家業で家族を支えたそうです。 

ジョーが作家自身の理想像だとすると、理想のパートナー像は、半ば彼女の師ですね。
円熟して知識豊富なかなり年上の男性、外国(それもアメリカより教養がある国)から単身でやってきて、本来は大学教授でありながら国が違うために今は一介の家庭教師でしかないという不遇の男性(^^)

実際にはそんな男性はいなかったらしい…というのも当時のアメリカ社会を知ることになりますね。 女性の社会進出…困難と孤独の道だったのですよね。


 




読了 『反社会学講座』

2011-08-11 00:31:34 | 読書ログ

いや~。この本は久しぶりに読んだメガヒット! 良書でした。じっくり読みましたとも。 
反社会学講座


以前、市井のビジネススクールでマーケティングを受講しました。というのも当時仕事が社外の広報を兼ねているようなライター職だったからです。技術を分かりやすく書くというのは出来ても、コピーって???・・・という状況だったので。そのときの最終レポートはクラス最高のできばえだったそうなのですが、単なるマグレか周囲が忙しすぎたのでしょう。

ただ受けてみたら、なぜ企業が売るという目標を掲げたときに 社会が良くはなるとは限らないのか分かりました。

・・・あるメリットがある製品があったとき、ひたすらそのメリットのみに着目し、それを拡大し、(誇張し)消費者に伝えるのが最良の作戦というか、それが至上課題だからです。 

アメリカ版ポジティブシンキングです。「グラスに水が半分しかないというな。半分もある、と言え」です。 

例えば、古典的例ですが、洗浄力が強い台所用洗剤=手あれ。 しかし、洗浄力が強い、と宣伝するのはまったく罪ではありませんし、むしろそうするべきです。 手が荒れます、なんて、じゃあ売るなよ!って話になりますし。

実際の世の中は、アチラが立てばコチラが立たずという関係のほうが多いワケなので、良く落ちる洗剤を大規模プロモーションした結果、手アレの人が増えたとか、環境汚染が進んだ、とかいうような結果に。 

つまり、販売成功は手が荒れやすい人もその製品を”ついうっかり”手に取ったようなこと。

ちょっと人間の誠実さという意味ではどうかしらね、という感じになります。

物事の両面を見るのが本質的には良いのですが、ビジネスでは両面見てもらったら困るのです。 偏った見方を推進するのが仕事といえば仕事です。そこにどれだけ説得力を与えられるか?という勝負。マーケティングというのはバランスをとることではなくて、どちらかというと、微細な長所を大きく取り上げる、というようなものです。

誇張。少々の詐欺っぽさ。バランスを欠いていることの自覚・・・ 実は以前勤めていた市場調査の会社で「だいじょうぶ。ちゃんと調査には行ったんだから、まったくウソを書いていることにはならないんだし」という慰めのセリフをもらったことが。・・・かなりフィクション性の高い世界です。

そういえば、最近、トイレットペーパーがボロボロにならないトイレ用洗剤というのが売りに出ていて、これなんて、「トイレ用洗剤なんて何でもいい」っていうことだよな~と妙に納得してしまいました(笑)。

で、この本です。 この本のような、思考こそ、『クリティカルシンキング』 の”クリティカル”が出来ているんでは、と思いました。 まぁツッコミですね。

大学を出たらこれくらいのツッコミ力、思考力は持っているべきだと思うのですが、自分を含め、持っているかしら、というと怪しいですね・・・。 修行が足りません(汗)

そして、おもしろおかしく、ユーモア(多少ブラック味)~。読みやすいです。

私も印象論ではなく、できるだけ数字を元に考えようとはしていますが、数字を元にしても、意図的に論理を導くことは出来る・・・自分もうっかりやっているかもしれないわけで、そういう危うさを、ユーモア交え、直球ではなく斜め変化球で、
でも的を外さず、攻めているところ、とても頭の良い人なんだなと分かります。

フリーター → 最近の若者はけしからん ・・・なんて社会通念も、各国データを引っ張り出して 「なんだフリーターって異常現象じゃないジャン、結局世界中フリーターだらけじゃん」とぶっ壊してくれます。

そういえば、最近気に入っている仏教者ひろさちやさんも「イエス・キリストは世界でもっとも愛されたフリーター」とか言ってましたしね。

まぁ、そうこう考えていると、色々な現象の一部と取り出して分析し、良し悪しの判断をするというのも、無駄な作業ということが分かります。

社会というのはあるがままでまぁOKってことですね。フリーターも少子化も別に問題でもない。

まぁ問題だ問題だと騒がれていることがそもそも問題でさえないことっていうのは、ままあることなので、問題が解決されないからって暗くなる必要はありませんね。 温暖化しかり。

どちらかというと、問題は、問題を作り出してしまう人間の心のあり方のほうにあるのでしょうね。

少子化が問題だ、という人たちには、そういうことにしておかねばならない心の動機が。大きくは利権だし、そういうことにしておかないと、首がつながらない、とか。社会もそう言っているし、そういうことにしておいたほうが何かと面倒が少なくて都合が良いとか。

・・・してみると、このように、社会通念の矛盾を指摘する、という作業を、まじめにふざけてやっている方の動機、というのは、社会通念に守られている側ではないですよね。通念に痛めつけられてきたからこそ、壊す側に回れるわけで・・・

いじめられていないかと不安になりましたが、アマゾンでチェックするかぎり、非常に好意的に受け入れられているようでその点にホッとしました。

イジメを交わすには、知性だけでなく、ユーモアが必要、ってことですかね~。



スタンフォードの空気感

2011-08-09 20:50:30 | 読書ログ
20歳のときに知っておきたかったこと スタンフォード大学集中講義を読みました。 この本を読むのは実は2度目。

目次を引用してみました。→ は一口要約です。

★目次

①自分の殻を破ろう → 5ドルを資本に2時間でビジネスを考える例。
②みんなの悩みをチャンスに変える → 逆転の発想のこと
③ルールは破られるためにある → アイディアに良し悪しはない
④機が熟すことなどない → 自分自身に許可を与える
⑤早く、何度も失敗せよ → 失敗から学ぶ大切さ
⑥無用なキャリア・アドバイス → 理系女子=看護婦、のようなステレオタイプなアドバイスと役に立つアドバイス
⑦幸運は自分が呼び込むもの → 努力の量に比例して幸運が舞い込む
⑧自己流から抜け出そう → 適所に適材を持ってくるのではなく、適材に適所を作る。
⑨及第点ではなく最高を目指せ →期待以上のことをするべし
⑩新しい目で世界を見つめてみよう → 自分自身に許可を与える

この本を通じて流れているのは、アメリカ流のポジティブシンキングと人間の創造性に対する信頼です。いいですね~大好きな雰囲気です。

物事のうまく行かない面にフォーカスしても仕方がない → 悪い面を改善するチャンスと捉える = アメリカ流のポジティブシンキング
→ そのツールとしての創造性 =アメリカ的なクリエイティブマインド
 
この本の 『二十歳のときに知りたかったこと』 ・・・どうでしょうか、二十歳のときと比べて。

私は思うには、”自分自身に許可を与える”ということ以外、日本の大人はみんな良く知っているような気がするのですよね。

■ 日本社会向け適用?

この本の巻末にある訳者のあとがきで、農耕民族で多少の不都合があっても同じ場所から動かないことがより有利な生き残り戦略であった農耕民族の日本人には即さない部分もあるかも・・・という指摘があります。 何しろ遺伝子により、リスクをとるタイプの考え方をする人よりしない人(98%)が圧倒的多数らしいんですよね。

しかし・・・日本人にだって創造性があり、それは発露しなくては、ストレスとなって爆発する・・・と思いませんか?

多分、日本人には ”ルールを変える” という方向に”許可”は9割ない。本質的にはあるのですが、社会的にはないんですよね。

そこは創造性を発揮できない分野です。なので、この本の中でやっているようにルールを変えようとすれば、抵抗がいちぢるしいです。政治なんて見ていてほんと大変そうですよね。

でも、例えば、伝統工芸や農業、芸術なんかの分野にそのエネルギーが向かったんではないかと思うんですよね。

それは創意工夫がここまで!というほど目を見張るものが多いからです。日本では社会の仕組みではなく、モノや芸術、スポーツやコーチ業などに創造性は向かう。

私は若いときにちょうどこのあたり(サンフランシスコベイエリア)にいたため、その場の空気に感化されてしまい、創造性といえば、ルールの変更、やり方の変更を指すとずっと感じてきました。うまく行かないやり方を変え、うまくいくやり方を見つける。

なのでアメリカ流起業マインドを髣髴とさせる、考えさせる授業をする市井のビジネススクールに行ったりしたときは、水を得た魚的状況でしたが、実際の日本のビジネス界で同じ調子をこくのはどうだろうか?と思います。 

というのも、アメリカ的な逆転の発想による創造性発揮は歓迎されないかも・・・?どうでしょうか。

あるいは、ほとんどの人がレールから外れないことを目指す日本でこそ、レールから外れることにはものすごいリターンがあるのかもしれませんが、日本では解決すべき問題を選び間違わないようにする知恵というのが大切なような???

あれがないからこれができない、ああだからこうしたいのにだめだ、そういうセリフはよく聞きます。

でもあれは、考え方次第でカンタンに解決できる”問題”ではなく、ブツクサいいながら付き合っていってくれたら、うれしいなって程度の共同体結成のためのツールなのですよね(^^;)
 
本質的には”問題”ですらない。仲間意識を醸造するために愚痴らざるを得ない現状が用意されているのに、解決なんてしたら愚痴れなくなってしまう・・・ってワケです。そう日本は建前と本音が二通りある国。

この本に書かれていることを人生訓として、成功(月並みすぎて使いたくない言葉ですが)しようとするのはキケンかもしれないと危惧してしまうのです。


日本には日本の創造性の発露があるので、日本人の生き方の参考書にはなりづらいかと。

でも、アメリカがなぜビジネス大国なのかは分かります。チャレンジと失敗にめげない心には、みんなを元気にさせてくれる心のビタミンパワーがあります。 

なんだか人間に解決できない問題はないように思えてきます。これが欧米式の人間礼賛の考え方ですね。

でも多分、問題解決をせずに問題が過ぎ去るのを待つ、という無策という日本的解決策にも、一理(共同体維持)があってのことなのでしょう。

多分愚痴の共有というのは社会で一番コストが安い共同体感覚維持の仕組みなのです。

そんなことを改めて思い起こした本でした。



Singing In the rain

2011-08-08 19:28:20 | 読書ログ
いや~あっぱれな雨です。 思わずベランダで窓を全開にして瞑想してしまいました。

すべてを洗い流すような雨。とどろく雷の音・・・まるで憑き物が落ちるかのようです(^^)。空気の汚れはさぞスッキリ! 

■ アールデコ&タップ

ちょうど見ていたのは 『Singing In the rain』(雨に唄えば) です(笑)。
雨に唄えば 50周年記念版 スペシャル・エディション [DVD]


タップダンスがとってもステキ。 この映画は、モダンガール風の衣装を研究したい人にも最適。

アールデコ調ですね。 つばの無い水泳帽のような帽子が印象的。今ではめっきりみないサザエさん風の作りこんだヘアスタイル、モガ風衣装、今とは違って健康的にふっくらした女優さんたち・・・
楽しい音楽はもとより、ダンスが素晴らしい!タップダンスが特に素晴らしい☆

男性は今の時代にこの映画のファッションで出てきてもあまり違和感ないかと思いますが、女性は今では着れないファッションが一杯見れます。 

雨の中をバシャバシャと、水溜りをザブンザブンと!体一杯に 喜びがはじけるようなダンスを雨の中で・・・

こういう天真爛漫で健康的な映画を見ると、今の時代、豊かになったのではなく文化的には貧困になったのではないだろうか?などと思ってしまいます(^^;)

そういえば誰でも子供の頃は水溜りがあると見れば、ザブン!!と水しぶきを上げて足を突っ込み、きゃあきゃあ言って楽しんでいましたね~(^^) ただ雨が降るだけで、ワーッ!と喜んでいた素直な感情・・・

それがとっても素直に、そして、洗練されたタップダンスで表現されていて、気持ちのいい人間賛歌でした。雨が降るだけでルンルン気分になれるのが人なんですね~。

脚本は、とくに凝っていません。 歌って踊れないサイレント映画女優が歌って踊れる女優に座を奪われる・・・という一幕です。

こういうものは特に凝る必要がないんだな、って分かる作品です。


■ きっかけを逃さないってコツ & ほどほど

最近読んだ本。 辰巳渚さんの 『気づいたときにささっと!ほどほど掃除のしかた 』。 

掃除や料理って毎日やりつづけないといけない。 やることそのものよりも、終わりなき作業、というところが、”飽きてくる”。

というワケで、掃除の本は、掃除に飽きて、ヤル気がイマイチ起きないときに読むためにある。

だから良い本かどうかはその後、掃除のヤル気が出てきたかどうかによる。 で、この本はヤル気の鼓舞という用途にはイマヒトツかもしれない。

というのは・・・
この本のオススメは、思いついたり、気がついたり、そうした”気づき”のチャンスを逃さないで掃除すると意外にカンタンにキレイさが保てる、というのなのですが・・・・言うは易し、行なうは難し。

それが出来たら・・・って話で大抵の人は忙しくて、部屋の隅の埃が気になっても取る暇&余力がない・・・ワケなのかも?

けれど、私はコレやってるなーと思う。私が決して機を逃さないのはブログ。 畑に行ったら即書く。 けれど掃除に対しては同じようには行かない(汗)。料理に関しても同じようには行かない。マンネリ化してくる。

それが個性ということで、まぁそんなことは言わなくても分かることではありますが、すぐに体が動くことが、その人の適性なんでしょう。

で、掃除や家事というものは、ニーズはあるけれど、適性を感じる人がものすごく少ない分野、ということなんだろうな。

最近、仏教のひろちさやさんの本を読んだのですが、のんびり生きて気楽に死のう
”いい加減”&”てきとー”は元々”ほどほど”という意味で、決して手抜きという意味ではなく、”ほどよい加減”という意味だったそうです。

ちょうど良い加減・・・いい加減の基準が、①自分になく他者に移っていったこと、②基準がリアリティがなくなるほど高くなったことの2つの点が、どんなことでも、今の時代の生きずらさ、の背景にあるのかもしれませんね。(ちなみに仏教で言うところの”苦”とは、思い通りにならないこと。そりゃ他者に価値観を依存していたら思い通りにはなりませんよね。)

どこからどこまででやった!といえるのか?十分ということが無いし、これでOKという基準もない作業は(仕事でも同じだけど)

 1.基準は自分で作る、
 2.成功か否かは自分で決める

がポイント。  とりあえずん自分ちは人に見せるためにあるんじゃないんだし、自分が居心地良いレベルを維持できれば良し。

しかし、そんで良し!と言ってくれる人が他の誰もいない、つまり自分ひとりだと・・・基準はだんだんと下がってきそうですよね。

でも、他者承認(ありがとう!の一言)が得られない掃除や家事のような、労働も多い・・・・そこで、

その際に使えるテクを集めたのが、ヒーリングデザインという本でした。
相邑美佐江のヒーリングデザイン―衣食住をデザインする

他者承認の思考回路を自己承認に変更するには?

ゴールを自ら描くテクニックに、文字を書く、というのはよく見ていましたが、ここで紹介されていたのは絵を描く、です。人間向き不向きがありますから、字を書くのが苦手な人は、絵を描いてみると良いかもしれません。

例えば、自分のなりたいプロポーション(体型)も具体的に絵に描いてみて、足りないところ、いけてるところ、をリストアップしておくのだそうです。 

考えてみると、バレエダンサーの写真が一枚あると理想のパッセを脳裏に思い浮かべられただけで、パッセは上達するものです。

そうなると映像化=リアライゼーション → 自分をリアライゼーション、自己実現です。 家(そうじ)でも、体型でも、仕事でも自分をリアライゼーションする、それが幸福ということでしょうが、それが難しいんですよね。

まァ難しいから、これが人間のシアワセだ!と紋切り型を最初に与えられるのでしょう。紋切り型から飽きたらら無くなってきたら、それは逆に言えば自分なりの幸せの形が既にある、ということです。

まぁ片付いた家というのが空想上にも想像できない!って人は多いのと同じように、自分なりの幸福の形を思い描けない、イメージできないことが、”分かるけどやれない”という難しい部分なのかもしれません。掃除なんて、特に子供がいたらソレ(片付いた部屋)はまぁ絵空事ですしね。

リアリティと理想の間を埋める?いや埋めなくてもいい、それがヨガのメッセージだったような気がします。 

出ているお腹のお肉と理想のプロポーションの図、両方アリ(笑)。





アーユルヴェーダ 斜め読み

2011-07-28 11:11:43 | 読書ログ
アーユルヴェーダの知恵―蘇るインド伝承医学 (講談社現代新書)
 を斜め読みしました。

斜め読み・・・というのも、外国の健康法に限らずありとあらゆる健康法は参考程度にしているからです。

カラダをどう見るか?という観点には、色々あるんだなぁということが分かり、知る喜びがあります。

西洋的には、カラダは骨・筋肉・血液といった部分に分けられたり、四肢・体幹と分けられたり・・・体&心と分けられて、心は脳みその中にある、とされたり。

アーユルヴェーダでは、ピッタ、ヴェーダ、カパという分け方をします。漢方では、陰・陽や虚・実という分け方をしますよね。

■ 食事はツールではないのかも?

私はお食事を作ることにはとっても興味があって、薬膳やらも本を買ってきてみたりもしたのですが、○○を食べると××に効く式の考え方自体に少々ゲンナリ中です。

なんでコレを思い出したかというと、今日は以前書いた『辰巳芳子さんのTVを見て』という記事にコメントをいただいたからです。

何も薬膳やアーユルヴェーダの主張を否定するのではなく・・・例えば薬膳では中国だったらありふれていて手に入りやすい食材、アーユルヴェーダであったらインドの食材・・・というのは土地に合っているという部分がずれていない。 

日本でやると、土地に合っている、という部分に無理があるので、○○を食べて××になる式を実行しようとすると無理が出る。 その無理が実は目的達成だけを目指させる無理になってしまうんじゃないかと・・・

血眼でクコの実を捜さないといけなくなっちゃうんだったら、クコの実ではなく、同じような別のものがホントはいいんじゃないかなと思うんですよね。

この○○を食べて××する、式の考え方って、食事を何かの手段と捕らえていますよね?

TVが特集したら納豆が売り切れる、という心の持ち方と、薬膳でいいっていうから、○○を食べる、っていう発想は、根本のところで同じではないかと。


■ 日本の食べ物を快食したい

無理がない・・・土地に豊かにあるものを食べるのがそもそも、というワケで、日本で取れるもの、今安くて美味しい食材を使いながら食べるのに興味があります。

そうした日本で取れるものを美味しく食べる術、には色々な手段があってもいいのかなーと思います。それに各国の知恵を取り入れるのはいいのではないでしょうかね?

例えばハムスは豆ペーストですが、豆ペーストを野菜につけて食べるという発想が日本にはないので(いやあるか!お味噌です!) ハムスが最近豊富にある、レタスやきゅうりをたくさん食べる食べ方のひとつとして増えてもいいような気がします。
味噌もあってもいいし、ハムスもあってもいいって感じですかね?

アーユルヴェーダの考え方に、”快食”といいうのがあることを知りました。

体が十分に食事を消化できているときには、食事がとっても美味しいのだそうです。

漢方でも、大抵の人に最初に処方されるのは、消化力を高める漢方です。腎が弱っている、という言い方をします。

要するに食べたものが十分に消化分解できていないと、未消化物となって体に負担が掛かる、という考え方。

そうなっているかどうか?を見分けるのが、快な食、つまり食べることが楽しい食かどうか?ということなんだそうです。

きっと、ファーストフードの晩御飯の子供は、快食ではないでしょう。 そうなると食物のせいではなくて、快でない
せいで健康を害しそうです。

会社の飲み会も和やかな場であれば違うのでしょうが、嫌々参加する類は快とはいえないですよねぇ?

ながら食いというのは、私もついやってしまいがちになるのですが、なんでもながらというのはイマイチ良くないようです。

フィットネスジムでも、トレッドミルの上で走りますが、同じ走るのでも、TVを見ながら走ると運動効果半減なのだそう。
ということは食べるのでも食べると思って食べていないと効果半減というのもうなづけます。


思うに、食べるというのは、生命維持のため、栄養補給のため、美容のため、・・・○○のため、と何かのため、にしてしまいがちですが、きっとそういう食ではなくて、食す、ということがそもそも持つ、プロセスとしての愉しみや”いただきまーす”のうれしさ、みたいなモノを大事にしないといけないのでしょう。

ギャル曽根ちゃんはほんとに美味しそうに食べていますよね?あんな感じ。

そう・・・ホントは日曜の遅い午前中に食べるブランチのように・・・ゆとりを持って楽しみながら食べる食、それが心にも体にも良い栄養。

お味噌汁と目玉焼きの献立で合っても、おいしく食べよう!と思うこと、楽しんで食べよう!と思うこと、それが大事なポイントなんだろうなぁと思います。







読了 『原発に頼らない社会へ』田中優

2011-07-25 19:03:15 | 読書ログ
原発に頼らない社会へ こうすれば電力問題も温暖化も解決できる

この本は久しぶりに読む ”理性的な原発反対論”でした。 読むべし!

ここは著者のブログ。

■ 電気は足りてる 足りていないのは知恵とヤル気

原発はコストが高い、イラナイ、と思っていても、「電気が足りないよ?」とか
「それでは経済が衰退する」

といわれれば、反駁できない・・・

というのが、大方の原発反対の人の現状でないかと思います。

それが、実は”電気は足りなくない”のです!(朗報ですよね?)

この本で指摘されている重要箇所をピックアップ。

・日本の電力需要はピーク時を基準に定められている → 電気は貯められないから (キャパシタ、スマートグリッド)
・ピーク: 夏場、平日、2~3時、気温31度以上の日
・9割以上が家庭以外の消費 → 一般家庭の電力消費はたったの9% →個人が省エネしても効果がない なぜならほとんどの家庭はその時間帯に家に誰もいない。

・家庭用電力 → 使えば使うほど高くなる料金システム (日本の電力料金はアメリカの3倍)
・需要化向け電力 → 使えば使うほど電気が安くなる料金システム

  解決案 → ピーク時の電力料金を高くする。特に事業者向け電力を使えば使うほど電気代が掛かる仕組みに変える。

・ピークにあわせて発電所を建設するため、日本の発電所の負荷率(稼働率)はたった60%。4割もの発電所が遊休している。
・電力会社にとっては発電コストが掛かるほうがむしろ儲かる

 解決案 → スマートグリッドによるデマンドサイドマネジメントで電力需要ピークを
         平坦化し、不必要な発電設備の出費を控えることで電力料金を下げる。
         電力料金システムを見直し、需要家の電力消費を下げる。

・節電によって浮いた電気代で、省エネ家電への買い替えコストがまかなえる
http://www.sokuon-net.org/kaikae.html

・グローバルタックスで、貧困層へあるべき利益を還元
・地域通貨(地域でしか使えないお金)で地域の流通を活性化
・電力自由化 → 送電線を誰でも使えるようにしよう

■そもそも日本は原発建設適地でないよねぇ(汗)?

・地震の回数 (1970~2000年 震度5以上)
  イギリス 0回
  フランス 2回
  ドイツ   2回
  アメリカ 322回
  日本   3954回

こんなに地震の多いところに原発のように繊細な装置を、置いておくこと自体が
はらはらドキドキの恐怖映画ですね(^^;) 

安全・安心のためには石橋さえ叩き壊してしまいそうな、安全大好きの日本人がやりそうなこととは思えない… 

もし 自分が保険会社だったら、日本の原発のインシュアランスを引き受けますかね?

普通なら地震に合うのは当然過ぎるほど予想できるのでどんなに高額な掛け金を
もらっても保証しない・・・絶対に負けるという賭けにかける人はいない。

そもそもこんなに地震が多いところに原発を建てることが常識はずれですよね・・・
その上、福島の場合、歴史的にも地震多発帯。日本海側でさえない・・・。

先日は九電での”やらせ”問題がありました。日本の産業界はコレに似たところがあり
産業界を引っ張っているリーダー企業の”やらせ”(と言っても言下の)に同調しない
企業には生存の道はありません。なんかおかしいなーと思ってもいえない。かなりな
KYでも「王様は裸だ」とはいえません。そういうことをやるとお役所と地元の大手企業で構成している経済界で社会的自殺をしたのと同じことです。 

この”やらせ”、なんだかおかしいのは明らかでした… なぜって大衆としての日本人って確率とかいう発想が無く、100%安全を求める超ド完全安全主義者・・・が収束もしていない福島原発を持ちながら、別の原発再開にGOサインを民意で出すなんて、どう考えてもおかしいからです。

原発支持をする人たちは、日本では主に電力会社、鉄鋼、セメント、石油精製業のどれかに携わる人が多いはず・・・なぜならこれら4産業の20社だけで、Co2排出量の4割を出しているからです。



■ 1国より大きなグローバル企業がある→平たくいうと既得権益

日本は閉鎖的市場なのでグローバル企業の存在感は一般市民生活にはイマヒトツ感じられませんが世界には、日本人が知らないだけで、他の誰もが知っている巨大企業がいくつもあり、それらが見えないところで日本人の生活を支えていたりもします・・・(市場調査員時代に経験)

例えば、今は下火になった洗剤に配合されていた蛍光剤、日本製品の9割以上のシェア…は、ほとんど誰も知らないようなヨーロッパの会社の製品でした。

今の経済社会はそうした、目にはパッとつかないけれど結局は儲かるしかない仕組みの頂点に立つ企業だけが儲かる、という仕組みになっています。

例えば、電力会社。 例えば、「太陽光発電促進付加金」・・・ってご存知ですか?最近、目立たぬように一般家庭の電力料金を課金される際、しれーと追加されています。

これは、

太陽光発電が進まない → 元が取れないからだ → 元が取れるようにするには電力を高く買い取ればいい

→ 電力会社が通常の電気より高く買い取ってあげよう → でも、買い取り価格を電力会社は負担したくない

→ えーい、一般電力需要化に負担させてしまえ!

という仕組みです。 全員が負担するんだから文句無いだろう、ということで、全家庭の料金にしれっ~と課金されており、(国民的議論も投票もなく!) 一般家庭は、高い電力の負担をさせられています。
有無を言わせぬ措置で、これを払うのを拒むと電気を止められます!!(驚)

つまり、電力会社は懐を痛めない仕組み。 別段、これで電力会社が太陽光発電を促進しているわけでも何でもありません。 誤解しますよねぇ・・・

これに始まらず、一事が万事なのです。 私達の預金は集められ、良く分からないうちにファンドに投資され、そのファンドでは戦争資金になったり・・・ 私達の善意はうまいこと言いくるめられておいしいところだけをからめ取られているのですよね・・・。

■ 前向きになれる

そういう仕組みを、より良い未来へつながる仕組みに変えていくにはどうしたらいいか?

そこのところの提案が豊富な本でした。 例えば、地域通貨とか。NPOバンクの単利方式など。利息が可及的に増えるのは非現実的な増加現象なので、単利の仕組みはリアリティがあると思います。

利息をまったく否定するイスラム教ほどではなくても、単利なら増加は緩やかで、金融業も荒稼ぎはできないでしょう。どうして世界的に利息は単利にしましょう、と言う動きにならないのかなぁ。

カネが金をよぶ同じ仕組みで、貧困が一向に抜け出せない、貧困にあえいでなくても、働きバチのように働き続けても一体なぜか生活は一向に楽にならない。世界の仕組みを知れば知るほど、鬱な気分になるのが落ちですが・・・それは対抗手段を持たないから。こういうやり方で変えていけるという気持ちになれれば前向きに生きれてきます。

そういう意味で、現代社会の無力感&脱力感に襲われている人にオススメ・・・

■ 公共材=既得権

それにしても、市場調査でスマートメーターの調査をベトナム、タイでやったのは
ちょうど10年ほど前でした。その頃はスマートメーターという言葉さえなく…
半導体入り電気メーターなんて言っていましたっけ。

普及は日本は当時遅れていたのですが、ランドラインの電話が普及する前に携帯電話が
普及してしまった途上国は同じ理由で、普通のメーターが普及する前にスマートメーターが普及しつつありました。

被災地も、同じ復興するならスマートシティを作ってしまえばいいのだと思います。
というか、既に網目のように張り巡らされている日本ではせーので交換できる機会は
本当に少ないはずです。やれば出来るんですけどね、光普及率など日本はすごいのです。でもこれは大企業が儲かるから普及したのでした。

電力自由化は日本では遠そうです・・・当時の調査の知識ですごく古いのですが
発電も送電も配電も地域の1社が担う日本の電力会社の仕組みは世界では既に特殊でした。

50hzか60Hzかっていうのさえ、既得権が優先で国内統一できないお国柄ですよ? 同じような公共資産である高速道路だって、アメリカその他の国でごく
普通にあるように無料でない日本(国土が小さいからコストは小さいのに…)
目先の痛みを取って遠くの得を取る、あるいは大企業が痛みを受け入れて大衆が利益を得る、というのは、ものすごく苦手なのだと思います。

それがみんなにとって良いと分かっていてもそうはならないのは…走り出したら
止まれないとか、毒を喰らわば皿まで、とヘンに思い切りがいいのかもしれませんね(ため息)




オズの魔法使い

2011-07-01 22:14:09 | 読書ログ

今日は夕方から雨になりずいぶん涼しくなりましたが、暑くて何もできそうになかったので図書館から借りてきて『オズの魔法使い』を見ました。

アメリカ文学復習コース・・・・(^^)

第一弾、アメリカンの心、『オズの魔法使い』。 オズの魔法使いといえば、アメリカを愛する人なら誰でも見ておくべき、古きよきアメリカの理想が伺える基本中のキ、のカルチャーです。表カルチャーですね。

主演のジュディ・ガーランドをアメリカ人なら知らない人はいない。アメリカ人にセンチメンタルな郷愁を感じさせるCornyな映画です。

まずお話を復習から。

《あらすじ》
カンザスの農家に暮らすドロシーが竜巻に巻き込まれる。彼女は一旦その前に飼い犬をめぐって隣人と対立していてプチ家出していたところだった。そこへ竜巻が。
ドロシーは家族に会えないまま竜巻で家ごとふっとび、気がつくとオズの国へ。その家がどうも悪い魔女を殺してしまったらしく、ドロシーは期せずして小人達から大歓迎を受ける。
でも家に帰りたい。北の魔女からイエローブリックロードを辿ってエメラルドシティへ行くよう告げられる。途中で、かかし、ブリキの木こり、弱虫ライオンの連れができる。それぞれ、知性、心、勇気を欲しがっている。エメラルドシティで大王に会うも、実は普通の人。でもそれぞれが実は欲しかったものを既に持っているんだよ、と
告げられ、かかしはディプロマを、木こりはカチカチなる時計を、ライオンはメダルをもらう。
ドロシーは家に帰りたいと強く念じることで家に帰る。気がつくとドロシーは寝床で目を覚ますとそこは家である。
「お家が一番だわ(There's no place like home.)」と最後に言う。

で英語のお勉強~。 今回、最初に気がついたのは小人(マンチキン)。小人って英語では色々な言い方が
あるんですね。 オズの魔法使いに出てくる小人はかわいい。 

munchkin 非常に小柄な人、かわいい子、小人、子ども◆【語源】「オズの魔法使い」に登場する小人から

ほかにも・・・

 dwarf 一寸法師
 elf《ゲルマン神話》 妖精、いたずらっこ
 elves〔elfの複数形〕
 homunculus
 hop-o'-my-thumb
 Lilliput〔【語源】J. Swift作『ガリバー旅行記』(Gulliver's Travels)に登場する小人国の名称から〕
 a little person〔背丈の低い人〕
 manikin〔体が非常に小さい人〕
 midget〈軽蔑的〉〔体の各部の比率は普通だが身長が極端に小さい人。〕
 Munchkin〔【語源】「オズの魔法使い」に登場する小人から〕
 pygmy
 sprite

など一杯・・・Dwarf,elf,pygmyはきいたことがありましたが・・・マンチキンズは無かったです。へぇ~。

その他・・・今回の聞き取りリスト。

・Twister 竜巻
・Good ⇔ Wicked 悪い魔女の”悪い”はWicked
・水晶に聞いてみるわ、の”聞く”は Consult! コンサルタントだって占いに頼ってよい?!
・Slippers スリッパーズはハイヒールの靴のこと。
・飼っている豚はPigではなくHog。 Hogsのほうが良く耳にします。Pig!っていうと卑しくガツガツした語感。
・勇気 は The Nerve(図太い神経) もちろん、CorageもOK。
・There is a horse of a different color :イディオムで それは別の問題って意味。
・Good‐Deed‐Doer = Good-doer と同じ 
・I'll bide my time. チャンスを待つことにしよう! というイディオム。
・I don't see why not. (肯定) ⇔ I don't see why(否定).
・Not nobody, not nohow! 強い否定
・お化けを信じる、は believe in spooks.


■ Yellow Brick Road

イエローブリックロードといえば、エルトン・ジョンですよね?”So Goodbye Yellow Brick Road~♪”と歌う・・・とずっと思っていたらもともとはこれはオズの魔法使いからの引用でした・・・文学部卒にあるまじき、失態です・・・。 そうだったのかぁ。

イエローブリックロードはエメラルドシティ、つまり贅沢で都会的な生活へと続く道の比喩ですね。ジョンは、それにさよなら、と言っているわけで、結局、田舎へ戻ろう!って話。今で言うところのUターン就職?

確か子供の頃にも見たことがある映画だったと思うのですが、改めて見てみたら、この映画のアメリカっぽさが理解できました。年を取ると文学はより一層おもしろくなるようですね。年を取ることの効用その②か。(その①は友達が作りやすいこと ^^)

ドロシーが住んでいる家は、大草原の小さな家のローラ・インガルスが住んでいたような、乾いた感じの草原に立つ家。  

私は、考えてみればNHKでローラの家に親しみがあっても、実際の日本の農家の風景には親しみがない・・・(汗)子供の頃から日本の農村、あるいは農家の暮らし、一切目にしたことがありません・・・(--;) 農家の納屋とかイメージ湧かない。

最近農家の友人宅を尋ねると、日本の農家ってこんな景色なんだな、って新鮮です。 海外の歴史モノのほうがずっと親近感があるってのが驚きです。TVってすごいですね。

大きな竜巻が来て、プチ家出していたドロシーは地下壕に入り損ねるのですが、竜巻には、私もカンザスで出張中にあいました。

スーパーで買い物中でレジに並んでいたのですが、従業員も客も全員がいっせいに逃げました・・・どさくさに紛れて支払わずに持ち帰る人も・・・竜巻ってのは日本で言う津波てんでんこくらい、みんなダッシュで逃げます。

やっぱりカンザスでは竜巻怖いんですね~。 その頃、私は、オズの魔法使いやローラのことを思いながらカンザスに来れたなーって実感していたのですが、同僚達は危機感なく、このちょっとしたことから、アメリカの何も学ぶことはなかったようでしたが・・・。

結局、この映画は、当時の世相を反映しているとか色々言われていますが、”Over the rainbow”で幸せは虹の向こうにある、と思い描きながら、最後はThere's no place like home.とお家が一番に落ち着く・・・普遍的でありながら、アメリカらしいともいえる。かかしも木こりも、ライオンも欲しい欲しいと言っていたものは
実は既に持っているものだった・・・という ”足るを知る”を教える映画?

アメリカの原点は開拓時代にあるともう一度思い起こした映画でした。(でも開拓時代は、モノが本当になく実際は苦労続きの時代でした・・・でもそうした時代と全米3位にリッチな土地今のOverland Park City(カンザス)とかものすごい乖離です…が”カネでは買えない幸せ”的には一番幸福だったのかもしれませんね・・・)

『TQ 心の安らぎを発見する時間管理の探求』

2011-06-23 11:42:17 | 読書ログ
昨日は甲府もほんとに暑かったですね。 


最近、わたしにとって新しい領域であるヨガも一応落ち着き、山を再開し、なんらかのさらなる
ステップが必要であるなぁ・・・と感じつつあります。

実は、やりたいことがあるのですがそれに手をつけられていない・・・それは・・なぜかというと
その背後に価値観のぶつかりがあるからです。

ひとつは友人のブログを作ること・・・私は”自立”、自分のことは自分でをモットーにしています。

私は少々おせっかい焼きなところがあり、たまに人の自立を妨げているようです。それは私の生い立ち、おねえちゃんモード
が起こす心の悪習慣。

おせっかいは結局は無駄骨。 だから、人のためにブログを開設すべきなのかそうでないのか判断がつかないのです。

実は、近所の仲良しの山屋さんのブログを作ってあげたのですが・・・更新の仕方も教えたのですが1ページ目から全然更新されていない様子です・・・(汗) うーん、そもそも、日記を書く習慣が無い人に日記を書けと言ってかけるでしょうか? かけないでしょう。

その山屋さんも、他の会社がやっているブログなどをみて淡い憧れが合ったのだと思います。
でも、見るとやるでは大違い・・・私にとってはちょいちょいのカンタンなことでもデジタルデバイドの地ではかなり難しい。さらに、こうしたモノは企画力も実はいるのです。 そして・・・放置(^^;)。

これから書きたいブログは友人3人のためのものなのですが、同じ結末を辿らないとも限りません。
で、それを回避する方法があるのか?というと思いつかず・・・後回し(プロクラスティネーション)になっています(汗)。 

迷いですね・・・。よろしくない兆候です。

そして、もうひとつがヨガのイベント・・・ヨガの私の中の位置づけがイマヒトツ確立していません。
一人でやるヨガは私自身が生活のクオリティを上げるためにやる、利己的なものです。
で、インストラクションをやっているときは、布施、あるいは奉仕、としてやっています。
しかし、今言っているスタジオの経営母体が奉仕の精神が希薄なので、結果としては、布施はダイレクトに生徒へ伝わらず(もちろん、思いとして伝わっているでしょうが)、意図しない結果になってしまっています。

そこで私は別のところでやろうとおもっているワケなのですが、それが正しい道なのかどうか、考えあぐねています。 また迷い。 まぁこういうことはトライアル&エラーでしか発見できないことなのでしょう。

・・・とそこで、以前から読みたかった 『TQ 心の安らぎを発見する時間管理の探求』 を読み始めました。

私にとっては、時間が足りないのではなく、あまっている時間をどう有意義に使うべきか、という話なんですが。

この本は有名なフランクリン・プランナーの系列の本です。 ポイントは

・価値観に則った人生を生きる

です。 そして、そのためのステップが

①価値観を明確にする
②それに優先順位をつける
③小さく、かつ達成可能な目標に落とす(Smartが有名です)
④PDCAサイクルを回す 

です。 私は①については大きな変遷を経て今に至っているような気がしますが(私自身のキャリアより結婚生活を優先)、もう少し掘り下げてみるべき時期に来ているのかもしれません・・・

はるばるメルボルンまで行って分かったのは、結局は一人で自立するのはたやすく、難しいのは2人で同時にHappyであることだということです。自分の都合に会う人と、都合の合うときだけ一緒にいるのが結婚ではないのですから・・・。

今は自分が望むライフスタイルでほぼ生きれています。ヨガもでき、山も行け、畑もあり、時間があればやりたかったこと、を達成しつつあります。さらに達成すべき何か・・・私にとって布施になるもの・・・まぁ本来はソレが仕事なわけですが・・・ある意味そこが一番この地では難しいわけで・・・

今与えられているヒントは以下の詩です・・・

Will 

There is no chance, no destiny, no fate,
Can circumvent or hinder or control
The firm resolve of a determined soul.

Gifts count for nothing; will alone is great;
All things give way before it, soon or late.

What obstacle can stay the mighty force
Of the sea-seeking river in its course,
Or cause the ascending orb of day to wait?

Each well-born soul must win what it deserves.
Let the fool prate of luck. The fortunate
Is he whose earnest purpose never swerves,
Whose slightest action or inaction serves
The one great aim. Why, even Death stands still,
And waits an hour sometimes for such a will.

 By Ella Wheeler Wilcox
  From: Poetical Works of Ella Wheeler Wilcox, 1917

さあてどうしましょうかね・・・このテーマしばらく悩みそうです。

写真は昨日、へんてこな雲を被った富士山。