鹿の食害と林学

2012-05-23 08:17:38 | 自然と環境のこと
■ 鹿は森をどう変えるのだろう?

週末で行った山では鹿さんに会いました。

鹿は山梨北部の北杜市に特に多いそうです。確かに別荘地の公道を走っていても鹿に会いましたし、地獄谷でも群れに会いました。鹿の食害はこのようにひどい状態であるのを実際にも目にしました。

鹿がこんな風に樹皮をはんでしまってはこの木々はどうなるのでしょう…?

立ち枯れ? 

巻き枯らし間伐も樹皮をはぎますが、立ち枯れ状態になるには2年ほど掛かる。
2年ほど定点観察をすれば、鹿がどう森を変えたのか分かるのかもしれませんね。

■ 森と象牙の塔

今読んでいる『植えない森』では、日本の森林行政のお粗末さが目に付きます。

うーん、でも、日本って8割が森の国。日本人の森との共生の歴史は長いはず。

先人の知恵はどこで失われたんでしょう…?

私はいつも基礎的な知識がないとと考えるたちなのでこの分野、森林生態学の基礎的な教科書があるのだろうかとちょっとググってみたら、林学を語り合っているサイトに当たりました。

面白かったのでちょっとまとめてみました。

《林学とは》
・結果を出すのにも時間が掛かる学問
・そのため、他分野の後手を踏む
・「他分野ですでに常識になっていることが樹木についても当てはまった」という結果が非常に多くなる

・学生は”生き物”よりも”数字”を眺めている
・生物と化学が重要
・物理と数学ができる人は多いが、「生き物」そのものを見ていないという矛盾を抱えている

・林学は他分野や近縁領域との知識交換の機会が少ない
・組織培養系や遺伝子導入の技術が農学ではかなり発達しているが林学は発達していない
・果樹と林学は、木本植物を扱うという点では似ているが、まるっきり方向性が違う

・卒業後は、森林保護系統の公務員技官職が多い
・世間とはかけ離れたところ
・林業職はマイナーでかつ異動もその職種の中だけ
・超ムラ社会
・出世もない
・採用数も超少ない
 
・スーパースター: 植物生態学者の宮脇昭氏
・最大の汚点: 緑のオーナー制度(分収造林) 国による詐欺まがい事件として訴訟も

・大学:象牙の塔にこもって自己流研究を趣味の世界でやりたい
・林業経済に助成金、補助金を出しても国民のためにならない
・林業経済の講座がある大学自体が少なくなった

まとめると、生物より数字に強い理系&世事に遠く古く狭い世界

なんだ~ 大学でハイキングが出来ていいな~という分野ではないんですね(笑)
ナショナルジオグラフィックに出てくるインディジョーンズ帽子を被った学者さんをイメージしていました(^^;)

閉塞的環境は、負け組といわないまでも、漂う雰囲気は停滞。学生に提供されるのは、冷め切った食事みたいです。

宮脇昭氏の著作を検索すると最初にヒットするのは、『木を植えよ!』でした。こりゃまたがちんこ勝負ですね。

ただ好意的なレビューが多いので、一般人にも賛同できる内容であるのが分かります。(ま、今読んでいるのは『植えない』話ですが)私も読んでみようと思いました。一方を聞いて沙汰するのはよくない。

(ただ元が狭い世界)→(1人のスーパースターが出ると、その人の意見が業界全体を代表するかのように外からは見えてしまう)ってことは想像できます。

緑のオーナー制度は行政の失敗事例のようですね。机上の空論だったのでしょう。そもそも林業を
経済的に成り立たせる話は、林業家ではなくて、経済学やビジネス専攻の人が考えるべきことかもしれません。

世間的に見れば、一体なんで日本の森はこんなことになっちゃったのかな、と思いますが、
大学の様子を知るだけで、そこはかとなく納得感がある…。

むしろ、なんか気の毒でさえあります。いつのまにか、林学は時代から取り残された魅力のない世界になってしまったんですね。

やはりこのような分野は、業界のネガティブなムードに犯されていない民間の知力を持ってくるのが
いいのかもしれません。経済的余裕があり関心も深い大人が第二の人生で取り組むべき学問なのかも…? 社会人大学院向きだなと思いました。

農業だって昔から農業やっている人には希望は見えず、最近参入した人にしか光は見えません。

いや『植えない…』などの著者はそのような人なので、すでにそういう流れになっていますね。

世界はうまく機能しているなぁ…

■ 鹿刈り

鹿ですが、ハンターが鹿を狩った記事があり、6頭でした。農作物被害は2010年度で約355万円。(他の資料には3000万円とアル・・・) 緊急雇用創出基金事業は、355万円より多いのではないか?とふと思うのですが…

被害を受けた人と失業対策事業で雇われた人は一致していないだろうという問題はありますが…(^^;)でも、鹿が食べてくれたおかげで人間は所得的には増えたんじゃないか…?

問題が問題であるのはやっぱり人間側の問題意識に過ぎないんだろうな。

そういえば、仙人小屋という有名な鹿肉料理を出す地元の店があります。

 カラマツとモミ?


『植えない森作り』を読んでいます。

2012-05-15 18:54:06 | 自然と環境のこと
今『植えない森作り』を読んでいます。

これは、ジョン・シーモアの『完全自給自足マニュアル』の日本版のような
大内 正伸さんの『山で暮らす愉しみと基本の技術』を借りてきて、
同じ著者で読んでみたもの。

大内さんのブログ

以前から植林=善 活動には少々違和感がありましたが…まさか植えてある木を伐採して
植樹祭していたとは…トホホな話です。

しかし…日本の森林は本来”植えなくても生えてくる”生命力旺盛な森だということは
先人はよく知っていて、広葉樹をはやしておけば山は崩れない、など地方地方で
それぞれ口承があったようです。そうしたことを覚えている長老達ももはや80代…
彼らと一緒に日本の知恵は姿を消そうとしているのかもしれません…

それは、何も料理や食べ物だけに限らず… 日本の”知”の断絶、というのは、林業もそうであるし、
酒造りもそうであるし、農業だってそうです。

一方で林業であっても農業であっても、あるいは料理であったも、西洋のものを学べば学ぶほど日本とは環境が違うと言うことを思い知るはずです。少なくともガーデニングなどから見えてくる実情はそうです。

循環型で環境(自然)と一体になっていた日本のもともとのあり方を古臭いもの、として捨てた戦後。

復興とバブル、その後の経済停滞で安かろう悪かろうに流れ、いまやそもそも憧れて目差していたところ(たぶんアメリカやヨーロッパ)とはまったく違う地点に着地し、気がつけば、失ったアイデンティティがもともとどういうものだったのか?もはや覚えている人がいない…という状態…。

民度が試される…

知恵が失われ、合理主義という近代思想はぜんぜん本質的に合理主義でなく、それた道筋を正そう
としてみると誰も羅針盤がいない… 

舵取りが不在の、やたらエンジンばかりが大きな船になってしまった。この船は安全なんでしょうか…

タイタニックのように沈没しないか心配になりました…

無料でできる環境保護システム?

2012-05-11 07:51:44 | 自然と環境のこと
■ フリッカーズ ポスト

以前出た講演会で紹介された、海外の環境保護の仕組みの一つに、フリッカーズポストがありました。

これは一種の、大衆による、監視システムです。

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まず、監視したい場所にカメラを置けるような台を設置します。

その台には、カメラを定点に置くための線や枠などを設けます。

そして、そこで取った写真を後日特定のURLへアップロードするか、メール送信
してくれるようアドレスを記載しておきます。

これでその監視したい場所を訪れた登山者は写真を取ることで監視するという
自然保護活動に貢献したことになります。
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■ 山とネット利用

山へ行く計画を練っていると、ライブカメラがあると大変ありがたいです。
しかし、ライブカメラは高額な上、メンテナンスにも時間が掛かります。
それに1分1秒を見る情報は必要なかったりし、せいぜい昨日の登山道の
様子がコチコチなのかぬかるみなのか程度の情報で充分だったりします。
つまり写真で充分。

というわけでヤマレコで最近出かけた人の情報が一番信頼でき助かる。

でもヤマレコはROM(リードオンリー、読むだけ)率が高いのは、写真を含め山行記事を書く
のには時間がかかり、その分の敷居が高いからです。忙しい人はできない。

写真を送信するだけなら簡単ですし、最近は携帯の電波が入る場所もあるのでその場でだってできるかもしれません。

この仕組みはフリッカーズポストという名前で紹介されていましたが、
Flickr.comという海外の無料の写真投稿サイトがあるのですが…

そこにたまたま写真をアップロードすることにしていたのかもしれないな、なんて想像しています。

それにしても、グッド・アイディアだと思うのですが。

気軽にできる市民参加型環境保護活動として。

私もおとどしですが、ヤマネを見たのですが、後から研究者の方からブログに
連絡が来ました。

先日行った石丸峠では崩落が起こっている箇所があったのですが、それはGoogleEarthで
チェックすると、写っていましたし、登山道が付け替えられているのも上空写真から
かろうじて判別できました。ただGoogleの写真は衛星写真なので植生などの極め細やかな
情報は得られにくいです。

特に安価にできる定点観測の仕組みとしていいんじゃないかなぁと思える仕組みでした。

環境省とかやったらいいのかなと思います。

皆伐の跡から考察する日本の林業実態

2012-05-06 09:20:14 | 自然と環境のこと
■ 皆伐を見かけました

昨日は、金峰山に行く途中にいくつも皆伐エリアがありました。山梨では結構見るんです…

 こんなことしていて土砂崩れは大丈夫なのか?

実はちょっとした疑問を持っていました。あるとき本で読んだ
「日本は太平洋戦争のため燃料として日本の山をほとんど禿山にしてしまった」
という話です。 なので、戦後50年以上が経ち、日本の森は今戦後直後より豊かである。という話。

それは本当のようです。

森林の量は 森林蓄積という言葉で図られます。

 (1960年代前半の森林蓄積 20億立方メートル) vs (現代の森林蓄積 50億立方メートル

ざっと倍増以上…

こちらに資料があります。間伐が必要な9級(45年程度経った木)がいっぱいってのは植林した後放置したということの裏づけになる事実ですね。

■ 依存体質… 

最近、田舎に越してきて目に付くのは… 

 自分達は”庇護を要する弱者だ”というストーリーを設定することで”庇護(具体的には行政)に依存して”生き延びる戦略…

というものです。なんかよく聞く。そして耳障りだ。天は自ら助けるものを助くという、自助努力が成果に直結する都市部とは価値観が違う。

例えば、どこにでもある古典的な例では、商店街の衰退。商店街の衰退はイ○ンなどの大型ショッピングモールの進出のせいにされていますよね。

(商店街=弱者)vs(大型店=強者) の 構図。 

ところが、事実は起こった順番が逆です。商店街が時代に即したものを売らなくなり価格も消費者の懐に合わせられなくなったので商機が生まれ、大型店がやってきた…。

大型店はむしろ、虐げられた消費者の救済主です。

弱者と自称する側にあるのは努力の不在。他者依存。 

■ 衰退産業ではなくて、意図的に衰退した産業

これは、ありとあらゆる衰退産業に見られる話です。農業にもある程度見られるでしょう。国産が需要をまかなえないから外国産で補填される。それだけのことを脅威という。

衰退産業といえば、その代表のようなものが第一次産業です。林業も含まれます。

衰退した原因は?といえばたぶん事実は単に誰もやりたくなかった、ってだけです。(余談ですが
今、製造業はそのような状態にあり、若い人は求人しても苦労を嫌気して就職しません。なので
早晩に日本の製造業は廃れるでしょう…。)

以前、家具を作る木工作家さんに 国産材では家具はできないのか?とたずねました。すると…「品質が悪くて木工作家レベルの技術を投入するような価値がない」が返事でした。 家具には硬い広葉樹(サクラとかメープル)を使います。

ところが日本の森はそうした木は育っていないか育っていても充分成長した段階にないので、そもそも材がないのだそうです。使いたくても存在しない。だから外国の木を使う。日本で作家モノの高級家具を買うということは外国の森林破壊に加担してしまう危険があるのかも? と聞くと、その作家さんはもちろん気をつけていて、計画的に森林管理をしている信頼のおける場所からしか仕入れしないのだそうです。

とまぁ…

 ・日本の森林は荒れているということの真偽が疑わしいだけでなく、
 ・林業は外材のために衰退した、という説も真偽のほどは疑わしい…


というわけで 日経の記事から重要と思えるFactsを抜き出しました。


《日本の林業 Facts》 

1960年代前半の木材生産量は、6000万立方メートル=現在の3倍以上の水準である。
・当時の森林蓄積 
  20億立方メートル = 20億÷6000万=33.333… つまり 30年余りで日本の全森林を伐り尽くしてしまう(過伐状態)
 
   ↓

 過伐したのはなぜか?

・1970年代後半の日本の材価は欧州の3倍近い(材価が世界的に見て高い
   
    ↓

  過伐した動機は 高価格、つまり”ぼろ儲け”。 
  
  → 日本で林業衰退の最大の理由は 戦後、資源を伐り尽くしてしまったこと。

なんのことはない、単に欲に目がくらんで目先の利益だけを先取りしたってわけですな(失笑)
たしかに田舎にはこんなところにどうしてこんなという立派な御殿が一杯ありますよね。

世界的観点から俯瞰したとき

 ・高価格
 ・ガラパゴス化(時代に取り残され効率化が遅れている)

という2点が観察されるという場合…

うーん、どこかで見てきた光景だな…(笑) 私の経験に寄れば、この2つの事実が示すのは、

  その業界なり産業が既得権産業 

であることですね。

そして、

・高度成長期の木材需要は1億立方メートルにも達した

という事実から、

・仮に外材が入ってこなかったとしたら、森林にはさらに負担がかかって日本の山は荒廃きわまっていただろう

と言うのはおおよそ真実を捉えているといえます。

 → こうした国産材の供給能力の減少を補ったのが外材である。

つまり外国の材に助けられているのが事実であり、決して逆ではない。大型商業施設が
悪者化されるのと同じ構図です。 林業のどこが一体被害者なんだ…?

その証拠として
・世界の木材産業は資源立地が原則であり
・実際、2006年の世界の木材生産量17億立方メートルのうち、輸出された木材は1億3000万立方メートル(つまりたったの7.6%

そんなに世界では木材は流通していないんである。要するに木材みたいに重くて運ぶのが困難なもの、誰も売りたくないのである。それも安く売ってくれている。つまりありがたがるべきで
あって逆ではないのである。

■ 負けを選びたい心理

どうしてサービスの受け手が被害者であるような逆さま認識が起こってしまうのか?

長らく理解できませんでしたが、補助金(という名の施し)をもらって生きるという生きかたはたぶんラクなのです。つまり怠惰と依存心が原因です。 

生活保護者が生活保護から抜け出せないのと同じ心理。外国では軽犯罪を犯しては入所を繰り返す犯罪者も多いそうです。

つまり人類全体が豊かになりすぎ、自分で自分の食い扶持を確保しなくても、さまざまな方法で行政や制度に体面良くすがり生き延びていける。

キツイ言い方をすれば、こじきをすることの精神的敷居が下がったってことですね…(汗)

環境を人質にカネをせびることを英語で「グリーンウォッシュ」というそうです。

昔は三畳一間に数人で寝ても畳であるだけ幸せだったのに今では薄型テレビにエアコンまで備え付けられた部屋に住んでも不幸といってしまえます。誰も異論を挟まない・・・

それは意図的に画策した不幸でもありえます。なぜなら 弱者であると訴えると、あれやこれやと援助の手が延々と降り注ぐのが現代の豊かな時代だからです。 

だから人助けするときはその人が言っていることではなく、やっていることを見るのが重要ですね。
 
そう思うと、行政のご厄介になることを良しとせず、例え雨露がつらくても野外で自立した生活を送る浮浪者のオジサンはなんと立派なことでしょう… 

余談ですが、だから山に行ってテント泊という名の野宿をすべからく人はすべし!と思うのです…(笑)感謝する心と生命力(=勤勉と自立)に活!を入れたほうがいい。

■ 皆伐が示すのは、日本の森の法制度の不備

 ・先進国: 伐採後の放置は「違法伐採 」である。
 ・日本: 皆伐の面積制限に関するきちんとしたルールが存在しない


その結果

・5ヘクタールを超えるような大面積で皆伐
・あとは植林をせず放置ということも珍しくない

つまり何が起こっているか?というと

・大量の補助金を投入して林道整備しその林道を利用して皆伐 

です。つまり補助金は環境にたいして逆効果…(汗)

■ 欲望によって蹂躙された痕跡

うーん、なんだか甲府市の中心街にできたココリを思い浮かべるのですが…税金を大量投入して大失態を演じ、昨年度よりむしろ通行量は減り(^^;)、頑張っている地元商店街はむしろ客が減ってしまって店じまいの速度が加速…

儲かったのはゼネコンだけ…で利用された大義名分は「地域活性化」(失笑)

どこにも責任を取る人はおらず…

なぜか皆伐された森とココリが持つ風情は似ている…欲望によって蹂躙された痕跡…
狩場はスッテンテンです(ーー;)。

放射線が遺伝子を損傷した痕跡

2012-03-24 09:36:27 | 自然と環境のこと
捨て場がない核のゴミ…放射線と言うのは絶対になくなりませんから、やっぱり捨て場がないのは
自明のことなのに…除染の土壌を日本は、オーストラリア中央部の人が住んでいないエリアに
持っていこうとしたのだそうです…アボリジニの聖地なのに。信じられない発想…

原発を再開しても核廃棄物はなんと47都道府県でシェアして保管する案もあるのだそうです…

もうすでに日本はほぼすべてのエリアが原発から160kmの圏内に入っているのに…。

昨日はこの冊子を知人の店で拾いました。アヒンサー(ヨガ用語で非暴力)


放射線は量的な問題か、有・無の問題か、そこのところは科学の議論の余地があるようですが…
もし量ではなくて、有・無の問題だった場合…

過去の放射能汚染が遺伝子を傷つけた後、どのようなことになったのか…ということですが…
(もちろん先天性の奇形には色々別の原因もあるようですが…単なる確率とか)

恐怖を感じる写真がありました。

単眼症の男の子など…(絶句) 

色々なところで色々な議論がありますが、


原発は安全ではない、というのはもう分かりきっていること。原発は高くて一度の失敗が想像を
絶する痛みを伴うことも分かりきっていること。

いくら便利でも、これほど所有の痛みが大きいものなんて
要らないよね…



はあ…(溜息) 私はフクシマからは離れるべきと思います。



壊された川

2012-03-08 16:58:34 | 自然と環境のこと
パタゴニアのウェブサイトに田口康夫さんと言う方のエッセイが載っています。

抜粋 しました。
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壊された川

砂防ダムの問題に取り組みはじめて見えてきたことは、「私たちは自然の摂理を省みず生活範囲を広げてきた」こと。 

昔は危険で誰も住まなかったような場所に住宅や施設が建ちはじめた。
そのようなところは何十年に一度の大雨が降れば土砂崩れや土石流、洪水氾濫などが出る場所だ。
そして災害が起き、死者が出ると、当然のように災害復旧の工事が入る。災害の歴史はこのようなことの繰りかえしだ。一見当たり前のことのように見えるが、じつはかなり矛盾したことをしている。

「砂防工事は土砂災害などから人命や財産を守るために行なわれている」 
この大義明文に誰も疑問を呈してこなかった長い歴史が、反省できない国の仕組みを確立させてしまった。

原発は安全であるという神話を前提にすべての論理がまわっていたのと同じように、砂防=安全という図式ができてしまった。

現在の科学技術では流出してくる土砂量を推定することは困難であるのが実状であり、実際、新たに砂防ダムが造られた場所でも大きな災害が起きている。

平均砂防整備率(あるレベルの土砂流出を制御できる砂防施設の割合)はいまだ20%ほどである。
土石流による危険渓流だけでも18万を越えるが、これらすべてに砂防ダムを造ることはもちろん困難である.ハード面で災害を防ぐことはほとんど不可能ということになってしまう。このことから国民は、土石流や土砂崩れなどが起こることを前提としたソフト面による対策に依存することが現実的であることを理解すべきだと思う。

土地利用がなければ土石流や土砂崩れは、たんなる自然現象で終わるのだ。

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ココから学べること。

その1 ”砂防は安全”神話や原発安全神話は ”赤信号みんなで渡ればみんなで轢き殺される”の愚である。

その2 国に安全対策を求めても、新たな砂防や堤防が作られるだけで安全に対しては無力であり、
    無力ならまだしも血税浪費こそ、およそあらゆる利権と言われる団体が望む方向に違いない。 

その3 国が砂防工事をしたから安全です、と謳う土地はおそらく危険です。

その4 しかるに 土石流流域に住んでいる人は、安全な場所に転居しましょう。

その5 自然の力に人間が勝とうなんてどうかしてる。そうは思えない人は山に行きましょう☆

やっぱり山のススメでした(笑)☆

日本に要るのは自然林であって人工林じゃないんじゃないの?

2012-02-20 19:12:23 | 自然と環境のこと
ちょろ~と鹿問題を検索していたら、もう底なし泥沼にはまりそうな気配でした…。どうしましょう。

先日たずねた友人が環境の仕事とは 

「100年先に自然環境を残す仕事」

と言っていたのが印象的でした。 素晴らしい!やりがいのある仕事です!

じゃ 「今 鹿が増えて困っているのは 100年前の公務員がサボっていたのか?」(^^;)

というのがわたしの素朴な疑問として起こったわけですが…

んまぁあながち間違いではないかもしれません。

鹿が増えてしまった原因として考えられること、それは利益が伸びるには売れる量が増えるか
コスト削減するか二つの方向性しかないのと同じで、二つの理由しかありません。

①より死ななくなった
②より生まれやすくなった

戦後の日本の人口増はベビーブームだけでなく、医療の高度化で死ななくなったのも一因ですよね。

鹿の鹿口増(?)だって同じこと。

しかし、鹿が死ななくなったのは、動物愛護?から見る限り、まぁ鹿天国ってわけで鹿は愛護されている
方向性なわけですねぇ。 今は鹿全盛期ナノダ。

で 鹿君の天敵とは言えば、ニホンオオカミ君。 ニホンオオカミ君は今からおよそ100 年前
1905年に絶滅したらしい。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%82%AA%E3%82%AA%E3%82%AB%E3%83%9F

うーん。100年前のお役人が仕事をサボったからっていうのはあながち間違いではないのかも?(--;)

平野虎丸氏のサイトを今日はずっと読んでいましたが、日本の行政では自然保護というのは木を植える
ことらしい。植林、つまりそれって林業ではないか? 

えっっ???

自然保護って人の手をいれないことだよね? っていわゆる世界自然遺産ってそういう話だったのでは?

なんだかものすごーく基本的なところでボディーブローを喰らったような、え?そこから?な
話のような気がする日本の森林保護の世界なのでした…

確かにこんな山奥にまでというところにだって植林されていますもんね。山梨ではカラマツですが、
上高地のカラマツだって植林だよね。

要するに花粉症は厚生労働省の管轄ではなく、林野庁の管轄だね(笑)
ちゃんと負の遺産も回収してほしいデッス!

日本では林業は廃れて誰も間伐する人が無い森は放置されています。 

それなら森を自然に帰してあげたらいいのでは?どうせ誰も手をいれないのならば、原野に戻してしまうのがいいのかも? それは問題ではなく、むしろ豊かさを回復していくことなのかも?

針葉樹→広葉樹な森を見たいものです。 

花粉症もツライですし、杉とかヒノキとか、もう植えなくていいですから~!!

ここには 林業の経緯が。これが客観的事実化はともかくへぇと参考になります。
安曇野の自然が美しいサイト。しれっと林業バブルらしい。

山梨県の植林のこと。

戦わずして負ける山の環境問題 

2012-02-20 10:30:24 | 自然と環境のこと
わたしたち夫婦は、ごく最近 登山を始めた登山の新参者です。

「ヨセミテ国立公園は行ったことあるけど、上高地は行ったことありません」

というような人たちだったわけですね(^^;) 要するに。(上高地はついに去年行きました)

そういう新参者にとってかなり不思議なのは・・・

★ ここって山麓だけど合成の石鹸つかっていいの!? ヨセミテではNGだったけど?

っとか

★ ここってお花摘みとか雉打ち(おトイレ)OKなの?! ええ~!! 

とか…(汗) 

日本の山は海外の山よりうんと自由だ。という事実です。

わたしたち夫婦がヨセミテに行ったのは2005年の10月だ。もう7年も前になる。

しかし、ヨセミテ国立公園に行くにはツアー会社を通じてバスツアーに参加せざるを得ず
(往復バスと宿泊費が込み)実質入山数を規制しているに等しい。

わたしがサンフランシスコで生活していた95年当時も、一般市民の間ではヨセミテは
今日行こう!と思い立って明日行けるような場所ではなく、最低半年先から予約をとったり、その日の人気の度合いによっては抽選になる世界で、予約を取ったものの、行けなくなったが
キャンセルするにはもったいなさ過ぎるというので、「行かない?」という話が友人伝いに
一度回ってきたくらいだった。ベイエリア住人にとっても狭き門。
そして非常に高額だ。数百ドルがかかる。回ってきたときは高すぎて貧乏学生には払えなかったのだ。
だから夫と05年にリベンジしたわけ。世界遺産っていうのはそれくらいのパワーをかけて
いくところではないだろうか?

ヨセミテはキャンプもできるがさまざまに守らなくてはならないルールがあったらしいと記憶している。
(わたしはキャンプではなくロッジ組みなので詳細は知らないが同居していた家族が毎年キャンプに。)

そして、定かではない記憶だが、ヨセミテ国立公園内ではガイドツアーは無料だったような
気がする。 

ところが今日本の国立公園は
・ほとんどがどこからどこまでが国立公園なのかもあいまい
  であれば(--;)
・誰でも入れるわけ
  だし(^^)
・今日思い立って明日行ける。
・バスでしかアクセスができないということがあってもたかだか千円とかだし。
  そしてなにより・・・・
・半年前からのブッキング(予約)など不要だ。抽選もない。

つまるところ、まぁ近所のウラヤマと同じだ。

■ 悪しき ”結果平等主義”

日本の国土は狭い。 だから、山間地や国立公園のそばにも人が住んでいる。

そして、なぜだかそういう場所に住んでいるほど、”いわゆる”環境意識は低い。

(ここで いわゆる、をつけたのは例えば石鹸運動などをするオバサンたちが必ずしも環境保護に
関心があるわけでも主張が的を得ているわけでもなく、基本的には自分に飛んでくる火の粉を
払いたい、という利己的動機だったりするわけで環境保護団体でありさえすればすべてが善と
いうわけではないことをいいたいわけなのだ。
ただ、例えば自然食を扱う店など都会のほうが断然多い。そしてそういう店などで安全な食への
意識を高めることが、放射能汚染への関心だったり、自然農法への感心だったりと人間と自然が
いかに共存していくのか?という問いへの関心の入り口であることは間違いない。)

例えば、サンフランシスコから6時間もバスに揺られないとたどり着けない、ヨセミテ。
ヨセミテバグというロッジでは、洗剤などは指定のもの限定だった。
当然生分解性が高く、自然にローインパクトなもの。(ドクターブローナーのマジックソープ、が使われていた。
ちなみにこの製品がヨセミテで使われていること自体がこの製品の売りである。)

ところが、日本の秘湯といわれる場所で、環境に配慮した製品を使っているのは見たことがない
良いとこ、花王の牛乳石鹸どまりだ。

わたしは山のいで湯では石鹸は使わない。下水道がないのがわかっているからだ。無論体はきれいにしてから湯に漬かるけれど、一日や2日洗剤類を使わなくても人間はくさくならない。家に帰ってから好きな洗剤でゴシゴシすればいいことだ。

余談だけど、洗浄剤は、下水が普及している市街地で生分解性を気にしても仕方ない。日本の下水処理は
非常に高度で世界レベルで見ても素晴らしい。問題は処理されずに垂れ流す地域だ。つまり上流域。
ところが環境意識が強いのは下流域にある都会の人のほうだ。

上流域=山間部という、自然環境においては特権的な場所に住む人々もそうした国立公園レベルの自然環境の豊かな場所に住むことを特権とは考えず、東京や大阪の市街地と同じレベルの生活を求める(あるいは自分たちは弱者でその権利があると思っている)。

自由意志でそこに住んでいるはずなのに、なぜか、そこにいることをハンデである、弱者であり庇護が必要、と考えている。 だから、100人しか住んでいなくても道路は必要なのだ!
(この際、最寄の都市部(山梨で言えば甲府)では、空家率25%である事実は無視される。)

やはり 人間様 vs 自然様では、人間様が偉いことには変わりない。

■ アリゾナの人の自慢

集住しないことは、人口密度の高い日本でこそかなり贅沢なことだ。 

先日アリゾナから来た人にスタバで出会った。誇らしげに笑いながら、

「我が家は隣に会うまでに7マイル(約10km)あるのよ!」

なんて自慢げだった。「ここは大都会よ」。 日本にはおとなりさんまで10kmの自然暮らしなんて
北海道へでもいかないことには、あるいは山小屋にでも住まないことには、ありえない。

少なくとも、町役場があり、駐在所がある日本の山間地などは該当しない。

アリゾナ人にとっては、下水や道路、設備面で自分の家が不備なのは、国のせいでも、行政のせいでもない。

自分が選んだ自然暮らし、自由選択の結果なのだ。不便?そんなの当然ジャン、それが良くて越してきたんだから!と笑いとばす。

「馬二頭と暮らしているの、今度遊びに来なさい」

山にも町と同じ利便性を求めるのは、日本人の悪しき、結果平等主義なのではないだろうか?

■ 門を狭くしておいて人が入ってこないと愚痴をこぼす人たち

全国の鹿の食害問題。 鹿が増えすぎて大変ならしい。 

じゃどのくらい大変なのか?どのように大変なのか?いかに鹿が増え、その原因なり要因なりは
どのように考えられるのか?いつから?どこで?どのくらい?

それはPRも説明もされていない。

例えば、環境省のHPへアクセスし、そこに鹿というキーワードを入れる。するとヒットするのは
鹿さん、まぁたいへん!”だ。

サーチしてみてほしい。

これが、登山などがきっかけで「どうも鹿が増えて大変ならしいがどういう状況なのだろう」と思った
一般市民にとっての現実だ。素朴な疑問の解決に当たって役立たずなのは言うまでもない。

登山者にとっては鹿の食害から野生植物を保護する柵を目にすることは珍しいことではない。

ところが、その柵がどの範囲でどのような植物を守り、誰が設置し、というようなことが同時に
掲載してあることはほとんどない。いまどき、その辺のマンションの工事現場だって施工者と
責任者、工事期間や何がいつごろできるのか掲示してあるのにだ。足を止めてみる人なんていないから
と言う理由で掲載されていない。ならなんでまだ住み始めて間もないわたしたち夫婦は地元の○川組なんて建設会社の名前を知っているのだろう(笑)? 

そう、山で環境保護を訴える人たちは戦わずして負けているのだ。

高山植物が盗掘されて困っているという。しかし、いかに自然が以前と変わってしまったか、それを
訴える資料が登山する人誰にでも目に付くところに掲げてあるのは一向に見ない。

これで努力しているのにもかかわらず市民の意識が低い? 笑止千万。

■ 情報過多 vs 情報隠微

都会では、情報はこちらが要らなくても入ってくる。電車のつり革広告なんて見たくもなくても入ってきて
ああ冬のバーゲンは今年は早いなと分かる。何々、ユニクロが移転してオープンか。はいはい。

都会の生活者には、毎日毎日ウンザリする満員の通勤電車に揺られて会社と家を往復するような日々が
日常だ。そういう人たちが、何百キロ離れた山間地の鹿が増えたかどうかを気にかけるほうがおかしい。

都会生活者は当事者意識を持って日経を読む。ニュースで、電車で、町の中の広告でウンザリするほどの
情報過多に晒されながらも、日経は欠かせないのはゲームの一部だからだ。わたしなんか一時は
WSJを会社で読んでいた。

都会の人は、山間部に住む人は世界金融の異様さについて、あるいは都会の異様な通勤状況や住環境の悪化について、関心がない、ひどいっ!と山の住人を攻めることは無い。その上、セブンイレブンの出勤時間で肉体的に困難な状況に置かれていても、ボランティアで雪下ろしに出かけていったりする。 が、逆は聞かない。地下鉄の通路でひれ伏しているホームレスに千円を握らせてしまったことがある人はまれだ。山の鳥には餌付けするのにだ。どちらも食べなければ死んでしまう。

山の自然環境の問題について都会人が興味を持たないといって責める。それどころか、自分たちが知っている知識も「わたしには文才がありませんから」などといって公表しない。

今グーグル で (鹿)× (食害)で検索するとヒットするのは、1ページ目には個人のブログしか
でてこない。

つまりお役人は誰も鹿の食害について国民に分かりやすく解説しようなんて気持ちを持った人はいないってことだ。いったい金をもらって何をやっているんだ?啓蒙運動?啓発運動? 問題の概説の一看板もさえもないのに?その気になれば無料で掲載できるウェブ情報さえないのに?

ありとあらゆる世の中の問題には、当事者意識を持てる人が当事者意識をもって取り組むしかない。
他の人の当事者意識が足りないことは、問題の一部ではない。

マンパワーなり資金なり、時間なりのリソースが不足なら不足だと知らせるべきだ。不足の原因を都会人の無関心、などに責任転嫁するのは、戦わずに負けているだけのことだ。

ヨセミテを見るがいい。一度でもヨセミテに行けばマジックソープが売れてしまうではないか(笑)

それに、そもそも鹿が増えるのは鹿対策に予算がつかないせいではない。また無関心のせいでもない。
生態系が壊れたのは、登山者のせいでもない。

たとえ、わたしのようにふとしたきっかけから関心を持った人にとっても、山の世界は 既得権益化 していることは、情報が隠微されていることから伺える。実情を知るもの同士、知らない人を小ばかにして楽しんでいるようにも見える。自らは説明努力を怠っているにもかかわらずだ。

■ 情報は開示されていない。

ちなみにわたしは○○経済と言う市場調査会社で働いた経験があり、たぶん一般の普通の人より
検索術や情報収集術には長けている。 ところがそんな人にも、いったいいつごろから鹿がどんな
原因で増え、その害はどのようなもので、どういう状況に現在がいたるのか、そんな基本的なことを
知るのはまったく容易ではない。

先日 八ヶ岳の赤岳に登った。「チョウ類の捕獲を禁ず」と一言掲示されていた。興味を持ったので
「どのような事情でこのような看板があるのか」「この山域でのチョウ類の実情はどうなのか」
県にといわせてみた。 

結果はこのようなものだ。
ーーーーーーーーーー全文ーーーーーーーーーーー
山梨県レッドデータブック(2005年)には、チョウ類は30種が掲載されています。そのうち、ミヤマシロチョウが県の天然記念物に指定されており、捕獲が規制されています。
なお、レッドデーターブック掲載種のリストについては、「山梨県トップページ」→「まちづくり・環境」→「自然保護・地球温暖化防止」→「自然保護・森林保全」→「動植物保護」→「山梨県Red Date Book(平成17年6月公開)」にデータがあります。

八ヶ岳山麓に生息するチョウ類について、詳細に説明してあるウェブサイトについては、みどり自然課では把握しておりませんが、北杜市には、「オオムラサキセンター」という施設があり、HPは
http://oomurasaki.net/about.php です。参考にして下さい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

問題その1.枕詞(あいさつ)がない → いやいや回答しているという意思表示だ
問題その2.レッドブックデータでは絶滅危惧のチョウルイの名前しか出ていない。説明の無い学術名の
      リストが一般市民にどんな意味を持つのだ?
問題その3.把握しておりませんとはつまり仕事をしておりませんというのと同じ意味である・・・

というわけで、ミヤマシロチョウがこの2005年と古いレッドブックデータ掲載の種の中では特別
扱いと言うことくらいしか収穫がなかったわけだ。

ところで植物学博士と言うくらい生物に詳しい友人が居るので同じ質問を投げてみた。

ーーーーーーーーーーーーー抜粋ーーーーーーーーーーーーーーーー
チョウの件ですが、珍しいチョウは一部の愛好家、業者が乱獲してます。絶滅危
惧種が多いようなので、そうでないものも含めて生態系全体 として保護する必
要があるでしょう。高山植物の盗掘と同じ話ですね。

厳しい自然にしかいない生物は、他の生物との競争に弱いものが多く、やむを得
ず強い生物が来ない環境条件の悪いところで生き延びてきた ものです。だから
勢いその数は少ないし、ちょっとした環境変化で絶滅してしまう危険があります。

大雪山にしかいないウスバキチョウはコマクサしか食べません。そんなにたくさ
ん生えてるわけでもないコマクサに産卵して、足掛け3年で 成虫になるとなる
と、いてくれるだけで感謝という感じになります。

一般の人が山に来てまで虫取りすることはまずないし、実際このリストにある
チョウにお目にかかることも滅多にないと思います。自分でも 図鑑でしか見た
ことのないものが大半です。採集はだめだけど、写真に撮るのは構わないので、
追っかけまわさない程度で撮ってみれば。意外とレアものだったりして。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

どうでしょう?この分かりやすさの差。これは情熱の差によるとしか思えません。

分かりにくくしておいてわかってくれないと言う。

ようするに門を狭くしておいて、人が入ってこないと愚痴っているだけなのだ。

”熊森vs隣のツキノワグマ”と同じメンタリティが垣間見れる。つまり、うまく行かないのは人のせい。

それも遠くに居すぎて反論しない、できない人のせい。最初から敗者のメンタリティです。

■ ある山のトイレのチラシ

もう5年も6年も前に行方不明になったと思しき、登山者の遺体発見を訴えるチラシ…
今も登山者用トイレの壁に貼ってある。 

この山に登って、このチラシを素通りする人はたぶん少ない。

ところが鹿が増えて問題だといっているその課題については、そこの関係者と飲み会でもしない
限り、問題については素通りだ。95%は問題意識を持たないで帰路に着く。

いったいどこに努力の後が見えるのだろうか?

まぁ色々考えると、そこには問題が解決しないほうがむしろ居心地が良い、という力学が
働いているのではないかと思ったりもする(←想像に過ぎない)

あるいは、欠如しているのは、

Attention(注意)→ Interest(関心)→ Desire(欲求)→ Memory(記憶)→ Action(行動)

という通称アイドマの法則といわれるビジネス理論さえ知らない、という手法的常識の欠如なのだろうか?

だとしたら、担当者をグロービスかHBSにでも送り出すべきなのだろうか?

どちらにしても、行方不明者のチラシはあるべき場所にある、と思う。

こちらは 非常に分かりやすい個人のブログ

雨の偏在

2011-09-21 16:29:29 | 自然と環境のこと
今日はすごい雨ですね。私は雨の日が好きなので、朝から散歩してきました☆
13時のレッスンを終わると外は土砂降りの雨。

降り続く雨を見ていると、町がすっかりきれいに洗い流されていくかのようです。

■ 局在化と平凡のありがたさ

名古屋や紀伊半島はゲリラ豪雨で大変ですね。

普段の雨は、恵みの雨ですが、同じ雨であっても、局在化するとゲリラ豪雨となって災害となる。 極端であることは、それだけ作用が凄まじいですね。

しかし、資源の局在化は一方で役に立つことでもあります。石油や天然ガス、鉱石など局在化しているからこそ、資源として利用可能になっています。どんな資源も海水に垂らした一滴のインクのように薄まってしまっては利用できません。

放射線だって薄まってしまえば、自然界に在るもの・・・偏在により有害化しますが、対象自体は同じ。 

薄ければ無害なのものも、濃ければ毒となるのは、塩や砂糖も同じですね。科学の分野ではありふれた考え方です。

人間界において考えると、富める者がより富み、貧しい者がより貧しくなるのが資本主義の働きの一つですが、”偏在により作用が極端化する”ということを考えると行きすぎた貧困も、行きすぎた富も、その極端さのために不幸の源となってしまうと言えるのかも知れませんね。

現実に即して考えてみても、お金持ちにあまり幸せな人はいませんし、食べるにも困るほど貧乏すぎても幸せになれない・・・。

そうなると、一番幸せなのは、ふつーの私達庶民(^^)?!

大雨の恵みというのは、普段の適度な雨をありがたいと再認識させることにあるのかもしれませんね。 普段、忘れがちですが、平凡であることはそれだけで幸せなことです。

そして放置すれば極端に走る資本主義の社会では、偏在を是正する仕組みが幸福を増大化させる鍵です。競争の激化ではなく、分かち合いが。

■ Hard to Please

局在という点ひとつをとっても、資源の局在は良いこと、雨の局在は悪いこと。でも実際、自然はあるがままで善悪を分けるのは、人間の都合や思惑です。 

資源は利用したいから局在することが人間にとって善、雨はそこに住む人がいるから降り過ぎると悪、というワケです。

資源を利用したいという人間側の目論見がなければ資源の偏在によって、資源国、非資源国で格差が生まれることもなく、大雨が降ってもそこに住む人がいなければ、土砂ダムが決壊しようが誰も困らない。
 
人間の都合が幸不幸を分けているのです。

降り注ぐ雨を見ているとそんなことを教えられますね。

普段は恵みの雨なのにねぇ。 たくさんはイラナイ・・・!

でも、そうした自己都合の多い私達人間を、遠くから見ている存在がもしあったら、「もう注文多いなぁ!」そんな感じかもしれませんねぇ。

人間というのは”Hard to please”、気難しい相手というワケなのかもしれません。
少なすぎても文句を言うし、多すぎても文句を言う。そんな相手。

逆に私達の側は、自分達の都合が目の前の幸・不幸を作り出している、ということを覚えておくべきなのかもしれません。

考えてみれば、日本の平野の大部分は沖積平野…つまり川の流れ道に堆積した土砂がつくった平野なのです。 流れ道に好んで住んでいるのは人間の側。

普段何事もなく住めていることこそが奇跡の連続。 

たまの大雨の日に自然がそのもともとの力を私達に見せ付けたからと言って、何も驚くべきことではないのかもしれません。

何しろそもそもこの大地を作り出したのは浸食作用のなせる技なのですから。そして世界の中でも日本は土壌の侵食や造山活動である隆起の激しいエリアです。南アルプスなんてまだ毎年4センチも隆起しているらしいんですから。

そうした場所にありながら、太陽の恵み・水の恵みのバランスが取れ、四季がある日本は世界の中では非常に恵まれた自然環境にあります。

自然が必要なのは人間の側であって、自然に取っては人間は必要ではない…

そんなことを思い起こさせる雨です。自然には人間どう転んでも勝てませんね。









極相林をゴルフ場にしてしまう思想

2011-07-25 11:48:28 | 自然と環境のこと
こないだネットを見ていたら、

”極相林はCo2吸収量が多くない。だから地球温暖化を防ぐには極相林を伐採すべし。” 

という主張(?)があることを知りました(汗)。 

しかも、この主張が、”林野庁”の人が発した主張ということでした。 一般の人は、まさか日本の頭脳にこんな非常識な人が?と思うのかもしれませんが、私も九州にいて商社で仕事をしていたときに省庁の人とはお付き合いがあり、・・・残念ながら超納得です・・・目撃したのです、そういう人々を。

極相林というのはクライマックスと呼ばれ、遷移の最終段階にある森です。つまり、針葉樹の原生林です。平たく言えば、北八ヶ岳の森のような、もののけの森です。

そういう森ではCo2吸収量と創出量はつりあっています。ある意味当然です。代謝がつりあっているから、それ以上遷移が進まないわけですからね。

ではCo2を一杯吸収しているのはどんな森かというと。。。裸地に雑草が生え、その雑草が伸びても伸びても(つまり光合成をしてもしても)すぐに刈り込まれて、もっと伸びざるを得ない・・・ つまりゴルフ場の芝なのだそうです。 

雑草の側から見れば、生えても生えても次の遷移に行くことができないわけですから、えんえんと光合成し続けなくてはならない・・・。だからCo2吸収量はたくさん、なワケです。 

この考え方、ずばり・・・人間中心、なのです。 人間>自然。 

というのも、そもそも、Co2を大量に排出しすぎているのは人間側なのですから、極相林を切り倒す前に人間社会が極相林並に、排出量と創出量をつりあわせないといけない。

ところが人間側はつりあうことを考えずにCo2を吸収する機能だけに着目して森を破壊しても良い、というのは典型的な単視眼です。

こうした考えが頭の良いはずのお役所、省庁、国家公務員にはびこるわけは、頭が良く、成果主義で目標達成意識が強いからです。 

つまり、目標を達せいすることしか考えが行かない・・・

CO2吸収量が少ないなら多いのに変えればいいじゃん。

電気足りない?→ もっと作ればいいじゃん。 

ちょっとまった、おかしいな?と思えないのは、自分のほうが間違っているかも?っていう”謙虚”さがないから・・・。

確かに間違っていませんよ、極相林はCo2を吸収しない。でも、各論正解、総論 大間違い。 

なぜなら、例えば目先のCo2を貴重な原生林を伐採することで吸収しても、人間活動が拡大し続ければ早晩極相林をゴルフ場にする余地はゼロになり、全部のゴルフ場が吸収してくれるより多いCo2が出ることになります。 問題の先延ばしにしかならない。根本解決にはならない。

そうなってしまうのは、より大きな視野に欠いているからです。

近視ってのいうのはホント恐ろしいものです。

原発も近視の最たるもの…何十年分も廃棄物をどうするか?誰も生きて責任を
とる人がいないからこそできる原発です。



研究者という幸福なる怠慢 - となりのツキノワグマ2

2011-02-14 15:20:34 | 自然と環境のこと
先日は、アニマルトラッキングならぬ、糞観察会に行ってきました。 動物のウンチとにらめっこ(笑)

そこで思ったことですが・・・ 今日はコメントをもらい、改めて取り上げる気になりました。

私たちをその日指導してくれた指導者の方たちはもちろん、すばらしく、知識も豊富で、色々と親切に教えてくださり、とっても助かりました。何しろ楽しかったし。

これでもう、イノシシのウンチを 熊だよ、なんてそのへんの登山者に浅い知識で言われて、ビビることはないでしょう(笑)

研究者達は、さすがだ、と思いましたが、(ま、シロート相手に当然ですよね?)

驚くべきだったのは、この企画が市民に知識をつけてもらうという目的合致としてみるならば、散々ということです。

ま、行政の企画ですから採算などないのでいいのでしょうが・・・。 ただこれは一般社会では、一人前とは言えません。そこのところを取り上げてみたいと思います。

■ 目的志向 vs プロセス志向

参加者10名の予定が、たった二組、6名。1組は家族なので乳飲み子つきでしたから、6人と言っても大人4人。

こうしたイベントの主催目的としてはどうでしょうか? 成功?失敗? まぁ言わずもがなですね。

マーケティング的にも、合目的的にも失敗。

じゃ、なぜこんなに人がこないのか?人気がないのか?それとも誰にも知られていないのか? 

いや、ビジネスでないのだし、とか、一般人がこういう自然観察に興味がないから、と人のせいにしても結構ですよ、実際、ないのかもしれませんし・・・。今年の登山人口300万人と言われている人たちの1%が興味を持っても1万人ですけどね・・・(汗)

色々なケースが考えられるはずで、それぞれに手を打ち可能性をつぶしていくのが、つまり論理志向というもの。仮説と検証を繰り返さないと分かりません。


■ 研究者と言う人種はマーケッターではないという当たり前の事実

研究者という人種の生態学、基本、かれらはひっそり生息する動物なのです(笑)

 ここでちょっと断っておくと私は実は大学時代が長く7年。そのうち6年は大学図書 館で司書をしており、紀要や専門書と格闘していたので、まあ文系理系の違いはあれど、大学あたりにいる 人種とは慣れっこなわけです。
 最初の職場も研究所とお隣でしたし。メカ系ですけど。

 まぁこんな必要のないことを断っておくのは、日本では、”意見を言っていい
 人”と”イケナイ人がいる”と 多くの人が当然のように考えているからなんです ね。

 違いますよ、封建時代はとっくに終わって時代はデモクラシーですよ(笑)?
 誰だって自分の意見は言っていいのです。 
 むしろ、意見を言わなさ過ぎることが問題です。 

 独断と偏見といいますが、完全な客観視などアリエマセン。そう思っている人は、
 哲学か基本的な論理学の本でも一読したほうがいいかもしれません。 

さて、研究者という人種ですが、私なりの理解では、彼らは動物の生態にしろ、どんな対象にしろ、それを調べることでワクワク、楽しくやっている、愛すべき絶滅危惧種なのです、基本。 つまり、探求すること、そのプロセス自体が目的。

なんでそんなこと知りたいの、って言っても”知りたいから知りたい”わけで仕方がないのです。

そういう人は食べたり飲んだり、金持ちになったり、ということには興味がないだけでなく、正直、他人にも興味がなかったりします。
(こんなことを書けてしまうのは実際私もその一人だからなのです…)

■ 狭い門 vs 広い門 

いやプロセスを大事にすることは素晴らしいですよ。最近はプロセスを大事にすることの偉大さを噛み締めています(^^)。

でも、研究者達のその自己充足は、決定的な欠陥につながるのです・・・それは他の人のニーズの充足に広がりを持たないこと、つまり”他者への無関心”なのです。

さらにその無関心ゆえ、彼らが大抵の場合は、世間的には役立たないということに結果つながることです・・・(汗)社会貢献二の次、ってことですね。

いやこれはいいんですよ。目先の、役に立つことだけを研究していたんでは、世界は狭くなってしまいますし、逆に役立たないことも研究してもらうためには、研究そのものが好き!という人種がいなくては困る。

役に立たないことにやりがいを見出すのは大変困難なことともいえますから、大変ありがたいわけですし、誰かのために、人に知らせるために、研究をしよう、と思っているわけではないのですから、その発生から考えると研究結果が役にたたないのが当然といえば、当然です。でしょう? 

その結果が、現実社会で、どう現れるかと言えば、発光ダイオードは発明できても、iPodは出てこない、というようなことでしょう。

つまり、研究論文は一杯書かれても、『となりのツキノワグマ』なんてしゃれたネーミングのつい手に取りたくなるような本は出せない、ということなのです。

発想の起点が違うんですね。

研究がしたい!そのためには研究者になろう! 研究成果は、そういう因果関係の結果なのだなぁ、私はイベントで改めてそう思ったわけなんですね(笑)

市民に知識を知ってもらうイベントなんてものは、基本的に研究の片手間に仕方なく行うもの。これはどんなにいい人でもその人が研究者と自己定義しているかぎり仕方がないことです。大学の先生にとって授業は仕方なくやるノルマ、でしょう。同じです。

発想の起点が、誰かの役に立とう!たくさんの人に手にとって見てもらえる素晴らしい写真を撮ってあげよう!と思っている人に、相手に興味を持ってもらえるか?とか、良く分かった!と言ってもらえるか?相手が知りたい、見たいことを情報伝達したか?とかいう点で勝負したとき、負けるのは仕方ありませんよね。

当たり前ですが、目的が違うのです。

文学研究にしろ、自然研究にしろ、物理学の研究にしろ、研究というものは、研究のための研究に陥る、というリスクは否めません。

研究者という人種は思索者であり、研究が好きなのです。 研究の結果がどうなるか?という問題ではなく、研究そのものに魅了されているのです。
原爆が広島・長崎に落とされると知っていればアインシュタインは原子力を研究しなかったと言っています。それくらい無邪気なのですよね。

”ツキノワグマ”の例で行くと、そういう研究に魅了されている人たちにとっては、世の中の人が”自然の真実の姿を見たい!”と思っていたと仮定して、そのニーズに答えることが自分の使命とは、ちょっと発想が遠すぎて思えないのではないでしょうか。

結局、研究のための研究では、どうやって熊の”写真”を撮ろうか?という着想はできないのです。彼らが使命感を感じているのは、自分の研究であり、そして、良心的な人であれば、自然保護なのです。

自然保護という方向へ興味が進化・深化すると、何が保護なのか?正解は、トテツもなく難しくなります。そりゃそうです。
正解を知ろうと言うのは、人間でありながら神の代わりをしようという行為と限りなく近いからなのです・・・

良心的な人は、難しくなった結果、正解が分からないので、一歩も前に進めない、ということに陥るわけなのです。

正解が分からないのですから、発言するわけにも行きません。 「わからないということを発言する」みたいなことに陥ります。分からないことが分かったっていう論文は世の中多いのです・・・(汗)

そういう発想の中では、研究論文や本は書かないといけない決まりなので、書くのですが、出来上がった小難しい本や論文を読むか読まないかは、相手の問題であって自分の問題ではない、となります・・・。 

一方、写真が取りたい人は、写真が取れちゃった結果”いっぱい映ってる!”と言っているだけです。一杯映っているのは副産物であって、それは色々な人に、森の動物の生態を知ってもらいたい!と思った結果なのです。そのとき自分に何ができるか?というときたまたまカメラ技術があったのかもしれません。


■ 広い門 vs 狭い門

卑近な例でいくと、一般の人はiPodをありがたがり、発光ダイオードは懐中電灯になってああ、そういえばってな具合です。

初期のiPodに使われている技術なんて驚くほど単純で、携帯開発していた人なんかあっけに取られるほどです…ほとんど技術的にはファイル操作だけ。技術は易しくとも役に立っているでしょう。

熊の例でいくと、森の熊の生態を知りたい人にとって役に立つのは、熊写真集で、どっかの論文ではない。というようなことになります。

例えば、最近読んでいる 日本の森林/多様性の生物学シリーズ ③ 『獣の森』 とっても面白いんですが、万人にはオススメできません・・・。何しろ、市立図書館にはありません。県立図書館。おまけに2004年発行・・・大きな図を掴むにはいいが、今の生態を知るには古すぎる。

専門書とまでは行かないですが一般書とはとても言えず、読みやすさ、分かりやすさが小学校6年生にも読めることを条件に書かれる新聞並とはとてもいえません。

つまり、門を狭くしておいて、人が入ってこないって言っているようなことになるんですね。これが”研究”を発想の起点にする人たちの限界です。

一方、写真に移っている熊はまぎれもない現実。直近。どちらが分かりやすいのか?どちらが現実なのか?

増えているか減っているか、は研究者の関心であり、課題です。カメラマンのでも、一般人のでもありません・・・

そもそも、一般人にとっては、熊は増えているか、減っているか?そんなに不毛な議論に巻き込まれるのはまっぴらゴメンです。

そういう議論をやるのにカネをもらっているのが研究者なのだから、税金をもらっているのはソチラ、払っているのはコチラ(笑) 

ただし、カネは払っているんですから、もっとちゃんと仕事しろ!と言う権利はあるでしょう(笑)?

■ 仮説思考が前提

ーーーーーーーー引用ーーーーーーーーーー
北海道から九州まで、植生・傾斜・土壌・生態系が異なります。一部の特定の場所でデータは役に立ちません。
一年に何頭の熊が捕殺されているか知っていますか?一年に何頭の熊が産まれるか正確なデータがあると思いますか?
ーーーーーーーー引用ーーーーーーーーーー

つまり・・・要約すると

「自然という問題は、複雑すぎて、熊の数が減っているか、増えているか、わかりません・・・」

”ちょっと待ってください、調べています・・・” 

で、何年たっとんちゅーねん!ってな、状況なわけなのですよね・・・(汗)

20年前はウサギ、今は鹿、どんな動物も増えたり減ったりしていますが、自然はそこにあり続けます。

こんな人は、自然は偉大だなぁと嘆息しているうちに人間のほうが世代交代してしまいます・・・。

自然にとっては人間は必要ないのです。我々人間にとって自然が必要です。そこのところを間違えているのかもしれません。

最初からライフタイム内にやり終わることが、不可能なことに取り組んでいるのですから、”正確な”データを追っかけているかぎり一生かけても結論は出ないだけでなく、数年で生態系は変わってゆき、数字が出た頃には、その数字は陳腐化して役に立たないでしょう・・・。

おそらく、一般的にこういう思考の人に必要なのはむしろビジネススクールにでも行って論理思考を学ぶことでしょう。 

分からない中でどう判断するか?が人間にできるベストショットなのですから。

そんな遅々として進まない状況の中で、奇特な誰かが「ほら熊が写真にこんなに写っていますよ!」と指摘してくれたのであれば・・・・

研究者でも研究者でなくても、知識が豊富な者としては、恥ずかしさで顔を赤らめる事態であり、同じ赤らめるでも、”素人はでしゃばるな!”と怒って赤らめている場合ではありません・・・よね?

さて・・・ということなので、今日いただいたコメントですが、結局、この方は私の文章が自由で奔放なのがお気に召さないということなのです。

そもそも、私が本を2冊しか読んでいないという仮説は、適当に検索するだけで、検証できたはずですが検証されたご様子はないようですし。

単なる気に食わん、というイチャモン付け、なワケなのですが、それでもココに書いておこうと思ったのは研究者は研究が目的であってそれが社会に生かされるという社会の側からの期待は、よく考えてみればお門違いな期待なのだ、ということなのです。

社会に役立つものは、役立ちたいと思っている人から出てくるのです。

もし素晴らしい知識をお持ちなら、それを自分だけの宝とせず、人と分け合う心をお持ちになるべきです。人のブログに文句つける暇があったら、自分の宝を出すほうがいいですよ。

■ 怠慢か保身か?

私が思うには、研究者達は怠慢です。一介のカメラマンにこんなにあざやかな写真が取れるのならば、他の動物でだってできたはずです。(もちろん、宮崎さんは一介どころか、タダモノでなさそうなのですが・・・^^;
税金で食っていないという意味で・・・)

熊が増えているか減っているのか?の議論の前に、このような斬新な手法を税金で食わせてもらっているわけでもないのに自腹で独自開発された方に敬意を払い、この手法を今後の研修の進展をスピードアップさせるのに使わせてもらえないか、と謙虚に考えるべきでしょう。

そうしないのは、研究のための研究をやり続けることが一番楽な道だからではないでしょうか?

門を狭くしておいて人が入ってこないと言っている現状は、人が入ってこないほうがいいから、門を狭くしているのだ、と別の観点を与えることもできます。 
別に研究者に限らず、公僕というのはその傾向があります。また、仕事を他の人にはわかりにくいようにして囲い込むエンジニアだって同じです。

隠された情報には利権がある…大学図書館の司書だって言ってしまえばこっそり専門書は誰の手に渡る前に読み放題なのであり、既得権であることは否めません(笑)

むろん、これはこうも考えられる、という話です。

もし、そうであれば、その原因として考えられるのは、保身という心理要因ではないか?というのが私の見立てです(ここんとこは、自分自身が大学図書館に勤めた経験からの意見です)

無能であること、弱者であること、は日本においては頻繁にある種の特権になることがあるのです・・・





 

冬の森で糞観察会

2011-02-06 15:51:02 | 自然と環境のこと
今日は『冬の森でアニマルトラッキング』というイベントが櫛形山であったので、
参加してきました♪

定員10名なのですが、今日はなんとたったの2組、子供づれの家族が総勢4人と私達夫婦の2人だけなのでした。 地元の人はあまり興味がない?いやこれはラッキー!!
おかげでしっかり少人数で専門家3人を独占できた(笑)。
これは大変お得度の高い学びの機会でした。

あいにく、3月並の気温のため雪はすっかりとけていたので、足跡(アニマルトラック)は見れませんでしたが、その代わり、糞・食痕など、たった2時間の散策で8種類の動物の痕跡を発見しました。
これはむしろ、雪があるときより、上級編でよかったかも? 

私も本で色々読んでいたのですが、糞も足跡も実際見ないと良く分からないというか、
見たもの=疑問の蓄積・・・というそれこそド素人の悩み(?)があり、今回の
”糞観察会”は、溜まった疑問を解決するまたとない機会でした♪
知的便秘も解消・・・(^^)

■ 糞と食痕の紹介

① うさぎの糞とシカの糞(子供&大人)

ひと粒づつ手に取ってみた。

うさぎの糞=1センチくらいの楕円の球、薄い緑色
シカの糞=甘納豆みたい・・・



画面中央あたりの黒い粒が地面の上シカの糞。子供のため小さい。小豆大。カモシカの糞と似ており、貯め糞(半径3m)かどうかで見分ける。


大人は粒が大きい。シカは歩きながら、ぽつん、ぽつんと糞をすることもあるそうでそこらじゅうに糞がある。こりゃーキャンプをするときはしっかり見ないといけませんね(笑)
 

朴葉の葉の上にサイズを並べてみてみる・・・こんなに大人と子供では違う。

他に木の幹に角をこすりつけた後がある。周囲の痕跡から判断してもシカと分かります。木の幹をはいでしまうのは食べるためではなく、縄張りを示すためだそう。また
シカの角は生え変わるので落ちていることもあるそうです。

② てん
糞のあるのは地上とは限らない。 地面ではなく、少々目線を上げてみる。

てん・・・桟橋の上など目立つところに糞!これは東屋のヘリの上。
サインポストと言ってわざと縄張りを主張するために目立つところにウンチするのだそうです。自分の存在を糞で自己主張(笑) 縄張りというのは不思議なものですね。

ココにもてんの糞のことが書いてありました。


すこし古いので、糞の中を調べてみる。


動物の毛、骨、昆虫の足など・・・肉食だ!


食べられたのは誰でしょう?鳥であれば骨は中空なのだそうです。
テンは雑食で季節によって食べるものが違い、秋は実など植物性、冬は動物性が多くなるのだそうです。 

なんだか人間みたいですね。ローラ・インガルスの『大きな森・・・』シリーズでは
秋の収穫祭のあと一家は豚を絞め、冬は塩漬け豚が主要蛋白源。

③ 近くに落ちていた小動物の白骨
骨盤が見える・・・ 小さな骨。誰のでしょう?


④ リスの食痕

リスは切り株の上や倒木の上で、松ボックリを上手に食べる。松ボックリの食べかすは
パイナップルやエビフライそっくり。
食べているのは松ボックリの羽一枚一枚の根のところにある種でそれ以外の羽の周囲に食べ散らかされている。お行儀は良いほうではないらしい。


ただ両手で持って器用に食べれるため、野鳥(かけす?)が食べた後とは大きく違う。

奥がリスの食痕。手前は野鳥。

⑤ てんorいたち?

これは判別が難しい、新しい糞。
黒くて、細く、すぼまっている。糞の中は木の皮なども入っており植物性のようだ。


無理に判定する必要もないのですね。

⑥ いのししのお食事後

いのしし君は豪快に地面を掘って土ごと植物の根を食べる。地面は耕した跡の
ようになります。これは人間にとっては畑でやられると災難ですが、土が返されて
自然に取っては良いこと。

ちなみにイノシシにあったら、脇に逃げるべきなのだそうです。いのししだけに
猪突猛進。まっすぐに走ってくるので直線的に逃げるとダメなのだそう。


⑦ もぐらが掘り返した跡の近くにきつねの糞

きつねの糞はもぐら穴の近くに。モグラが出てきたところを狙っていたのか?
きつねの糞は片方のエンドがとんがっている・・・これは動物性のお食事のため。

糞は少々古かったので乾いており、あけてみると動物の毛が詰まっていて
ダウンみたいになっていた。 こうした毛は鳥達が寝床などに利用するらしい。

⑧ シカの糞の近くにシカの尻毛
こんな感じ。


⑨ イノシシの糞
イノシシの糞は太く、団子がつながってパズル状に・・・これは登山道でも良く見たな。これを熊と言われた記憶があります。いやイノシシですね~




⑩ リスと赤ねずみの食痕 胡桃

胡桃の木の下では、リスと赤ねずみが胡桃を食べ散らかしている。

食べ方は上手なリスと下手な赤ねずみ・・・これは手を使えるかどうか。


こうしてみるとリスは大変森ではリッチな生活をしているらしい。胡桃の
割り方も上手下手があるのは個体差らしい。

■ お土産

おみやげはリスの食痕、くるみと松ボックリ。 他にシカの尻毛(笑)

糞はもって帰っても捨てるしかないかな・・・と思い、入れ物を持っていかなかったのですが、乾いた糞は今後の参考のためにとっておきたくなりますね。

何に使うんだ?って感じですけど(笑) 

広葉樹の森と針葉樹の森に行きましたが、手入れを放棄された針葉樹の人工林内にも
胡桃の木や、藤などが入り込み、リスや赤ねずみなどの小動物が元気にそれらを利用しているようでした。 まっすぐなヒノキだってリスの格好の隠れ家になるらしい。

というわけで、結局、森をどうしたいのかは人間の勝手で、動物君たちはしたたかに生きぬいているらしいんだなぁ・・・。

自然っていうのはホント、偉大ですね。




読了 『八ケ岳の森から』 

2011-01-23 22:07:27 | 自然と環境のこと
今日は楽しみにしていたムーンライトスノーシューが流れてしまいました・・・ 
毎日晴天なのに・・・今晩は曇り空・・・残念。

しかし、月夜の晩に雪の野原に出かけるという贅沢は・・・すぐ近くに住むことの特権なのかもしれないですね。
だって月はフルムーンに近くないとダメだし、寒すぎても、曇りでも向かないですから・・・。

私も甲府の今の家からすぐ行けて、雪上をフカフカと歩ける秘密の小道を早く開拓したいです(笑)

■ 昔ウサギ&キツネ、今はシカ&クマ・・・

今日はかわりに八ケ岳暮らしを描いた、加藤則芳さんの 『八ケ岳の森から』 を読みました。

ペンション経営しながら住んだ八ケ岳での生活記録・・・
この手の本はこれまでにもずいぶんたくさん読みましたが、ただひたすら羨ましい・・・(笑)

この本は1990年に出版されているのですが、当時八ケ岳ではうさぎの食害対策できつねの
狩猟を控えた結果、きつねが増えすぎ、うさぎの姿が見えなくなっていたようです・・・。へぇ・・・。

2011年の今は鹿&熊。当時から、国定公園の管理運営において、野生鳥獣に対する行政側の意識の低さが嘆かれています。20年経っている今、何かは進歩しているのでしょうか・・・。

海外では、自然保護活動といえば、動物があがるため、この本でも、日本の野生動物保護のあり方の後進性を嘆いています・・・が、多分、海外でもこうした自然保護などは、純粋な自然保護というよりもむしろ政治色の強いものではなかろうか?と想像しています。

海外の人は一般に自己宣伝が大変上手なので、控えめな日本は何事も遅れているように思えるのですが、一皮はげば、おそらくは、やっていることはドッコイドッコイのことなのではないか・・・・

そう思ってしまうのは、例えば、捕鯨ではグリーンピースが市民権を得ていたりだとか(人間の命より
クジラ?!の過激組織)、ヨセミテだってエルキャピタンはクライマーの残した穴だらけだであったり
(岩登りも登山も自然と共生する営みではなく、自然を克服、あるいは自然に打ち勝つ、という競技で
じつはある・・・)、市民は一年先の予約をしないと宿泊もできないのに、なぜか外国人観光客向けなら
ツアー参加できたりしてしまう(やっぱり金かい?)・・・ということを聞いたり見たり体験したり・・・して
しまっているからです。 耳年増ってヤツですね(^^;)。

■ 自然は人間を必要としない vs 人間は自然が必要

20年前も大規模リゾート開発や河川の護岸工事で自然が失われる姿が描かれ、雑木林が無くなっていく現実が嘆かれています。

・・・が、20年たった今、営林を放棄され線香花火のようになってしまった針葉樹の植林は、結局のところ、増殖したシカの食害や熊によって、生育に不適切な場所・・・尾根などに立つものから順に立ち枯れ、そこはゆくゆくは、広葉樹の雑木林に更新されて行くことになる・・・のなら、一時的な特定の動物の増加はまさに自然の回復力ってやつなのかもしれません。

自然の摂理は大きくて人間の英知を超えているようにも思います。この舞台で人間はどんな役割を担うのでしょうか?
もしかして、人間がアクセク保護や育成しなくても、自然は自然に自らのあるべき姿を着実に形作っているのだとしたら・・・?
それとも、人間があくせく、保護したり植林したりと慌てふためくのも自然にとっては想定内なのでしょうか・・・・?

こうしたことを思うとき、人間は仮説思考の前提条件を間違って発想しているのではないか?と思います。
前提になるのは、自然にとってはそもそも人間は不要なのだ、ということであって、そこのところをついうっかり人間は忘れる。 人間には空気も水も必要だが、自然には人間は要らない。

人間の嘆きは単なる視野の狭さの表れかもしれないのです。温暖化と思っても実は長い周期で見ると寒冷化かもしれませんし。

そうこう考えると、何もしない、いや何かやっている気で何もできていないのが人間なのではないでしょうか?一番の自然保護はありのままを見つめること。観察力を磨くこと。自然に学ぶことなのかも?

■ 都会暮らしはエコ

暴れる河川の護岸工事が必要になったのは、麓に人が住んだため、つまり人間が増えすぎて、人間の活動領域が野生動物たちの住処を自然を圧迫したためでしょう・・・

けれども今や、多くの人里で過疎化が進みました。一方、都心では空の住宅が増え、地価の下げ止まりがない時代。

じゃあ、人は都会へ回帰するべきなのではないでしょうか・・・。八ケ岳で別荘に住んで汚染物質を垂れ流すより、インフラの整った新宿に住んだほうが環境負担は少ないはずです。

環境負担や省エネの面から言うと、都会の集住暮らしは、すべてに車が必要な田舎と比べ効率的です。
田舎ではインフラにかかる環境負担も大きい。本当に自然保護と思うなら、人は里から町に戻るべきでしょう。

本来の動物としての保存本能から考えると、危険のない場所に住むのが動物としてのあるべき姿であるし、川が暴れたら素早く察知して退避する能力をもつ・・・護岸工事ではなく・・・それが本来生存に必要なスキルだったはずです。

自然との闘いにおいて、ディフェンス能力ともいえる自然の脅威から身を守る能力を失い、逆にオフェンス力といえる、護岸工事に代表されるような集団的自然侵略の能力は進歩した、それが、ここ100年ばかり続いているのがこの時代。そういう風に見ることもできます。

そういう文脈で考えると、今の山ブームは少しでも自然への対応能力を回復させようという人間の危機感から来るものかもしれませんね・・・・野良人間をやれないほど弱ってはいけない、って危機感とか(笑)?

しかし、本当に、自然の力は偉大で、ほっておけばあっという間に自然に侵略され、橋も道路も家も使い道にならなくなる。

そのことを忘れないでいたいものです。人間は自然の一部を利用して住まわせてもらっている。そういう感謝の念、畏敬の念を忘れないこと、そのために人は山へ行くのかもしれません。

■  都市はジャングル

『八ケ岳の森から』 は、八ケ岳の自然の素晴らしさを基本的には伝える本なのですが、歯切れの悪さが伺えるところもありました。

それが、田舎(の人間関係)の煩わしさ、横並び一辺倒の事なかれ主義的な保守性、そうした都会には無い田舎の欠点なんだろうなぁと、うかがわせます。

”自然暮らし”をしたいだけで、”田舎暮らし”をしたいワケではない・・・そんな風な言い回しもあります。

そうだよなぁ・・・と私も納得します。 子育てするなら大阪の下町が一番!と思っています。

なんというか、ニュータウンや地方都市、あるいは、いわゆる田舎では、住んでいる世界が狭すぎて、自分の頭で考える、という人間の一番大事な部分がはぐくまれない気がします。 

曽我綾子さんの本には、「都会の地価は魂の自由代が入っている」とありました。確かにその通り。

ジャングルは、色々な動植物が存在し、生物多様性が一番大きな場所ですよね。だとすると、都会は人間にとってのジャングルです。
色々な種類の人間が住む場所はどこかというと、それは国内で言うなら大都会。色々な価値観がある。

大きな国際都市に行けばそれこそ世界中から色々な人が集まってきて、価値観だけでなく文化も肌の色も目の色も千差万別。つまり、大都会は人間にとってのジャングルです。ジャングル育ちのほうが、限られた環境で育ったものよりやっぱりサバイバル能力に長けるでしょう。

私は地方都市で育ちましたが、自分で善悪を判断する心、自発性や自立、独創性、人間はそれぞれ特徴があり世の中に不要な人などいないという平等の精神、そういうものはに、小さな社会では非常に見にくい。これはやはり、多様性に欠ける、という致命的欠点のためでしょう。田舎というのは小さな監視社会、多数の独裁者をはぐくみやすいのです。

”お隣と比べてウチは”という横並び精神、最後は”お国が”という他力依存、”東京はいいよね”という羨望病、そういうものはすべて無知から来る。 井の中の蛙で、世界を見てみれば、アングリな場合が多い。

老後ということを考えても、どちらかというと老後に有望なのは田舎より都会ではないでしょうか?
田舎では何をするにも、高コスト。買い物ひとつ行くにも10キロ先、というのでは、体力がある若いうちしか快適に暮らせない上、芝居や音楽の趣味という文化的な娯楽も限られています。

集住は人間にとってはやっぱり有利なのだと思うのです。経済効率としてみても、人が10km先に点在しているより、一箇所に住んでくれていたほうが助かるに決まっていますし。

日本が世界から見て超がつく有望マーケットである理由はこの”集約性”という特徴に寄ります。少ない労力で大量にモノを売ることができるのです。行政的には少ないインフラで多くをまかなってこれました。

子供も老後も都会がベター、となると田舎に行くべきは、若い人ということになり、今起っている山ブームはそれなりに正しいのかなと思ったりします。

今都会では若い人が余って(就職難)いるそうですから、今こそ田舎は若者を取り込む好機なのかもしれません。
自然というのは大変に強力なもので、やっぱり子供や年寄りの丸腰で望むべきものとは思えませんしね。

”自然”に囲まれて暮らすことと、”田舎”に暮らすことはまた違う、そういうことを思い出す本でした。

私もまだ体力がある若いうちに山を始めてよかったです・・・(^^)


となりのツキノワグマ vs 熊森 

2011-01-20 12:02:04 | 自然と環境のこと
■『となりのツキノワグマ』 

宮崎学さんのTVでの発言が面白かったのでとなりのツキノワグマ (Deep Nature Photo Book)
を借りてきました。

これは面白い! 

一冊ではなんだ、というので書架の同じ辺りにあった別のクマの本も借りてきました。

『クマともりとひと』 こちらは兵庫県の女性の本で、日本熊森協会ということです。

■ (となりのツキノワグマ) vs (熊森) 戦争勃発中?

『クマともり・・』を読み進むと(カンタンに読める本です)どうも ベースにしているのが『となり・・・』と
かなり違う・・・ 

深い考えなしにひょいと選んだ選書でしたが・・・こりゃガチンコ勝負ってヤツではないかいな!

対立点は”クマがいるのか?いないのか?”

『となり』が ”クマを撮りたい!”を起点にし、クマ撮影に成功していることの報告、であるのに対し
『クマともり』 は”クマを守ろう!”を起点にし、クマを守ることができない(不成功)、を訴えています。

クマを守るには、クマが減っているという前提が必要です。でも、実際に多数のクマが撮影されてしまうって
ことは、クマ君はいっぱいいるってことになってしまい、その前提が否定されてしまうわけですね。

この”クマが減少している”の根拠には”奥山が荒廃しているからえさをもとめて里にまでどんぐりを食べに来た”という
定説があります。たしかに山に登っていても良く聞きます。 

でも、奥山ってホントどこのことなんでしょう・・・?

高いところ?それなら高いところほど貧栄養です。高山を解説する書物には、高山地帯というのは”貧栄養”
限られた植生しか生存を許されない貧困の地です。誰も豊かだなんて言っていない。都会のほうがよっぽど樹種も豊富です。

じゃ遠いところ? 遠いってのはどこから遠いのでしょうか・・・人間が通る道路から本当に遠い場所なんて日本ではほんとうに数えるくらいしか残っていません。オーストラリアのエアーズロックは一日に数本しかない飛行機で僻地に飛んでそれからさらにキャンプを2~3日しないとたどり着けないそうです。それくらい隔絶されれば”奥”かもしれませんが・・・。行くだけで10万円です。

しかし、それにしても、国や行政、大学研究者などの専門家の”生息数調査”がなんとも心もとない有様であるのにはビックリ!デス・・・ 
なんだ、そもそも、ちゃんと数えていないからじゃんか・・・。

■ うまく行かないのは周囲が悪いのメンタリティ

読んでいて、つくづく”失敗体験”を読んではいけないな、子供に読ませてはいけないな・・と思いました。

『となり』が、”こういう工夫をしたら成功しました”という話なのに対し、『クマもり』は、”うまく行きません”という話。

うまくいかないのは、自然を省みない人々が悪い、日本人は自然を本当に愛しているのか、ととうまく行かない理由がいうなれば全部原因を他者に求めるのです。
基本的には他者を変えようというベクトルしか働いていませんが、自分を変えることができても他者を変えるのはほとんど不可能ですよね。

まぁ、でも、クマ、減っていなくて良かったじゃんね? この会の基調からいうとクマは守られるべきなので今現状クマ君がこんなにも身近にカメラに映っている現状、よろこばしきことなのではないでしょうか?

おお、クマは減ってはいなかった、と言って喜ぶべきシーンなのじゃないかと思うのですが、そうじゃないのが不思議です。

■ 朝令暮改 アリアリ

先日は、以前ビジネススクールで知り合った大手企業に勤める管理職の友人と飲みました。友人が言うところに よると「朝令暮改アリって思うんですよ~」 私もアリと思いますね~。だってビジネスはいつも、”よく分からない”状態での決断です。決断をサポートするための情報が十分でないため、正解が分からない状況で右か左かを選ぶ、それがビジネス。よくビジネスはむしろアートだと称されます。

何がいいたいかというとですね、別にクマ保護を叫んでもいいわけですよ、叫んだ時点では”クマ絶滅中”という情報しかなく、みんながそれを信じていたわけですから。

ところが、絶滅しかけているはずのクマを身近に発見するスキルのある人が出てきたら、あれホント?と新たな、より正確そうな情報が出てきたのですから、素直に喜んで、クマ絶滅していなくて良かった・・・と
思えばいいわけです。互いに一緒にクマ生息の喜びに祝杯を挙げたらどうですかね?

こういう構図にならないのは、なんというか”武士に二言はナシ!”的な、”一旦言ったことを撤回するのはダメ”みたいな精神風土があるからではないかと思います・・・

■ 怠慢? 

それより、クマ生息数を数えていたはずの研究者達は一体何をしていたのでしょうか・・・

いやほんと、『クマクール』『マタミール』、特許をとって発売したらいいのではないでしょうか、全国に(笑)

宮崎カメラマンに補助金でもつけて全国のクマ生息数調査をやってもらったほうがうんと正確なクマ推定数がでそうな気がしますが・・・ ホント。



クマの個体数は把握されていないらしい

2011-01-18 13:22:08 | 自然と環境のこと
■ クマ
ふとTVをつけると熊の話題が・・・。見入ってしまいました。

冬本番・・・全国的には大雪で大変そうですが、山梨は今日も快晴です。 不思議ですね、名古屋は雪なのに。南アルプスってホント凄い。

冬の山といえば、低山歩き。冬なら空気も澄んで遠くまで見渡せます。 私達は厳冬期の森林限界から上は行かない、ということにしているので、これからは低山を楽しむ時期に入りました。

低山といえば、リスクNo1は熊。 ”熊出没注意”の看板は標高の高くない山のほうがむしろ良く見ますし、アニマルトラックもそうです。まぁクマ君は今頃はもう冬眠していると思いますが、それでもやっぱり気になりますよね。

この宮崎学さんの熊の番組は大変良かったです。熊の糞とかクマ棚なんてものは映像でみるのが一番ですね。

以前瑞垣山へ行ったとき、クマの糞だと示されたものは鹿の糞のようでした。まぁクマが便秘か何かでコロコロの糞をしないとも限りませんが(^^)

びっくりなのは、高速道路のすぐ脇でクマ君がむしゃむしゃとお食事中でした・・・(汗)

みんな車で高速で駆け抜けているから気が付かないんだな・・・。クマ君がそんな近くにいることも凄いが気づかずに平和な日常が続いているのも凄い! 気がつかないってのが凄い。クマが一枚上手。


■ クマの個体数は把握されていないらしい(驚!)

早速、宮崎さんのサイトを見ると、現在日本国は 『となりのツキノワグマ』状態らしい・・・(^^;)

要するにクマ激増中。鹿だけじゃないのか!

もっと驚く事実は、クマの個体数というのはキチンと把握されていないこと!

え?! じゃ絶滅危惧っていうのはどうなるの???

それに動物や自然環境保護に大量の税金(とか頭の良い人たち)を投入しているのは・・・???

私はクマには会ったことはありませんが、クマだけは会いたくないですね。鹿とかうさぎとか会いたいですけど。
クマ鈴は1個ではなく、マルチプル使いがオススメです。クマだってお食事に夢中だと気が付かないそうですから。

先日はウェールズ出身のニコルさんが日本の山の保全活動をしているということに感動したばかりですが・・・
クマも増えすぎているとなると、山じゃなくて里のほうを保全しなきゃ!ということになってしまいます(汗)。

一体日本の自然は、何が自然状態なのでしょう・・・???

最近頻繁に山に行くようになって、日本に奥山なんてあるのだろうか・・・と思います。
山奥というのは都会からのアクセスという意味ではもちろん、それは遠いのですが、結局道路がとおっているところ、は人間の生活圏。 

車でちょいと小一時間でいけてしまう山・・・近辺には集落があれば、いくら過疎でも、いくら下水道がきていなくても人の生活圏であることには変わりなく、そこから3時間あるけば山頂、という山は奥山といえないのではないかと・・・。 

本当に人間は隅々まで道路を作ったものです・・・いや道路じゃなくても、上高地のカラマツは江戸時代の植林だそうですから、人間の生活圏の前線は当時から隅々まで拡大していた、ということなんですよね。
増えすぎていたのはくまじゃなくて人間の側だったのかも?

人が自然の一部だとすると、人口減少時代に入り、人間が必要な生活空間は縮小局面に入った(要するに過疎化)のですから、熊くんや鹿くん達がその分生活圏を広げた、というだけのことなのかもしれません。

人の生活圏が隈なく網の目のように伸びる、その網の目には、地形的な条件などで人が入ることのできない部分に自然が取り残される。 自然も都会のモザイクと似ていますね。カネが入らない部分に古い家屋が取り残されて・・・

このモザイク状態は、なんでもキッチリ分けることが好きな外国にはあまり見られない日本的な特徴のように思います。いろんな意味でモザイク状。

昔は家にねずみが住んでいたり、ヤモリがいるのが普通だったりして、そういうモザイク状態、人間も他の動物と同じで自然の中に共棲しているんだ、ということにいやおうなしに意識的でいられたと思うのですが、都会暮らし2世くらいになると、まずもってそういう自然と隣りあわせ感が、実感として感じられないので、あらためて自然の近さに驚くだけなのかもしれません。

あるいはそうした実感ないからこそ、山ブームが起り自然を体感したいと思い始めるのかもしれませんが・・・ 

どちらにしてもクマ君と正面対決だけは勘弁願いたいものです。ヤマネ目撃位置がネットでまとめられているようにクマの目撃情報もネットで分布をまとめられればいいですね。

こちらはクマ出没ブログ

■ 赤ちゃんイノシシ

そういえば、去年我が家のマンションのエントランスで、ガラス扉に激突する赤ちゃんイノシシを目撃しました。目撃者は私だけ。

この赤ちゃんイノシシはかわいそうにマンションの外廊下を走りぬけ、出口と思ったガラス扉に激突し、パニックに陥り、何とか出た階段側からの開口部から走り抜け、外に出たとおもったら、今度は金網ネット塀に激突し・・・きっと見えなかったのでしょう・・・お化けが出た!ならぬ、この世のモノではないものに憑かれている!というくらいの狂乱ぶりで山の方へ逃げ帰ってゆきました・・・かわいそうに。
鼻とかへし折れかけたでしょう。何しろ、透明のガラス扉、無いものと思って全速力で激突していましたから(笑)。

マンションの場所は地元の小さなローカル線駅のすぐそばです。山の麓といえばそうですが、山というより市民の憩いの丘で、上部は別荘のような大きな高級住宅地とブドウ畑です。すぐ近くにバイパスが走っており中心街へは”徒歩”15分。

動物との出会いの最前線は実は山ではなくて、こんな身近なロケーションだったりするのかもしれませんね。

ローラ・インガルスの時代、ジャック(犬)は狼から守ってくれる大事な警備員でした・・・今では番犬はお昼寝。メタボで犬用サプリが売れる時代。散歩に連れて行ってもらえない犬はもしかしたら鬱で精神科医が必要なのかもしれません(笑)

でも人間の歴史でどっちの時代が長かったかというと多分ローラの時代なんですよね。

最近の人間の糞(山などで)は添加物入りのためか腐りにくいので山ではするな、という話を山の本で読んだのですが、高速道路の脇で人間が出した牛丼の残りなどを喰らう野生のクマ君の糞もそうなのでしょうか・・・?終いには、クマもメタボだったりして・・・・