5年の歳月を要した数寄屋造りの家
『見事な数寄屋造りの、その家は、昭和6年(1931)から5年もの歳月をかけて建てられたという。書院障子や欄間の桟、唐戸の鏡板など室内のいたるところに施された繊細な意匠からは、建て主の並々ならぬこだわりが伝わってくるようだ。
2階の客間をめぐる広縁に立つと、緑豊かな日本庭園の向こうに澄んだ水音を響かせる荒川の流れ、そして対岸には北條氏が築いた鉢形城跡を望むことが出来る。荒川の上流に位置する埼玉県寄居町玉淀の中でも、風景の美しさでは群を抜く景勝地が広がっているわけだが、知らず知らずのうちに視線が数寄屋造りの室内へと転じてしまうのは、その家がそれほどに見事な造りで、持ち主のが実際に住んでいたための生活感や、ぬくもりのようなものが、気配として感じられるからであろう。※』
『・・・工事が始まったのは彼が45歳のときのこと。自ら図面を引き、家の模型までつくり、木材を京都から取り寄せ、工事に携わった大工たち全員に(鳶職人、大工方はすべて当時の寄居の職人)「佐々」の名前の入った半纏を特注したほど、心血を注いだ家である。※』
最初のイメージは上棟式での記念撮影と思われる自邸の建築風景
した右から2人目の帽子を持っているのが紅華。大工たち全員が「佐々」名の入った半纏を着ている。残念なことにこの上棟式の日取りだが京亭さんや携わった職人に聞いても判明しなかった。昭和6年(1931)だとすると9月21日午前11時20分に「西埼玉大地震」が起きているがその前の初夏の頃だと推察される(埼玉県大里郡寄居町付近 北緯36度9.5分、東経139度14.8分 を震源として発生した地震である。マグニチュードは6.9。震源の深さは3kmとたいへん浅かった)
※印 引用文:「由緒正しき宿」の物語②財界人・華族・武家・芸術家が住んだ家 文:相庭泰志
紅華は、設計だけでなく、現場監督も自らやっていたようで上のイメージは職人たちに混ざって材木に腰をかける佐々紅華。昨日(4 may 2012)京亭の清島利典がこんなエピソードを話してくれた。
「ある日、朝早く現場に来た職人が仕事の段取りを始めたところ、柱が1本足らない。どうしたものかと思案に暮れていたところ、そこに現れた紅華曰く『あまりにすばらしい柱だったので、夕べ寝床に引きずり込んで一緒に寝た』とか。
イメージは上棟前の現場。後ろに見えるのが吊り橋の「正喜橋(しょうきばし)」手前にはトロッコの線路がいくつも見える。
大正から昭和に活躍した 寄居町・埼玉ゆかりの作曲家・建築家・デザイナー
佐々紅華
作曲家「佐々紅華」は、浅草オペラの創始者として数々の流行歌・・・代表作「君恋し」(佐々紅華没後の昭和36年 フランク永井がジャズ風にアレンジしたリメイク版 君恋しを歌い第3回レコード大賞を受賞)「祇園小唄」「寄居小唄」など・・・を生み出し一世を風靡した。佐々紅華は縁あって昭和7年からなくなる昭和36年1月まで寄居町に居住していました。その邸宅が現在の「京亭(虚羽亭)」です。紅華自身が設計した細部にまでこだわりぬいた建築の見学や紅華ゆかりの品の一部を展示いたします。
【再発見 佐々紅華の会】
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます