かつて札幌に存在した奥田民生のコピーバンド『CANNONBALL』が初ライブをしてから今日でちょうど10年が経ちました。
2007年10月14日(日)、大通公園六丁目の特設会場にて。出番は13時から30分間。
その翌週のペニーレイン24でのライブが本格的な始動と位置づけ、それを前にしたプレデビュー的な、お客さんがほとんどいない中での野外ライブでした。
メンバーがライブ慣れしていないことからの措置でしたが、自分も初フロントであったことから相当緊張しました。
寒かったけど、最後の方でさすらいを演奏する頃には青空が出てきて爽快だったことを覚えている。
メンバーの提案でスーツで挑んだのがこの日の大きな特徴。これが唯一の野外ライブとなりました。バンドが軌道に乗った後にもう一回くらいやりたかったけど。
(当時のレポート→http://yaplog.jp/hr1975/archive/202)
また、この時や次の週のライブで色々理不尽なこともあり悔しい思いもしましたが、もうどうとも思いません。
(この辺の後半に詳細記載 →http://yaplog.jp/hr1975/archive/589)
小さな一歩でしたが、その後の未来がまだ広がっていた頃。それ以降を考えると堂々たる一歩だったと思う。
色々やりたい事があったし、そこそこ出来たのではないか。
それから5年後の活動停止時には、結成時のメンバーは俺しかいなかったけど、バンドの原点は確かにこの日でありました。
活動期間は5年。その後の5年は活動しない事を自分の中でどう折り合いをつけるかをずっと考えていた。ほんとはこんなに早くやめる計画ではなかったのだ。
音楽だけやってれば楽しいだけで済むのだが、運営までやってると、騙し騙しやってたけどもう我慢の限界に来ていた。
そして10年が経った。
が、10年も経った気がしない。2007年なんてちょっと前のような気もしている。そんなことが積み重なり人生はいつの間にか終わりに着くのだろう。
悪い思い出も書きます。初ライブ時のメンバーじゃない人の話ですが。
俺のことを、『バンドの事は愛しているが、メンバーを大事にしていない』などと影でお客さん達に対して言っていた某打楽器メンバーもいたと聞いていますが(こういう陰口は信頼出来る線から回り回って聞こえてくるものです)、そう感じる原因はあなた自身と考えた事はあるのか?と。それがわからないからそんなことを言っていたのでしょうけど。
メンバーには均等に尊敬して接していたつもりだけど、礼の欠けたメンバーにはそれなりの対応になっても仕方ないと俺は思うし、どんだけ甘えるつもりだったのかと言いたい。面倒な事は俺が全てやってたし、それ以外で面倒と思うのは個人の範疇です。
バンドの代表者としては、お客さんに気を回していたり、メンバーへの段取り周知や自分なりに分かる範囲のケアをしながら、残った時間で自分のパフォーマンスを準備していた。自分は後回し。
それ以外の事でメンバーに気が回らないことだってあったかもしれないが、そこはむしろフォローしてくれてもいいのではないのか。
フォロー出来ないからといってそれを攻める気は全くない。それは個人の資質だから。
しかし、その代わり、それができるメンバーと比べて、正直接し方が少し淡白になってしまうのはやむを得ない事だと思う。
そこを自主的に気づくかどうかは、繰り返しますが、個人の資質なので面と向かって言う事ではないかなと思います。しかしそれを察する事ができるか否かが、大きく信頼に関わるところ。
以上のことをわざわざ言ってしまうと強制になり、負担を与えてしまいかねないので、敢えて言わず自主性に任せた(別に求めてませんけど、応えてくれたなら嬉しく思うのは当たり前)。言わずともわかってくれたメンバーもいた。そこはセンスの違いでしょう。
長続きするバンドはそこのセンスが合っているメンバーが揃っているか、いい意味でリーダーに全部お任せなのでしょうね。
これも恩着せがましいので言わなかったが、自分のやりたい曲だけでなく、みんなが何気なく言った一言も記憶しながらメニューを決めてたし、各パートに見せ場を持たせる選曲をしていました。
私としてはメンバーありきでやってたつもりですが、自分の思い通りにならないからと言って、メンバーを大事にしていないなどと言われるのは大変心外(他人を使い、また、ブログ、mixi、果ては裏ブログも駆使され、伝わってきましたが)。
楽器のないメンバーに鍵盤貸したり、挙句は貸した高額なシールドをステージ上に忘れて失くされたりされても不問にしましたけど(はっきり言って人としてダメですけどね。あとそれが見つからないライブハウスというのもどうなのか。)、それでも大事にしてないと言えるのかね。
まあ、それ以外にも、重箱の隅をつつくようにミスの指摘をしてきたり、不遜な態度を取ってきたり、自らのブログ等に愚痴や思わせぶりな内容を書いたり(しかも一体何が不満なのか理解しかねる。言いたい事はわかるがあまりに幼稚で。mixiを開くたびにそのつぶやきが出てくることにうんざりした)、ムッとする事は多々あり、我慢はしてたけど雰囲気は幾度となく悪くなった。それを取り繕う身にもなって欲しいものだ。
さらにタチの悪いことに、この人、交友範囲を広げてはトラブルを起こす習性がある。メンバーとして迎える時にその辺りも懸念していたけどまさに命取りになったわけだ。
札幌なんて狭いんだからよしときゃいいのに、食いつぶしていく傾向があるのだ。
もっとあるけど二度と関わりたくない人間の話はこの辺で。
また、心残りがあるとしたら、もっと他のバンドとも絡んでできるはずだった。しかし、バンド内が不安定(内紛状態)であったり、それとも関係するけど、この時の札幌での我々の周辺というのは仲良くやるというよりは張り合う土壌だったのかな、、、イメージしたようには出来ませんでした。相手のあることだからそれも仕方がないが、ふとりカンタビレみたいな自分の企画は割とよかったけどね。
最後の方でやったイベント的なのは、プレイヤーというよりは事務局のほうに回されてしまいましたが、競い合い、張り合いみたいで楽しくはなかったね。一部の人だけ絡んだりね。もっと楽しく、一緒に作ろうと出来ないものなのかな。
クソも味噌も一緒に仲良しこよしと言いたいわけでは決してないのだが、少なくとも味噌同士で美味しい味噌は作れるはずだ。これが出来ないところがつまらないね。自分の方はライバル視される程のバンドとも思ってないわけで。勝手に嫉妬されても、と困惑する事も何度かありました。
と、 良い事も悪い事もあったけど、それなりに存在感のあるバンドであったし、応援していただいた方々には感謝しても仕切れない。幸せなバンドだったと思います。
本当なら華々しく10周年記念!とかやりたいところでもあるけど、抱えていた苦々しい想いを吐き出してみました。ようやくここまで来れた…。
単なる愚痴ではなく、バンド論になってるでしょうか?。
CANNONBALLライブ履歴
(動画→https://m.youtube.com/channel/UCO8m0PWRgWoSzpUuabrl7HA)
・2007年10月14日 大通公園 特設会場
・2007年10月21日 琴似ペニーレイン24
・2008年 7月12日 すすきのSLOWHAND
・2008年 8月 2日 SUSUKINO810
・2008年 9月20日 中島公園YAMAHA MUSE
・2008年12月13日 狸小路MOLE
・2008年12月28日 大通SOUNDCRUE
・2009年 6月 8日 琴似ペニーレイン24
・2009年 7月19日 琴似ペニーレイン24
・2009年 8月 2日 小樽ドリームビーチ TUBES
・2009年 8月29日 琴似BURN
・2009年12月27日 苗穂VINNIE'S BAR
・2010年 1月17日 すすきのKRAPS HALL
・2010年 2月27日 苗穂VINNIE'S BAR
・2010年 7月 3日 SUSUKINO810
・2010年 8月28日 苗穂VINNIE'S BAR
・2010年11月24日 創成川イーストAKEY(ふとりカンタビレ)
・2011年 2月25日 創成川イーストAKEY(ふとりカンタビレ)
・2011年 3月19日 すすきのHOT TIME(ビートルバッカーとダブルヘッダー)
・2011年 4月16日 SUSUKINO810
・2011年 9月 3日 らぐたいむ(プライベートパーティー余興)
・2011年 9月10日 すすきのKRAPS HALL
・2011年12月10日 苗穂VINNIE'S BAR(ふとりカンタビレ)
・2012年 1月28日 SUSUKINO810
・2012年 3月10日 白石LINKS(さっぽろユニ祭り、CANNONBALL Zとして出演)
・2012年12月 8日 すすきのHOT TIME
2007年10月14日(日)、大通公園六丁目の特設会場にて。出番は13時から30分間。
その翌週のペニーレイン24でのライブが本格的な始動と位置づけ、それを前にしたプレデビュー的な、お客さんがほとんどいない中での野外ライブでした。
メンバーがライブ慣れしていないことからの措置でしたが、自分も初フロントであったことから相当緊張しました。
寒かったけど、最後の方でさすらいを演奏する頃には青空が出てきて爽快だったことを覚えている。
メンバーの提案でスーツで挑んだのがこの日の大きな特徴。これが唯一の野外ライブとなりました。バンドが軌道に乗った後にもう一回くらいやりたかったけど。
(当時のレポート→http://yaplog.jp/hr1975/archive/202)
また、この時や次の週のライブで色々理不尽なこともあり悔しい思いもしましたが、もうどうとも思いません。
(この辺の後半に詳細記載 →http://yaplog.jp/hr1975/archive/589)
小さな一歩でしたが、その後の未来がまだ広がっていた頃。それ以降を考えると堂々たる一歩だったと思う。
色々やりたい事があったし、そこそこ出来たのではないか。
それから5年後の活動停止時には、結成時のメンバーは俺しかいなかったけど、バンドの原点は確かにこの日でありました。
活動期間は5年。その後の5年は活動しない事を自分の中でどう折り合いをつけるかをずっと考えていた。ほんとはこんなに早くやめる計画ではなかったのだ。
音楽だけやってれば楽しいだけで済むのだが、運営までやってると、騙し騙しやってたけどもう我慢の限界に来ていた。
そして10年が経った。
が、10年も経った気がしない。2007年なんてちょっと前のような気もしている。そんなことが積み重なり人生はいつの間にか終わりに着くのだろう。
悪い思い出も書きます。初ライブ時のメンバーじゃない人の話ですが。
俺のことを、『バンドの事は愛しているが、メンバーを大事にしていない』などと影でお客さん達に対して言っていた某打楽器メンバーもいたと聞いていますが(こういう陰口は信頼出来る線から回り回って聞こえてくるものです)、そう感じる原因はあなた自身と考えた事はあるのか?と。それがわからないからそんなことを言っていたのでしょうけど。
メンバーには均等に尊敬して接していたつもりだけど、礼の欠けたメンバーにはそれなりの対応になっても仕方ないと俺は思うし、どんだけ甘えるつもりだったのかと言いたい。面倒な事は俺が全てやってたし、それ以外で面倒と思うのは個人の範疇です。
バンドの代表者としては、お客さんに気を回していたり、メンバーへの段取り周知や自分なりに分かる範囲のケアをしながら、残った時間で自分のパフォーマンスを準備していた。自分は後回し。
それ以外の事でメンバーに気が回らないことだってあったかもしれないが、そこはむしろフォローしてくれてもいいのではないのか。
フォロー出来ないからといってそれを攻める気は全くない。それは個人の資質だから。
しかし、その代わり、それができるメンバーと比べて、正直接し方が少し淡白になってしまうのはやむを得ない事だと思う。
そこを自主的に気づくかどうかは、繰り返しますが、個人の資質なので面と向かって言う事ではないかなと思います。しかしそれを察する事ができるか否かが、大きく信頼に関わるところ。
以上のことをわざわざ言ってしまうと強制になり、負担を与えてしまいかねないので、敢えて言わず自主性に任せた(別に求めてませんけど、応えてくれたなら嬉しく思うのは当たり前)。言わずともわかってくれたメンバーもいた。そこはセンスの違いでしょう。
長続きするバンドはそこのセンスが合っているメンバーが揃っているか、いい意味でリーダーに全部お任せなのでしょうね。
これも恩着せがましいので言わなかったが、自分のやりたい曲だけでなく、みんなが何気なく言った一言も記憶しながらメニューを決めてたし、各パートに見せ場を持たせる選曲をしていました。
私としてはメンバーありきでやってたつもりですが、自分の思い通りにならないからと言って、メンバーを大事にしていないなどと言われるのは大変心外(他人を使い、また、ブログ、mixi、果ては裏ブログも駆使され、伝わってきましたが)。
楽器のないメンバーに鍵盤貸したり、挙句は貸した高額なシールドをステージ上に忘れて失くされたりされても不問にしましたけど(はっきり言って人としてダメですけどね。あとそれが見つからないライブハウスというのもどうなのか。)、それでも大事にしてないと言えるのかね。
まあ、それ以外にも、重箱の隅をつつくようにミスの指摘をしてきたり、不遜な態度を取ってきたり、自らのブログ等に愚痴や思わせぶりな内容を書いたり(しかも一体何が不満なのか理解しかねる。言いたい事はわかるがあまりに幼稚で。mixiを開くたびにそのつぶやきが出てくることにうんざりした)、ムッとする事は多々あり、我慢はしてたけど雰囲気は幾度となく悪くなった。それを取り繕う身にもなって欲しいものだ。
さらにタチの悪いことに、この人、交友範囲を広げてはトラブルを起こす習性がある。メンバーとして迎える時にその辺りも懸念していたけどまさに命取りになったわけだ。
札幌なんて狭いんだからよしときゃいいのに、食いつぶしていく傾向があるのだ。
もっとあるけど二度と関わりたくない人間の話はこの辺で。
また、心残りがあるとしたら、もっと他のバンドとも絡んでできるはずだった。しかし、バンド内が不安定(内紛状態)であったり、それとも関係するけど、この時の札幌での我々の周辺というのは仲良くやるというよりは張り合う土壌だったのかな、、、イメージしたようには出来ませんでした。相手のあることだからそれも仕方がないが、ふとりカンタビレみたいな自分の企画は割とよかったけどね。
最後の方でやったイベント的なのは、プレイヤーというよりは事務局のほうに回されてしまいましたが、競い合い、張り合いみたいで楽しくはなかったね。一部の人だけ絡んだりね。もっと楽しく、一緒に作ろうと出来ないものなのかな。
クソも味噌も一緒に仲良しこよしと言いたいわけでは決してないのだが、少なくとも味噌同士で美味しい味噌は作れるはずだ。これが出来ないところがつまらないね。自分の方はライバル視される程のバンドとも思ってないわけで。勝手に嫉妬されても、と困惑する事も何度かありました。
と、 良い事も悪い事もあったけど、それなりに存在感のあるバンドであったし、応援していただいた方々には感謝しても仕切れない。幸せなバンドだったと思います。
本当なら華々しく10周年記念!とかやりたいところでもあるけど、抱えていた苦々しい想いを吐き出してみました。ようやくここまで来れた…。
単なる愚痴ではなく、バンド論になってるでしょうか?。
CANNONBALLライブ履歴
(動画→https://m.youtube.com/channel/UCO8m0PWRgWoSzpUuabrl7HA)
・2007年10月14日 大通公園 特設会場
・2007年10月21日 琴似ペニーレイン24
・2008年 7月12日 すすきのSLOWHAND
・2008年 8月 2日 SUSUKINO810
・2008年 9月20日 中島公園YAMAHA MUSE
・2008年12月13日 狸小路MOLE
・2008年12月28日 大通SOUNDCRUE
・2009年 6月 8日 琴似ペニーレイン24
・2009年 7月19日 琴似ペニーレイン24
・2009年 8月 2日 小樽ドリームビーチ TUBES
・2009年 8月29日 琴似BURN
・2009年12月27日 苗穂VINNIE'S BAR
・2010年 1月17日 すすきのKRAPS HALL
・2010年 2月27日 苗穂VINNIE'S BAR
・2010年 7月 3日 SUSUKINO810
・2010年 8月28日 苗穂VINNIE'S BAR
・2010年11月24日 創成川イーストAKEY(ふとりカンタビレ)
・2011年 2月25日 創成川イーストAKEY(ふとりカンタビレ)
・2011年 3月19日 すすきのHOT TIME(ビートルバッカーとダブルヘッダー)
・2011年 4月16日 SUSUKINO810
・2011年 9月 3日 らぐたいむ(プライベートパーティー余興)
・2011年 9月10日 すすきのKRAPS HALL
・2011年12月10日 苗穂VINNIE'S BAR(ふとりカンタビレ)
・2012年 1月28日 SUSUKINO810
・2012年 3月10日 白石LINKS(さっぽろユニ祭り、CANNONBALL Zとして出演)
・2012年12月 8日 すすきのHOT TIME