日本の夏の食生活から考えた

2011-06-24 20:59:15 | インポート

ゼライスとフルーツの缶詰で手作りするゼリー。あるいはただのお湯でとかして固めるだけのインスタント物でも良い。夏のお菓子の中で、ゼリーや寒天を使ったものがなくなったら、どんなに寂しいことになることだろうか。いや、トコロテンやくずきりというものもそうだ。

昔々の人たちは冷蔵庫も冷凍庫もない時代に、透明感のある材料を使って冷たい水と砂糖や黒蜜だけで涼しさを演出して夏の暑さを乗り切っていったわけだ。そういえば冷たい刺身の舌触りはどうだろう。新鮮な魚を大量の水を流しながら可能なかぎり清潔にして生の魚をそのまま食べられるように調理する。これは実は大変なことなのではないか。思うに最近の生肉で食中毒を起こす事件などは、日本人が長年鮮魚を生で食べてきた歴史があって、生ものを好む傾向が土台にあって起こってきた事件事故ではないだろうか。

いや、欧米にも生肉の料理はある。だが、日本人が魚に詳しいのと同じく、肉の鮮度や調理法に詳しい欧米人なら、何がなんでも生肉とは考えないのではなかろうか。おさかなの生に慣れきった日本人だからこそ、お肉もおさかな並みの感覚でお刺身のつもりで生肉を食べて中毒をおこすのではないか。

おさかなの調理は大量の水を使って洗い流しながら生でも食べられるものに変えていくわけだが、肉は違う。生肉はよほど新鮮でないかぎり、かなり危険なものと感じるのだが、どうして最近の人達はそれを考えないのだろう。不思議でならない。日本人の誰でもが肉を食べるようになったのは、明治維新以後でそれまでは、肉食は忌み物だったのも忘れられて久しい。しかし、肉食の歴史の浅いこの国だからこそ、肉についての知識も浅いのだろう。お刺身並の感覚のままなのだ。

ちょうど昨日は木曜日で真生会館での聖書の集いに出席し、キリストの聖体について考えさせられたところだが、日本人で、本気でキリストの血と肉としての聖体を考えられる人はそんなに多くはいないのではないかと思う。大体、肉食で生肉をたべてもお刺身感覚の国民性なのだ。小さい時に父が鶏をさばいて料理するために鶏の首をちょんぎったときの噴水のようなに吹き上がった鶏の血のものすごさにおとなになるまで、鶏が食べられなかった当方、聖書に出てくる生贄の子羊という言葉はきれい事にはおもえないのだ。

肉を食べるということは本来は血まみれの行為なのだ。血まみれの肉にはハエも集り、腐りやすいし、バイキンも付きやすいのだ。生魚を料理するのと同じではないのだ。その辺を今の日本人はあまり考えていないのではないか。

聖書のキリストの聖体の意味はもちろん、本物の生肉や流れる血の海のことではない。こちらで大切なのは、キリストは生贄の子羊、人間たちの神に対する罪の贖いのための身代わりの、本物の犠牲の子羊なのだということだが、そのままで日本人にピンと来るかどうか、どうも疑問だ。このへんも日本のキリスト教信者数が増えない原因の一つかもしれない。