今晩は、マリーさんでーす。
また自分に「さん」をつけてるって? いいじゃないのそんなの。うちのおばはんも「~」を使わないで書いてみると全体のバランスが悪いって苦労してるんだからさ、このくらいは我慢してよね。あの人の言語感覚に合わせてみてるとこよ。
今日はねえ、うちのおばはんの知り合いの若い神父様のお母様が亡くなってお葬式があった知らせがきたの。まだ若かったのよ。普段おバカなことばかりしてるうちのおばはんあたりでも、人が亡くなるって、なんかすごく重たい出来事なのよね。だいたいあの人が教会に行くようになった直接のきっかけは自分の母親が死んでからよ。
あの人が小学校一年のとき、母方のお祖父さんが脳溢血で急死したのね。それがあの人の生まれて初めて出会った人間の死ってものだったわけ。それから、子供だったあの人も人間は誰でも必ず死ぬって事に気がついたのよ。大事なお父さんもお母さんも自分も兄弟も家族のみんなが、いつかは終わりが来て死んでいくことに気がついたの。それで、子供のくせに終わりのないものがほしい、無くならないものがほしい、永遠に続くものじゃなくちゃ嫌だって思うようになったのよ。
そして、お母さんが若いときから体が弱くて入院したりしていたから、子供心にも、自分の親は自分が成人するまで生きているかどうかわからないのだっていう不安を持っていたの。そして心配していたとおりお母さんはあの人が高校三年の卒業目前の頃に急死したの。44歳よ。
それからよ、あの人がキリスト教の教会に行くようになったの。教会だって、今のあの人の状況を考えればわかるように人間の集まりだからさ、いろんなことがあるわよ。世間とさして変わんないの。だけどあの人の出発点が出発点だから、そういうことに迷わされない部分があるのよ。たしかに頭にきてかっかとするんだけど、それでも結局いつかは善人も悪人も等しく終わりがきて、お墓に入るんだって思っているのよ。
それだったら、どうせ終ってしまうこの世のもの、つまりさ、お金とか、物だとか、立派な住まいや、よい服や靴やバッグ、アクセサリーなんかじゃなくて終わりのないもの、永遠のものじゃなければ満足できないじゃないのよ。
元々、あの人のお父さんの実の親という人がお坊さんだったらしいのね。それでお父さんがまた結構、求道的なところがあって、自分の子供のあの人にも小さいときから仏典の一節だとか、禅の道歌とかを教え込んでいたの。だから、あの人、ちっちゃい頃から知らず知らずのうちに、物思う人になっていたのよ。いいかわるいかはわかんないけどね。
そんなんだから、二十年も三十年も人を信じて待ち続けて還暦過ぎたおばはんになっちゃったのかねえ。だけどそれはとにかく、世の中いろいろあるけれど、絶対変わらないことが一つだけあるんじゃないのかしら。つまりさあ、人間て誰でもみんな必ずいつかは死んでいなくなるのよねえ。そこんところを忘れちゃうから、世の中、変なことがいっぱい起こるんだわさ。
自分の家族や知り合いが亡くなるのは悲しいけど、それは実は悲しみを通して終わりのないお方を思い出させてくださっているのかもしれないじゃない。全てがうまくいっていると、自分が全部取り仕切っていけるつもりになっちゃうじゃないの。でもそうじゃないのよねえ。
うちのおばはんにしても、それはこの状況はうれしくないけれど、何の意味もないことなんてないんだからさ、今日は弁護士さんから連絡もあったし、これでまた少しずつ話も進むんじゃないのかな。九月ももう半分終わっちゃったし、まあ、とにかく自分より遥かに大きな大きなお方の手が働いていることを信じて一歩一歩進むしかないんだって。
また自分に「さん」をつけてるって? いいじゃないのそんなの。うちのおばはんも「~」を使わないで書いてみると全体のバランスが悪いって苦労してるんだからさ、このくらいは我慢してよね。あの人の言語感覚に合わせてみてるとこよ。
今日はねえ、うちのおばはんの知り合いの若い神父様のお母様が亡くなってお葬式があった知らせがきたの。まだ若かったのよ。普段おバカなことばかりしてるうちのおばはんあたりでも、人が亡くなるって、なんかすごく重たい出来事なのよね。だいたいあの人が教会に行くようになった直接のきっかけは自分の母親が死んでからよ。
あの人が小学校一年のとき、母方のお祖父さんが脳溢血で急死したのね。それがあの人の生まれて初めて出会った人間の死ってものだったわけ。それから、子供だったあの人も人間は誰でも必ず死ぬって事に気がついたのよ。大事なお父さんもお母さんも自分も兄弟も家族のみんなが、いつかは終わりが来て死んでいくことに気がついたの。それで、子供のくせに終わりのないものがほしい、無くならないものがほしい、永遠に続くものじゃなくちゃ嫌だって思うようになったのよ。
そして、お母さんが若いときから体が弱くて入院したりしていたから、子供心にも、自分の親は自分が成人するまで生きているかどうかわからないのだっていう不安を持っていたの。そして心配していたとおりお母さんはあの人が高校三年の卒業目前の頃に急死したの。44歳よ。
それからよ、あの人がキリスト教の教会に行くようになったの。教会だって、今のあの人の状況を考えればわかるように人間の集まりだからさ、いろんなことがあるわよ。世間とさして変わんないの。だけどあの人の出発点が出発点だから、そういうことに迷わされない部分があるのよ。たしかに頭にきてかっかとするんだけど、それでも結局いつかは善人も悪人も等しく終わりがきて、お墓に入るんだって思っているのよ。
それだったら、どうせ終ってしまうこの世のもの、つまりさ、お金とか、物だとか、立派な住まいや、よい服や靴やバッグ、アクセサリーなんかじゃなくて終わりのないもの、永遠のものじゃなければ満足できないじゃないのよ。
元々、あの人のお父さんの実の親という人がお坊さんだったらしいのね。それでお父さんがまた結構、求道的なところがあって、自分の子供のあの人にも小さいときから仏典の一節だとか、禅の道歌とかを教え込んでいたの。だから、あの人、ちっちゃい頃から知らず知らずのうちに、物思う人になっていたのよ。いいかわるいかはわかんないけどね。
そんなんだから、二十年も三十年も人を信じて待ち続けて還暦過ぎたおばはんになっちゃったのかねえ。だけどそれはとにかく、世の中いろいろあるけれど、絶対変わらないことが一つだけあるんじゃないのかしら。つまりさあ、人間て誰でもみんな必ずいつかは死んでいなくなるのよねえ。そこんところを忘れちゃうから、世の中、変なことがいっぱい起こるんだわさ。
自分の家族や知り合いが亡くなるのは悲しいけど、それは実は悲しみを通して終わりのないお方を思い出させてくださっているのかもしれないじゃない。全てがうまくいっていると、自分が全部取り仕切っていけるつもりになっちゃうじゃないの。でもそうじゃないのよねえ。
うちのおばはんにしても、それはこの状況はうれしくないけれど、何の意味もないことなんてないんだからさ、今日は弁護士さんから連絡もあったし、これでまた少しずつ話も進むんじゃないのかな。九月ももう半分終わっちゃったし、まあ、とにかく自分より遥かに大きな大きなお方の手が働いていることを信じて一歩一歩進むしかないんだって。