何故だ

2014-10-08 11:16:29 | Weblog
10月に入って、さすがにのんびり構えてばかりもいられないので、何とか原稿を進めなくてはと思いながら、手はパソコンの動画選択に向かうというあまり誉められない状況なのだが、それでも神様はちゃんと怠け者にさえ、それなりの方向から手を差し伸べてくださるような感じ。

さて今日はどうしようかと思いながら、手は勝手にユーチューブを開いて、あちこち見ているうちにふと思った。カトリック教会の関係サイトには活動会、観想会、いろいろ取り揃えてどんな生活をしているのか一端を紹介して見せているものも多いのに、日本の仏教となるとお寺さんの紹介サイトはあるけれど、お坊さんや尼さんの修業の様子なんてあまり聞かないなあ。そういえば昔のガラルダ神父様の講座には、妙心寺派の本物のお坊さんが来ていたっけ。あとは我が地元の中山法華経寺の寒の水垢離修行くらいしか知らない。

インターネットではどんなものが出てくるのだろうというわけで検索してみると、これも臨済宗妙心寺派の修行道場のサイトが出てきた。岐阜の瑞龍寺というところのホームページだった。禅宗についてはあまり知識がないからなんともいえないが、女性の、というか尼僧の専門道場らしいのだ。

パラパラとそこを覗いているうちに、何故か今年の1月の水の冷たい時期に海に入って自殺してしまった妹のことを思い出した。同じ親から生まれ、同じ環境で育った3人、私と妹、弟、だが、3人ともどうしてこうも違うのだろうと思った。

しかし、瑞龍寺のホームページの扉をみているうちに、妹がどうしてあんなことになってしまったのか、なんとなくわかったような気がしてきたのだった。同じ親から生まれた3人なのに、妹も弟も自分の中に芯になるものがない。ちっぽけな自分を超えた大きな大きなものが見えないまま妹は逝ってしまった。自分の狭い心の中にこもったまま逝ってしまった。弟は生きているけれど、あの子も自分しか見えない子だ。

可哀想だけれど当人がその気にならなければどうすることもできないのではないか。当人がもう少し大きく目を開いて自分の心の中だけでなくもっと広く周りを見ていたら、あるいは言い換えれば生きようという気力があったら、ああ、そうなんだ、生きたいという思いが少しでもあったら人間は何とかして生きるために努力もし、周り中に助けを求めていくのじゃないか、あれはそうせずに簡単に冷たい冬の海の水の中に入っていってしまった。周りには教会だってお寺さんだってあるし本当に困っている人間を見捨てはしないのに、あの子は結局、生きていたくなかったのだ。自分で自分を見捨ててしまったのだなあ。思い通りにならない人生、何のために生きているのかわからない人生、みんな誰だってそうなんだけどそれでもその人が芯になるものを持っていたら、簡単に死んだりはしない。

妹のことで今できることは、ただただ、神様の憐れみを乞い願うことしかできないけれど、決して決してお前をわすれることなどできないよ。少なくともこの先危ない感じの人を見たら放ってはおかないつもりだ。

イスラム国のようなものを考えるとやたらなことはいえないけれど、本当の宗教というのは自分がどんなにちっぽけな存在なのかをわからせてくれるものではないのか、自分で生きているつもりでも本当は生かされて生きていることをわからせてくれるものではないのか。そういうものが心の中にあったら、人は簡単に死んだりはしない。