小さん 粗忽長屋
こういう怪談ぽい話が落語には結構あるというのも、やはり、落語のはじまりがお寺さんの法話だったことと関係しているのでしょうね。ただ、単に面白いだけではなく、その後ろに人間というものを考えさせるような一面を隠し持っています。
「もう半分」古今亭志ん生
「もう半分」古今亭志ん生
朝からなんだが、今テレビで現在の市川染五郎を見ているところだ。この人のお父さんが染五郎を名乗っていた頃を覚えていると、実に不思議な気分だ。
同じ弁慶を、お父さんの代の演技、おじいさん、ひいおじいさんの代の演技までフィルムが残っていて、この人は、脈々と続いてきた一家一門の演技を受け継いで自分なりのものを生み出そうとしているわけだ。この辺が実に日本だなあと思わされる。
今の時代は『家』の概念も良くも悪くも薄まり、消えていこうとしている時代で、お墓さえも次第に形を変えていこうとしている。でも、だからこそだろうか、変わらないものが残っていてほしいのだ。
日本の日本らしい部分は変わらずに続いていってほしいのだ。さもないと根無し草のようではないか。やたらに自分の家柄を誇るようなのは感心しないが、それでも確かにその人の存在の大本にある代々の先祖から今日まで続いているものは大切にされていくべきだと思う。
さらに言えば、それをさらにさらに大元までたどるとき、人はいやでも、人間を超えた世界にまで思い至るのではないだろうか。すべての存在の大本、存在を与えてくださったお方に目が向くことになるのかもしれないではないか。
同じ弁慶を、お父さんの代の演技、おじいさん、ひいおじいさんの代の演技までフィルムが残っていて、この人は、脈々と続いてきた一家一門の演技を受け継いで自分なりのものを生み出そうとしているわけだ。この辺が実に日本だなあと思わされる。
今の時代は『家』の概念も良くも悪くも薄まり、消えていこうとしている時代で、お墓さえも次第に形を変えていこうとしている。でも、だからこそだろうか、変わらないものが残っていてほしいのだ。
日本の日本らしい部分は変わらずに続いていってほしいのだ。さもないと根無し草のようではないか。やたらに自分の家柄を誇るようなのは感心しないが、それでも確かにその人の存在の大本にある代々の先祖から今日まで続いているものは大切にされていくべきだと思う。
さらに言えば、それをさらにさらに大元までたどるとき、人はいやでも、人間を超えた世界にまで思い至るのではないだろうか。すべての存在の大本、存在を与えてくださったお方に目が向くことになるのかもしれないではないか。