むずかしいところだ

2014-10-10 18:50:18 | Weblog
隣町の吉祥寺にノートルダム修道女会の修道院があって、黙想会に出かけたこともある。今はどちらにお住まいなのかよく知らないが、以前はこちらも三鷹のほうの図書館にもよく足をのばしていたのでこの有名なシスターのお姿もバスの中でお見かけしたりしていた。というか四谷の教会のトイレですれ違って、シスターのごめんあそばせという言葉に感心していたりしたのだった。

でも、実を言うと当方、ものすごく人見知りで知らない方には知らん顔をしてしまうのだ。なんといっても畑の中の一軒家育ちで知らない方と話すのは恥ずかしくて逃げてしまう人間だ。これは遠藤周作先生にも、三浦朱門先生にも、立花隆さんにも同じような態度をとってしまったものだ。65歳になろうという今だったらさすがに逃げないし知らん顔で通り過ぎもしないだろうと思う、たぶん。いやわからないな、人見知りの虫がまだ生きているから。

とにかくそんなわけでシスター渡辺和子先生にはやはり親しみを持っていたものの、ユーチューブはどうせお説教だろうと先入観で見る気がしなかったのが、たまたま何気なく見てしまい、やっぱりさすがだと、ブログにも転載してみた。いいことをおっしゃっておいでだ。

置かれたところで咲く、実はちょっとこの言葉は誤解していた。以前そりの合わない人物がたびたびこの言葉をおっしゃり、こちらはこの言葉を聴くと、なんだか自分の程度をわきまえてそこでおとなしくしていろと言われているような気がして反発しか感じなかったのだ。

今は状況も少しは変わってきたが、当時、なぜかある方たちはこちらを認めるどころか足を引っ張るための細工ばかりしておいでで、何とか少しでもこちらの考えをわかっていただこうと、こちらは何作もの童話や物語、できの悪い小説もどきを書いていた。できは悪くてもけっこう重要な意味をこめて書いていたので、予想以上のことになったわけだが、そうなったらそうなったで、ますます足を引っ張られ、真実は隠され、悪い話ばかりが流れていったものだ。

そんな中で置かれた場で? ご冗談を、これは私を枯らすための嫌がらせの場、こんなところがわたしの本来の場のはずはないとがんばっていたので、先生のおっしゃりたい意味にまで到達できなかったのだ。

それが今、足腰も具合が悪くなり、夢も希望もいやでもあきらめなくてはならないとなり、妹も死んでしまって今、ああ、この状況で、この中で咲かなくてはいけないのだとやっとこの言葉の意味がわかってきたのだからわれながら自分の鈍さにあきれる。

まあ、とにかくできることをするしかないのだし、妹のためにも何とかもう一作、物語を書くつもりだ。出来のよしあしはこの際二の次ですな。こうして材料が集まってくれば書き出しの糸口もいずれ決まってくるはず。もうちょっとかな。