帯に短し、たすきに長し (ステッキバッグの大きさの問題ですね)

2014-10-25 19:23:14 | Weblog
☆ 今ここに再掲載している分は、はてなにだしたもので、ここにもすでに載っているものもありますが、コピーの時系列の都合でそのまま出します。


こんばんは~、マリーで~す。

昨日はさあ、あたしまでうちのおばはんにつきあって、調子がおかしくなったパソコンとタブレットを元に戻すのに夜中の2時近くまで起きてたのよ。結局、仕方がないから両方とも初期化しちゃって、はじめからやり直しになっちゃったの。見ている目の前で変になっていったのよ。どうもこれってなにかセキュリティがちゃんと働いてない見たいだって、あの人夜中までかかってリカバリーとセキュリティソフトの入れ替えをしてたのね。

jcom推奨のソフトに代えたら今日はもうちゃんと正常に動いてるの。やんなっちゃうわ。だから、めんどくさがらずに最初から入れとけばいいのにさ、あの人、怠けたがるからこういうことになるんだわさ。

それでも今日は金曜日だからってあの人、寝不足の頭を濃いコーヒーでたたき起こしてまじめにちゃんと吉祥寺の昼ミサに出かけたのよ。なんたって昨日、司教様に、自分の所属教会じゃないけど、一番近い吉祥寺のミサに行っててもいいかどうかたずねて、いいですよって答えを聞いたばかりだもん、これは出だしから怠けるわけには行かないもんね。

そういえば昨日は聖書の集いにあの人も久しぶりに出かけたんだけど、聖歌隊の長年の知り合いも久しぶりに出てきてたの。このところあの人、四谷はたまにしか行かないからなかなか会えない人だったからうれしかったみたい。なんたってずいぶん昔からの知り合いだからどうしてるかとか気になるみたいよ。向こうは奥さんだけどまだうちのおばはんより若いんだけど、知らないうちに大病をしてたりしたし。

教会の人間関係っていろいろごたごたもあるけど、赤ちゃんからお葬式まで、人の一生の長い年月を一緒に過ごしてきた人たちだから、知らん顔してても、結構気になって心配するみたい。知り合いの名前が教会報の訃報欄に出ていると、自分の人生の一部が失われたような気がするのよね。

教会自体の移り変わりも同じよ。マンモス教会も実は時代の移り変わりの中で司祭がどんどん減ってきたし、司祭になろうという若い子がものすごく減ってるし、まあ、人口自体が減ってきてるからしょうがないんだけど、天下の○○会なんていわれたはずの修道会が司祭の減少で、いまや傘下の学校の法人をひとつにまとめるようなことになってきたし、大変な時代なんだわ。

うちのおばはんも怒ったり、うらんだり、憎んだりしてても、その中で生きてるから、そんな状況は心配でしょうがないのよ。心配するだけじゃどうしようもないけどさ。

まあ、とにかくあの人、これから当分、安い小型のと、ちょっと高い大型のと、杖代わりになるバッグが2つ、使い道によってとっかえひっかえ使いながらなるべく外を出歩いてれば、不思議と考えもまとまって、書きたい話の形も見えてくると思うわよ。今までだってそうやって書いてきたんだもん。ただ机に向かってるだけより効率がいいんじゃないかしら。

今日はこんなところかな、ほんじゃまたね。


相棒13-2  14歳

2014-10-25 19:21:48 | Weblog
今日は今シーズン第2回目、カイト君はどう変わってきたのかと興味しんしん、じっくりとみて少しわかってきたのは今シーズンはカイト君の成長振りが目に見えてはっきりしてきたようだ。

そして今日の話しのタイトルも多分そこまで考えたわけではないかもしれないが、人の成長を思わせられるタイトルだった。14歳、中学2年、実は個人的にも非常に思い出深い年齢だった。

小学生のころ、男の子も女の子も一緒になって子犬や子猫のようにわいわいがやがや遊びまわって、みんなそろって中学に入学。中一の子達はまだ小学校7年生だ。ところが中2になると、あれよあれよという間に、男の子は男の子、女の子は女の子で群れ、初めてそれぞれ妙に意識し始め、気がつけば心身ともに子供からちょっぴり大人になり始めていった、そんな時期が中学2年、14歳ではなかっただろうか。

幼虫がさなぎになり成虫になっていくように、心も体もどんどん変わっていく人生最初の激動の時期だ。だから今でも14歳の犯したとんでもない犯罪の記事を読んで年齢を見たとき、なんとなく納得するくらいだ。

今日の相棒に出てきた14歳は大人たちの欲得、野心、名誉心などに巻き込まれてしまったように感じる。いつものことだが、このブログではストーリーの紹介はなるべく控えさせて頂く。やっぱりご自分で実際にみていただきたいのだ。

とにかく最後にこの14歳のしたことが厳重注意で済んで本当によかった。それにしても出だしの被害者の持ち物のダイバー用の腕時計のベゼルのずれに目をつけて、あの細かいことが気になる右京さんの推理がはじまるところさすが。

今日は花の里の〆も14歳向きにお茶漬けではなくてオムライスだったのが印象的で、オムライスがたべたくなっているところであります。



メモ

2014-10-25 19:18:59 | Weblog
祈り


人間は群れて生きる動物だから、社会生活は生きていくために欠かせない。他者とのかかわりの中で人間は人間になる。社会とのかかわりは重要なのだ。

しかし同時に、人間にとって、もっとも面倒で大変なのも、他者とのかかわりだ。家族はもちろん、友人、同僚、仲間の人々は同時に生まれたときからの競争相手という一面もある。これは人間だけのことではない、生きとし生けるもの、すべての生命の宿命だろう。今はやりのいじめの問題も実は人間性そのもの、生物としての限界から考えていくべき問題なのだろう。

どこまでいっても自分と他者とは別の存在、分かり合えない部分があって当然なのだ。そうわきまえない限り自分も不幸になるばかりだろう。同時に一人でも生きられる強さが必要だ。昔教わった言葉で言えば『個の確立』無しには果たせないことなのだと思う。


結局いつの間にかこの年齢になってしまい、日本のカルメル在世会では年齢制限ということで断られたのだが、現実にはそういうものは人間が勝手に決めた年齢制限で、神様がお決めになったわけではない。ひとつの組織のやりかたが神様のおぼしめしのすべてではない。さもなければヨーロッパキリスト教の世界にも古代からあった孤独の隠遁者などはありえないはずだ。祈りによって神に近づく道というのはそんなものではなかろう。

人間は組織の権威や守りを求めるが、真の祈りはそんなところにはない。それぞれひとりひとりが神様に向かって歩みを進めていく以外にないのだ。

ではどうしたらよいのか、これは自分の経験を頼るだけだ。四ツ谷は真実が全然お分かりにならなかったようだが、本当はこちらはプロテスタントの信者だった頃からあの、正教会の「イエススの御名の祈り」をもっと短くして昔はいつも心の中で唱えていたのだ。昔はそうしていたのが、いつのまにかしなくなってしまったわけだ。

何故かというと、それを守るには出来るだけ聖書や聖句、聖歌、賛美歌で生活が満たされていないとむずかしい。つまりカトリック教会で言えば出来る限り毎日ミサに与かって、教会活動や講座に出席して心をキリスト教の方向に向けておくことは必須なのだ。なんといっても人間は弱いから何らかの枠組みは必要だということになる。

どうもこれはどちらかというと都会のカトリック教会では難しい感じだ。世間的すぎるのだ。いっそのこと、プロテスタントのグループとかかわったほうがいいかもしれないと思う。カトリックでは信者のこころはまるで世間一般とおなじようではないか。何代も続いた信者の家の方とか、小さいときからミッションスクール育ちの方のごく一部はそれほどでもないけれど、たいてい世間一般の信者でない方たちと同じだ。その中で一緒に同じように生きていれば、同じようになってしまうわけだ。

祈りの生活は、出来るだけいつでも神様に心を向けている状態を維持している事が大事なのだ。昔の古臭いと思われそうなプロテスタントの信者の生活、テレビもそんなに見ない、映画も演劇も週刊誌。雑誌も見ない、世間的な価値観に触れない生活を、今またそれを取り戻そうとしても、時代が違うから難しいところも多いが、世間一般の基準ではだめなのだ。それがあれば生活保護だろうとお金がないからといってじたばたしたりもしない、神様が生活の中心でないとすべてがうまくいかないのだ。


そして重要なのは、私がこれまで書いた童話や物語はみんなそんな祈りを大事にした生活の中で生まれてきたものなのだ。今、書こうと思っている話もおそらく、心が祈りに向かっていないと書けない、書いても人間的なものになってしまうような気がするのだ。

自分と神様の対話の時間を増やさなければだめなのだ。


うちのおばはんは腰痛

2014-10-25 19:17:10 | Weblog
うちのおばはんは腰痛

こんにちは~、てか、もうこんばんは、かしら? お久しぶりのマリーで~す。

あ、もしかしてあたしを知らない人がいるのかしら? あたし、うちのおばはんの相棒のケータイのマリーっていいます。スマホじゃなくてガラケーよ。あの人、小学生のころからメガネをかけてたド近眼で、今じゃ、老眼に緑内障まで持ってるから、ちっぽけなアイフォンじゃだめだって、生意気に外出先で簡単な仕事もできるタブレットとあたしの2台持ちなのよ。

あの人、もともとがタイプとか写真植字とかの印刷関係の仕事をしていたから文字を扱う仕事はお手の物だったんだけど、機械に弱いから、あたしに出会って、ケータイでブログを書いてみるまでパソコンに手が出なかったの。それがケータイでインターネットを使ってみて、これは何とかしてパソコンを手に入れなくてはって頑張って、パソコンを買って習いにいって、ブログやSNSを始めたわけよ。

運よくあの人、書くのは好きだからこうしてあたしの出番も作ってくれてるのよねえ。うちのおばはん、年は言ってるんだけど、心の中は幼稚なところがあって、ディズニーが大好きなもんだから、ディズニーキャラのマリーをあたしの待ち受けにしていて、あたしの名前もマリーになったってわけ。

ま、いろいろあるんだけどさ、簡単にかいつまんでこれまでのことをいうとそういうことなの。あの人さあ、ちゃんとした技術職だったんだし、ほんとだったら印刷関係とか、なにかしら仕事はあったはずなのに、なんだかわけのわからないごたごたに巻き込まれて全然就職できなくなっちゃって、生活は大変なんだけど、一応、書いたものがある経路からさるお方にお読みいただいたりして、まったく誰にも知られていないというわけでもないから、足をひっぱられたりはしても、なんとかかんとか来たのね。

ほんでもって、今、新しい話を書こうと思ってるらしいんだけど、年月がたつうちにあの人も年をとってきて、今じゃ、腰痛に股関節やひざの関節痛なんか抱えちゃって、りっぱにおばば世代の仲間入りよ。明日も河北病院のクリニックに行って整形外科で骨密度の検査とか痛み止めのお薬をいただいてくるのよ。若いころには考えたこともなかった状況なんですって。人間、生きていればいろんな経験をするんだわさ。

あの人のお母さんなんか44歳でこの世を去ってしまったから、今、うちのおばはんはお母さんが経験しなかった老化の道筋を一歩一歩進んで自分で経験してるところなのよね。せっかくだからこの年をとっていくっていうこともちゃんと味わってみなくちゃ。生きているときにしか経験できないんだもんね。

腰が痛いのって楽じゃないみたいだけど、それだって生きてるうちだけよ。なんでも経験したことを種にして心の中に撒いておくと新しい何かが生まれてきたりするんだから無駄じゃないと思うんだわさ。

足が痛い、腰が痛いって文句ばかり言ってないで、それも種にしなくちゃ。せっかくこの世に生まれてきて元気に生きてるんだから、自分が今経験していることも味わって生きなくちゃ損よ。どんなことも自分の経験したこと、記憶、思い出、良くも悪くもそれだけがあの世にまで持っていけるものなんじゃないの。あたしはそう思うわ。

お前さんはケータイのくせに生意気だって言われそうだからこの辺で引っ込んじゃおうっと。どうせ今日は水曜日だから相棒があるし、あの人、この後また相棒の話をもうひとつ書くんじゃないかしら。たいしたこともないけど、そっちも読んでね。 ほんじゃまたね。


相棒13が始まった

2014-10-25 19:14:33 | Weblog

相棒13-1 ファントム・アサシン


見終わって思った。うーん、気になりますねえ。この最後のほうで出てきた混血の小さい女の子、社美彌子をママと呼んでたけど、パパは誰なんだろう?あのロシア人か? カイト君と彼女はどうなるの? これも気になりますねえ。今回だけで切りのついた話ではないからこれから先がどんどん気になりますねえ。

話自体は簡単なようで恐ろしく複雑なので見終わったばかりでブログに出すのはちょっと難しい気がします。これはやはり出来るだけ実際に見ていただかないと説明しきれません。次から次と続く殺人事件、どうもそれはみんなどこかでつながっているらしい。そこにかかわっている怪しげな人物たち。日本人だけではない、アメリカに亡命しようとしているロシア人もいる。いったい、みんな、どこでどうつながっていくのか。話が終わってもまだ全体像がつかめない。気になることだらけです。

ということで初回の感想はおしまい。

あ、仲間さんてとても声がきれいな方だと思いました。

落語を聴きながら現代を考える

2014-10-25 19:04:47 | Weblog
落語を聴きながら現代を考える


最近、落語をあらためてまた聞き直している。子供の頃からよく聞いていたので話しは結構知っているのだが、大人の現代に生きるおばはん世代の女性として落語を聞くとずいぶんいろいろと考えさせられる。江戸の時代に吉原という超巨大風俗施設が成り立っていたのは、あれは武士階級がきちんとトップに立っていたからだろう。今だったら広域暴力団と警察の癒着とかろくなことにしかならない筈だ。

あれはきちんとした歯止めのある時代ならではのものだと思うし、女性の人権はどうなるのだと思わずにいられないのも事実だが、同時に今の時代とは違うこともきちんと頭において考えねばならない。

しかし、江戸の幕府がああいうものを公認したというのは実は大変なことだったのではないか。今の時代の幼女誘拐殺人とか、女性を殺してバラバラに刻んで生ゴミにして下水に流すとか、人間のすることと思えないような事件の背景にあるものを考えていくと、人間という生物の複雑さに思い至ることになる。なぜ今の時代にはそんなことが起こっているのか?

ここでちょっと考えると、落語には家庭内暴力に泣くおかみさんと子どももちゃんと出てくる。家庭を顧みず博打にお金をすってしまう亭主、今の時代と全然変わらないのに驚く。人間のすることとはいつの時代も変わらないのだ。犯罪も当然、人間のすることだから昔も今も変わりはない。

だが、大きく違うところがひとつある。明大の刑事博物館だったか、警察博物館だったか、そこにいくと、昔の犯罪者の処刑された場面の写真もちゃんと残されているのだが、要はあの時代は磔、獄門、晒し首、刑罰は公開処刑だったのだ。それは犯罪率を下げるのに大いに効果的だったはず。

士農工商の身分制度は苦しみの原因でもあったけれど、あの時代の社会の維持のためにはどうしても欠かすことのできないものでもあったわけだ。戦国時代が終わって戦乱のない時代が明治維新まで続いていた事実を見ると、何が良くて何が悪いかは簡単には決められないものだと思う。

今の時代には公開処刑はサウジアラビアを始めとして主に戒律の厳しいイスラーム諸国くらいなものだが、それに匹敵するだけの犯罪抑止力のあるものも考えなくてはいけない時代だ。面白いことに今の日本にも武士階級が上にたっていた時代の名残が言葉にはたくさん残っている。首になる。首が飛ぶ。明治維新までの日本の庶民は下手をするといつ何時、侍の怒りに触れて首を切られるかわからないのが、日常だったわけで、首を洗って待っているのはそれほどめずらしいことではなかったのではなかろうか。イスラム国の公開処刑どころではない。

つまり、日常的に生と死が薄紙一枚ほどの距離にあった時代だからこそ、笑いの芸術も発達したのかもしれない。







市川染五郎さんから思ったのは

2014-10-25 19:03:12 | Weblog
市川染五郎さんから思ったのは

朝からなんだが、今テレビで現在の市川染五郎を見ているところだ。この人のお父さんが染五郎を名乗っていた頃を覚えていると、実に不思議な気分だ。

同じ弁慶を、お父さんの代の演技、おじいさん、ひいおじいさんの代の演技までフィルムが残っていて、この人は、脈々と続いてきた一家一門の演技を受け継いで自分なりのものを生み出そうとしているわけだ。この辺が実に日本だなあと思わされる。

今の時代は『家』の概念も良くも悪くも薄まり、消えていこうとしている時代で、お墓さえも次第に形を変えていこうとしている。でも、だからこそだろうか、変わらないものが残っていてほしいのだ。

日本の日本らしい部分は変わらずに続いていってほしいのだ。さもないと根無し草のようではないか。やたらに自分の家柄を誇るようなのは感心しないが、それでも確かにその人の存在の大本にある代々の先祖から今日まで続いているものは大切にされていくべきだと思う。

さらに言えば、それをさらにさらに大元までたどるとき、人はいやでも、人間を超えた世界にまで思い至るのではないだろうか。すべての存在の大本、存在を与えてくださったお方に目が向くことになるのかもしれないではないか。

恐ろしすぎる

2014-10-25 18:55:32 | Weblog
先日、知人のfacebookを見て、これはもっと多くの人が知るべき話と感じたので、シェアしたのですが、後で確認してみると知人の書いたものは何故か消えていました。たぶん内容がどぎついと判断されたのでしょうか? (今はちゃんと出ています)

正直な話し、私も知人の記事を読むまでエボラ出血熱の現実の姿までは考えたことがありませんでした。人体を構成しているタンパク質、コラーゲン組織がウイルスに攻撃されてぐずぐずに崩れ、皮膚の下はぐちゃぐちゃにまるで溶けたようになり血膿で膨れ上がって、見られたものではないすさまじい様子、写真検索で出てくるから見ればわかるというので見て、仰天しました。

エボラ出血熱が致死率の高い恐ろしい病気なのはわかっていてもまさかその症状がこんなにすさまじいものだとは思いもよりませんでした。血膿で風船のように膨れたのが破裂して周りにさらに病原体を撒き散らすという説明もおそろしく、それが事実らしいとわかってさらに恐ろしく思いました。

これではさすがのオバマさんも緊急事態と判断したわけです。スペインのほうはあれからどうなっているのでしょう。あの国の国民性を考えるとまったく楽観できません。

この話、こんな内容なのでこれもこちらにおいておきます。ご自分で写真検索をして顔の組織が壊れてめちゃくちゃの写真、日本国政府のお偉方たちも見て知っておいたほうがよいのですが、どうせ甘い認識で考えているのでしょうね。

これまでこの病気にかかった人は1万人くらい(ただし多いのはやはりアフリカ)、助かった人は1000にん。

買い物

2014-10-25 18:46:00 | Weblog
いつもなら買い物にはたいして気をつかわないのですが、今回はかなり慎重になりました。品物はスワニーのウォーキングバッグ。なにぶん今は出来るだけ無駄遣いは抑えたいところ、それでもこれはどうしてもあったほうが絶対便利と思うので買うことにしたのです。

通販のアマゾンで、デザインなどは散々見比べ、問題はエレベーター無しの三階に住んでいるので、スワニーは重いという評判もあるし、デザインだけではなくて実物を実際に持ってみてからでないと危ないと思いました。不相応なお金を使う以上ここはしっかりと考える必要があります

で、中野の丸井ではスワニーを取り扱っているというので、あつかましくも実物を実際に見て、重さも確認させてもらいました。近くですぐにほしい方は丸井さんだったら、説明も案内も親切だしあのお店、いいですよ。

実際に重さを確かめ、ストッパー付ではないけれど、バッグの部分に持ち手がついていて、それをにぎっていればやたらに勝手にコロが動き出したりもしないし、バッグの重さも2キロくらいで軽いものがあったので、帰宅してからアマゾンで注文しました。

ついつい、買い物も詰め込めるように容量の大きいものを買ってしまいましたけど、まあお米5キロとか、野菜果物を入れて運べる大きさという基準でえらんだのでこんなものでしょう。

カジュアルなデザインです。