blogで、死の予感を、発する文章を綴ってる人が本当に死んじゃったみたいです。
たくさんの人が、何バカなこといってるんだ、って、書き込んで、私も、その中の1人に入ったけど、死のベクトルを向いてる人間に何をいっても、響かないみたい。
「死にたい、死にたい、」と叫ぶのは、人の注目を浴びたいからで、そんな人間で、死んだやつは、いない、という言葉があるけど、
三島由紀夫のような例もあるし、必ずやってくる死、それも、今日かもしれない、明日かもしれない、そんな死を自ら縮めたって、たいしたことではないのかもしれない。
たとえ、何人かの身内が、嘆き悲しんだとしても、その嘆き悲しむ人もいずれは死ぬわけだし。
先日、テレビの小児病棟の番組をやってた。
同居人は、障害のある人の番組や、病気で頑張ってる人達の番組をなぜか、選んで見ていた。
元気で、話していたのに、その2時間後に、24時間、気持を繋げていたとおもっていたワタシにも、知らせないで、突然布団の上で、亡くなってしまっていた。
一瞬の心不全による心臓停止だったようだ。
普段から、薬でも押さえ切れない、頻繁な癲癇発作。 若さで、耐えていた心臓も、耐え切れなくなったのであろうか。 バイアグラは、心臓の弱い人には、使えないそうだが、普通の心臓をもっていても、負担は、少なくはないのでしょうね。 頻繁な、マスター...も、心臓に負担をかけるのかしら?
「苦しみが少なかっただろうから、せめてもの、救いだね」と、声をかけてくれたり、たくさんの人がお葬式にきてくれたけど、その後は、また、もとの生活
それはともかく、臓器移植の為に、莫大な金額を募金であつめて、海を渡る赤ちゃんもいるかと思えば、踏みつぶされるアリのように、戦争で殺される子供達もいる。
「命の値段」、あってないようなもの。
ただ、「そこに命がある」ということは、それだけで、周りの資源をくつぶしていること。
それと同時に、常に、エネルギーをだして、誰かと関わっていること。
人間が生きてるってそんなものなんでしょうね。
プロジェリアという病気のアシュレーという女の子が時々番組にでる。「早老症」というのでしょうが、自然にしていても、個人によって、寿命は決まってるのでしょうし、みんなとサイクルが狂ってるだけと考えて、接するより、しかたないのでしょう。
同居人の体調が、急速に悪くなっていくなかで、これが、わが息子のサイクルなら、受け入れるよりしかたないと、言い聞かせてはみたけれど、やっぱり、亡くなってしまうと、一緒にすごした、楽しい日々が思い出されて元に戻りはしないのに、涙がでてきます。
それはそれで、受け入れて、心静かに、生きて行くよりほかないですよね。
変化といえば、周りの世界が、別世界のように見える。
身内が次々に亡くなって、死が身近に引寄せられるせいなのかもしれません。
奥の細道ですね。
「死」は、もてあそぶものではなく、受け入れるもの。
いくら考えても、一つの正解なんかありゃしない。
だれにも、わからない、個人の死の意味。
それでも、古代から、生きてればこそ、死について、かんがえるんですね。
死んじゃえば、考えなくてすみますよね。
本当に、人間は、簡単に、死ぬものです。