「チャレンジ33」

日々の生活で感じたことを綴っています。

「還暦を迎えて」

2015年01月06日 | 硬式テニス

  徳山市中須北という所(山の中)が、私が生まれた場所である。

徳山駅から車で、約40分程度の所で、標高が340mくらいである。

そこで、中学校時代までを過ごした。両親と祖母、3人の兄弟、叔母の7人の家庭だった。

弟は、双子だったが、一人は乳を飲まなくて生後3か月くらいで亡くなってしまった。

川で遊び、田んぼで遊び、山で遊んだ。今考えるとそんな生活が、私の貴重な体験になっている。

小学生の時、カエルを餌にして、しかけておいた糸にウナギがひっかかり、家族で食べたことがある。

山では、アケビを取ったり、ターザンごっこをしたり、田んぼや広場で、缶けり、パッチン(メンコ)、

ソフトボールをしていたことが思い出される。

 下松という町の叔母の家から下松工業高校に通った。電気科だったので、色んな資格を取った。

今では、ほとんどの人が知らない「計算尺」も2級の腕前だ。2年生から、自宅よりバスで通学するようになった。

兄からアルバイトをしながら岡山大学に通っているということを聞いて、

自分も大学に行きたいと考えるようになり、受験勉強を始めた。

経済的に貧しかったので、費用のかからない国立の大学を選んだ。

そして、受験科目の関係から高知大学を受験した。

(兄も一度、高知大学を受験していた。弟も下松工業から高知大学に行った。兄弟にとって縁のある大学だ。)

試験科目の内、「現代国語」と数学Ⅰ、ⅡB、Ⅲは授業で習った。古典は「古典甲」だったので「古典乙」を自学、

社会は「地理A」だったので「地理B」を自学、化学は「化学A」だったので「化学B」を自学、

英語は、「英語A」だったので「英語B」を自学した。

工業高校だったので、大学受験をするには何かと大変だったが、精一杯頑張った。それが、いい経験になっている。

工業高校卒の先生はほとんどいないので、体験談として生徒に話して聞かせることもある。

 高知大学に合格した時は、本当に嬉しかった。

入試の時、図書館の横のテニスコートで先輩がしていたテニスの風景を見て、硬式テニス部に入ろうと決心した。

初めて硬式のテニスのボールを打った時の感触は、今でも脳裏に焼き付いている。

それまでは、ソフトテニスのボールさえ打ったことがなかった。

 大学を卒業して、東京の「(株)富士通SSL」というソフトウエアの会社に入った後も、週に一度くらいはテニスをした。

その後、テニスを続けた。妻との出会いもテニスのサークルからである。

中学校でもテニスの経験を生かして、ソフトテニスの顧問として、生徒に教えている。

 「感激あれ 若人よ 感激なき人生は空虚なり」の言葉は、今や私の「座右の銘」になった。

行動を起こす時に、いつも私を励ましてくれる。

病気をしない元気な心や体もテニスを続けているからである。

本当に、硬式テニスのお蔭でいい人生を歩んで来ることができた。

これからも私の人生は続く。何事にもチャレンジだ。


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