再投稿アップロード 夏のノンフィクション本選書①
この季節これからヒロシマ、ナガサキについてテレビやニュースで数多く
取り上げられるはずだが、こんな過去がすぐ前にあったことも知って欲しい
と思う。
知らないで勉強もせずに表面上、核の悲劇を嘆く若いレポーターも罪、
知っていながら取り上げずに妙な論調に番組を誘導する:I解説者も罪だ。
【ナガサキ消えたもう一つの「原爆ドーム」】
高瀬毅 271頁 平凡社 2009年7月1日第一刷
いろいろ感じるところがあり、政治的な話とか民族的な話はSNSでむやみに自分から発信するのは避けようと思うようになった。
この本も自分では非常に興味深く、また、驚きを持って読ませていただいたが、あまり上記に踏み込んだ意見にはならないように気を付けたい。
この本の作者高瀬毅は1955年生まれ、ラジオ、新聞、雑誌等のノンフィクション作家、ジャーナリスト。
彼を産む前の母親は長崎原爆投下の日に長崎市内にいながら偶然と幸運の奇禍により被爆を免れるという運命であった。
しかし、高瀬にとっては2009年にこの本を書くために取材する前は長崎はその町並みも天主堂ものどかな、坂の多い故郷でしかなかった。
「遠い記憶をたどればその町はいつでもなぜか眩しい光に包まれていた -中略- 僕の記憶の中のその町はいつも夏だった」(まえがきより)
長崎にはたくさんの観光名所があり平和のシンボルがある。
人類がヒロシマに次いで僅か3日後に再度核爆弾を体験した地でもある。
現在その悲惨な歴史のシンボルは坂の上の平和記念公園とそこに作られた巨大な平和の像である。
広島には負の戦争世界遺産になった原爆ドームがあるのに長崎にはそういったものが無い、或いは有っても有名になっていないのは何故だろうか。
長崎原爆の爆心地は実は長崎中心部からは3㎞程離れた浦上地区の丘の上であり近くには天主堂や学校、病院はあるものの行政庁舎、兵器工場、造船所は長崎独自の土地の起伏により爆発の威力が削がれ損傷を免れている。
長崎原爆は広島の様に市の中心部ではなく、やや離れた浦上地区の丘の上の天主堂の近辺で500㍍西で炸裂した。
当時の浦上天主堂は30年の歳月をかけて文字通り信者達の手により煉瓦を積んで建てられた東洋一の大聖堂と呼ばれるほど立派なものだった。
それが近距離の爆風と熱線により、当時祈りに集っていた信徒約300人全員は焼滅し、鐘楼は崩れ聖人像の首は吹き飛びマリア像は半分焼け焦げる。
瓦礫の中で残った建物は崩れ去った部分は破壊力の凄惨さを表しながら、意外にも残った外壁のアーチや丸窓はきっちりと原型を留め、優美さを失わず奇妙な対比とバランスを新たに生んでいるようだ。
批判を覚悟の上で、自分にはこの破壊物はある種の世紀末的なフィクションめいた美しさと完成度を伴った遺構のように感じた、と書かざるには負えない。カッコイイ、とさえ思ってしまったのだ。本当に不道徳的だ、申し訳ない。
この遺構が原爆ドームの様に保存されて、現在も見ることが出来るようになっていたらナガサキがヒロシマと同様に、いや対の記憶遺産となっていかほど多くの更改と反省の感銘を世界に与えたであろうか?と想像せずにはいられない。
だが無念なことに、この旧浦上天主堂は戦後13年後の昭和33年に新しい天主堂の建て替えのために取り壊されてしまう。
現在は壁の一部が公園の一角に移築され、あとは写真として残っているばかりである。
このルポでは当時の市長が長崎とセントポールの姉妹都市締結ために渡米し歓待されたこと、その後急転した遺構保存から棄却への動き、
米ソの核開発、原子力発電の推進、
米国での2発の核爆弾投下についての自国正当化への賛否、
キリスト教の国アメリカが同じ敬虔な信者の祈りの建物の真上に原爆を落としてしまったことへの良心の呵責、
といった様々な事実が埋もれていたことを丹念な取材で明らかにしてゆく。
これを読むと、占領国陰謀論とか、戦後の復興と成長のために変節する政治家や教会、といったわかりやすい図式のヘイトイデオロギーについつい飛びつきたくなってしまう自分がいる。
だがあえてここは一歩引いて、今は写真だけを残しているこの遺構のメッセージを提示するにとどめたいと思う。
平成最後の暑い夏にこの建物の瓦礫の元に佇み夕陽を眺めたかった・・・という叶わない想いを胸に抱きながら。。。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます