釈尊が説法をしていた霊鷲山
インド仏跡巡礼第3日目 ラジギールにて Buddhist Pilgrimage Tour in India: 3rd Day, At Rajgir
第3日目、2017年11月4日、ナーランダ寺の遺跡と玄奘記念堂を見学後、ラジギール Rajgir に戻りました。
お釈迦様の時代は、ラジギールはラージャグリハ Rajagṛiha(王舎城)と呼ばれ、マガダ国の首府でした。
ラジギールで昼食を済ませた後、次の3か所を訪れました。
1) 竹林精舎 Venu Van(ヴェヌヴァン) 英語ではsite of bamboo grove
2) 多宝山Ratnagiri(ラトナギリ)
3) 霊鷲山(リょうじゅせん) Gṛdhrakūṭa(グリドラクータ)英語ではVulture peak
1) 竹林精舎 Venu Van(ヴェヌヴァン)
竹林精舎は、ラジギールの中心街から南方2km程の所にあります。私は、竹林精舎の近くにあるSiddharth Hotelと言う名のホテルで昼食を取った後、この遺跡を訪ねることにしました。ホテルのフロントで竹林精舎への道順を教えてもらおうとしたら、出入り業者の商人が近寄って来て、自分が案内してあげようと言ってくれました。信頼に足る人物と考えて、彼の案合で竹林精舎に向かいました。
竹林精舎は、釈尊を始めとする仏教教団の僧たちが暮した世界最初の僧院と言われています。
“釈尊の生涯”(中村伝著、平凡社刊)では、歴史的人物としての釈尊の生涯を描いていますが、竹林精舎に関する説明を要約すると次の通りです。
「釈尊は悟りを開いて後、バラナシの“鹿の園”で最初の説教を行いました。その後、かって悟りを開いた場所であるウルヴェーラー(筆者注:後のブッダガヤ)に向かいました。釈尊はここに住んだ後、新たにここで帰依した弟子千人を連れて、王舎城に移って行きました。そこで、マガダの国王セーニャ・ビンビサーラが釈尊に帰依するに至りました。ビンビサーラ王は、王舎城の入口の外側にある竹林園を仏教教団に寄進しました。」
さて、竹林精舎は、現在はビハール州政府が管理する公園として整備されています。園内を見学するには、入場料が必要です。
Venu Van(竹林精舎)の入口
園内に入ってすぐ左に小さなお堂があり、内部には釈尊が説法をしている仏画が描かれていました。
お堂の内部に描かれた仏画
公園の中心部には、カランダの池 Karandak Tnakと名付けられた池がありました。釈尊は、ここで沐浴をしたと伝えられています。
カランダの池
池の向こう側には、樹林の緑をバックにして白色のストゥーパが立っていました。ストゥーパの台座には、釈尊が瞑想している坐像が祀られていました。
釈尊が祀られているストゥーパ
このストゥーパの近くに、釈尊が説法を行っていた言われる竹林がありました。
竹林精舎の竹林
2) 多宝山(ラトナギリ)
竹林精舎の公園からホテルに戻り、待たせていたドライバーの車に乗って、山頂にヴィシュワ・シャンテー・ストゥーパ Vishwa Shanti Stupa(平和記念塔)と呼ばれている白亜の仏塔が聳えている多宝山に向かいました。
多宝山の麓には駐車場があり、これより先に車が入ることはできません。頂上に登るには、徒歩かあるいはリフトを利用することになります。駐車所からリフト乗り場までは、多数のお土産店が並んでいました。
駐車場前のお土産屋
徒歩で登ると時間がかかるので、私はリフトを利用しました。
多宝山の頂上に登るリフト
リフトから見た景色
頂上駅でリフトを降りると、すぐ目の前に白亜の仏塔が聳えていました。
ヴィシュワ・シャンテー・ストゥーパ
この仏塔は日本の宗教法人が建設したと聞き、ラジギールと日本との間に不思議な縁があるものだと思いました。その理由は、次の通りでした。このすぐ近くに霊鷲山(りょうじゅせん)がありますが、そこはお釈迦様が法華経 Lutus Sutraを説いた場所とされています。法華経と縁が深い日本山妙法寺が多宝山に本堂と仏塔を建設したと言うことでした。
仏塔の上部には、釈尊の色々な像が祀られていました。
釈尊が瞑想している像
釈尊の涅槃像
立派な仏塔のすぐ傍らに、日本山妙法寺の本堂が立っていました。
日本山妙法寺の本堂
本堂の前には、「南無妙法蓮華経」と書かれた石碑がありました。
石碑
日本山妙法寺の境内には、平和を祈るベルとか、Sutra Stupaと称する仏塔もありました。
平和を祈るベル
Sutra Stupa
多宝山の頂上からは、緑のジャングルとその向こうに連なる丘陵が見えました。
多宝山の頂上から見た景色
3) 霊鷲山(グリドラクータ)
多宝山からリフトに戻る帰り道で、歩道を降りる途中にVulture peak(霊鷲山)があると書かれている標識を見かけたので、帰路は歩道を歩くことにしました。ところが、注意深く歩きましたが、結局麓のリフト乗り場まで来てしましました。
従って、ガイドを探したところ、お土産店の年配の店主がガイド役を引き受けてくれました。このガイドに案合されて、降りてきた歩道を再び登って行きました。やがて、霊山橋と日本語で書かれた橋が現れましたが、私は下山中にこの橋を見逃していたのでした。
霊山橋
橋を渡って坂を登って行くと、阿難石窟 Ananda Caveとか舎利弗石窟Shari Putra Caveなどがありました。阿難(アーナンダ)も舎利弗(サーリプッタ)もお釈迦様の十大弟子に数えられていますが、舎利弗は智慧第一の弟子、阿難はお釈迦様の従弟で多聞第一の弟子と言われ、お釈迦様が死ぬまで25年間付き人をしていたと言われています。
石窟の中には蝋燭が灯されていました。舎利弗石窟の前では、僧侶のお祈りが終わり、帰ろうとしているところでした。
阿難石窟
舎利弗石窟
ところで、霊鷲山はサンスクリット語でグリドラクータと言われますが、グリドラとはハゲワシを意味します。この山の頂上部に鷲の頭に似た岩があるので、この名前がついたようです。その岩の形を、次の写真に示しました。
鷲の頭の形をした岩
この岩のすぐ先に平たい広場があり、その中央に煉瓦の垣根で囲まれた場所がありました。そこは香室の跡地で、釈尊が説教を行っていたと言われるところです。私がここに到着したときは、どこかの国の仏教徒が厳かにお祈りを捧げていました。
香室の跡地
お釈迦様は、ここで般若心経 heart sutra 、法華経 lutus sutra 、首楞厳三昧経 (しゅりょうごんざんまいきょう)suraṃgama samadhi-sutra などの説法を行ったと言われています。
この霊鷲山の位置は近年まで不明でしたが、1900年代初頭に日本の大谷探検隊によって発見され、インド考古局によって承認されたと言うことです。仏教の貴重な遺跡が、日本人によって発見されたことに、深い敬意を覚えます。
尚、ここまで案内役を買ってくれた心優しい現地人のガイドに感謝の念を覚えました。
ここから下山する途中にこのガイドのお土産店がありますが、そこでは幼い息子さんが店番をしていました。既にチップは支払っていましたが、感謝の念を込めて、少々の商品を購入しました。
ガイド役の現地の商人
この日は、釈尊が晩年の頃に説教を行っていた霊鷲山を訪れることができた訳ですが、仏跡巡礼のひとつの大きな目的を達することが出来、意義深い一日でした。
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