ウィーンやベルリンでは、町を歩いていても電車に乗っていても度々目に入ってくるラブシーン。人目をはばかることなく見つめ合って、抱き合ったりキスしたりするのはヨーロッパの文化だろう。このラブシーンが男女のカップルだけでないというのが更なる驚き。女同士というのもあるのだろうが、僕の目に焼きついてしまうのは男同士のラブシーンだ。
日本ではまず普段はお目にかかることはない男同士のラブシーンだが、これほど自然に人前で男同士がイチャつける、というのはそれだけ同性愛をヨーロッパの人々や社会が容認しているということになるのだろう。そんなことを思いながらウィーンで新聞を眺めていたら、ちょうどタイムリーな記事を見つけた。内容は
「健康保険加入者と生計を一にする同居人には、血縁関係や婚姻関係がなくても健康保険が適用されることが閣議決定され、これは同性愛者のパートナーにも適用される。」
というもの。
文中2段目の"betrifftauchgleichgeschlechtliche" は本来は
"betrifft auch gleichgeschlechtliche" と分けて表記する。
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先進諸国では同性愛者が法的に擁護されていることが多いが、オーストリアはその中では法整備がかなり遅れているという。しかし、「同居人」への保険適用を審議する際に、同性愛者のことも念頭に置かれ、こうして新聞で特別なコメントもなくさらりと報道されるところは、やっぱり日本と比べると同性愛者に対する社会の意識や関心がはるかに高いということに気づく。
日本にも同性愛者はたくさんいるだろうが、同性のカップルにお目にかかることは殆どない、というのはそうした人達を異端視してしまう日本の社会の中では、彼等は人目につかないように生きくしかないということだろう。
クラシック音楽の世界にはゲイが多いと聞く。「あの指揮者はゲイだ…」なんて話題はクラシックファンなら誰でも聞いたことがあるだろう。誰かをみんなで寄ってたかって中傷し合うサイト、あれは字面を見るだけで気持ち悪くなるので絶対に見ないようにしているが、そういったサイトではきっとこういう人達は格好の餌食にされているに違いない。
こうして同性愛者を蔑み排除しようとする国では、ターゲットになるのは同性愛者に限ったことではあるまい。一国の首相や閣僚が、マスコミの前で「日本は単一民族国家である」なんてことを平然と発言してきた国だ。人間をなにかにつけて分類して多数派に自分がいることで安心し、少数派の人達を無視したり攻撃したりする気質は「いじめ」にもつながるだろう。医学的根拠などない血液型で人間を分類したがるのもこうした気質の表れかも知れない。
マイノリティに対する思いやりとか、せめてそうした事実を認識しようという姿勢が日本に殆ど生まれないのは教育の問題が大きいのだろうが、マスコミがこうした問題に殆ど無関心であることにも原因があるのではないだろうか。日本の大新聞はどの程度同性愛を自分達の問題として真剣に取り上げてきたのだろうか。
こんな風に偉そうに書いてはいるが、いざ自分のことを振り返ってみると同性愛に対する理解を持ち合わせていたわけではない。それどころか、正直に言えば「気持ち悪い」とさえ感じていた。旅先で「ゲイが多いな…」と思っていたところにタイムリーな新聞記事を読んだことがきっかけで、ちょっとこのことについて考え、日本のことや、問題は同性愛に限ったことではないのでは、ということまで少しばかり思いが及ぶようになった。
その程度同性愛に意識が向いただけなのだが、オペラの後に入ったレストランで男同士のカップルがうっとりと本当に幸せそうに見つめ合って言葉を交わしている光景に出くわしたとき、それが妙に微笑ましく、自然なものとして目に映った。
検証「日本の常識」メニューへ
日本ではまず普段はお目にかかることはない男同士のラブシーンだが、これほど自然に人前で男同士がイチャつける、というのはそれだけ同性愛をヨーロッパの人々や社会が容認しているということになるのだろう。そんなことを思いながらウィーンで新聞を眺めていたら、ちょうどタイムリーな記事を見つけた。内容は
「健康保険加入者と生計を一にする同居人には、血縁関係や婚姻関係がなくても健康保険が適用されることが閣議決定され、これは同性愛者のパートナーにも適用される。」
というもの。
文中2段目の"betrifftauchgleichgeschlechtliche" は本来は
"betrifft auch gleichgeschlechtliche" と分けて表記する。
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先進諸国では同性愛者が法的に擁護されていることが多いが、オーストリアはその中では法整備がかなり遅れているという。しかし、「同居人」への保険適用を審議する際に、同性愛者のことも念頭に置かれ、こうして新聞で特別なコメントもなくさらりと報道されるところは、やっぱり日本と比べると同性愛者に対する社会の意識や関心がはるかに高いということに気づく。
日本にも同性愛者はたくさんいるだろうが、同性のカップルにお目にかかることは殆どない、というのはそうした人達を異端視してしまう日本の社会の中では、彼等は人目につかないように生きくしかないということだろう。
クラシック音楽の世界にはゲイが多いと聞く。「あの指揮者はゲイだ…」なんて話題はクラシックファンなら誰でも聞いたことがあるだろう。誰かをみんなで寄ってたかって中傷し合うサイト、あれは字面を見るだけで気持ち悪くなるので絶対に見ないようにしているが、そういったサイトではきっとこういう人達は格好の餌食にされているに違いない。
こうして同性愛者を蔑み排除しようとする国では、ターゲットになるのは同性愛者に限ったことではあるまい。一国の首相や閣僚が、マスコミの前で「日本は単一民族国家である」なんてことを平然と発言してきた国だ。人間をなにかにつけて分類して多数派に自分がいることで安心し、少数派の人達を無視したり攻撃したりする気質は「いじめ」にもつながるだろう。医学的根拠などない血液型で人間を分類したがるのもこうした気質の表れかも知れない。
マイノリティに対する思いやりとか、せめてそうした事実を認識しようという姿勢が日本に殆ど生まれないのは教育の問題が大きいのだろうが、マスコミがこうした問題に殆ど無関心であることにも原因があるのではないだろうか。日本の大新聞はどの程度同性愛を自分達の問題として真剣に取り上げてきたのだろうか。
こんな風に偉そうに書いてはいるが、いざ自分のことを振り返ってみると同性愛に対する理解を持ち合わせていたわけではない。それどころか、正直に言えば「気持ち悪い」とさえ感じていた。旅先で「ゲイが多いな…」と思っていたところにタイムリーな新聞記事を読んだことがきっかけで、ちょっとこのことについて考え、日本のことや、問題は同性愛に限ったことではないのでは、ということまで少しばかり思いが及ぶようになった。
その程度同性愛に意識が向いただけなのだが、オペラの後に入ったレストランで男同士のカップルがうっとりと本当に幸せそうに見つめ合って言葉を交わしている光景に出くわしたとき、それが妙に微笑ましく、自然なものとして目に映った。
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