9月14日(月)寺神戸亮&レ・ボレアード ヴィヴァルディ・プログラム
紀尾井ホール
【曲目】
1.2つのチェロのための協奏曲 ト短調 RV.531
2.フルート協奏曲 第3番 ニ長調 RV.428「五色ひわ」
3.協奏曲集『和声と創意の試み』Op.8より「四季」~「春」、「夏」
4.フルート協奏曲 第2番 ト短調 RV.439「夜」
5.協奏曲集『和声と創意の試み』Op.8より「四季」~「秋」、「冬」
【アンコール】
フルート協奏曲ト長調Op.10-4~最終楽章
Fl:有田正広
NHKの「芸術劇場」で放送されたコンチェルトイタリアーノの「四季」を聴いて その奇抜とも言える刺激的な演奏で久々にこの曲が気になっていた矢先にレ・ボレアードの演奏会のチラシが目に入った。北とぴあ音楽祭でもいつも素晴らしい演奏を聴かせてくれるこのアンサンブルならあのコンチェルトイタリアーノ張りの斬新な「四季」みたいな演奏が聴けるのでは、という期待が膨らんで出掛けた演奏会。
聴いてみてやっぱり面白かった。「春」の第2楽章で犬の吠える声をやるヴィオラが独り客席に背を向けて弾いたり、第3楽章がバグパイプのような5度音程の持続音で始まったり、「冬」の第1楽章では寒さにかじかんだ指で指板をちゃんと押さえられないということを暗示するかのような妙な音程が鳴り響いたり、極めつけは「秋」の第1楽章で寺神戸さんが酔っ払いのようにフラフラとステージをあちこちよたりながら音程のズレたソロを聴かせたり(これは演技も演奏も酔っ払いになりきっていてお見事!ヨーロッパでやれば大ウケでその場で笑いと拍手がでること間違いないが、日本だとお客がストレートに反応しないからちょっと寂しい… )。
そんな目や耳を引くパフォーマンスだけでなくレ・ボレアードの息の合った、生気溢れる瑞々しい演奏もいい。特に「夏」の追い立てられるような焦燥感など抜群だったが、この曲の演奏にはやっぱり何か目新しいものを期待してしまうのはなぜだろうか。イ・ムジチの「歌う『四季』」で一大ブームが築かれて人々の耳に定着したこの音楽が、アーノンクールの型破りな演奏で衝撃を呼んだのはもう30年以上も前のこと。それ以来「四季」には「変わった演奏」や「奇抜な演奏」を期待する傾向が生まれたように思う。
「四季」にこれ程までに多種多様なアプローチが試みられ、その時々で話題を呼ぶのは、この音楽がそれだけ無限の可能性を秘めていると捉える事もできるが、一方ではある種の実験台にされているような気もしないでもない。そして、これ程極端なことができるのは、未だにあのイ・ムジチの「四季」が一種の世界標準として人々の記憶に焼きついているからこそ効果があるのではないだろうか。
こう書くと、今回の「四季」へのアプローチをネガティヴに捉えているように思われるかも知れないが、決してそうではない。この演奏会がもし「今回の『四季』は正攻法のピリオド演奏で行います」なんて前宣伝つきだったら、多分聴きには行かない。やっぱり「レ・ボレアードはどんなすごい『四季』をやってくれるだろうか?」という期待で出かけ、何かやらかしてくれたことである種の満足感を得ているのである。
今夜の他のヴィヴァルディのプログラム、トラベルソの有田さんが登場したフルート・コンチェルトなどは、とても心地よい活き活きとした演奏で耳あたりがよかった。でも、それ以上の感動というのはなかなか得る事はできない。ヴィヴァルディは普通に演奏しただけではツマラナイのでは… やっぱりヴィヴァルディは『四季』が実験台になっていろいろ演奏家がやってくれるから人気を保っているのでは… なんて言ったら大反論を喰らいそうだが、一クラシックファンとしてはそんな気持ちを払拭できずにいる。
イ・ムジチの「四季」 (2005.11.25)
紀尾井ホール
【曲目】
1.2つのチェロのための協奏曲 ト短調 RV.531
2.フルート協奏曲 第3番 ニ長調 RV.428「五色ひわ」
3.協奏曲集『和声と創意の試み』Op.8より「四季」~「春」、「夏」
4.フルート協奏曲 第2番 ト短調 RV.439「夜」
5.協奏曲集『和声と創意の試み』Op.8より「四季」~「秋」、「冬」
【アンコール】
フルート協奏曲ト長調Op.10-4~最終楽章
Fl:有田正広
NHKの「芸術劇場」で放送されたコンチェルトイタリアーノの「四季」を聴いて その奇抜とも言える刺激的な演奏で久々にこの曲が気になっていた矢先にレ・ボレアードの演奏会のチラシが目に入った。北とぴあ音楽祭でもいつも素晴らしい演奏を聴かせてくれるこのアンサンブルならあのコンチェルトイタリアーノ張りの斬新な「四季」みたいな演奏が聴けるのでは、という期待が膨らんで出掛けた演奏会。
聴いてみてやっぱり面白かった。「春」の第2楽章で犬の吠える声をやるヴィオラが独り客席に背を向けて弾いたり、第3楽章がバグパイプのような5度音程の持続音で始まったり、「冬」の第1楽章では寒さにかじかんだ指で指板をちゃんと押さえられないということを暗示するかのような妙な音程が鳴り響いたり、極めつけは「秋」の第1楽章で寺神戸さんが酔っ払いのようにフラフラとステージをあちこちよたりながら音程のズレたソロを聴かせたり(これは演技も演奏も酔っ払いになりきっていてお見事!ヨーロッパでやれば大ウケでその場で笑いと拍手がでること間違いないが、日本だとお客がストレートに反応しないからちょっと寂しい… )。
そんな目や耳を引くパフォーマンスだけでなくレ・ボレアードの息の合った、生気溢れる瑞々しい演奏もいい。特に「夏」の追い立てられるような焦燥感など抜群だったが、この曲の演奏にはやっぱり何か目新しいものを期待してしまうのはなぜだろうか。イ・ムジチの「歌う『四季』」で一大ブームが築かれて人々の耳に定着したこの音楽が、アーノンクールの型破りな演奏で衝撃を呼んだのはもう30年以上も前のこと。それ以来「四季」には「変わった演奏」や「奇抜な演奏」を期待する傾向が生まれたように思う。
「四季」にこれ程までに多種多様なアプローチが試みられ、その時々で話題を呼ぶのは、この音楽がそれだけ無限の可能性を秘めていると捉える事もできるが、一方ではある種の実験台にされているような気もしないでもない。そして、これ程極端なことができるのは、未だにあのイ・ムジチの「四季」が一種の世界標準として人々の記憶に焼きついているからこそ効果があるのではないだろうか。
こう書くと、今回の「四季」へのアプローチをネガティヴに捉えているように思われるかも知れないが、決してそうではない。この演奏会がもし「今回の『四季』は正攻法のピリオド演奏で行います」なんて前宣伝つきだったら、多分聴きには行かない。やっぱり「レ・ボレアードはどんなすごい『四季』をやってくれるだろうか?」という期待で出かけ、何かやらかしてくれたことである種の満足感を得ているのである。
今夜の他のヴィヴァルディのプログラム、トラベルソの有田さんが登場したフルート・コンチェルトなどは、とても心地よい活き活きとした演奏で耳あたりがよかった。でも、それ以上の感動というのはなかなか得る事はできない。ヴィヴァルディは普通に演奏しただけではツマラナイのでは… やっぱりヴィヴァルディは『四季』が実験台になっていろいろ演奏家がやってくれるから人気を保っているのでは… なんて言ったら大反論を喰らいそうだが、一クラシックファンとしてはそんな気持ちを払拭できずにいる。
イ・ムジチの「四季」 (2005.11.25)