2021年 8月10日(火)
それでもあった選手同士の「交流」
東京オリンピックの聖火が消えた。閉会式も明確なコンセプトが伝わらない演出だった。復興五輪のことも、式典が2つの原爆の日の間に行われることも、コロナ禍での開催国となってしまったことも、日本が世界に発信すべきメッセージが何もない、当たり障りのない内容にがっかりした。けれど選手入場では、国籍など関係なく入り乱れ、お互いに手を取り合い、ハグしたり肩車したりしてはしゃぐ閉会式ならではのシーンに心が和んだ。
こうした選手同士の交流は、試合のあとや表彰式でも見ることができた。「平和の祭典」とも云われる五輪の素晴らしいシーンだ。これを見て「密だ」とか「マスクしてない」とか思ってしまう人は悲しい。選手同士のハグを問題視する毎日新聞の記事を読み、購読していることが情けなくなった。
この五輪では徹底的な感染防止対策として、こうした選手同士の接触も禁止されると思っていた。選手同士の交流も、市民との交流もなく、ただ競技をこなすだけの五輪に僕は反対だった。けれど触れ合いのシーンがいくつも見られたことで、競技中継をあまり見る気になれなかった気持ちが変わり、いつもほどではなかったがほぼ毎日、何かの競技はテレビ観戦した。
オリンピックでの感動シーン
男子体操では内村航平は残念だったが、次の世代が大活躍。特に橋本大輝の鉄棒には、団体でも個人総合でも種目別でも魅了された。重い病との闘いから復活して間もない池江璃花子が女子メドレーリレーの決勝に出場して力泳を見せた。不屈の精神力で頑張っている姿は本当に美しい。美しいと云えば、新たに採用された空手で金メダルを獲得した喜友名諒の「形」は、ルールとか全くわからずに見ていたが、とても美しいと感じた。
女子バスケットボールでは、王者アメリカを相手に決勝での大健闘が頼もしかった。柔道男女混合団体は、日本の金メダル稼ぎのために新たに加えたようなものだが、決勝で敗れてしまった。けれど、優勝したフランスチームの狂喜ぶりを見たらこれで良かったと思った。いずれにせよ、同一種目の試合形式を増やしてオリンピックを肥大化するより、普段は陽の目を見ない競技に光を当てた方がいい。
競技そのもの以外でも感動シーンは色々あったが、一番印象に残ったのは男子走り高跳びで、同スコアで並んだカタールのバルシムとイタリアとタンベリが金メダルを分け合うことを認められたときの喜びのシーン。国は違っても良きライバルであり友人という2人の思いが伝わってきた。
無観客となった本当の原因を考える
夢中で見入った試合や感動シーンはまだ沢山あるが、返す返す残念で納得できないのは、競技の殆どが無観客となったこと。これは、観戦をリアルに体験するチャンスを失った人たち、観客の応援のなかで競技が出来なかった選手たち、そして、観客の応援シーンのない試合を見せられた視聴者という3つの側面から計り知れない損失となった。
想像を絶する長く過酷な鍛錬と準備を重ねて臨む、超一流レベルの選手たちの競技をリアルで体験することで得られるものは、映像とは比べ物にならないほど大きいはずだし、外国人選手だって観客の応援は大きな力になるはず。こんなことになってしまったのは、感染拡大という状況での人々の過度の不安と無理解から来る誤解、更には偏見が原因だと思う。
国内のプロスポーツは、制限付きながら緊急事態宣言下でも有観客で行われていて、これまでに会場でのクラスター発生の報告はない。人の流れが増える懸念や観戦の前後の行動を問題視する声も多いが、これは五輪に限ったことではないし、なぜオリンピックだけがこうもやり玉に上がるのか。これは、オリンピックという極めて非日常的なイベントの性格が冷静な思考を停止させ、理由なき恐怖を膨らませたこと、それに大勢の外国人がやってくるということが、実際の接触はなくても得体の知れない恐ろしいものと感じてしまう島国の民、日本人の悲しい性のせいではないだろうか。この恐怖や偏見に油を注いだのは、メディアであり、日本医師会であり、尾身会長であり、野党もそれに加担した。
そのために、せっかく有観客が認められた北海道や福島県が、貴重な機会を人々から奪ってしまった。報道では、有観客に反対する市民の声ばかり伝えられたが、観に行きたかった福島県民もたくさんいたはずだし、県知事が有観客を貫いた宮城県だって、仙台市長らの無観客の主張のせいで観戦をあきらめてしまった人も多かったのではないだろうか。
北海道では、競歩やマラソンでの沿道観戦という機会が残され、多くの人達が沿道で応援しているシーンを見てホッとしたし嬉しかったが、ネットでは沿道に集まった人たちへの非難が渦巻いた。実にくだらない。屋外でこの程度の群れができることが、満員電車と比べてどれだけ高いリスクになるというのだろう。
男子マラソンで6位と健闘した大迫がインタビューで「沿道はちょっとあれだけど、テレビの前での応援が励みになった」と言っていたが、テレビで応援されていることは実感できないし、ゴール前では沿道の人達に手をあげて応えていた。本当は沿道の応援が力になったと言いたかったはず。これを言えなくしてしまうほど、大衆の声が世の中の動きを抑え込んでしまう恐ろしさも感じた。日本の選手で誰かが、「お客さんの声援のなかで競技したかった!無観客は納得できません。」と声をあげてくれれば、僕は全面的に応援しただろう。オリンピックが無観客になってしまった原因は、人々の無知と偏見によって増大した声で生まれた同調圧力だったのだと思う。
様々な感動をもたらしてくれた東京オリンピックだったが、やはりいつもより気分は上がらなかったし、ジーンと来るはずの閉会式も冷めた気分だったし、日本は本当に大切なものを逃してしまったという気持ちが残る大会だった。無観客にしたことで、いったいどれだけ感染を抑えられたのか、これは是非徹底的に検証してもらいたいものだ。
パラリンピックが教えてくれたもの ~日本が得たこと、逃したこと~
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コンサートを中止にしないで!
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それでもあった選手同士の「交流」
東京オリンピックの聖火が消えた。閉会式も明確なコンセプトが伝わらない演出だった。復興五輪のことも、式典が2つの原爆の日の間に行われることも、コロナ禍での開催国となってしまったことも、日本が世界に発信すべきメッセージが何もない、当たり障りのない内容にがっかりした。けれど選手入場では、国籍など関係なく入り乱れ、お互いに手を取り合い、ハグしたり肩車したりしてはしゃぐ閉会式ならではのシーンに心が和んだ。
こうした選手同士の交流は、試合のあとや表彰式でも見ることができた。「平和の祭典」とも云われる五輪の素晴らしいシーンだ。これを見て「密だ」とか「マスクしてない」とか思ってしまう人は悲しい。選手同士のハグを問題視する毎日新聞の記事を読み、購読していることが情けなくなった。
この五輪では徹底的な感染防止対策として、こうした選手同士の接触も禁止されると思っていた。選手同士の交流も、市民との交流もなく、ただ競技をこなすだけの五輪に僕は反対だった。けれど触れ合いのシーンがいくつも見られたことで、競技中継をあまり見る気になれなかった気持ちが変わり、いつもほどではなかったがほぼ毎日、何かの競技はテレビ観戦した。
オリンピックでの感動シーン
男子体操では内村航平は残念だったが、次の世代が大活躍。特に橋本大輝の鉄棒には、団体でも個人総合でも種目別でも魅了された。重い病との闘いから復活して間もない池江璃花子が女子メドレーリレーの決勝に出場して力泳を見せた。不屈の精神力で頑張っている姿は本当に美しい。美しいと云えば、新たに採用された空手で金メダルを獲得した喜友名諒の「形」は、ルールとか全くわからずに見ていたが、とても美しいと感じた。
女子バスケットボールでは、王者アメリカを相手に決勝での大健闘が頼もしかった。柔道男女混合団体は、日本の金メダル稼ぎのために新たに加えたようなものだが、決勝で敗れてしまった。けれど、優勝したフランスチームの狂喜ぶりを見たらこれで良かったと思った。いずれにせよ、同一種目の試合形式を増やしてオリンピックを肥大化するより、普段は陽の目を見ない競技に光を当てた方がいい。
競技そのもの以外でも感動シーンは色々あったが、一番印象に残ったのは男子走り高跳びで、同スコアで並んだカタールのバルシムとイタリアとタンベリが金メダルを分け合うことを認められたときの喜びのシーン。国は違っても良きライバルであり友人という2人の思いが伝わってきた。
無観客となった本当の原因を考える
夢中で見入った試合や感動シーンはまだ沢山あるが、返す返す残念で納得できないのは、競技の殆どが無観客となったこと。これは、観戦をリアルに体験するチャンスを失った人たち、観客の応援のなかで競技が出来なかった選手たち、そして、観客の応援シーンのない試合を見せられた視聴者という3つの側面から計り知れない損失となった。
想像を絶する長く過酷な鍛錬と準備を重ねて臨む、超一流レベルの選手たちの競技をリアルで体験することで得られるものは、映像とは比べ物にならないほど大きいはずだし、外国人選手だって観客の応援は大きな力になるはず。こんなことになってしまったのは、感染拡大という状況での人々の過度の不安と無理解から来る誤解、更には偏見が原因だと思う。
国内のプロスポーツは、制限付きながら緊急事態宣言下でも有観客で行われていて、これまでに会場でのクラスター発生の報告はない。人の流れが増える懸念や観戦の前後の行動を問題視する声も多いが、これは五輪に限ったことではないし、なぜオリンピックだけがこうもやり玉に上がるのか。これは、オリンピックという極めて非日常的なイベントの性格が冷静な思考を停止させ、理由なき恐怖を膨らませたこと、それに大勢の外国人がやってくるということが、実際の接触はなくても得体の知れない恐ろしいものと感じてしまう島国の民、日本人の悲しい性のせいではないだろうか。この恐怖や偏見に油を注いだのは、メディアであり、日本医師会であり、尾身会長であり、野党もそれに加担した。
そのために、せっかく有観客が認められた北海道や福島県が、貴重な機会を人々から奪ってしまった。報道では、有観客に反対する市民の声ばかり伝えられたが、観に行きたかった福島県民もたくさんいたはずだし、県知事が有観客を貫いた宮城県だって、仙台市長らの無観客の主張のせいで観戦をあきらめてしまった人も多かったのではないだろうか。
北海道では、競歩やマラソンでの沿道観戦という機会が残され、多くの人達が沿道で応援しているシーンを見てホッとしたし嬉しかったが、ネットでは沿道に集まった人たちへの非難が渦巻いた。実にくだらない。屋外でこの程度の群れができることが、満員電車と比べてどれだけ高いリスクになるというのだろう。
男子マラソンで6位と健闘した大迫がインタビューで「沿道はちょっとあれだけど、テレビの前での応援が励みになった」と言っていたが、テレビで応援されていることは実感できないし、ゴール前では沿道の人達に手をあげて応えていた。本当は沿道の応援が力になったと言いたかったはず。これを言えなくしてしまうほど、大衆の声が世の中の動きを抑え込んでしまう恐ろしさも感じた。日本の選手で誰かが、「お客さんの声援のなかで競技したかった!無観客は納得できません。」と声をあげてくれれば、僕は全面的に応援しただろう。オリンピックが無観客になってしまった原因は、人々の無知と偏見によって増大した声で生まれた同調圧力だったのだと思う。
様々な感動をもたらしてくれた東京オリンピックだったが、やはりいつもより気分は上がらなかったし、ジーンと来るはずの閉会式も冷めた気分だったし、日本は本当に大切なものを逃してしまったという気持ちが残る大会だった。無観客にしたことで、いったいどれだけ感染を抑えられたのか、これは是非徹底的に検証してもらいたいものだ。
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