2月15日
もう、2月15日になった。2月の折り返しに来るのが早い気がするし、2023年が始まってからもう45日くらい経っている事実もさらに早い気がしてくる。時の流れが早いと感じるのは、その速い流れに頭が着いていけていないからなのだろうかと考えたりする。これからどんどん頭の回転も鈍っていき、物の見方も不純物が混ざり合う濁ったレンズでしか見通せない。愚かに愚かを重ねていく。それに抗う形でしか自分を表現できなくなるのかと不安の翳りが自分を覆う。いやそうではないと信じたい自分もまた存在している。
そして今自分が住んでいる長野県の某八ヶ岳エリアの某ホテルの寮。ここでの生活もあと1ヶ月半となっている。もう45日もここにいないのだ。その事実は何となく遠巻きに眺めてゆとりを保てそうな感じがして、実際はそんなに先の話ではないように感じる。もう言っている間に次に行くところを考えるか、はたまた延長したりするかの決断も必要になってくる。延長・・・か。なんだか、これからどうしたらいいのか分からない。正直な話、延長するのも次に行くのもめんどくさい気がしてきている。いうなれば決めるのがめんどくさいというわけだ。こんなに色んな文章を考えてわざわざタイプしてブログにあげて誰かに見られて、という一連の流れを今普通にしているのに、これからのことを決める方がめんどくさいと感じるのはなんでだろう。自分に限らず、人は決断するのがめんどくさいと感じる生き物なのだということはわざわざ記すまでもない。
決めたら行動しなければならないのだ。行動したら環境が変わるし、それに対応しなければならないし。決断することは果てしないめんどくさくて害悪なものである。決断する必要のない人生に生まれたら、どんなに楽で圧力に押し潰されない人生を歩むことができただろう。きっと悩みに精神を蝕まれる必要のない人生を歩めただろう。決断しない人生。ひとつ考えてみると、そんな都合のいいものなんてあり得なさそうで、案外あり得そうにも思う。普通に細々と慎ましく生きていれば、人は安定するものである。でも自分は全くもって不安定な環境の変化を続けていて、どこで人生詰むのか知れたものではない。数ヶ月毎に職場を転々とする生活。それに何かしらの意義を持っているのなら話は別だが、自分の場合何の意義も感じていない。ただ流されているつもりの馬鹿者である。流されているようで、実際はしっかりと自分のコントロールしようとしていて、そのためには決断を強いられているのである。
でも今の生活を辞めたからと言って、精神の安寧を確約できるとは限らないし、そもそも安定できなかったからこんな生活をしているわけである。どの道自分には安定はないのだと諦め半分の俯瞰した態度だ。もし安定する人間ならば、今でも大阪に住んでいるはずだろうし、そもそも実家を出なかったはずだろう。実家で安定しなかったから自分は何度も何度も実家を脱走してそれを繰り返して、そして大阪に住んでいたけれどひょんなことから下り始めた精神力を止められることができずにノックダウン。それでリゾバをしている。なんて意義のない生活だろうかと改めて思う。自分が意義を欲しているのはわりと自覚している。与論島を出られたのは意義を求めていたからのようにも思う。南国の緩やかさが自分の意義の行き所のなさに拍車をかけた。長閑な空間。優しい人たち。ここだけで満たされそうなところ、いや満たすべきところ。人として次の段階を目指すものでもない。与論島は与論島のままで存在し続けていて、こんなイカれたようにせっせと文章を書いている癖に安定を求めてその実転々としているやつには似合わない。
やっぱり自分には決断力が必要だと思う。世間で安定した職や地位に就いている人々の数百倍は必要なのだ。でも決断力は必要でも、じっくり先を吟味することの大切さをちゃんと心の内に留めておくべきだろう。じゃないと本当に詰みそうだ。
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