星の上の馬鹿者

これは放浪記です。いろんなところに行っています。

文章に情感を

2023-03-06 23:15:27 | 日記

3月6日

 

明日明後日と休みが続くのでとりあえずは呑気に過ごすつもりではあるが、如何せん山ばかりの野辺山ではいい加減に暇が過ぎるわけである。こんな生活ももう3ヶ月となり、そんな年月の経過を、果たして早いと見るか遅いと見るか、それも判別がつかないものである。なんとなしにkindleで読み始めた国木田独歩の作品集を読み進めてはその文章力に舌を巻いたり、同じ物書きとしての天地の差にげんなりもしてしまう。天地の差と言っても当たり前であるが、自分が地の方である。卑下するわけでもなく現実的に見てもそうである。いやそもそも自分の実力とか実利がどの程度なのかすらもわかりやしない、その域を出ないもの程度なのだからいうまでもないのである。自分の程度が知りたいからこうしてブログを書くわけであり、なおかつもっと色んな人に見てもらいたいのは自分の中に強くある希望である。しかしそのためにはここで文章を書いているだけではどうにも足りていないものがあることを痛感してしまうわけでもある。

 

しかし文章を書くと言ってもそのスタイルは一言でまとめられるものではないのは既知の通りである。音楽のジャンルを一言でまとめあげられないのと同じように、西洋絵画の派閥を一言でまとめあげられないのと同じように。しかし文章というものは音楽や絵などと違って、より一層情報伝達の手段、ツールのようなものとして扱われることが非常に多い。ゆえに娯楽としての役割、精神的な豊かさにダイレクトに伝わえられる芸術のものとは少し違う気もする。音楽であればその理論を理解していなくても、曲に感動することはできるし、絵に至っては子供の頃から自分で好き勝手に描いたりして楽しむことだってできる。しかし文章はまず言葉を覚えなければいけない、読解力を養わなければならない。意味を理解して、その意味を理解した上での想像を働かせて、読書というものが成り立つわけである。その上、ただ文字を読んでいるだけでその先の脳内世界で話が広がっていく、しかし他人から見ればその当人に何の変化も見られないというのも読書の特徴である。ギターを弾いている人、絵を描いている人に比べたら、本を読む人なんて側から見れば果てしなく地味である。

 

そもそもの話、文章を読んだ上で想像を働かせるべきなのはあくまで娯楽としての文章に限った話である。詩や小説なんかはそこの精神世界に影響を与えるべくして有るべきだと自分は考えているが、たとえば自己啓発書の類、大学のレポート、いわば芸術や娯楽以外での文章というものは、文章の意味を文章のままに受け取るのが基本的な読解スタイルだと考えられる。これは自分みたいに、ついあれこれと物事に変な妄想が入ってしまう人間には、読み進めていくのが辛いものの類だったりするわけである。脳みそなんて余計なことばかり考えるのだから、それがまた楽しいものであるわけで、しかし情報ツールとしての文章はその領域から逸脱することを良しとしない。

 

たとえば何某のサイトやアプリの会員登録をするさいに表示される同意書なんかが思い当たる。あれをくまなく読み終えて意味を理解してる人などほとんどいないと思うが、あれこそまさに余計な私情を挟んではならないものだろう。結局は文章とは意味を伝えるためのものでしかない。それにどんな意味が加わって、どれくらい味を噛み締めるのかは読み手次第なところがある。会員登録の同意書にだって、シェイクスピア並みの情感を感じる人が出てきたって構わないのだ。そんな人がいれば是非ともyoutubeなりnoteなりでレビューしてほしいものだが。とりあえずは情感を忘れないことが大切なのかもしれない。



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