「もうこれ複合災害ですよね」
テレビのコメンテーターが言いそうなこの言葉。
東京都知事 小池百合子さんのお言葉です。
この言葉を聞いたとき、1番に感じたこと。それは
「ああ、他人事なんだな」
ということ。
自分が先頭に立って指揮するコロナ対策について、人間には抗えない「災害」なのだと自ら認めてしまう。
災害だから、誰にも止められない
災害だから、誰かが悪いのではない。
小池知事としてはこのように考えたのでしょう。
「いくら警報や避難指示を出しても避難しない人がいる。そのため逃げ遅れた人達を救出するために救急隊や自衛隊が出動するはめになる。」
「コロナも同じで、いくら私が『自粛して』と言っても守らない人がいるから、いつまでたっても収束しない。」
つまり、「全て自己責任」だと。
災害を絶対に防げるなんてことはない
1番大切なのは一人一人の心掛け
恐ろしいのは、この考え方は一見間違っていないように思えることです。
災害時、最終的に命を救うのは一人一人の備えと心掛け、というのは間違えではないでしょう。
けれど、行政がそれを言ってしまい、市民もそれを認めてしまったら、行政は何もやることが無くなってしまいます。
「やることが無い」は極論としても、その考え方が認められてしまったら、責任や金銭的負担を負いたくない行政としては
「出来るだけ負担を減らそう」
と考えてしまうのは避けられません。
だからこそ、(少なくとも建て前上は)行政は
「災害に負けない街作り」
「いざという時の備えを」
と事前に様々な対応しなければいけないはずです。
東京都は、それを指揮する都知事は、この1年間コロナに対してどのような対策をとってきたでしょうか。
都知事の発言と時を同じくして、東京都から
「積極的疫学検査を縮小する」
という発表がされました。
これはどういうことかというと、
「新規陽性者が増えすぎてクラスター追跡が追いつかないため、市中のクラスター追跡は止めて介護施設や医療施設など、クラスター発生が見込まれる箇所に集中する」
ということです。
「日本方式」として世界に誇ったクラスター追跡。そのクラスター対策を市中では行わないことにする。
日本ではクラスター追跡以外にコロナの感染状況を把握する方法を持っていません。
PCR検査の拡充もしていない。
無症状感染者の隔離施設もすでに機能せず。
簡易抗体検査キット配布などもしていない。
一般人への直接給付は昨年の10万円のみ。
「対策」と呼べることはクラスター追跡と10万円、そして「アベノマスク」しかしていません。そのクラスター追跡をやめたことで、まさしく「素手にアベノマスク」で戦うことになりました。
クラスター追跡の縮小という重大な発表を、特に説明もなくしれっと行うさまは、先日の菅首相の「重傷者以外は自宅待機」とダブって見えます。
本来ならば、ここでお得意のフリップを駆使して大々的に会見を行い、菅首相との力の差を見せつけるべき時です。
けれど、小池都知事は「それほど感染のひどくないとき」はこれでもか!と不安を煽る会見を連発しますが、「本当にひどい状態のとき」はあんまり表に出てこない、というのがこれまでの経験からもわかっています。
それに輪をかけて、今回は「対策を止めた」ことの説明など一言もせず、
「もうこれ複合災害ですよね」
さんざん都知事を批判してきましたが、実はこの件に関して1番いけないのは
メディアや国民がこの発言を許容していること
だと思います。
先に書いたように、行政が「責任も費用負担も負いたくない」というのはある意味仕方がないことです。
だからこそ、税金を払い行政サービスを受ける私達一般市民は行政に対して発破をかけ続けなければいけないのだと私は思います。
見る限りこの小池都知事の無責任発言について強い反発は起こっていないように思います。
以前、ある大臣が
「民度が違う」
と発言し、話題になりました。
「日本は民度が高いからロックダウンしなくてもコロナを収束できた」
と捉えられていましたが、実はこの大臣、「民度が高い」とは一言も言っていません。
私は、この発言は「民度が低い」という意味だったのではないか、と当時から思っていました。
「民度が低い」からこそ国民は強制力のない政府の「お願い」を、「命令」のように受け入れるのではないか。
多種多様な意見により、個人がそれぞれ自分の意志で行動し、結果的に感染拡大が抑えられないのは「民度が高い」からこそなのでは?
大臣の普段からの国民をナメた発言からして、「民度が違う」は国民に対する皮肉だったのではないか。(その大臣は、今回の感染急拡大の最中に「新たな給付金などは考えていない」とわざわざ発言してくれました)
あの時「民度が違う」と言われた欧米の1国、イギリスは、度重なるコロナの猛威に晒され、今では国民一人ひとりが
「コロナを必ず抑え込む」
という意識を持っていると言われています。
そのため世界的に最もワクチン接種が進み、行動制限が解除された後も抑え込み続けています。
押さえ込んでいる今も、専門家達は政府に対して様々な疑問を投げかけ続け、政府はその意見を柔軟に取り入れながら「国家」としての道筋を政府方針として決めていく。
国民はその一つ一つの方針に対して、これまでの経験も踏まえて批判するべきは批判し、「コロナに打ち勝つ」という官民1体の目標を維持する。
「民度が高い」とはこういうことをいうのではないでしょうか。
広島の式典で1番大事な節を読み飛ばした事に気づかない首相。
バッハ会長の銀ブラを「不要不急は個人の判断」という担当大臣。
個人の持ち物、それも人生で最も大切な宝物に噛み付く市長。
そして今回の知事の発言。
どれも倫理的、能力的に「政治家」として許される事ではないと思います。
けれど、「問題のある政治家」が存在することは世界中を見ても避けられないこと。
大切なのは、その問題の本質を判断し、批判するべきは批判することがしっかりと出来るかどうか。
間もなくに控えた衆院選は、日本人の「民度」が最も試される選挙になるのだろうと思います。