人生、失敗しちゃった~ニート後遺症 闘病記~

十数年のニートをやめて一年。ニート後遺症と戦う、ニート研究家。

忘れられたギター【脱ニート者の遺書】

2016年02月10日 | 脱ニート者の日常
ずっと音楽をやっていた。バンドを組んだこともあるし路上で騒いだこともある。プロになりたいと思ったのは高校から大学。大学中途でプロへの意識はなくなった。大学を出た後、それでも音楽で食えればいいなぁ位には考えてはいたがプロを目指す人・その業界の人との交流の中で能力・才能のあるなしを差し引いても自分はプロではやっていけないと感じた。音楽は楽しくやっていればいい、とした。そもそもが自分の言いたいことを歌いたいだけだったので、それはそれで良かった。ただやっぱりどこか、負けた気はしたなあ。何かの間違いで一度でもプロという位置を獲得でもしていれば弁解には聞こえないのだろうけど。どんなに理屈をつけても、そこに行けなかった事実はある。行かなかったんだとうそぶいても、それにウソはなくても、じゃあ行けたの?と聞かれたら、答えは「行けない」だし。

ただ、当時、その辺りのことも狂わんばかりに悩んで悩んで、多くの人と揉めたり別れたりしながら出した結論でもあるので大勢はスッキリとした。その後はギターやパソコンでゆったりと、自分の作りたいように歌を作って喜んでいた。殊更どこかで披露する気もなかった。ああでも、こんな感じの場所で歌ったらこういう反響くるかなとか、お客の顔を想像しながら作ったものもある。
そんなことをずっとやってきて、百、二百の歌ができた。
それがニート時代の財産。

脱ニート後、一切、その財産に手を伸ばさなくなった。
毎日のようにギターを持っては下手なりにつまびいて、歌って暮らしていた。閉じたバインダーがボロボロになるくらい、歌っていた。それが一切なくなった。なくなったのはいいんだ。そりゃあ働けば時間がなくなる。帰宅しても疲れていれば遊べずに寝る。そういうことではなくて、触る気がなくなっていた。全部を放置したまま、一年。
脱ニートした日のままなんだ。本当に。ギターも自分の歌本も全部、ニート最後の日に遊んだまま。バイト初日のまま。長年使わずにほこりをかぶっているギターという表現があるが、全く字面の通り、ほこりをかぶっていた。
そのことに気付いたのが最近。一年間、全く気にも留めていなかった。気にも留めなかったというのはウソだ。そこにあったのに気付かなかったんだ。この異常性もまたニート後遺症なのだろう。

突然なぜこんなことを言い始めたかというと、昨夜、ギターをいじったからだ。相変わらず下手だった。歌は呟く程度。でも昔の歌本は開かなかった。新しく作ったわけでもない。コードを鳴らして意味のない何事かをつぶやいて、のせた。
なぜそんなことをしたのか、分からない。
少し、恢復したのだろうかとも思ったが、楽しいとかワクワクとは、なかった。ぎゅうと腹が痛くなり目蓋がピリピリとした。
でも、何かの欲求がある。気持ち悪い言い方をすると、きっと、遺書を書きたいんだろうと思う。変な意味ではなくて、これまでもずっと、歌を作る時は遺言のつもりで作ってきた。その延長。今、何かを後に遺したいと思っている、ということだ。自覚症状はない。これがニート後遺症の自殺願望に繋がるかどうかはさだかではない。

もし高らかに歌える日がくれば、それは何かの境界を越えた時かもしれない。
それは、好転した時だ。
それ以外にない。それ以外に考えない。
好転する。



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