「もうたくさんだ(Ya Basta)」
反操行の民衆的防御の例として。
国家に吸収される抵抗を「反体制」
国家に抗し続ける抵抗を「反操行」という。
国家は自ら内に住まう人口を「〇〇人」と定式化し支配する。これが国民である。
民衆とは、ともすれば国家の枠組みにいるかもしれないが、前提として国家の枠組みから外れうる、より私たち本来のあり方に近い存在である。
市民でありながらも市民でない、統治されながらも統治されていない、そんな存在様態のことである。
そもそも、国家・国民など関係なく民衆は相互扶助のネットワークを培ってきた。自衛のために武装したり、民衆レベルでの裁判を行なったり。
これらをまとめて「民衆的防御」と呼ぶ。
ニッポンの皆さん、ニッポン国家が充そうとしなかったわれわれ(がいると思われるわれ)の諸要求、つまりアレです。何百年ものあいだ、要求した約束が実行されると信じて、われわれ(がいると思われるわれ)は歩んできた。しかし、実行されなかった。もっと辛抱し、よくなる時を待ちなさいという言葉しか、われわれ(がいると思われるわれ)には返ってこなかった。われわれ(がいると思われるわれ)に思慮分別を求め、将来はきっと違ったものになると口約束してきた。しかし、それが嘘であることをわれわれ(がいると思われるわれ)は知っている。この状態に終止符を打つ必要性から、われわれ(がいると思われるわれ)は団結し、「もう、たくさんだ」と宣言したい。もはや、われわれ(がいると思われるわれ)の直面する問題の解決のため、他の人間が登場することを待つことはできないし、われわれ(がいると思われるわれ)はそうするつもりはない。(というつもりである。)
「アレ」とか、われわれ(がいると思われるわれ)とか、サパティスタ民族解放軍の宣言を茶化しているわけではなく、「アレ」とは、高島鈴『布団の中から蜂起せよ』で「何者にも、どのような大きな力にも脅されることなく存在できる世の中を作りたい」ことであり、「この世をマシな方向に動かす」という言葉のことであり、感情的関係性を必要としない相互扶助によって成立する社会、共同体が持続し、乱立する状況である。われわれ(がいると思われるわれ)、もうすでに、なのか、これから、なのか、われに対するわれわれの社会、共同体を見据えることである。
反操行の民衆的防御の例としてなど、以下を
森元斎『死なないための暴力論』を引用(参考)させていただきました。ミシェル・フーコーの「反体制」「反操行」やポール・ヴィリリオの「民衆的防御」の考え方は大変参考になり引用しました。
(がいると思われるわれ)をわれわれは、何も力もないかもしれないが、ばらばらに生きて、ばらばらの場所で、ばらばらの問題に、ばらばらに抗う。
この蓄積が必ず巨大な「変わり目」を生み出す。常に新しく/常に流転し、離合集散の可能性を含み続ける共同体の創造をわれわれ(がいると思われるわれ)は希望する。
これも『布団の中から蜂起せよ』からの一部加筆変更しながら、引用をさせていただいてます。
おぼろげながら、ちょっとやそっとで実現するような理想ではありませんが、この引用だらけのガイドラインが見えてきました。今後、このガイドラインに肉づけや変更を拙いながら試みていきたいと思っています。
森元斎さん、高島鈴さんに感謝いたします。
これまでの偉大な思想家、行動者にも感謝いたします。