これからもぜひ毎日一回、上下ともクリックしてくださると大変うれしいです!!!
とうとう、原爆投下から75年。
しかし、被爆者の方々が一番望んでこられた核兵器廃絶は、核兵器禁止条約成立と言う大きな一歩は歩みだしたけれども、まだ遠くかすんだまま見えない状態です。
わたくしは大学1年生の時に広島・長崎に旅をして原水禁大会に出たり、被爆者の方々にお会いして、日本被爆者団体協議会(日本被団協)が進めていた国民法廷運動に参加し、その年の秋の学園祭で「Stop the 核兵器 国民大法廷」という法廷劇で弁護士役をやったのが、今弁護士をやっている原点になっています。
それ以来、40年目の夏を迎え、ずっと考えてきた
「なぜ、広島と長崎の人々は原爆を落とされなければならなかったのか」
について書いてみたいと思います。
広島・長崎に原爆を落としたのは米軍ですから、実行犯・主犯はアメリカ合衆国です。
その動機は
1 ソ連に対する威嚇
2 核兵器の威力を人体実験したい
の2点にありました。
すでに1945年8月の時点で、アメリカは東京大阪などを大空襲で焼き払い、沖縄に上陸して大虐殺をしていましたから、もう日本にはアメリカの侵攻に抵抗するような力は残されていませんでした。
ですので、広島・長崎に原爆を落としたことで日本との戦争を終結させることができた、それが目的だったというのはうそです。
原爆投下によって、本土決戦で死ぬはずだった多数の米軍兵を死なせずに済んだのだというのは、原爆投下の残虐さを覆い隠すための口実でしかありません。
ヤルタ会談以降、ソ連の日本への参戦は決まっていましたから、アメリカと世界を二分するであろうソ連に対して核の威力を誇示し、戦後世界の主導権をアメリカが握ろうというのが、広島・長崎に現実に原爆投下をして見せた最も大きな動機だったのです。
もう一つ、忘れてならないのは、原爆を実際に市街地に投下してその威力を確かめることがアメリカの目的だったということです。
そのために、広島と長崎と言う違う地形の都市を投下先に選んだり、違う型の原爆をわざわざ二つ使ったりしました。
一発の原爆で、どれだけ街を破壊できるか。
どれだけ人を殺せるか。
それを映像に残して、後の検討材料にしたのです。
また、戦後まもなくABCC(原爆傷害調査委員会)という医学と放射線の専門家たちをアメリカは日本に送り込み、広島と長崎の被爆者の診察に当たらせたのですが、被爆者たちの治療は一切していません。
あくまで、被爆者を実験台としてサンプルとして扱って被爆の実態を調べる対象としただけです。
その非人間的な冷徹さは驚くべきことです。
このABCCの存在と活動内容が、アメリカによる原爆投下が人体実験であったという何よりの証拠です。
写真を撮ったり血液を検査するだけ。
ちなみに、アメリカによる原爆投下を可能にしたものの一つに、欧米人からの日本などアジアの民衆に対する蔑視があったと思います。
いかに残虐なナチズムに支配されていようとも、「白人」国家であるドイツではなく、日本に原爆を投下したのは、日本人であれば残虐行為をする抵抗感が少なく、後にアメリカの指導者たちがヨーロッパなど世界から批判を受ける度合いもずっと少ないという計算が、トルーマン大統領以下アメリカ首脳部にはあったと思います。
また、リメンバー・パールハーバーに象徴されるように、これは卑怯な先制攻撃をした日本に対する報復なのだという口実が設けられるのも、アメリカの指導部にとっては好都合だったでしょう。
さて、広島・長崎への原爆投下の主犯・正犯がアメリカ合衆国であったとすると、従犯・共犯は大日本帝国そのものです。
なにより、中国や南方への侵略からアメリカへの宣戦布告。その戦争開始責任が日本の指導部にはあります。
その後、大空襲や沖縄上陸などで何十万人と言う日本の民衆が殺されても大日本帝国は意に介さず、一向に戦争をやめようとせず、ポツダム宣言を受諾しなかった停戦遅延行為が、結局、広島・長崎への原爆投下を招きました。
人を人とも思わない点において、アメリカと日本の政府は同罪です。
そして、日本がとうとうポツダム宣言受諾による無条件降伏に応じたのは、ソ連の参戦のためでした。
共産主義国であるソ連が日本がでっち上げた満州国に侵攻を開始したため、そのまま日本を占領することになれば昭和天皇は処刑され、日本の指導者はアメリカに占領されるよりはるかに多く死刑にされるであろうことを、裕仁天皇以下、日本の指導部は恐怖しました。
それでやっと昭和天皇と大日本帝国は降伏を決意したのであり、これは日本の民衆を救うためではなく、自分たちの保身のためでした。
被爆者援護法や原爆症に関する法律など、すべての被爆者関連の法律の根底に、「国家補償の精神」があると言われるのはなぜかというと、原爆の惨禍が単にアメリカだけの行為で起きたわけではなく、戦争開始責任と終戦遅延責任の両方が日本国にあるからです。
第二次大戦当時の国際法でも、無差別殺戮や市民の不必要な苦痛は国際人道法違反とされていて、後遺症が酷くなるダムダム弾や毒ガス兵器の使用は禁止されていたのですが、原爆症と言われる放射線後障害ほど酷い後遺症はありません。
それは被曝からいつ何時どこにどんな症状が現れるかわからない、半世紀以上も続く恐怖です。
それをもたらしたのはアメリカと日本の政府なのです。
生き残られた被爆者の平均寿命はもう83歳を越えられましたが、今も多くの被爆者の方々が原爆症に苦しんでおられ、だからこそ全国各地で原爆症訴訟がいまも続いています。
それは、政府による被爆者遺棄政策がいまも続いているからです。
原爆投下直後、日本を占領したGHQが徹底して被爆者の苦しみの実態を隠ぺいし、言論を統制して報道させないようにしました。
日本政府も長く被爆者援護に踏み切ろうとせず、被爆者への差別や偏見を放置しました。
ですから、被爆者の中には差別を恐れて被爆者手帳を取ろうとしないまま亡くなっていった方も多いのです。
そして、今の安倍政権に続く日本政府は、原爆症訴訟で負け続けて麻生太郎総理大臣が被爆者と結んだ合意書を踏みにじって、原爆症認定を矮小化した枠組みでしかしようとしません。
高齢化し、病気を抱えた被爆者には時間がないと言われ始めてもう20年です。その間に福島原発事故と言う新たに放射線の恐怖を市民に突きつける出来事もありました。
被爆者の方々はもう年取った自分がお金が欲しいと思って裁判をしている人は誰一人いません。被爆者援護を手厚くする国であってこそ、次の核戦争を防ぐこともできると信じて活動されてきました。
新たな被爆者を生んだら国の財政が破綻するくらいの負担を負わなければならない、となって、初めて政府は核戦争防止と核兵器廃絶に本気になるからです。
被爆者援護と核兵器廃絶は、無念の死を遂げられた被爆者の方々、今苦しんでいる被爆者の方々を救うだけではなく、これからこの地球で生きていくすべての子どもたちのために必要なことです。
コロナ禍のなか迎える原爆忌。
人の命を大切にできる社会にする決意を新たにしたいと思います。
これからもぜひ一日一回、上下ともクリックしてくださると大変うれしいです!!!
毎日新聞
太平洋戦争末期の1945年8月、米軍によって原爆を投下された広島は6日、被爆から75年を迎えた。人類史上初の核攻撃から四半世紀を三たび重ねた今も、被爆者が訴え続けてきた「核なき世界」は実現できていない。米中露による軍拡競争再燃への懸念が広がり、新型コロナウイルスの感染拡大を背景に国家間の対立も強まる。広島市中区の平和記念公園では午前8時から平和記念式典が営まれ、松井一実市長が平和宣言で核兵器廃絶に向け、世界に連帯を呼びかける。
厚生労働省によると、広島と長崎で被爆し、被爆者健康手帳を交付された人は3月末時点で13万6682人。80年度末の37万2264人をピークに減少し、2013年度末に20万人を割り込んだ。平均年齢は83・31歳に達した。
高齢の被爆者らに共通するのは「生きている間に核廃絶を」という切実な願いだ。「残された時間が少ない」という焦りから、証言を始めた人もいる。「被爆者による実質的に最後の訴えになる」と被爆者団体は核兵器廃絶を求める署名活動に力を入れ、1184万筆を集めた。3年前に国連で採択された核兵器禁止条約の早期発効に向け、4月の核拡散防止条約(NPT)再検討会議で提出予定だったが、コロナ禍で会議が延期になり、活動も足踏みを余儀なくされた。
始まって63年が経過した被爆者援護も課題が残る。原爆投下直後に降った「黒い雨」を浴びたのに国の援護対象から外れた住民ら84人を被爆者と認定し、広島県・市に被爆者健康手帳の交付を命じる判決が広島地裁で出された。県・市が控訴するかどうかの判断は、政府に委ねられている。
75年を四半世紀ごとに振り返ると、被爆25年(70年)は米ソ冷戦下の軍拡競争の中にあり、冷戦終結後に迎えた被爆50年(95年)は軍縮への期待も広がった。
核兵器禁止条約の批准国は発効要件の50に近づいているものの、米露間の中距離核戦力(INF)全廃条約は19年に失効し、21年2月に期限が迫る新戦略兵器削減条約(新START)の延長も不透明だ。北朝鮮やイランの問題の解決も見通せず、核軍縮や核不拡散の「冬の時代」を迎えている。
原爆死没者名簿には8月5日までの1年で4943人が新たに加えられた。全部で32万4129人の名前が記された名簿は、6日の記念式典で平和への願いとともに慰霊碑に収められる。【小山美砂】
広島は、原爆が投下されて75年となる「原爆の日」を迎えました。新型コロナウイルスの影響で、例年どおりの追悼が難しい状況となるなか、被爆地・広島の街は、6日(きょう)一日、犠牲者を追悼する祈りに包まれるとともに、核兵器のない世界の実現に向けた訴えを、国内外に発信することにしています。
原爆が投下されて75年の節目となる6日、広島市では午前8時から平和記念式典が開かれ、被爆者や遺族の代表をはじめ、安倍総理大臣のほか、およそ80の国の代表などが参列します。
ただ、ことしの式典は、新型コロナウイルスの感染を防ぐため会場の平和公園への入場が規制され、一般の参列者席をなくすため、参列者は例年の1割に満たないおよそ800人の見通しです。
式典ではこの1年に亡くなった人や新たに死亡が確認された人、合わせて4943人の名前が書き加えられた32万4129人の原爆死没者名簿が原爆慰霊碑に納められます。
そして原爆が投下された午前8時15分に参列者全員で黙とうをささげます。
世界の核軍縮をめぐっては、核保有国が核兵器の近代化を進め、非核保有国との対立が深まるなど、核兵器廃絶に向けた動向が不透明となるなか、3年前、国連で採択された核兵器禁止条約は、現在の批准国が40か国で、発効に必要な50か国に達していません。
広島市の松井一実市長は6日の平和宣言のなかで、日本政府に対し核兵器禁止条約への署名と批准を求める被爆者の思いを誠実に受け止めて条約に参加するよう求めることにしています。
また、新型コロナウイルスについても触れ、市民社会が連帯して立ち向かうことを促すなど、「連帯」ということばを使って核兵器廃絶や世界の恒久平和の実現などを求めることにしています。
被爆者の平均年齢はことし、83歳を超え、被爆者団体の解散が相次いでいて、原爆の悲惨さをどう語り継いでいくのかが課題となっています。
一方、ことし、NHKが行ったアンケート調査では、アメリカの若い世代のおよそ7割が「核兵器は必要ない」と答え、被爆者から今後の認識の変化に期待する声も出ています。
被爆地・広島は、6日一日、犠牲者を追悼する祈りに包まれるとともに、「核抑止力による平和」ではなく「核兵器のない平和な世界」の実現を願う被爆者の声に向き合い、その訴えを国内外に発信することにしています。
事後報告で誠に申し訳ございませんが、貴ページをリンクさせていただきました。
今後ともよろしくお願いいたします。