日本被団協の田中熙巳代表がノーベル平和賞受賞式で演説。「何十万という死者に対する補償は全くなく、日本政府は一貫して国家補償を拒み、放射線被害に限定した対策のみを今日まで続けています」と日本政府を告発。
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日本時間で昨夜、2024年12月10日、ノーベル平和賞を受賞した日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)を代表して、共同代表の一人である被爆者の田中熙巳(てるみ)さん(92)がノーベル平和賞授賞式で演説に立ちました。
渡航の2週間ほど前まで体調を崩し、強い重圧を感じながら原稿を書き上げたということです。
被爆者の方々は国内外で、自分の振り返りたくもない被爆体験を語ることで核兵器のおそろしさを説き、核廃絶に向け尽力してこられました。
中学1年生のときに長崎で被爆した田中さんは1956年に日本被団協が結成された当初から関わられ、延べ20年にわたり事務局長を務めて、被爆者への援護拡大を国に働きかけるとともに、核兵器廃絶運動の先頭に立ってこられました。
長く被団協の事務局長として我々市民と被爆者をつなぐ役割を務めてきてくださった田中さん。
私も核兵器の違法性を断じた国際司法裁判所のあるハーグなど、いろいろなところに同行させていただきました。
広島の被爆医師肥田舜太郎先生、長崎の仙ちゃんこと山口仙二さん。。。。
亡くなられたたくさんの被爆者の方々のお顔が浮かびますが、せめて田中さんが生きてこの授賞式を迎え、ノーベル賞受賞式で演説をするというこの神の配慮に「間に合った」と思わずにはいられません。
【#ノーベル平和賞】日本被団協 世界へスピーチ
— 報道ステーション+サタステ (@hst_tvasahi) December 10, 2024
日本被団協 代表委員 田中熙巳さん… pic.twitter.com/EE8W7Pln4S
【ノーモアヒバクシャ!】日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)にノーベル平和賞授与!「核兵器のない世界の実現に向けた努力」「核兵器の使用がもたらす人道的惨事に対する認識を高めるために尽力してきた」
いつもいろいろな運動やイベントの打ち合わせでしか接したことがなく、私は田中さん自身の被爆体験をお聞きする機会がなかったので、今回の受賞の前後の田中さんのお話で初めてその苦しみに触れることができました。
田中さんは中学1年生だった1945年8月9日、長崎市の自宅で原爆に遭われました。
お祖父さまは骨が見えるほど全身に大やけどを負い、伯母やいとこは炭のように真っ黒になって転がっていたのだそうです。
田中さんの通う学校には、髪の抜けた頭を布で隠して通学する女子学生や、突然亡くなる同級生がいたとのこと。
お母様は競輪場、兄は建設現場、自身も港で荷物の上げ下ろしを手伝ったそうです。
田中さん自身も大学進学をめざして上京後は、パチンコの景品交換カード作り、本のデータ集計や配達と、できる仕事は何でもしたとのこと。
原爆投下から9年後の1954年3月、太平洋マーシャル諸島ビキニ環礁で米国が水爆実験を行い、日本のマグロ漁船「第五福竜丸」が被曝しました。
「労働者のための組合員として、第五福竜丸の船員たちを放っておくわけにいかない」
と考え、田中さんは全国に広がった原水爆禁止運動に加わりました。
1955年8月に初の原水爆禁止世界大会が広島市で開催され、翌1956年8月に長崎市で開かれた第2回世界大会に田中さんも参加されたそうです。
この大会で日本被団協が結成されて田中さんもその後の運動に加わり、1957年からの被爆者健康手帳の交付や健康診断の無料提供の実現に力を注がれました。
1978年に国連の軍縮特別総会で被爆者らとニューヨークの街をパレードする田中さん。
しかし、国によるそうした救済は
「ささやかなもの」
でしかなく、
「いのち、からだ、こころ、くらしにわたる被害」
に苦しむ被爆者にとって、到底納得できる法制度ではありませんでした。
田中さんは1994年に制定された被爆者援護法に触れる中で、
「何十万という死者に対する補償は全くなく、日本政府は一貫して国家補償を拒み、放射線被害に限定した対策のみを今日まで続けています」
と訴えました。
そして事前に委員会や記者たちに配布された演説文にはなかったそうなのですが、田中さんは
「もう一度繰り返します」
とおっしゃられた後、
「原爆で亡くなった死者に対する償いは、日本政府は全くしていないという事実をお知りいただきたいと思います」
と強調されて、国家補償を認めていない政府の姿勢を2度にわたって批判しました。
被爆者の方々が国家補償にこだわるのは、もう平均年齢が85歳を過ぎた自分たちが補償金がほしいということではありません。
第二次大戦の戦争被害者への国家補償が実現すれば、日本政府は戦争をしたら国民に莫大な補償をしなければいけなくなるのだから、二度と戦争を起こせない国になるという信念からなのです。
核兵器が廃絶されても、国家補償が実現しても、田中さんたち被爆者に直接の恩恵がもはやあるわけではない。
すべては全世界の、後世の人たちの平和な生活のための運動だ。
どうやったらこの日本は良くなるか。見返りを求めず与える人たち、袴田巖さんのお姉さんひで子さんや日本被団協の被爆者の方々に学ぶ。
一方、日本被団協のノーベル平和賞受賞を受けて、12月10日の衆院予算委員会で石破茂内閣総理大臣は
「長年の核廃絶に向けた発信と努力が報われた」
「『おめでとう』か、『ご苦労様でした』か、言い方は難しいが、本当にご苦労様でした」
と語りました。
しかし、石破氏自身はアメリカが保有する核兵器を日本列島に持ち込ませ、日本もその核兵器の運用にかかわるという「核共有」を主張して止まない政治家です。
石破氏は自民党総裁選挙においてさえまだ核共有を唱えていました。
そして、被爆者たちが望んできた、日本政府が自らの戦争責任を認めたうえでの国家補償も、核兵器廃絶のための核兵器禁止条約への積極的な参加も眼中にありません。
日本に暮らす我々市民の一人一人がこれまで亡くなった数十万人の被爆者とまだご存命の10万人の被爆者の方々の遺志と意志を受け継いで、戦争で原爆を2度も投下された唯一の国の人間として、二度と核戦争が、いや戦争がないように、非核の政府を作っていくのは大きな義務だと感じます。
祝!日本被団協のノーベル平和賞受賞!!日本が核兵器廃絶を目指して核兵器禁止条約に参加するのを良しとするなら、衆院選では自国維公(地獄逝こう)に投票するのは厳禁。まともな野党4党に投票するしかない。
ノーベル平和賞を受賞した日本被団協の田中熙巳代表委員が石破茂首相の持論「核共有」に対して「論外。政治のトップが必要だと言っていること自体が怒り心頭」と厳しく批判。石破自民党の安保構想が一番非現実的だ
編集後記
日本被団協は結成当初は日本の被爆者の援護と核兵器廃絶を求める団体でした。
しかし運動は朝鮮半島から連れてこられて被爆した方々の援護、東京大空襲など他の戦争被害者との連帯、そして旧日本軍がした諸国民への戦争加害に対する補償を求める運動との協力と、どんどん進化されていきました。
今回も韓国とブラジルの被爆者の方々が代表団に加わっておられます。
自分さえ補償金、賠償金をもらえればいいなどと言う組織だったら、日本被団協がこれまで続くことももちろんノーベル平和賞を受賞するということもあり得ないのです。
被爆者は元々一般の市民で、原爆を投下されたというだけで、特別に生まれた方々ではないんです。
原爆症などハンディがある中でなお常に学び続け、前進し続けてこられたその姿こそが我々を励まして下さる存在です。
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被爆者の立場から核兵器廃絶を国内外に訴えてきた日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)へのノーベル平和賞授賞式が10日、ノルウェーのオスロ市庁舎で開かれた。
日本被団協を代表し、長崎で被爆して親族5人を亡くした田中熙巳(てるみ)代表委員(92)は受賞演説で、当初予定にない言葉を加える場面があった。
田中さんは1994年に制定された被爆者援護法に触れる中で、「何十万という死者に対する補償は全くなく、日本政府は一貫して国家補償を拒み、放射線被害に限定した対策のみを今日まで続けています」と訴えた。
ここまでは報道機関に対して事前に配布された文案と同じだったが、田中さんは直後に「もう一度繰り返します」と切り出した。
そして、田中さんは正面を真っすぐ見ながら「原爆で亡くなった死者に対する償いは、日本政府は全くしていないという事実をお知りいただきたいと思います」と強調。「予定外」の訴えを追加し、国家補償を認めていない政府の姿勢を2度にわたって批判した。【安徳祐(オスロ)、面川美栄】
国王・王妃両陛下、皇太子・皇太子妃両殿下、ノルウェー・ノーベル委員会のみなさん、ご列席のみなさん、核兵器廃絶をめざしてたたかう世界の友人のみなさん、ただいまご紹介いただきました日本被団協の代表委員の一人の田中熙巳でございます。本日は受賞者「日本被団協」を代表してあいさつをする機会を頂きありがとうございます。
被爆者「核廃絶、心からの願い」 被団協、ノーベル平和賞授賞式―人類の自滅防止、世界に訴え・オスロ
私たちは1956年8月に「原水爆被害者団体協議会」(日本被団協)を結成しました。生きながらえた原爆被害者は歴史上未曽有の非人道的な被害をふたたび繰り返すことのないようにと、二つの基本要求を掲げて運動を展開してきました。一つは、日本政府の「戦争の被害は国民が受忍しなければならない」との主張に抗い、原爆被害は戦争を開始し遂行した国によって償われなければならないという運動。二つは、核兵器は極めて非人道的な殺りく兵器であり人類とは共存させてはならない、すみやかに廃絶しなければならない、という運動です。
この運動は「核のタブー」の形成に大きな役割を果たしたことは間違いないでしょう。しかし、今日、依然として12000発の核弾頭が地球上に存在し、4000発が即座に発射可能に配備がされているなかで、ウクライナ戦争における核超大国のロシアによる核の威嚇、また、パレスチナ自治区ガザ地区に対しイスラエルが執拗(しつよう)な攻撃を続ける中で核兵器の使用を口にする閣僚が現れるなど、市民の犠牲に加えて「核のタブー」が崩されようとしていることに限りない口惜しさと怒りを覚えます。
私は長崎原爆の被爆者の一人です。13歳の時に爆心地から東に3キロ余り離れた自宅で被爆しました。
1945年8月9日、爆撃機1機の爆音が突然聞こえるとまもなく、真っ白な光で体が包まれました。その光に驚愕し2階から階下にかけおりました。目と耳をふさいで伏せた直後に強烈な衝撃波が通り抜けて行きました。その後の記憶はなく、気がついた時には大きなガラス戸が私の体の上に覆いかぶさっていました。ガラスが一枚も割れていなかったのは奇跡というほかありません。ほぼ無傷で助かりました。
長崎原爆の惨状をつぶさに見たのは3日後、爆心地帯に住んでいた二人の伯母の家族の安否を尋ねて訪れた時です。わたしと母は小高い山を迂回(うかい)し、峠にたどり着き、眼下を見下ろして愕然としました。3キロ余り先の港まで、黒く焼き尽くされた廃墟が広がっていました。煉瓦造りで東洋一を誇った大きな教会・浦上天主堂は崩れ落ち、みるかげもありませんでした。
麓に降りていく道筋の家はすべて焼け落ち、その周りに遺体が放置され、あるいは大けがや大やけどを負いながらもなお生きているのに、誰からの救援もなく放置されている沢山の人々。私はほとんど無感動となり、人間らしい心も閉ざし、ただひたすら目的地に向かうだけでした。
一人の伯母は爆心地から400mの自宅の焼け跡に大学生の孫の遺体とともに黒焦げの姿で転がっていました。
もう一人の伯母の家は倒壊し、木材の山になっていました。祖父は全身大やけどで瀕死(ひんし)の状態でしゃがんでいました。伯母は大やけどを負い私たちの着く直前に亡くなっていて、私たちの手で荼毘(だび)にふしました。ほとんど無傷だった伯父は救援を求めてその場を離れていましたが、救援先で倒れ、高熱で1週間ほど苦しみ亡くなったそうです。一発の原子爆弾は私の身内5人を無残な姿に変え一挙に命を奪ったのです。
その時目にした人々の死にざまは、人間の死とはとても言えないありさまでした。誰からの手当も受けることなく苦しんでいる人々が何十人何百人といました。たとえ戦争といえどもこんな殺し方、傷つけ方をしてはいけないと、強く感じました。
長崎原爆は上空600メートルで爆発。放出したエネルギーの50パーセントは衝撃波として家屋を押しつぶし、35パーセントは熱線として屋外の人々に大やけどを負わせ、倒壊した家屋のいたるところで発火しました。多くの人が家屋に押しつぶされ焼き殺されました。残りの15パーセントは中性子線やγ線などの放射線として人体を貫き内部から破壊し、死に至らせ、また原爆症の原因を作りました。
その年の末までの広島、長崎両市の死亡者の数は、広島14万人前後、長崎7万人前後とされています。原爆を被爆しけがを負い、放射線に被ばくし生存していた人は40万人あまりと推定されます。
生き残った被爆者たちは被爆後7年間、占領軍に沈黙を強いられ、さらに日本政府からも見放され、被爆後の十年余を孤独と、病苦と生活苦、偏見と差別に耐え続けました。
1954年3月1日のビキニ環礁でのアメリカの水爆実験によって、日本の漁船が「死の灰」に被ばくする事件が起きました。中でも第五福竜丸の乗組員23人全員が被ばくして急性放射能症を発症、捕獲したマグロは廃棄されました。この事件が契機となって、原水爆実験禁止、原水爆反対運動が始まり、燎原の火のように日本中に広がったのです。3000万を超える署名に結実し、1955年8月「原水爆禁止世界大会」が広島で開かれ、翌年第2回大会が長崎で開かれました。この運動に励まされ、大会に参加した原爆被害者によって1956年8月10日「日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)」が結成されました。
結成宣言で「自らを救うとともに、私たちの体験を通して人類の危機を救おう」との決意を表明し、「核兵器の廃絶と原爆被害に対する国の補償」を求めて運動に立ち上がったのです。
運動の結果、1957年に「原子爆弾被爆者の医療に関する法律」が制定されます。しかし、その内容は、「被爆者健康手帳」を交付し、無料で健康診断を実施するほかは、厚生大臣が原爆症と認定した疾病に限りその医療費を支給するというささやかなものでした。
1968年「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律」が制定され、数種類の手当てを給付するようになりました。しかしそれは社会保障制度であって、国家補償は拒まれたままでした。
1985年、日本被団協は「原爆被害者調査」を実施しました。この調査で、原爆被害はいのち、からだ、こころ、くらしにわたる被害であることを明らかにしました。命を奪われ、身体にも心にも傷を負い、病気があることや偏見から働くこともままならない実態がありました。この調査結果は、原爆被害者の基本要求を強く裏付けるものとなり、自分たちが体験した悲惨な苦しみを二度と、世界中の誰にも味わわせてはならないとの思いを強くしました。
1994年12月、2法を合体した「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」が制定されましたが、何十万人という死者に対する補償は一切なく、日本政府は一貫して国家補償を拒み、放射線被害に限定した対策のみを今日まで続けてきています。
これらの法律は、長い間、国籍に関わらず海外在住の原爆被害者に対し、適応されていませんでした。日本で被爆して母国に帰った韓国の被爆者や、戦後アメリカ、ブラジル、メキシコ、カナダなどに移住した多くの被爆者は、被爆者特有の病気を抱えながら原爆被害への無理解に苦しみました。それぞれの国で結成された原爆被害者の会と私たちは連帯し、ある時は裁判で、あるときは共同行動などを通して訴え、国内とほぼ同様の援護が行われるようになりました。
私たちは、核兵器のすみやかな廃絶を求めて、自国政府や核兵器保有国ほか諸国に要請運動を進めてきました。
1977年国連NGOの主催で「被爆の実相と被爆者の実情」に関する国際シンポジウムが日本で開催され、原爆が人間に与える被害の実相を明らかにしました。このころ、ヨーロッパに核戦争の危機が高まり、各国で数十万人の大集会が開催され、これら集会での証言の依頼などもつづきました。
1978年と1982年にニューヨーク国連本部で開かれた国連軍縮特別総会には、日本被団協の代表がそれぞれ40人近く参加し、総会議場での演説のほか、証言活動を展開しました。
核兵器不拡散条約の再検討会議とその準備委員会で、日本被団協代表は発言機会を確保し、あわせて再検討会議の期間に、国連本部総会議場ロビーで原爆展を開き、大きな成果を上げました。
2012年、NPT再検討会議準備委員会でノルウェー政府が「核兵器の人道的影響に関する会議」の開催を提案し、2013年から3回にわたる会議で原爆被害者の証言が重く受けとめられ「核兵器禁止条約」交渉会議に発展しました。
2016年4月、日本被団協が提案し世界の原爆被害者が呼びかけた「核兵器の禁止・廃絶を求める国際署名」は大きく広がり、1370万を超える署名を国連に提出しました。2017年7月7日に122か国の賛同をえて「核兵器禁止条約」が制定されたことは大きな喜びです。
さて、核兵器の保有と使用を前提とする核抑止論ではなく、核兵器は一発たりとも持ってはいけないというのが原爆被害者の心からの願いです。
想像してみてください。直ちに発射できる核弾頭が4000発もあるということを。広島や長崎で起こったことの数百倍、数千倍の被害が直ちに現出することがあるということです。みなさんがいつ被害者になってもおかしくないし、加害者になるかもしれない。ですから、核兵器をなくしていくためにどうしたらいいか、世界中のみなさんで共に話し合い、求めていただきたいと思うのです。
原爆被害者の現在の平均年齢は85歳。10年先には直接の体験者としての証言ができるのは数人になるかもしれません。これからは、私たちがやってきた運動を、次の世代のみなさんが、工夫して築いていくことを期待しています。
一つ大きな参考になるものがあります。それは、日本被団協と密接に協力して被団協運動の記録や被爆者の証言、各地の被団協の活動記録などの保存に努めてきた「NPO法人・ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」の存在です。この会は結成されてから15年近く、粘り強く活動を進めて、被爆者たちの草の根の運動、証言や各地の被爆者団体の運動の記録などをアーカイブスとして保存、管理してきました。これらを外に向かって活用する運動に大きく踏み出されることを期待します。私はこの会が行動を含んだ、実相の普及に全力を傾注する組織になってもらえるのではないかと期待しています。国内にとどまらず国際的な活動を大きく展開してくださることを強く願っています。
世界中のみなさん、「核兵器禁止条約」のさらなる普遍化と核兵器廃絶の国際条約の策定を目指し、核兵器の非人道性を感性で受け止めることのできるような原爆体験者の証言の場を各国で開いてください。とりわけ核兵器国とそれらの同盟国の市民の中にしっかりと核兵器は人類と共存できない、共存させてはならないという信念が根付き、自国の政府の核政策を変えさせる力になるよう願っています。
人類が核兵器で自滅することのないように!!
核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張りましょう!!(オスロ時事)
表記は原文通り。
ノルウェー国王らも臨席して行われた式では、ノーベル賞委員会のフリードネス委員長が授賞理由について「核兵器が二度と使われてはならない理由を身をもって立証してきた」と説明。委員長から田中重光さんにはメダルが、箕牧さんには賞状がそれぞれ手渡された。箕牧さんは賞状を受け取ると深々と一礼し、笑顔も見せた。
その後、被団協を代表して田中熙巳さんが、つえをつきながら自らの足で演台へ。手元に用意した原稿に目を通しながら、一文字ずつはっきりとした口調で演説した。演説に聞き入った被団協の参加者の中には、涙をぬぐう人もいた。
約20分間の演説中、用意された椅子には座らず、立ったまま世界にメッセージを発信し続けた田中熙巳さん。終了後に一礼すると、参加者らは総立ちになって1分以上も拍手が続いた。
「核廃絶の運動が世界に認められた」ノーベル平和賞に喜び、驚き… 若者も「暴力に『ノー』突き付けた」
2024年10月11日 22時21分 東京新聞 有料会員限定記事
核なき世界をあきらめない、と声を上げ続けてきた人々の願いが実った。
日本原水爆被害者団体協議会(被団協)のノーベル平和賞受賞が11日、決まった。長年、活動に関わってきた被爆者は喜びをあふれさせ、核兵器廃絶をあらためて誓った。
◆親族5人を亡くし…「どんなに喜ぶことか」
被団協の事務局長を計20年務め、現在も代表委員として活動を続ける田中熙巳(てるみ)さん(92)は11日夜、埼玉県新座市の自宅で授与決定の知らせを聞いた。ひっきりなしに電話が鳴る中、受賞について「うれしいです。私だけじゃなく被爆者全員が喜んでいると思う。特に、亡くなった方々はどんなに喜ぶことかと思います」と語った。
ノーベル平和賞の受賞が決まり、感想を話す日本被団協の田中熙巳さん=11日夜、埼玉県新座市で(平野皓士朗撮影)
被団協は長年、核兵器廃絶に向けた運動を続けてきた。田中さんもその実績は平和賞に値すると思い続けてきたが、2017年に核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)が受賞し、「もう被団協としてはもらうことはないかな」と思っていたという。「だから(受賞は)思いも寄らなかった」というが、「実は昨日か一昨日かの夜、被団協がノーベル平和賞をもらう夢をみたんだよね。思いが通じたかな」と笑った。
田中さんは13歳の時、長崎市の爆心地から3.2キロの自宅で被爆。親族5人を亡くした。親類の家に向かうと、父方のおばといとこは「真っ黒な炭」に変わり果てていた。
◆壮絶な被害、伝え続けた
戦後しばらくは連合国軍総司令部(GHQ)の情報統制もあり、原爆の被害は日本でもあまり知られていなかった。1954年の米国によるビキニ水爆実験で日本のマグロ漁船が被ばく。国内の原水爆禁止運動の盛り上がりとともに、原爆の被害が注目されるようになり、1956年に被団協が誕生した。
1978年、国連の軍縮特別総会で被爆者らとニューヨークの街をパレード(田中熙巳さん提供)
被爆者への医療補償などに加え、被団協の活動の中心となったのは、被害を世界に伝えるために当事者である被爆者が証言することだ。1976年に田中さんが被団協のメンバーとして初めて国連を訪問した時は死者数ですら過小評価されており、「冗談じゃない」と悔しい思いをしたという。「きのこ雲の下の壮絶な被害が全く伝わっていない」と痛感し、国連で直接訴える活動を始めた。
田中さんが中心となって、2000年代からは写真パネルを使った「原爆展」を国連本部内で開催。被爆者が国際会議で証言し、各国代表が総立ちになって拍手が起きたこともあった。
田中さんは今年もピースボートに乗って若者たちに被爆体験を語った。「被爆者が声を上げたことでようやく、具体的に『非人道性』とはどういうことなのかが伝わり始めた。世界から核兵器をなくすために、核兵器禁止条約を世界に広げないと。条約に署名も批准もしていない日本が変わらないといけない」と訴える。(出田阿生)
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◆でも「国家補償も核廃絶も、実現していない」
東京・芝大門のビル9階にある被団協事務所には11日夕、カメラやボイスレコーダーを手にした多くの報道陣が詰めかけた。所狭しと資料が積まれた室内で、事務室長の工藤雅子さん(62)は「1956年に結成して以来、一貫して原爆被害への国家補償と核兵器の廃絶を掲げて運動してきたことが世界に認められた」と喜んだ。
ノーベル平和賞の受賞が決まり、電話の応対に追われる日本被団協の工藤雅子さん(左)=11日、東京都港区で(坂本亜由理撮影)
ノーベル平和賞の受賞は、帰り支度をしていた時にかかってきたテレビ局からの取材の電話で知ったという。「驚いたし、うれしく思う。これまでの運動で先頭に立ってきた被爆者らを思い出した」
あの戦争から79年、被爆者たちは皆、病を抱え、高齢化している。「今、生きて語れる被爆者は乳幼児の時に被爆したなど、あの日の様子を語れない人が多い」と歴史を伝え続けることの困難さに直面する。それでも、あらゆる国際会議で発言を繰り返してきた。
「被爆者たちは自分の身に起きたことを、誰にも味わわせたくないという思いで運動してきた」とし、「被爆者が残した手記がいっぱいある。過去に手記を残した被爆者の声を読み取ってほしい」と語った。
日本では50年ぶりとなるノーベル平和賞に喜びつつも、「被爆者たちが願ってきた政府による国家補償も核兵器廃絶も実現していない。このことを知ってもらい、多くの人に自分たちの問題として捉えてもらいたい。重い扉を開くために、もう一歩進んでほしい」と訴えた。(西川正志、太田理英子)
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◆祖母が被爆 「長年の活動、日の目を見た」
祖母が長崎で被爆し核廃絶を目指す若者の団体「KNOW NUKES TOKYO(ノー・ニュークス・トーキョー)」で代表を務める中村涼香(すずか)さん(24)は「今年はガザの関係だと思っており、まさか被団協と思わなかった」と驚いた様子。「被爆者の言葉にフォーカスが当たり、長年続けてきた活動の重みが日の目を見て、国際的に広まる機会になることはうれしい」と話した。
ロシアのウクライナ侵攻やイスラエルとイスラム組織ハマスとの衝突など世界各地で紛争が続く中、「社会的弱者への暴力にこれだけ強く『ノー』を突き付けられるものはない」と世界で平和を考える輪が広がることに期待を寄せた。
中村さんらはこの夏、東京・渋谷のスクランブル交差点でスマートフォンのカメラをかざすと、実物大に近いきのこ雲が映し出されるアプリを使った作品を制作。渋谷を訪れる若い世代に核の恐怖をイメージしてもらうことを試みた。(山口登史)
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