誰もがどこかで見た覚えがあるはずの俳優堀内正美さん。
「がんばろう!神戸」の発案者としても知られていますね。今だと頑張ろうはあかんのだろうか。
神戸時代にお知り合いにならせていただいたのですが、私の手術からインフルエンザまで、いつも気遣ってくださる超優しい方です。
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兵庫県出身のわたくしとしては、この日をどんな気持ちで迎えるか、このブログで何を書くのか、去年から考えあぐねてきました。
1995年1月17日の阪神淡路大震災から30年目の今日。
政府の地震調査委員会が南海トラフ地震について、30年以内の発生確率(長期評価)が「80%程度」、と公表したばかりなのですが、根拠としているデータや研究結果の見直しを始めており、確率の値や表記の仕方などに変更が加えられる可能性が高いそうです。
それにしても私が生きている間に、もう一回、大地震が来る可能性は高い。
個人的なことになりますが娘が生きている間には絶対来るわけで、ロンドンに留学させておいてよかった、もうイギリスで弁護士になっておくれと思わずにはいられません。
全国民、いや世界中が度肝を抜かれたであろう、横倒しになった阪神高速道路。
そんなことを言っている私ですが、実はラッキーマンと呼ばれていまして、阪神淡路大震災も東日本大震災も肌身では経験したことがないんです。
1995年は東京弁護士会で弁護士になって5年目でしたし、2011年は兵庫県弁護士会に所属していました。
1995年春に神戸に帰省して、弁護士会で震災法律相談を何日間か担当させていただいた折には、弁護士会館の中に被災者の方々が避難してこられていて生活しておられたのには愕然としました。
また、灘区の実家の周りの公園も青いビニールシートのテントだらけで、その状態は何年も続きました。
ですが、1月17日午前5時46分に襲ってきた地震そのものの恐怖は知りません。
阪神大震災から25年。日本は本当に安全に、幸せになったのか。
あの時、神戸市灘区には両親が、東灘区には祖母と叔父さん叔母さん夫婦が、尼崎市には妹が暮らしていました。
妹にはすぐに連絡が取れて無事がわかったのですが、両親に公衆電話から電話がつながったのは1月17日の午後11時過ぎ。
ガスも水道も電気も止まってしまっていて、寒さに震えているというお袋の言葉に呆然としました。
やはり、動くはずがないくらい重いタンスなんかも何メートルも飛んでたらしいです。
電話するのも迷惑、助けに行くのも迷惑ということで、しばらく手をこまねいているしかありませんでした。
翌日、テレビで見ていたら、うちの近所が燃えている映像が映って、延焼しないかと生きた心地がしませんでした。
神戸市灘区の震災から少し経った後の映像。こんな様子をテレビで見て、心底恐ろしかった。
今から考えると当時の両親は今の私よりも若くまだ50代。
だからなんとかなりましたが、建物の倒壊が一番激しかった東灘区に住んでいた母方のおばあちゃんの家は古い木造二階建てで、二階が落ちてきて、梁と屋根の間の空間に奇跡的におばあちゃんは落っこちて助かったそうです。
そこに、3番目の40代の息子(私のおじさん)が大阪府枚方市から線路を伝って助けに行ったというのですから、タフというか、ラッキーというか、そういう一族ですね。
ちょうどおばあちゃんたちの家があったあたり。
実は、その祖母と同居していた長女夫婦の夫、私の血のつながらないおじさんは筒井もとじといって共産党の兵庫県議。
ヒゲの先生として地元で親しまれていましたが、選挙に弱くて(笑)、何度も落選の憂き目にあっていました。
しかし本当に心から地元の人の幸せを願って地道な活動をする人で、当選したときには私も嬉しくておじさん家に祝電を打ちました。
「この勝利は偶然にあらず」
と書いたフレーズが嬉しかったらしく、あとでおばさんから褒められました(笑)。
この筒井のおじさんは震災の中で大活躍。
避難所や仮設住宅で暮らす被災者の方々のためにまた粉骨砕身頑張って、それからは当選の連続、共産党の兵庫県議団団長を長くされたはずです。
筒井のおじさんは復興のめどがつくまで髭を剃らないと決めたら物凄いボーボーになってしまって、とうとう数年後に剃りました(笑)。
そのおじさんから後に聞いた話ですが、地元の住職さんが
「あの頃はみんなが仏さんやった」
とおっしゃっていたそうです。
誰もが被災して困っている中、お互いを助け合い慈しみあう気持ちと行動が誰にも湧き出たようですね。
ですが、1週間以内に食糧不足の東灘の地域に大阪から悪い奴らがやってきて、のり弁を1万円で売ろうとしたりして追い返したり、人の情の薄さみたいなことも皆さん体験されたようです。
「うばい合えば足りぬ。わけ合えばあまる。うばい合えばあらそい、わけ合えばやすらぎ」相田みつを
かたや、当時のさくら銀行の代表取締役専務だったうちの父親も獅子奮迅の大活躍。
さくら銀行とは今の三井住友銀行の前身で、太陽神戸銀行と三井銀行が合併してできた地元最大の銀行。
うちのおやじはその中でも地元神戸銀行出身で、当時のさくら銀行で震災当時に唯一兵庫県にいた代表取締役(専務は全体でナンバー3)だったので、あの三宮のビルで、震災当日から陣頭指揮を執って地元企業が資金不足で倒産しないように頑張りました。
東京葛飾区の自宅でたまたま見たテレビ番組に、銀行で指示を出す親父が出ていて、あれは悔しいけどかっこよかったなあ。
灘中灘高通じて反抗期だったわたくし、神戸製鋼や川崎重工など地元の軍需産業に融資するのも必要とあれば仕方ないという親父に「卑怯者!」と叫んだりしていた酷い息子だったんですが(-_-;)。
東京でのほほんと暮らしている自分に比べて、確実に地元で困っている方々のお役に立っているおやじに、参りましたという気持ちになりました。
父は、灘区の自宅から神戸市中央区にある自分が勤める銀行まで、震災当日から通い続けた。
おやじは役員ということで毎朝専用車が迎えに来ていたのですが、なんとあの震災の朝も、時間通りに運転手さんは灘区のうちの家まで迎えに来たそうなんですよ!
朝5時46分に大地震で飛び起きて、運転手さんがまず考えたのは
「専務を迎えに行かねば」
ということ。
これ美談なのかなんなのか、とにかく迎えに来た運転手さんも出社したおやじも、神戸本社に大半集まったという銀行員たちも、とにかく昭和の猛烈社員たちは恐ろしいです。
こんなところにどうやって自動車で行ってたんやろ。
とにかく、うちの一族には神戸経済同友会の代表幹事になるような人から共産党の県議団団長までいるというこの幅の広さが、今の(煮え切らない)私のエキスになっているのは間違いないのですが(笑)、とにかくあの頃、阪神淡路に暮らす人たちは本当に頑張られました。
そして、帰省した時には、いつまでも青いビニールシートテントが残る公園に犬の散歩に行くたびに、この国の棄民政策の酷さを感じずにはいられなかったのです。
1998年、私は東京弁護士会から当時の神戸弁護士会に移籍して、西宮市で独立開業しました。
もちろん震災の爪痕はあるにはあったのですが、表面上は傾いたビルがあるわけでもなく、高速道路が倒れているわけでもなく、政府の棄民はもう見えにくくなっていました。
しかし、30年後の今、去年の元旦に地震の被害を受けた能登半島の方々の現状はどうですか?
この国は、1ミリたりとも前進していないかのようではないですか。
【#誰がなっても自民は悪党】能登半島地震で甚大な被害が出た被災地を記録的な大雨が直撃。そんな中、岸田文雄首相が輪島を訪れてニコニコしながら「頑張りましょう」と能天気な復興へのメッセージ(呆)。
能登半島地震における岸田・石破自公政権と馳浩石川県知事(元自民党安倍派・現日本維新の会顧問)による棄民政策は、自国維公政治が「地獄逝こう」であることの象徴だ。2025年に「悪党」どもを倒しましょう!
この大事な日の兵庫県知事に斎藤元彦氏を選んでしまう。
この人、記者会見で阪神淡路大震災の死者数を間違えて4600・・・と言ったらしいじゃないですか。
そして、今人気の国民民主党の玉木雄一郎代表(不倫で職務執行停止期間中のはずなのに大活躍)が、石破首相と首相官邸で初面談をした際に、原発の新設・増設を訴える。
活断層だらけで大地震が30年以内に80%の確率で来ると言われているのに、原発をまだ作るなんて時限爆弾をわざわざ増やすようなもんです。
本当に社会を良くするってのは難しい。
でも、あきらめずにコツコツやり続ける。
それしか、死者に報いるすべはありません。
地震列島なのに、福島原発事故や東日本大震災・能登半島地震に学ぶどころか、原発再稼働どころか原発新設・増設と言っている日本政府と悪党たちは狂っている。
国民民主党の玉木雄一郎代表の傲慢な態度が酷すぎる。石破茂首相との初会談では原発の建て替えと新増設を要求。野党の企業・団体献金の禁止の協議には「結局通らないからパフォーマンスなので」と罵倒して欠席(呆)
被災者が受け取った災害義援金を金融機関が差し押さえる国。日本弁護士連合会が救済立法を求める。「すべての災害を対象に、被害を受けた人があまねく保護されるように」津久井進 日弁連・災害復興支援委員長
編集後記
能登半島地震の避難所で新型コロナ・インフルエンザなど感染症がまん延。断水でトイレもままならず、すでに災害関連死が多数発生。日本は軍拡を止め、国が欧米基準の避難所・避難設備を全国に用意しておくべきだ。
三浦瑠麗氏が有事には自衛隊は市民を守る余裕はないので「日本人は今年避難訓練を始めるべき」(呆)。世界一の災害国日本の自衛隊はまず災害救助を主たる活動にすべきだし、危険な原発はゼロにすべきだ
地震に備えよと市民個人に言われてもどうしていいかわからないのですが、国と地方公共団体は、せめて体育館にプライバシーもないまま避難させられるような事態だけは避けられるように準備すべきです。
個人で対処できないことのために政府に税金を納めているんですから、自助じゃなくて公助!
あと、侵略される~なんていう物凄い低い確率のために毎年11兆円も使うんじゃなくて、自衛隊は国境警備隊と災害救助隊に改編して、常日頃から兵器の使い方ではなく災害救助の訓練をすべきです。
そしてもう一回言いますが、原発やめろ!
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全壊したラジオ局から発信した言葉は、復興を目指す被災地のスローガンとなった。
「がんばろう、神戸」
提唱した俳優の堀内正美さん(74)は、あの日を境に一変した街並みに「秩序とカオスの縁」を見た。自分たちは何ができるのか。阪神大震災から30年。投げかけてきた問いは1冊の本になり、次世代に託された。
2024年11月上旬、神戸市北区の商業ビル3階にある訪問介護施設。ブラインド越しに西日が注ぐホールに、高齢の男女約20人が集った。堀内さんが現れると、お互いに手を握りしめ、体を寄せ合う。「懐かしいね」。再会を喜ぶ顔のしわは、長い歳月が刻まれたように見える。
ここは、堀内さんが発足させたボランティア団体「がんばろう‼神戸」が5年間、活動拠点としたスペースだ。この日、堀内さんが初めて執筆した自伝本の出版記念パーティーが開かれた。311ページに及ぶ著書を手に、あの日を思い出しながらゆっくりと語った。「この活動を始めたのは、被災地に対する『これでいいのか』というメッセージだった」
1995年1月17日。北区の自宅にいた堀内さんに煙が見えた。車で長田区へ向かうと、現実とは思えない光景が広がっていた。自宅の下敷きになった小学生とみられる男児を母親が助け出そうとしていた。近くの住民と救助に回ったが、男児に迫る火の手から母親を離さざるを得なかった。
その惨状とは対照的に、大きな被害を免れた北区には、間もなく日常が戻る。鍋を囲む家庭があれば、洗車する人の姿もあった。全国各地から支援物資が届くのに、同じ市内で助け合っているとは言い難かった。秩序とカオスの縁――。平穏を取り戻した郊外と混乱が続く激震地の境界線を、今もこう表現する。
境界線を乗り越えて、自分に何ができるのか。答えは、ラジオ局から命がけで放送した経験から導かれた。
須磨区にあった「ラジオ関西」の12階建て社屋は全壊し、余震で倒壊する危険もあった。安否情報を求めるリスナーからの電話が鳴り響き、社員らは必死に居場所を発信し続けた。
早朝の番組で週1回パーソナリティーを務めていた堀内さんは発生2日後に駆けつけ、唯一使えたスタジオで放送に臨んだ。
「がんばろう」
電話口で不安がる人を励まそうと、自然と口にしていた。「人と人をつなぐことならできるかもしれない」。数日後に「がんばろう‼神戸」をスタートさせた。
堀内さんは「自分がしてきたのは場づくり」と強調する。NPO法人「阪神淡路大震災1・17希望の灯(あか)り」(HANDS)は、理不尽にも大切な人を失い悲嘆に暮れる遺族同士が寄り添い、生きる希望を抱いてもらうプラットフォームになった。
震災の記憶を語り継ぐため、震災モニュメントを訪ね歩く「震災モニュメント交流ウオーク」。堀内さんは慰霊碑の前で「モニュメントは生き残るための知恵を伝えてくれる。その知恵をどうつないでいきますか」と問う。
各地で自然災害に見舞われた人たちにも寄り添ってきた。東日本大震災では、被災者一人一人に合う衣服を詰めたバッグを届ける「たすきプロジェクト」で東北の地を巡った。
「3・11」から13年を迎えた24年3月、岩手県陸前高田市に向かった。約5年ぶりの訪問だった。2カ月前に1本の電話があったのがきっかけになった。
「みんな会いたがってるよ」。声の主は左官工の小松茂さん(74)。自宅の目の前まで津波が押し寄せて一命を取り留めたが、姉一家5人を亡くした。市内を一望できる箱根山にHANDSが被災地の再起を願うガス灯「希望の灯り」を造る際、台座の取り付けなどの工事を担当した。
電話口の声はどこか不安げだった。この年の元日には石川・能登半島を震度7の揺れが襲ったばかり。「今だからこそ、手を握りたい」。自宅前で出迎える小松さんと抱き合うと、2人とも涙をこらえるのが精いっぱいだった。
小松さんらと震災2カ月後から交流を重ね、「第二の故郷」となった陸前高田。若い世代は離れていき、商店もまばら。復興は遠のいていると感じる。
11日午後2時46分の黙とうをした後の帰り道。「想像以上にひどく、がくぜんとした。けど、その町に住むしかない人もいる。いつまでも忘れず、寄り添い続けないといけない」
自然災害が起きる度、被災地の現状に「これでいいのか」と憂える。「なぜ他者を思い助け合える社会が大事なのか、もう一度認識してほしい」。自伝には、次の世代へのたすきとして、そんな思いをしたためた。【山本康介】
■人物略歴
堀内正美(ほりうち・まさみ)さん
1950年生まれ、東京都出身。73年に俳優としてデビュー。95年1月17日、移住先の神戸市北区で阪神大震災を経験した。震災直後、市民ボランティアネットワーク「がんばろう‼神戸」を発足。2002年には、同団体を母体としてNPO法人「阪神淡路大震災1・17希望の灯り」(HANDS)を設立した。現在放送中のNHK連続テレビ小説「おむすび」に出演。24年11月に初めての自伝本「喪失、悲嘆、希望 阪神淡路大震災 その先に」を出版した。
2005年03月29日
282回本会議で筒井もとじ県議
クリックで大きな写真を表示 3月29日の兵庫県議会本会議で、日本共産党の筒井もとじ県議が、「震災復興10周年にあたっての決議案」について、討論を行いました。
筒井県議は、「県が被災者支援を縮小・廃止する流れのなか、議会は追認でなく支援強化こそ求めるべき」と気迫を込めて訴えました。
兵庫県は、震災復興本部を廃止し、被災中小企業向けの災害復旧融資などは、国に延長を求めず打ち切りを決めるなど、10年を区切りに次々と支援策を縮小・廃止しています。
筒井県議は、与党会派から出された「震災復興10周年の決議案」は、本部廃止を追認し、被災者の現状を「平静を取り戻しつつある」などと実態とかけ離れたものとなっており、震災対策を「共済制度」に矮小化していることを批判。
討論直後、井戸敏三知事が、7月の知事選挙に出馬表明を行いました。被災者支援が中心でなく、「創造的復興」と開発優先の復興計画をすすめてきた知事の出馬表明は、被災者の思いを代弁した日本共産党の討論と、鮮やかな違いを浮き彫りにしました。
阪神・淡路大震災から30年を迎えての会長談話
2025年(令和7年)1月17日
兵庫県弁護士会
会 長 中 川 勘 太
1995年(平成7年)1月17日午前5時46分に発生した阪神・淡路大震災から30年を迎えました。当時、大地震をほとんど想定していない中、震度7を記録する都市直下型地震により、死者6434名、行方不明者3名、重軽傷者約7万7000人、住家の全半壊約25万棟など、極めて深刻な被害が生じました。
当会会員の多くも被災しましたが、当会は、地震直後から弁護士会館を避難所として開放し、1月26日から、近畿弁護士会連合会、岡山弁護士会、徳島弁護士会等のほかボランティアの弁護士から支援を受け、全国から義援金をいただき、当会会館や被災自治体の庁舎において法律相談を実施するなど、被災者に対する継続的支援を行ってきました。また、1996年(平成8年)9月には、大阪弁護士会、近畿司法書士会連合会、近畿税理士会をはじめとする6職種9団体(現:賛助会員含め10職種12団体)で全国初の士業連絡会である「阪神・淡路まちづくり支援機構」(現:近畿災害対策まちづくり支援機構)を創設し、ワンパック相談会やまちづくり事業への専門家派遣による支援活動に取り組んできました。
さらに、多数の相談結果を立法事実として集約し、罹災都市借地借家臨時処理法の運用改善及び廃止、被災マンション法の制定及び改正についても積極的に提言を行ってきました。一方、長年問題となっていた災害援護資金貸付償還免除問題については、30年近く経って解決の見通しが立ったものの、二重ローンなど震災をきっかけに困窮し救済されなかった人々の問題、震災障がい者問題、借上げ復興住宅問題、被災者を置き去りにした都市再開発問題など、未だに個々人の復興がなされていない現状があります。
阪神・淡路大震災後には、被災者への支援制度の乏しさが教訓となり、住家被害を受けた方に支援金を給付する被災者生活再建支援法などの制度が創設されました。近年では、自然災害債務整理ガイドライン、高齢被災者向けリバースモゲージなど、30年前と比較すると被災者の生活再建を支援する制度が拡充しています。
しかし、2011年の東日本大震災、2016年の熊本地震、そして、昨年の能登半島地震をはじめとする近年の被災地の状況をみますと、災害救助法の硬直的な運用、被災者生活再建支援法の不十分な支援内容、罹災証明をめぐる混乱、災害関連死の発生、在宅被災者の増加など、被災者一人ひとりに目を向けた生活基盤の再建のための制度が依然として不十分です。また、災害のたびに、現場尊重に反する緊急事態条項の議論が起きますが、阪神・淡路大震災における復興まちづくりの教訓は、トップダウンよりも地域住民の意向の反映こそが重要であるということであり、被災者の声に耳を傾けていく必要があります。
昨今、被災者一人ひとりの被災状況や生活状況の課題等を個別に把握し、その人の支援にかかわる関係者と官民問わず連携しながら、課題解決に向けて寄り添った支援をする「災害ケースマネジメント」の考え方が浸透し、国の防災基本計画にも明記されましたが、まだまだその担い手とつなぎ手が不足しているのが現状です。
当会は、基本的人権の擁護と社会正義の実現を目的とする団体として、一人ひとりの被災者の人権を回復することこそ復興であるとの阪神・淡路大震災の教訓を活かし、まさに災害ケースマネジメントを実践するための活動や提言を続けてきました。近年では、兵庫県及び県内41市町のうち35市町との災害連携協定を締結し、県内での迅速な災害支援が実現できるよう努めています。今後とも引き続き、他の被災地域の弁護士会、弁護士会連合会、日本弁護士連合会、士業団体、行政との連携を通じて、阪神・淡路大震災の被災者、及び、他の被災地域の被災者の「人間の復興」のために尽力して取り組む所存です。
以上
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俺は小学生の頃、この人と同じ悪役の西沢利明さん(故人)との区別がつきませんでした
こういった芸能以外の活動にも敬意を抱きますが、存在感のある大物悪役俳優さん達の多くが鬼籍に入られてる現在、本業のほうでも「最後の悪役」として存在感を発揮してほしいですね
先生のご家族やご親族の方々をはじめ、被災した地元の方々のために尽くされたのですね。私は西武ファンです(でした?)がオリックスのユニフォームに書かれた「がんはろう神戸」には心打たれました。みんなで支え合って復興していこうという気持ちの表れです。外からやってきて外に帰る者がベニヤ板に「がんばろう」などと書くのとはぜんぜん違います。
阪神淡路も、東北東日本も、能登も寒い季節でした。そんな中、電気、ガス、水道が止まり、瓦礫や体育館に放り出された方々は辛かったと思います。いや、今も苦しい思いが続いている方もおられるはずです。
国はそのような方々を救い、自然災害に対する対策をしていかなければならないのに、かえって危険なものを作っていこう、金をかけていこうとしているなんて悲しく思います。
台湾でも震災により体育館に避難している方々がいましたが、短時間でプライバシーを守ることができる個室スペースをたくさん準備できていました。玉木…じゃなくて元テレ朝の玉川さんが「なんで日本はこれができない!」と言ってましたが、ネット上のアンチ玉川が「台湾はいつ中国と戦争になっても避難できるように準備されているんだ」と言ってました。だったら、軍備を強化しようとしている日本だって、軍事費を兵器に使わずに人の命を守る方に使えばいいではないかと思います。
どこかの国に兵器を押し売りされるのではなく、ぜひ自然災害対策をしてほしいですね。