眺める空に描くもの

高齢者女子のおひとりさま暮らしノート

心の中に鐘のように鳴り響く

2024-08-30 16:43:59 | わたし記
勉強第一で、「料理なんかする必要はない」と一切、私に料理や家事を教えなかった母。

けれども、私は母の留守中に料理を作り、高校生になったときには、デコレーションケーキの
スポンジをいかにふわふわに仕上げるかを模索して、オリジナルレシピを作り、とうとう、
その努力レシピを母に奪われてしまったことは、先に書いたとおり。

大体、料理を教える仕事やそのほかの活動で忙しかった母が完璧に家のことができるはずはない。
母がいないときの料理は当然のように私の仕事だったし、夜勤の父のために、高校からダッシュで
帰って父のお弁当を作らなければならなかった。

夜勤でお弁当を持って行く人なんて、父以外の同僚の方たちでいなかったのは、なかなか
恵まれた会社で、会社から食事の補助があるから、安くで何でも食べられたからだ。

繁華街に会社があったから、近くにみっしりとお店があって、たしか、会社ビルの地下にも
喫茶店とかあった気がするが、食べたいものを手軽に食べられる環境ありきで、食べに行ったり、
出前を取ったりするのに不便はなかったのだ。

補助があるのに、(チケットが配布されていた)自前のお弁当なん逆にもったいないくらいなのに、
父があえて弁当を持って行っていたのは、「愛妻弁当」自慢をしたかったからだ。
←いや。お父さん、それ、娘が作っていますからね。

そのずっとあと、私が父の会社の仕事をしていたときに、父と働いていた方から「愛妻弁当自慢」を
していた話を聞いて、「私が作ってましたけど」と思わずツッコミを入れてしまった。

私が高校生当時の母は母で忙しいから「食事補助があるんだから、弁当じゃなく会社で
食べればいいのに」ともんくは言っていたけれど、昔のことだから、夫に反発はできなかった
様子でお弁当作りはいつまでもなくならなかった。
そして、母の奴隷の私は黙ってお弁当を作るために高校から走って帰っていた。

父の「愛妻弁当」自慢は母との不仲をカモフラージュするための見栄だろうと
思ったけれど、あまり不満にも思わず作っていたのは。いわゆる洗脳だったに違いない。

兄は何一つしないのに、私は当然、料理も洗濯も掃除もしなければならなかった。
あまりに忙しいので、兄に「お風呂は洗ったから、お湯を張る準備ぐらいして」と
言ったことがあったけど、「嫌だ。お茶」と返されて、私はお茶をいれて兄に出すと
風呂の準備から夕飯の準備に追われるという。全く嫁のようなことをしていた。
「高校生のくせに日本茶って、茶くれじじいみたいだな」と心の中で呆れていた。

私はもんくも言わずにやっていたのに、母からも父からも感謝されたことはなかった。
「ありがとう」ひとつちもなく、「女のおまえがやるのが当然」というスタンス。

まあ、今ではネットスラングで「長男教」と呼ばれるような長男だけを
特別に大事にして、そのほかの子は奴隷扱いするという種族がいることは知られているが、
まあ、結果、典型的なモラハラ気質が家庭内にあった。

当時の私は「それはおかしい」と思いつつも反抗すると、怒鳴りつけられるか、
叩かれるかのどちらかだったので、黙ってやった方がいいと思っていた気がする。

しかし、料理も家事もすべてができるようになっていたことは、高校を卒業後、
東京に大学進学したとき、ひとり暮らしをしてもなーんにも困らなかったので、
これはこれでよかったことなのかもしれない。

ただ、「長男教」の信者さまたちはモラハラであることに気がつかないと、
家庭内は幸せにはならないと思う。

私はのどが弱く、よく扁桃腺を腫らして高熱が続くことがあって、高校時代、
39度以上の熱があって、3日ほど何も食べられずに寝込んでいたことがあった。

母は忙しく、家にはいなかったので、私が寝込んでいることは知らずに、
父は寝ている私を「飯を作れ」とたたき起こすから、私はふらふらになりながら、
なんとか鍋を振って父の食べるごはんを作ったことを覚えている。

病院までは遠いし、具合が悪過ぎて行くこともできなかったが、今度は
母から雷を落とされて、「何をぐたぐだ寝込んでるのよ。具合が悪いなら、
さっさと病院に行きなさいっ」と怒鳴られた。

さすがに歩くのもやっとだったので、母がイライラしながら車にのせて、
病院まで連れて行かれたけれど、「いつから熱があるんですか」と母は
病院の先生に聞かれて、「さ、さあ?」と答えられなかったのは、
さすがにばつが悪そうだった。

先生から私へのひとこと。「こんなに悪化させて。あなた、死ぬ気なの?」
扁桃腺は化膿してしまっていて、簡単には治らない状況だった。

父は私が最初のがんになったときも、お見舞いにも来なかった。
母は母で手術中の急変もあるので、家族の付き添いが必要だったから、
当日は、病院には来てくれたけど、術後の
集中治療室で寝ている私のところにそっとやって来て、「ここにいても
仕方ないし、おまつりに出ないといけないから帰るね」とこっそり
つぶやいて、帰って行った。
当時、私は実家を出て、県外で働いていたから、わざわざ来てもらったのは
ありがたく思ったけれど。がんの手術が9時間かかった娘にドライな母だった。

術後しばらくしてイレウスになってしまって、今度は食べ物のみ物を一切食べられず、
点滴生活になった。状況説明をしようかと実家に電話をしたら父が出たけれど、
私の病状を心配することなく、「何か用か。用がないなら切れっ」と怒鳴り
つけられてがちゃ切りされた。モラハラ父である。
当時はそんなことばなんかなかったけれど。

その話を退院したときにタクシーの運転手さんに話したら、「そりゃ、お父さんが
正しい。そんな娘を見舞いに行くとか、安否を聞いてやるなんて男はしない。
がんだろうがなんだろうが、病気になったあんたが悪い」と言われた。
「そうなんですか~」と返しつつ、心の中で、「弱っている病気の家族には一切、
寄り添わない、冷酷な男性ばかりなんだなあ」と妙に感心した。

そして、それから何年か経って、父ががんになったときは、父は自分に寄り添うことを
徹底的に私に求めた。母が「私はお父さんに恨みがあるから、看病はしない」宣言を
したので、娘の私がサポートするしかなかったのだ。

病院食をいやがる父のために、特別に父の好きなめん料理を作って毎日届けたが、
とにかく病院が遠くて、行き帰りが大変で、私も仕事があったし、1日行けなかった
ことがあったが、それだけで「来なかった」と怒っていた。

「お父さんは私ががんで何か月も入院したときは、一度のお見舞いも来なかったのにね」
と言い返したくなるくらい、なんだか釈然としなかった。

もちろん、私が大学まで不自由なく行けたのは両親のおかげであるし、仕事のできる
父と母から学ぶことは多かった、両親には心から感謝しているけれど、両親の不仲で、
当り散らされたり、モラハラな仕打ちを受けたことは、納得はいかなかった。

家族が困ったときには寄り添う家族でありたいと思ったから、父のがん闘病もひとりで
支えたし、母の60歳ごろから症状が現れた認知症にも根気強くつきあって、寝たきりに
なってからも在宅介護で365日24時間休みなく母に寄り添ったけれど、どこかで、
「なんだかなあ」と思う気持ちとの闘いがあった。

でも、振り返って思うことは父にも母にも自分でできることはすべてやって、親に
育ててもらった恩は返すことができたという後悔のない思いと、自分自身がどのような
人間でありたいのかを問いかけられ続けたことへの感謝の気持ちはある。

特に母の介護を通して感じたのが、介護は自分の人間性を試されているという日々。
認知症になった家族のおむつを変えず、放置したり虐待したりという家族の話はよく
耳に入って来たものだが、「私も娘さんに介護されたい」と、私の介護に感嘆して
くださった入浴介助をしてくださっていたデイサービスの介護士さんの声がいまでも
心の中に鐘のように鳴り響いている。

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