黎明の日々の光景

日々の光景の中にある美しく感じた瞬間・
きれいと感じた空間やモノ等をそのままに切り取りました。

伊予市灘町辺り

2011年11月05日 | 散策

平成23年11月5日(土曜日)

今日の松山市は、未明から雨で夕方頃は曇り時々小雨

最高気温は、21.9で最低気温は18.7度でした。

雨が小降りとなった午後に伊予市の灘町辺りを散策

 

  

伊予市灘町 を ウロウロ まずは 宮内邸            建物の中央に飾り破風 

寛永13年(1636年)に上灘村(旧双海町)の宮内兄弟が大洲藩に米湊村の海岸付近の松林等の荒れ地(当時は、牛飼いヶ原と呼ばれていたらしい。)を開墾したいと申し出て、大洲藩に許可をもらって開墾して出来た町が「灘町」だそうです。宮内家の屋号「灘屋」が町の名前になったそうです。

 

宮内邸の説明板

宮内邸の左には「うだつ」もあります。

宮内家は町年寄として町を治めたりしました。また、幕府の巡検使や伊能忠敬の測量隊の宿泊場所であった「本陣」でもありました。

さて その先を進むと

旧国道56号時代?の 道路案内標識

でこの標識板のすぐ下に 栄養寺 の参道があります。

 

この「栄養寺」という変わった名前のお寺は宮内家の菩提寺です。宮内兄弟が寺名を付けたようですが、その由来や意味は不明。

宮内家は、元々が伊予の中世の豪族である河野氏の河野通直の子孫とのこと。

  

この「栄養寺」の名前から現在使われている「栄養」という言葉ができたそうです。

それは説明板にも書かれているように西条市の氷見から灘町に移り住んだ医師一家の子供が後の栄養学の父「佐伯 矩(さいき ただす」だったそうで佐伯氏は、当時使われていた「営養」を「栄養」にするように文部省に進言して これを認めさせて「栄養」を公用語にさせたとのことでその「栄養」は、博士が幼少時代~少年時代を過ごした灘町の栄養寺の名前に由来しているらしい。

 

 

立派な山門があります。

本堂

寺の後ろ。東側は伊予鉄の郡中線の郡中港駅になります。

栄養寺から先に進んでみます。

交差点の右にも風格のある町屋が見えてきました。なお、左折すると伊予鉄の郡中港駅やJR伊予市駅があります。

 

元々は旅籠だったという「山惣商店」 (1861年建築)で醤油と肥料類を取り扱っている商店です。

  

説明板                                    

  

「山惣商店」

その先には 花かつおの マルトモの本社 が見えます。

今回は、ここまで

 左に曲がって郡中港駅に向かいます。

元理髪店の家屋

 

郡中港駅

 

ちょうど到着した  伊予鉄道 郡中線 718-768編成  写真は768の無線アンテナ

 

 

 



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