新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

徳川家康が作った「鎖 国」の真実

2019-08-18 19:27:49 | 新日本意外史 古代から現代まで

 

 徳川家康が作った「鎖 国」の真実

 

 元和元年五月八日に、かねて懸案の大坂城を、どうにか仕末して豊臣家を滅亡させた徳川家康は、当時江戸中納言から征夷大将軍になっていた伜の秀忠をよびよせると、  「長年の宿願をとげ、やっと握った天下の権ぞ。孫やその末に到るも、これを手放すではない……それに、もはや合戦というものは槍や弓の時代ではのうなって、 一にも二にも鉄砲や大砲の世の中になってしまった」と洩した。

「……仰せのとおり」と秀忠が畏まると、「うん」と家康も白毛のとび出した眉毛を揺さぶり、ひとつ軽く咳ばらいをしてから、 「さて云わでもの事ではあるが、いくら良うできた大筒や小筒にしたところが、こりゃア玉薬がなくては弾丸も砲丸も飛びはせぬ。 ところが、木灰一割、硫黄一割五分、煙硝七割五分の調合の内、灰は問題ない。硫黄も薩摩から入る。だが煙硝だけは当国では、ひとかけらも産出せぬ。 よって信長の頃は泉州堺の商人どもが一手に輸入して儲けおった。次に秀吉は呂宋(フイリピン)からの船に頼って火薬を入れた。 そして信長殺しに本能寺へ投げこんだ火薬が、天川(マカオ)のポルトガル人よりの到来物とは、世間に知られたくないゆえ、表むきは天主教禁圧ということにしてポルトガル人を追った」  「……存じ居りまする」合点して秀忠が、又それにうなずくと、

 「うん、考えてみれば、元亀天正の世でも大名共も良き硝石を入手したさに、訳けも分がらずに伴天連坊主を大切にし、勝手に布教など許したものである。よって南蛮坊主共は己れの都合で、 洗礼した大名には良き火薬をあてがい、信心せぬ大名や布教を許さぬ領主には、これをぶっ潰してしまえと細工を致した。 つまり戦国の世というは、表むきでは吾らが血みどろになって戦ったようにもみえるが、 裏へ廻れば南蛮坊主の火薬補給という糸にあやつられ、吾らは傀儡だったのだ。つまり操り人形にすぎなんだのじや……分かり居ろうのう」

 かんで含めるような云い方をして見せた。「よく存じ居りまする」秀忠は顎をひいて大きく点頭してみせた。  「世の中を落ちつけ、天下泰平を保つためには鎖国しかない」かねての腹案らしく、家康は年よりらしいせっかちな云い方で結論をもう出していた。  「……さ、鎖国とは」言葉が難しかったか、秀忠は聞き返し。「とざす国と、唐の文字ではかくのだ」  指で掌になぞって見せてから家康は、   「……いくら南蛮坊主共が、やれ天国だの地獄だのいうて天帝の教えなど弘めにきよっても、そないなものは格別どないな事もない。それより難儀するのは、 やつらが信者になった者を手足のごとく使い、この国では一かけらも産出せぬ硝石を輸入し、それを自分らの都合で諸大名に売り渡すことじゃ。  ……火薬がゆきわたれば西国大名の謀叛は目に見えとるというもの。よって秀吉時代と同前に、まず南蛮坊主の伴天連どもを追払ってしまえ……やつらさえ入ってこねば、 まさか、足のない硝石の樽がひとりで転ってきもしまい」と自分が先にひとりで頷いてから、

「表むき硝石を勝手に入れることを停止したからといって、抜け荷買い(密貿易)をされ秘かに輸入されては、こりゃ手の施しようもない……よって抜本根源策に『伴天連門徒停止』の名目で、 眼の玉の変った者や、それとくっついた女、その子供らは、これ悉く追放となし、門戸をしめるようにも、国を鎖してしまうのじゃぞ」と、いってきかせた。  「……恐れながら」秀忠は当惑げに顔をつきだし、  「そないに国を鎖してしまいますると、わが徳川の家にも、硝石が入らず、もしもの時には難儀を致しまするが……」と口を挾んだ。  「何をかいう。心許ないことを申すな……何処ぞに一ヶ所だけ、わが徳川家専用の港をもうけ、そこから徳川家だけが硝石を輸入し、他の大名には一粒もゆかぬよう致すのじゃ。 つまり独占輸入法というやつよ」カラカラ乾いた声で家康は笑ってみせた。

「……ならば駿府や江戸に近い今切(現在の弁天島)あたりに定めましょうや」と秀忠が云えば家康は首をふり、 「そちゃ若いのう。苦労がたらんぞ……」綻ばせかけた頬を、また固くひきしめ、 「もしも硝石を輸入している港を誰かに押えられてみい。あと木灰と硫黄さえもってくれば、すぐにも火薬ができる……よって、そこから駿府や江戸へ攻めこまれたら何とするぞ。 だから近くは危ない、遠国かよい。もしもの用心じゃ。九州の平戸あたりとなし、それでも念のため出島など築いて、南蛮人どもの往来は固く禁ずることよ……そんで、 そこ以外は国の戸締りを固くなし、鎖国をもって徳川の家の安泰を計るのじゃぞ」と厳しくいいつけた。

 秀忠「長崎出島」に火薬輸入拠点を造る

 そこで、徳川秀忠は命ぜられた通り九州の平戸に、出島を築くよう埋立て工事を命じたが、その内に年改った元和二年四月十七日。 家康は駿府城で他界。その葬儀や何かで延引していたものの、平戸出島ができると八月八日。

 「きっと申し入れ候。伴天連門徒の儀は、相国(家康)さまが仰せ出されし御遺言にて、これを堅く停止。下々の百姓に到るまで右の宗門に入りその手引きをせぬよう、 入念に取調べをなしオランダやイギリス船は、もし自分の領分へ入ってきた時には、決して直接取引はなさず、必ず長崎表の平戸へ廻るよう命じなされたく、 この旨を(将軍家)上意により、かくのごとく通達申し侯」といった老中連署の命令を各大名の江戸屋敷へ配った。これは「徳川家令条巻十八」に記載されている。  さて元和九年(一六二三)七月に家光が三代将軍に即位し、一年おいて寛永二年になると、

「天川(マカオ)人一斉にお払いだてのお布令」  つまりポルトガル人に限っては、特に芳しからぬ事が前にあったからという名目で、先の将軍秀忠が、一斉に国外追放を命じ、長崎の出島といえど居住することは厳禁した。 (これは、その四十年前の本能寺の信長殺しに使用された強力爆薬が、マカオから渡来のポルトガルの伴天連によって、提供されたものだという秘密が、一般に広まりだしたので、 徳川家の為にポルトガル人だけを永住禁止にしたらしい)  もちろんこの後になっては、  (硝石を持ちこんでくるのは、何もポルトガル人だけではなく、南蛮人はみな危険なり)  という結論も出たらしい。しかしこれは治安維持のためで、米国では何処でも一挺三十ドル位で手軽に入手できる拳銃を、日本だけは、 持ちこんだり蔵ったりしていると「不法所持」として体刑処分にまでされるのと同様だが、  寛永十年 二月二十八日付、  寛永十一年五月二十八日付、  寛永十二年五月二十八日付、  寛永十三年 五月十九日付、  毎年のように、徳川家安泰のため、火薬を輸入する恐れのある南蛮人やその系類を追払うために根気よく各大名に通告をだした。  しかし何時の時代でも頭の良い人より悪い方がともすると多いとみえて、

「鎖国とは切支丹弾圧」だという早呑みこみというのか、感違いをしてしまった大名も多いらしい。家康や秀忠の真意が硝石独占輸入であるという裏肚までが呑みこめず、 もっぱら領内の切支丹狩りをしては、これを片っ端から惨酷な処刑で処分した。

 もちろん、こういう恐怖政治をしていた方が領民を弾圧できて、年貢米の取立を厳しくして苛斂誅求するのに、きわめて好都合のせいもあったろう。 が、この寛永に入ってからは例年のごとく出された布告のしめくくりみたいな、寛永十三年五月のものでも、  「南蛮人はもとよりなれど、その子孫や系類の者も領内に残して置かぬよう堅く申しつけること。もし命令に違反し残して置くようなのがいたら死罪となし、一類の者も厳罰」 「南蛮人が作った子は、片親がこちらといえど養子などにして引取ってはならない。そのようなことをすると自然と成人してから、向うと行ききをするか文通などを生ずるからである。 もちろん当人には死罪を申しつけるが、それに関連のあったと思われる者は一人残らず取り押えて重刑に処するものである」

 といった内容で、宗教問題より、硝石をもちこむ危険のある南蛮人や、その系類の追放にだけ重点かおかれている。つまり、  「切支丹を追放するための鎖国」と、今の歴史家も、そのままの受け売りだが、林羅山以前の布令を良く調べてみれば、 当初は火薬の輸入を徳川だけが握って独占するため、老獪な家康が掲げた表看にすぎない。

 だからこそ幕末になって長州や薩州が、英国から直接に火薬を輸入するまでは、徳川三百年の泰平が悠々と続くのである。 (幕府が輸入していた硝石は、江戸は西の丸に、大阪は天満与力が管理していた。)  さて、国外追放にされた南蛮人の身よりの他に、大坂冬と夏の陣で逆徒として追捕され、もはや日本にいては陽の目も望めぬ豊臣家の残党も、 やはり逃亡奴隷の恰好で次々と当時は海外へ流れ出ていた事実が在る。  しかしジーゼル機関の発明される前で、貿易風と季節風か交互にふくのを利用して、「船は帆まかせ、帆は風まかせ」の時代だったから、近くの天川あたりへ行くつもりで、 現今のベトナムの安南へ行ってしまったり、南支那海へそのまま風にもってゆかれて、「シンガポール」が尖端にあるので知られているマライ半島へ辿りっき、 ここに住みついていた日本人も、かなり当時は多かった。

 現在では一九六三年九月に、マラヤ連邦が旧英領のボルネオとシンガポールを一つにして、「マレーシア」とよばれている。  だが、この頃はモジョポヒトの一族が戦火で追われて、ここへきて魔羅津加王国をたてていた。そして日本では北条早雲が、関東で覇をとなえた永正八年に当たる一五一一年に、 ポルトガル人の火器によって、この、「マラッカ王国」は一世紀で滅ぼされ、占領者のダルブケルクが、 ポルトガル王セバスチャン家の命令によって統治。「総督」としてダルブケルクの孫が、マラッ力海峡に面したマラッ力のベンハーの丘に宮殿をたて、 ここでマレー半島に君臨したが、国名は魔羅津加から「バハン」に変えられた。                 

 

 


 根津は女上位専門の遊郭だった

2019-08-16 15:32:57 | 新日本意外史 古代から現代まで

 「根津は東の生駒」といういろは歌留多がある。 

 

今は跡形も無いが昔は浅草観音様の裏手に吉原遊郭があった。   同じように江戸の有名な遊郭として、徳川家康を祀った根津権現の裏の一帯に根津遊郭もあったのである。   さてサンカのセブのことを「勢振り」と恰好をつけるみたいに言うが、その他にサンカ用語でツキコミというのがある。   これは突出して敵の内部に入り込み、情報収集隊のことである。  徳川時代には、西の頭領、京の綾部に居たオオモト様直轄のクズシリは、京の御所の対サンカ政策と徳川家の京所司代の方針とでは同じでないゆえ用心して双方に、小者とか渡り中間といったのを潜入させて情報をとらせていた。    (注)クズシリとは例えば「武蔵のクズシリ」というように、その地区の責任者、世話役のような意味である。    だがこれが江戸となると将軍家のお膝元である。千代田城は身元調べが誠に厳重で、滅多矢鱈と小者やお端下の下女でも、潜りこませられるものではない。   といっても江戸の政策や意向はどうしても調べたいし探りを入れなければ危険である。  それゆえ、家康が江戸に入府の時に家康の温情で、サンカ限定の居付地とされた根津の地に、「さぐり里」として、遊郭を家康直筆の朱印状を提出し、吉原会所なみの賦課金を幕府に納入することを申し出て許可を受けた。   モグリで岡場所などにしては探索が厳しかったので、それよりおおっぴらに税を払っての商売の方が危険がが少ないとのサンカ側の読みである。  つまり江戸府内の噂や町方役人共の話も聞き集めて、それを総合して判断を下すためでる。 これは女を使って情報を盗る、現代諜報戦のはしりといえよう。  よって女達はサンカの中でも器量よしばかりを選りすぐっては根津へ送り込んできたから、吉原よりも美女揃いなので、「遊びは根津に限る」と粋客が集まってきておおいに繁盛した。       
 
  根津は女上位専門の遊郭だった
 もともと根津遊廓が出来る前からサンカは、「遊女記」に大江匡房が書いているように江口の浦が11世紀から  12世紀まで情報集めに四国の塩飽衆の舟に乗って、都よりの客をとっていた過去がある。   だが14世紀の足利時代になると、塩飽衆たちは南朝に味方をして敗れたため、足利体制から賊とされ、ゆえに京辺には近づくことが許されなくなったので、サンカのツキコミの情報集めに舟が使えなくなった。 だから今の生駒に集まり「夷駒」ともされ「イコマは悲しい女街」の唄が現代にも残され、演歌にもなっている。  根津や生駒が器量よしの女ばかりを集めていたことが人気の理由だというより、もう一つ大きな訳がある。   吉原や生駒、京の島原などの遊廓では、「床をつける」という所作は、女が下になる正常位が、金を払う客を上にのせて、満足させる慣わしだったのに、根津はその逆だったからなのである。    江戸時代の川柳の歌留多にも、「押っかぶせ、根津は好きものばかりなり」との句が残されている。  つまり女上位で覆いかぶさってくるゆえ客は、自分に惚れているので女の方が積極的に迎えてくれるのかと嬉しがる。 何時の時代も男は自惚れ屋で、馬鹿が多いということをサンカは知悉していたのだ。   処が他に聞いても誰にでも女上位で乗りかかって来るというから、それでは此処の女は、よほど皆好き者で、するとなると、ヤラセで致すよりも、本気になってヤル気で歓んで掛かってくるのだろうと、 遊び好きな者には堪らない吸引力となって、町方の役人まで評判に釣られ通ったものらしい。これは男の手前勝手な都合のいい、思い込みというものだろう。 現代でも、売れっ子デリヘル嬢には、客に惚れたふりをし、女上位でこってりサービスする女が居て、馬鹿な男は「俺は好かれている」と勘違い。 こうなれば直ぐに「裏を返し」て貰え、デリヘル嬢は大いに繁盛する構図は、根津に原型があるのである。
  だが事実は違うのである。 サンカは川畔の安全な所を見つければセブるが、女は冬でも冷たい水の中へ入って、腰湯ならぬ腰水に浸って  女の急所の奥まで指を入れて丹念に洗う風習がある。この行為は訳ありなのである。    なにしろサンカは大陸人や百済の男たちに、慰安婦にされたり、種付けされる前に、山や河や孤島へと逃げた純粋日本人の誇りを持っている。    しかし体制に追われる立場となっても同族を守ってゆかねばならぬから、  探索方として選ばれて廓女にはなったが、いくら商売とはいえ、異民族の子種を体内の奥深くに放出されて妊娠しては困る。    よって女が上になって射精させておけば、下腹を左右からもみ下して屈めば、下へぽとんと白い液体が容易に便壷へ落とせる。 そしてよく拭っておけば子種は入らず安全と、民族の純潔を護るために、遊女勤めを、当時は用心して考え騎乗位で務めたのである。   余談になるが、江戸時代には避妊薬は色々在ったらしい。黄表紙本の今で言う広告にも「月浚え月水散」「逆日丸」などいくらでも見られるから、庶民の需要も多かったと思われる。  さらに堕胎となると「中条流」が有名である。 しかし明治になると軍部の富国強兵策で、兵隊になるはずの子供の避妊や堕胎は国策上拙い。  従って、そうした庶民には便利でもオカミにとって都合の悪い書物などは、羅卒に命じて徹底的に集め焚書した。  だから現代でもこの手の書き物はめったにお目にかかれないのである。    さて、江戸期のこうした歌留多には性を扱った物が意外と多い。特にサンカのものは目を引く。  そして現代の乱れ切ったSEXの氾濫する時代は、サンカのこうした行動は不可解で、  助べえだとか、欲望や欲情、性欲などの概念で捉えがちだが間違いで、純粋日本民族の種族保護活動の一端と捉えるべきである。 そして、サンカの掟は「統治されず、統治せず、相互扶助」だから、この精神を護るため、時の体制に虐げられ、 差別され、殺されても耐え忍び、逃げ隠れるということで抵抗した誇り高き平和的民族とみられる。
  吉原は夜専門、しかし根津遊郭は昼遊びが専門だった。                 その訳とは??(一部重複する)
江戸時代、吉原遊郭は有名だが、あまり知られては居ないが、幕末まで栄えて流行した根津権現の 根津遊郭が在る。 幕府公認の遊郭である吉原は夜間営業が専門だが、此処根津は違った。  「根津の昼遊び」といって、此処で働く女達は亭主を仕事に送り出し、夕食の支度まで根津で客をとって、そ知らぬ顔で帰宅するというシステムで 売春業に精出していた、珍しい場所なのである。    現代でも旦那の仕事中、妻がソープやデリヘル等で稼いでいるのも居るが、根津はそのハシリの様な所だった。  そして此処の女達は「馬乗り」とか「お馬さん」と呼ばれて話題になっていた。  つまり此処は吉原などの正上位と違って、全ての女が女上位で、男の上に跨るから、上からだと硬く勃起して無くては挿入できないが、鞘かぶせとなると爺さんのふにゃちんでも何とか咥え込んでくれるので喜ばれたのである。    それに根津の女は前借とか鞍替えなどはなく、遊び代金も四分六か七三の配分だったから その日に稼いだ分は其の日に持ち帰っていく。    気の向かない時や、生理の日には自由に休むことも出来たから、日本版「昼顔」を堂々と行っていた世界でも珍しい売春形態だったのである。  (現代のデリヘルなどはこのシステムを真似して、女達にはすこぶる評判がいい)  それに当時の江戸という町は、現代のように女の仕事はOLやサービス業なども無く、 下女か、自分の体を開いて稼ぐ売春ぐらいしかなく、だから此処の女達は趣味と実益を兼ねてしかも搾取も無いから、女が己の性を己の意思で使い出した皮切りでもあった。  
 「根津でもて、男もどうやら一人前」と言われる位で、江戸期の川柳には数多く残っている。  さて、この女上位で馬乗りになるという性行為と、搾取が無いというという制度は、 これはまさしくサンカ社会の特徴である。  と言う事は、湯島天神の飛び地の中に根津権現は在るのだから、共に江戸におけるサンカの溜まり場ということになる。    (注)このブログではサンカの事を何度も書いているが、このサンカの記事は三角寛の以下の物は参考にしていない。
 『縛られた女たち』大日本雄辯會講談社 (1939/08)  『慈悲心鳥―山窩史話』日京書院 (1948)  『名刑事捕物帖』蒼生社 (1948)  『愛欲の瀬降―山窩綺談』東都書房 (1956)  『山窩小説シリーズ』徳間書店 (1966)  『味噌大学 』 文芸社 (1969)  『漬物大学 』 文芸社 (1969)  『人生坐大騒動顛末記 』
 何故なら彼は、警察廻りの朝日新聞記者として取材しているわけだが、サンカ(山窩)の中の騎馬民族系だけしか書いていない。 サンカにはこの他に海洋渡来系も居り、一方だけからの解明は片手落ちである。 さらに彼は、サツ廻りだったゆえ、警察情報を元に、即ち体制側から見たサンカを書いているわけで、好色な民族だとか、凶暴だという悪意と偏見に満ちていて、サンカの実態とは程遠いものになっている。 作家の五木寛之も「風の王国」でサンカ集団を描いているが、これもあくまでも小説で、実態を解明していない。 本邦唯一、サンカと共に暮らしその真実に迫った書物として、八切止夫著「サンカ生活体験記」「サンカいろはことつ唄」「サンカ民俗学」の三冊が、「サンカ真書」ともいえるべきものであろう。
現代でもサンカの血を引く日本人は多く、その特徴としては、頑固で唯我独尊傾向の人間が多いが、家ではよき父であり母であり、家族を大切にし、動物好きで、管理社会には向かなくても、 その才能と努力によってスポーツ、芸能界で活躍している人が驚くほど多い。 不撓不屈のど根性をもっているといえるから、その名を挙げればきりがないほど、かなり有名な人も多い。  なにくそと頑張って自己主張する血の流れがそうさせるのではなかろうか。 何と言っても彼らの一番の特徴は多産系である。 少子化日本の現代、五人や七人という子供を平気で育てているそのバイタリティには敬服する。 そしてこのサンカ男性の性格は、きわめて、反逆精神というか、反骨精神が多分にあり、また血の流れの伝統として、圧迫生活に堪えるといった〝ど根性型人間〟といえる。 何代か後の総理大臣は是非、サンカの血をひく日本人から出て欲しいものである。
 

宮迫博之と吉本興業のドタバタから聞こえる日本衰退の序曲

2019-08-15 11:52:08 | 新日本意外史 古代から現代まで
宮迫博之と吉本興業のドタバタから聞こえる 日本衰退の序曲
 
連日ニュースや情報番組で、これでもかというほどテレビは取り上げている。 識者やコメンテーター連中はここぞとばかり、尤もらしい大衆受けのする解説をしている。 こうしたテレビ業界に蔓延っている口舌の徒は信じられないし、庶民の浮ついた熱狂を煽っているに過ぎない。
私にとっては、タレントや漫才屋がヤクをやろうが、不倫をしようが、全く興味のない分野だが、 テレビのコメンテーターや学者、識者と云われるしゃべり屋の分析があまりにもお粗末で、事件の本質を突いていないのでここで一言苦言を呈してみたい。 そもそも、宮迫が「反社会的勢力」という、私に言わせれば、訳の分からぬ言葉だが、要は犯罪者共に呼ばれて「芸」をして、 金を貰ったのがけしからんという事だろう。貰った貰って無いでの食い違いも見苦しいが、しかしこれは間違っている。
 
 そもそも「金」に色なんかついていないし、どこから、誰から貰おうが全く問題はない。 知っていてやったのなら確信的だし、知らなかったのならそれだけの話なのである。 詐欺集団から金を貰ったと大騒ぎで「被害者の側の気持ちになれ」との大合唱である。しかし、 現代程情報が豊富な時代、それを咀嚼も出来ず、次々と詐欺に引っ掛かる方が甘いのである。同情の余地は全くない。
 
昭和五十年代までの日本の芸能界は、ヤクザが仕切っていたのである。美空ひばり、鶴田浩二、勝新太郎、菅原文太など、 名前を挙げればきりがないほどヤクザとの交際は当たり前だった。飲ませてもらい、客を呼んで貰い、代わりに彼らはやくざのステータスとしての一面に協力してきた。 だからヤクザと義兄弟、舎弟杯の芸人や俳優はごまんと居たし、東映撮影所などはやくざだらけの時期もあったのである。 警察が怖いからといって、おもねり、従順になる必要は微塵もない。
 
「芸を見せて金を貰って何が悪いのですか」と開き直ればいい。それこそが芸人の心意気というものである。
近頃「フリージャーナリスト」と、御大層な肩書でテレビでは「大御所」として君臨している北野武が面白い解説をしていた。 吉本興業を「女衒(ぜげん)」と表現していて、これは当たらずとも遠からずと言える。少し解説すると、
この商売をやっていた者は江戸時代から、売春禁止法が施工された昭和三十二年まで全国に居た。各地から女郎(売春婦)になる女を買い集め、売春宿に売る。 売る前に、商品としての価値を調べるため、自分が必ず抱いて、顔の美醜や肌ツヤ、女そのものの具合を確認する。 「この娘は肌が白く餅肌で、あそこも良く締まり具合がいいので優良」「顔も可愛く具合もいいが、反応が鈍いので訓練次第で売れっ子になるから良」 等とランク付けし、それによって店に売る値段も変わるのである。 私はこの女衒というより、吉本興業や芸能プロダクションを「猿回し一座」と名付けている。
東京にもジャニーズを始め多くの「芸能プロダクション」があり、田舎のあんちゃんや娘っこを集め、 学芸会の延長のような拙い唄や踊りで売り出し稼いでいる。こんなのに熱狂している男女もどうかしている。
 
 
この宮迫問題の本質は、六千人とも謂われる、ろくな芸もない、馬鹿騒ぎや裸になって笑いを取るような、社会の半端者を集め、ピンハネで儲けている吉本の悪しき企業体質なのである。 今や吉本芸人(漫才屋)なくしてテレビは成り立たない異常事態である。 そして吉本は行政(権力)にも食い込んで大きな利権も獲得している。「笑いで地方を元気にする」とのお題目だが、おへそで茶を沸かしたいぐらいのものである。 笑いで雇用がいくら増やせるのか具体的数字を出してみろといいたい。そんな事で地方が元気になるはずなどない。 だから猿回しの親方的体質を捨て、古い二十世紀の「人いれ稼業」的体質から脱皮し、戦略的思考に基づいた企業戦略を立てなければならない。 猿回しの親方とか人入れ家業の親分と呼ばれたくなければ、当然の帰結だろう。
話は飛ぶが、近頃のテレビのMCと言われる、知ったかぶりでドングリまなこの宮根、子役崩れの坂上や、漫才上がりの恵らの、言葉使いには呆れる。 敬語の使い方が全くなってない。そして薄っぺらな正義感をかざし、どれもこれも傲慢な態度に呆れる。 スタジオにイエスマンの芸人やタレントを集め、MCとして己の意見に従わせ君臨しているさまは空恐ろしい。 吉本さん、タレントさん、芸人さんと「さん」付けを乱発し、自分も広義では芸人の端くれなのを忘れたのか、何にでも「さん」を付ければいいと思っている。 謙虚が過ぎれば卑屈が見える、というが、裏読みすればテレビ業界の「驕り」の裏返しだろう。 さて、このように物事の本質を見極め、分析すれば厳しい言葉にもにもならざるを得ない。
 
日本史ではこのについて、誤解が多いのでここに真相を書いておきます。 先ず、古い浄瑠璃の<愛護の若〉では四条河原にたむろする「細工の者」といったとでている。  さらに源頼朝の出したと云われる、頼朝御判28種では、細工人つまり職人はみな日本原住系の限定職種となっているのである。だから間違いではない。 平たく言えば、日本列島に自然にある動植物や鉱物を採取したり加工する権利は、原住民のものという権利を与えた。これは幕末まで続いた制度であった。
しかし、本当は公家とよばれる藤原氏は捕虜として奴隷百姓にして働かせている者らは従順だったが藤原体制にまつろはない彼らは、 強制的に囲地に入れられた。
 
かれら原住民は藤原体制の奴隷になることを徹底して拒んだからなのである。 だから藤原体制は、奴隷になるのを拒む連中の許へ、毎年五月五日に限って石打ちに押しかけるのを許した。 何故なら、奴隷百姓は汗水たらして過酷な労働に追い立てられているのに、彼らは労働に従事せず、税も払わぬ部族だった。 だから百姓は羨ましがり、彼らを憎んでいたから日頃のうっぷん晴らしに年に一度に限り襲うことを官許したのである。
これを京では「院(因)地打ち」とよんだ、つまり人の上に人をではなく、その反対に人の下にわざとを作って、石つぶてで打ち殺しても構わぬものとしたのである。 官許というか公家後援があるため、白川とか山科、桂、大原といった収容所へ当日は群れをなして竹槍まで持って押しかけ、放飼いの鯉を戦利品として持ち帰って、 これ見よがしに竹の先に剌したのを、家奴隷も百姓奴隷も軒ごとにたてた。
 
 
これが後には「尚武の節句(本来は勝負の意味)」となり、現在の鯉のぼりになるのである。  しかし襲われる者達も黙って待っておられぬ。石合戦ゆえ小石の多い河原を確保するために、四条河原から加茂川一帯に住みつきだした。 が小石を押えるため石の沢山ある河原に小屋掛けしていても、石では食せぬし銭にならぬ。 そこで細工物をしたり、芸をみせてやむなく生きてゆくために銭稼ぎをした。後に役者のことをそう呼んだり、 河原埼権十郎といった名が生まれてくるのも、圧迫され通しの日本原住民系としては、石合戦への応戦の必要があったからであって、やはりそれなりの訳があるのである。 だから芸人(漫才、落語、講談師、歌手、役者、タレント、)という人間たちは、差別と弾圧、迫害され続け、風雪に耐えた歴史の中から、その抵抗の精神を芸に昇華させるから 素晴らしいのである。だが、近頃の芸人と自称する者たちにはこれが全く見られない。 「芸」と呼べる代物でなく、全くの五月蠅い馬鹿真似を芸と勘違いしている。
 
吉本に六千人と言われる「マンザイ予備軍」が居て、そのほか東京や地方にも「芸能」を志す若者を加算すると、何万人の労働しない半端者が居るのか見当もつかない。 さらに、オリンピックに煽られて「将来はスポーツ選手になりたい」という若者も多い。この日本開催五輪は大失策である。 世界的な投機家の、ジョージ・ソロス氏もオリンピック後の日本国衰退を予言している。 競技場や関連施設の経費を入れると五兆とも六兆円ともいわれる無駄な金を、有意義な事業に振り向ければよかったのである。
オリンピックも今や世界的な金儲けのビジネスになり下がった。こうした、人間生活にとって必ずしも必要としない、非生産性遊民が増えるとどうなるか。 人間は遊び好きな動物である。これから日本は高齢化、少子化、人口減少が進み国力は下がる一方なのに、労働しない人口が増大すると考えるとゾッとする。 こうした中、日本は人口増加のための、移民政策も、出産奨励策も全くとっていない。
また、中小企業の事業継続者不足も深刻で、若者が継続しなければ六百五十万人もの雇用喪失が懸念されている。 さらに、十五歳から六十歳までの引きこもりが六十万人も居るというら、この国の将来は真っ暗である。
そして、防衛省喫緊の課題である「自衛官候補生」も五年連続で計画割れで、国防の危機でもある。 古代ローマやギリシャも、奴隷に労働を任せ、市民はスポーツや娯楽に沈溺し滅亡の道を辿った歴史が在る。 テレビの食い物番組や、お笑い低級番組にうつつを抜かし、スポーツに熱狂し、国内外の情勢に怜悧な目を向けぬ腑抜けのような国民は、いずれ中国の属国に成り下がるだろう。
 
 

ハワイでシスコで大活躍の日本やくざ ハワイは日本領土だった 女王を助けた国定一家の残党

2019-08-14 16:31:46 | 新日本意外史 古代から現代まで

ハワイでシスコで大活躍の日本やくざ

ハワイは日本領土だった

女王を助けた国定一家の残党

  桑港万華鏡(サンフランシスコ・カレイドスコープ)

アメリカ西海岸にあるサンフランシスコは、歴史的にも、古くから日本とは非常に密接な関係にあり、馴染みの深い都市である。

  さて、一枚の紙にも両面があるように、全ての事柄には表と裏がある。片面だけを見てとやかく言うのはおかしい。これは常識である。

  ところが歴史だけは近頃直ぐに「史実によれば」と軽々しく片側からものを言う。 かって、故吉川英治が朝日新聞に連載小説を書いていた頃、吉川の足を引っぱらねば自分が浮かばれないと「文字建設」に資金を出して、海音寺潮五郎が村雨退次郎らに、 「史実に拠れば」と執拗に繰り返させたのが始まりなのである。

  自分では嘘八百を書き飛ばしていた彼が、史実、史伝と尤もらしく安売りしたのが広まって、定着して今に到っているのが真相なのであるが、現在流布している史実など、へそで茶を沸かしたい類のものである。

実際に、「史実」と言い切れるのは<大日本古文書><大日本史料><山科日記><看門御記>と五指位のものである。

  ここでは<<幕末確定史料>><<カリフォルニア史>><<明治古老談>><<野史辞典>>等によって、幕末、動乱の日本からあまり知られていないが、多くの日本人がハワイや米国本土に渡り、 波瀾万丈の人生を送り、その土地の骨になった、その埋もれた歴史をシスコという土地から掘り起こしてみたい。

サンフランシスコの起こり シスコの黄金時代が始まる

  そもそもここの土地というのは、スペイン人の宣教師が、フランシスコ派のカトリックの信者を引き連れて、初めて入植して来た時から、太陽の燦々とふりそそぐ非常に暑い土地であった。

  そこで伴ってきた信者達に労働奉仕を求め(何はともあれ教会を)と、工事にかかったところが、真っ先に神の使いである牧師さんが暑さのためノビてしまったから、 天にまします我らが神(ゴット)より太陽(サン)の方がここでは強いからとそれを頭につけ「サン・フランシスコ聖堂」と命名したぐらいで、地名もそこから付けられた土地柄である。

  さて、その教会の建てられた1776年というのは、日本では安永5年に当たり、老中田沼意次が賄賂(まいない)という賽銭をどんどん集め、教会の代わりに、 自分の田沼御殿を造らせたりしていた時代である。ところがそれから73年たって、日本の嘉永元年に当たる徳川第十二代家慶の頃になると・・・・・・。

  サンフランシスコに流れ込むサクラメントの河を利用して、水車小屋を作っていたスイス人サッター大尉の下僕マーシャルが「ギッコン・ギッコン」音させて回る水車の羽からある日、 ピカピカする物を発見した。  それを分析所へ持ち込んでみると、そこの所員が怪訝な顔をして「何処にあったか」とマーシャルに聞いた。 マーシャルもその顔色を見て(ははあん、こりゃ何だな)と、そこは直感して、何食わぬ顔で大急ぎで水車小屋に戻ると、もうこれまでの仕事は放り出して、 ザルを持って川中へ入り、金捜しに躍起となった。   マーシャルが川さらいばかりしているのを怪しんだ大尉も一緒になって川さらいをしてみれば、黄金がザクザクだった訳である。

 あまりのことに欣喜雀躍、マーシャルには「誰にも口外するな」と釘を差し、それからはかっての上官である大尉とマーシャルは砂金採りに精を出した。  ところがである。マーシャルは袋へ入れて持っていったのを、そのまま持ち帰ったつもりだったが、分析所の番頭達は、分析用に茶サジ一杯を取っておいた。 後でそれを試験してみたら「純度85%」という大変な鉱質と判明して大騒ぎとなり、未だ人口がいくらもいなかった頃なので、この噂は直ぐに広まってしまった。

  最終的には「サクラメント渓谷には二十億ドルを超す金がある」という噂は全米に伝わることになった。 かっては丘の上に牧師さんを、日射病で倒して建てられた教会堂とそれを取りまく一握りの小さな村だったサンフランシスコが、この噂でたちまち人口が六千になり、一万になった。 やがてこのサクラメントの黄金時代(ゴールドラッシュ)の呼び声で一攫千金を夢見る人々がここへ集中、人口は一万から五万、それから二十万の大都会に変貌してしまうのである。

  さて、シスコがゴールドラッシュの波に乗って殷賑を極めると、諸式全てが派手になってくるのも当然である。   それに、アメリカ自体に女が僅かしか居なかった時代なので(ヨーロッパの魔女狩りで数百万の女を焼き殺してしまった後遺症らしい)シスコも例外でなく、女性はほんの一握りであった。

  だから男共は、サクラメント渓谷から掘り出した黄金で、女性の歓心を買うべく、色々な贈り物を求めた。

  しかし、まだバラの花を捧げるようなキザな時代ではない。質実的な衣服、つまり布地が大いに要求されたことはうなづける。 この時代のチャイナシルクは、阿片戦争で清国を降伏させた英国が一手に販売権を握り、アメリカへはカナダ経由で入っていた。

  そこでもっと安価にシルクを入手しようというので、ペルリが日本へ派遣されて(これが日本の明治維新の一つの口火になるのだが)下田に領事館を設置し、 日本産の絹布の輸入を図ったのである。

  しかし、幕末までの日本女性というのは一般に地味だったから、日本絹は黒っぽい柄か、さもなくば友禅染のような、突飛な大柄しかなかった。

  いくらゴールドラッシュに沸き返るシスコの女達が「シルク」「シルク」と叫んでもこうした柄物では彼女たちに向かない。また、 染色が日本絹布は昔ながらの草木染ときているから、脱色して染め直しもきかない。

  つまり、シスコに昔から居るスペイン女たちでさえ「マンティラ」と呼ぶ頭掛けにさえ用いたがらぬ絹布では、これは致し方もなかったろう。   そこで現地シスコで自家生産しようという案がここにもちあがり、日本からまだ染色されていない生糸の束がどんどん出荷されだした。  

  しかしそれだけでは、とても需要に追いつかないから「蚕卵紙」と呼ばれる蚕の卵を付けた紙と、桑の木の苗が、日本の産地である野州や上州から集められ、これがどんどんシスコへ送られた。 「桑港」(サンフランシスコ)という当て字が今も残っているのはこの時の名残なのである。

 さて、生糸の束の方はよいが、蚕卵紙というのは蚕の子が一枚の紙に縦横に張られている生き物である。現代のように空輸できる時代ではない。   太平洋を1ヶ月近くかけて蒸気船で送る時代だから、どうしても蚕に付き添っていくエスコートが必要である。勿論付き添いは、蚕を飼っている女なら申し分ないが、 当時の女性は今日のように海外旅行は好きではなかった。  それに上州などは(カカア天下に空っ風)と言われる土地柄で、亭主や子供に ガミガミやるだけのことで、メリケンくんだりまで添乗員として行こうなどという 勇気のある女が居るはずもない。   しからば男はどうかとなると、これまたメリケン行きとなるとロケットで他の惑星へ行くのと同じだろう。 だから、何処の商家の番頭、手代も皆青ざめて尻込みをしてしまう。   しかし蚕卵紙には、誰かここから人間を付けてやらないことには、悪徳商人が向こうにはいて「折角送荷してきたがみんな死んでいたから海へ放り込んだ」と、 一銭も送ってこないような手合いもアメリカには多い。  だからうっかり出荷もできない。といって、みすみす儲かる輸出を指をくわえて見逃す手もない。

  そこで野州栃木陣屋の「出頭元締」である根岸多十郎は栃木上町、中町、下町の各総代共に強く談じ込まれて、国定忠治の子分で忠治の死後、 ろくすっぽ名前も戒名も貰えそうもない半可打ちの子分が土地にいられず、江戸へ流れ込んだが、そこへも住めず、またぞろ戻ってきてまだうようよ残っていた。

国定忠治の子分太平洋を渡る        

 一時は数千の子分を擁していた国定忠次である。ロクに親分の顔を拝んだことのない下っぱも何百となくいただろう。 そしてこれらは見つけ次第、牢にぶちこまれていて(どうせ奴らは無宿者で、寺の人別帳にも入って居らぬ者ゆえ、公儀御船方に見つかったとて、こちらは知らぬ存ぜぬで通せよう)と、 当時は国外へ出るのは御法度だったが、彼らに目を付けた。ちなみに海外渡航禁止、即ち”鎖国”の本当の意味は、珊瑚やギヤマンの密輸取り締まりや、キリスト教の問題ではなく、 これらはあくまでも、表向きの政治的なもので、真相は火薬の原料である硝石を密輸して各大名が反乱しては困るからである。 だから、入牢中の彼らを蚕卵紙添乗員としてメリケン船へ乗り込ませ、シスコまで送ったらしい。そして、船がシスコへ着いた途端、さっさと髄徳寺を決め込んで、逃げてしまった者も居た。

アメリカで刊行されている邦字新聞は十指に余るが、その中の羅府日報のK氏の説では、この時二人が日本からやってきて、シスコで逃げたのはカイチとサスケだということである。 カスケとサイチだとの説もある。

さて、スペイン語や英語の氾濫するシスコの町に放り出されたような二人は、随分と酷い苦労をしたことであろう。 しかし、元々が博打うちである。 日本男子のバイタリティーを十分に発揮して、同じ有色人のよしみで、当家と呼ばれていた清国人や、キューバやジャマイカの肌の黒い連中も従えて、 国定一家のアメリカ分家のようなものを作り、サイコロ賭博を行っていたらしい。 このままでいってくれたら、まあ国定一家はおおいに日本の任侠道を広めてくれたかもしれない。しかし、月にむら雲の喩えもあり、そうは順調にいかなかった。 なにしろ、当時のシスコは、ゴールドラッシュで人口は鰻登りに増えたものの、南部と北部の対立に明け暮れしていたアメリカ合衆国は、準州にも加えず、放りっぱなしの状態だった。 だから、引き続きスペイン人の治安判事の統率下にあって、赤服のカーニー軍の兵隊が警察権を握り、シスコの巡邏をしていて、これが一にも賄賂、二にも賄賂である。 (ここから便宜上、加助と佐市と漢字で書くことにする)

加助や佐市の国定一家の盆にも、鉄砲を持った兵隊が来て冥加金を取っていく。日本ではこんな時は、さしずめ殴り込みだろうが、異国の地では何せ武器もなければ頭数も少ない。 スペインとカリフォルニアの摩擦は、ゴールドラッシュが始まってからは、土地の人気が荒くなっていたせいもあり、記録では1849年夏に、モンテレーに集まった住人がスペイン軍に反抗して、 自治警察制度を叫ぶ大会を持って騒動になった。さて、こうした反目の続いているとき、アメリカ合衆国大統領ポークが、スペインに対してキューバ島の買収を申し込んだものだから、 「我々はキューバを他へ分割するよりは、むしろ大洋の海底へ沈んでいくのを見る方が望ましい」と拒否されてしまい、 「それでは実力行使で」と、キューバへ渡ったロペスやその一党はスペイン軍に捕らえられ、銃殺されてしまった。 そこでアメリカはスペインの首都マドリッドにソーレ大使を抗議に送った。このため現地スペイン軍は「おのれアメリカ野郎め」と、時来たらばカリフォルニアを奪還しようと秘かに兵力を増強していたのである。

ところが、これに対してロッキー山脈を探検したり、カリフォルニア征服にも功のあったアメリカ人のジョン・G・フレモントはこの形勢を憂い「危機である」と叫び、新聞にも所説を発表した。  だが彼は、共和党に所属し大統領候補に立ったが民主党のブカナンに負けたから「選挙に利用せんが為の放言だ」と軽視された。 為にカリフォルニアの危機は放って置かれたので、シスコの人達は「このままではスペイン側に何をされるかも知れん」と、戦々恐々として自衛策を講じだした。 しかし先立つものは武器弾薬である。すると当時ブラウンという過激派が居て、これがバージニア州ハーバスにある合衆国海軍兵器庫を襲うという情報が入った。

「シスコ防衛のためである」と血気にはやったカリフォルニアの連中は、それに合流し、ロバート・E・リー海軍少佐の海兵隊と戦って分捕った武器弾薬を持ち帰った。  一方、シスコの反対側、大西洋岸では、サウスカロライナ州のチャールストンに、ブカナン大統領の命によって、サムター要塞に届ける軍隊と食料を積んだ汽船が入港してきた時のこと。

南部同盟政府の軍隊がこれに砲撃したため、スペインとシスコの戦いより、アメリカ国内の衝突が先に始まってしまった。サムター要塞の北軍も、 汽船を擁護するため南部に応射した。ここに三月四日、ブカナンに代わってリンカンがワシントンに入って大統領に就任し、要塞のアンダーソン少佐に対して 先ず籠城に必要な食料を陸路から送ることにした。

  南北戦争始まる        

加助と佐市スペインと戦う

  四月十二日、南軍は総攻撃に出て、アンダーソン少佐は猛火に包まれた要塞を丸二日間にわたって持ちこたえたが、ついに死傷者続出で開城のやむなきに到る。  これまでの合衆国政府の「星条旗」(スターズ・アンド・ストライブス)は下ろされ代わって新しい「星と横木旗」(スターズ・アンド・パーズ)南部同盟旗が、くすぶる要塞にひらめいた。

ここにおいて、合衆国大統領リンカンは「七万五千の民兵に三ヶ月の兵役」を布告しこれが有名な南北戦争の始まりである。さて、 戦火はこうして大西洋岸で始まったが、二十日には太平洋岸のシスコにも、この国内戦の情報は入ってきた。リンカンでさえ、初めは長引くとは思わず、三ヶ月の予定と見た南北戦争だが、 シスコではなおさら形勢がはっきり判らないから、住民達の騒ぎは大変なものだった。

するとこの混乱を好機と見て「アメリカが国内戦を始めだした。最早こっちまで手を出してくる気遣いはあるまい」と高をくくったスペインの判事は、直ぐさま 軍隊に軍鼓を叩かせシスコの町に進駐してきた。 後、明治三十一年にアメリカとスペインの戦争が起き、スペインが敗北してフィリピンまでアメリカが占領する頃になると、誰も赤服のスペイン兵を見ても恐れなくなったがこの頃は、 「エスパニョール」といえば、赤鬼ほどの響きがあって、女子供達は馬車に荷物を積んでリッチモンドの丘へ逃げ出した。

この時、日頃寺銭はさらっていく、客の張っていた場銭までも持って行かれ、やりたい放題をされ、腹に据えかねていた加助や佐市たちも子分共を引き連れ、シスコ側に立って長ドスに縄襷といういでたちで、

「上州長脇差の晴れ舞台だ。流れ流れてメリケン三界、死んでこまそ」とばかり、突進し、勇敢に戦い死んでしまったらしい。 南軍が降伏し、慶応元年には南北戦争も終わり、カリフォルニアもやっと合衆国の一州になり、シスコは西部第一の大都会に変貌した。

シスコで戦勝祝賀パーテイがリッチモンドの丘で開かれた時、戦争中、赤服と戦った人々の武勇談義の花が咲いたが、誰一人として、加助や佐市の壮烈な死を覚えている者はいなかったということである。

洋の東西を問わず、ヤクザの末路は何処でも皆同じで、所詮、虚しく儚いもののようである。ちなみに、今アメリカの博打場のカード切りやルーレットの玉回しのことを、 ベガス当たりでも「テーラー」と呼ぶのはこの時、加助と佐市が勝った方から一割を「寺銭」にというので、日本語で「てら」「てーらー」と言ったのが、言葉の語源だと、マフィアのトロピカァナのボス、 H・ジェンズが言っている。真偽は定かでないが、在りそうな話である。

各人種の集合体であるアメリカゆえ、幕末に日本から渡ったのは、何も国定一家ばかりではなく、埋もれた歴史を丹念に掘り返していけば、意外と多いようである。

紙数がないので簡単に記すが、明治十四年には、ハワイ王・カラカウワは、その後継者のリリオカラニ姫の婿として、日本人をと希望した事実がある。 しかも時の皇族である、山階宮様を求めてきたのである。 この宮様はこのお陰ですぐ「小松宮」と名乗りを変えられ、後に「東伏見宮」になられたお方である。 勿論、この時の日本の宮様がハワイの王家も継いで居れば、その半世紀後に、真珠湾の奇襲作戦を強行することもなく、大東亜共栄圏が明治時代に出来上がっていたかも知れないが、 当時そこまで先見の明のある、具眼の士はいなかったらしい。

なにしろ、ご当人の宮様でさえ「そんな毛色の違った女は嫌だ。遠いハワイなど恐ろしい」と仰せられる一点ばりで、翌年正式に明治政府は親書をもって、これを謝絶してしまっている。 なにしろ西南戦争の終わったばかりの日本では、太平洋の真ん中のハワイ等どうでもよく、それより国内戦で疲弊した経済と、インフレ対策に手を焼いていた時代なので、

ハワイ国王が、アメリカの侵略から自国を守るために、同じ太平洋に面している日本と、何とかして同盟したがっている。 と、察する余裕が全然なかったのだろう。又この時、 何故ハワイ王が日本人に次の王位を譲りたがっているのか? まさか日本人を全然知らずに、そんな重要な申し込みをする筈もないから、王の側近にれっきとした日本人が混じり込んでいるのではないか? という疑問を起こす者がいたとして。

その日本人が、王を説得するほどに有力な存在なのか? またその日本人が、ハワイ王に感じ入られる程の、素晴らしさを持っている者であるのか?ではその日本人ははたして誰なのか。 と、探りを入れて調査でもしていれば、一切の事情は今日とは全く違ったものになっていただろう。本当に惜しみてあまりある話である。

日本からすげなく断られたハワイ王は、ハワイの安全保障を念じ、赤道の向こうにあるサモアと提携しようとして、王自ら船に乗り込んで直接交渉に臨んだのである。 だが、サモアを独立国のつもりで訪れたのだが、ここはすでにドイツのカイゼルの手がのびていて、ハワイ王と会見したばかりに、サモア王のマリエトはドイツ軍艦のアドラー号に乗せられ、 遠くアフリカのドイツ領植民地、カメルーンへと流されてしまう。 ちなみに、この当時ハワイ王の側近におり、親衛隊長か侍従武官のような役目をしていた日本人は、維新のドサクサでハワイへ渡った、祐天仙之助(本名・山本仙之助)の子分達三人だったらしい。

明治六年、正式に日本移民がハワイへ渡ってからの百年祭に、常陸宮様御夫妻が訪問されたのを機会に、負けはしたがハワイ独立運動に、 リリオカラニ姫を守って勇敢に戦い、死んでいった彼らのために、山梨県人会の人達の手で、「甲州男児熱血碑」がホノルルの北の丘にある、 パンチボウルというハワイの二世の四四二部隊一○○部隊の勇士の墓と一緒に建てられている。

 

 

 

 

 


天皇になろうとした秀吉 秀吉の新御所 聚楽第   豊臣秀頼は誰の子か??   

2019-08-13 10:08:33 | 新日本意外史 古代から現代まで
 
            天皇になろうとした秀吉        
  秀吉の新御所 聚楽第
      豊臣秀頼は誰の子か??              
          山科の別所
 
 
 天正十三年のことである。 自ら大軍を率い紀伊征伐をして、根来、雑賀を根絶やしにする程の大戦果をあげた豊臣秀吉は、 「亡き信長様でさえ手を焼き持て余した輩だったとて、わしに掛かれば赤児のようなもの」と豪語して京へ凱旋してくるなり、戻橋から二条へかけ、十二町四方の広大な土地に、 縄を張り巡らせてしまった。  
          根来は特殊な土地柄
現、和歌山県那賀郡岩出町に、新義真言宗の大本山根来寺が存在している。  ここは歴史的に本願寺派が雑賀衆を手なづけた頃よりもずっと早くに、紀伊、有田一帯の 日本原住民が押込められ、隔離されていた別所、、院内(呼び名は土地によって様々あるが   原住民が強制的に住まわされていた特殊地域)の者達を仏教に教化して、彼らを押さえ込んでいた。    高野山もヒジリと呼んで、お上に認められた官僧ではないため、頭を丸めることは御法度で、 為にぼうぼうの総髪のままの頭に(これを毛坊主という)編み笠を被らせて、日本各地に布教に  廻らせ上納金を取って儲けていた。    この高野山から別れて独立した根来寺も土地丸ごと押さえ込んでいたから、最盛期には寺坊が二千七百も有り、寺領としては何と三十万石もあったので大変な勢力だった。    だが天正十一年になると豊臣秀吉が仏教勢力へ政治献金を命じた。これに対して 献金を拒んだため、怒った秀吉によって全山を焼討ちにされてしまい、その勢力は衰退した。    この後浅野家によってようやく再興を許された時には、すっかり落ちぶれてしまい、 その寺領は二百六十石しかなかった。    さて当時の先込めの火縄銃は、火蓋を切って落とし、先ず火皿にある火薬に引火させ、 銃底に詰め込まれている火薬を爆発させるという構造になっていて、先に詰め込まれている火薬(硝石、硫黄、木灰)の調合が悪いと、射手を自爆させる事故が多かった。    だから、この当時命を惜しまない者でなければ、鉄砲を扱うのは難しかった。 従って彼ら根来衆というのは、徹底的に仏教に教化されていて、    「御仏のおん為に死ねば成仏間違いなし、更に次に生まれて来る時には常人として生まれ変わるのである」と説教されそれを信じて喜んで仏敵に向かって勇ましく死ぬために戦ったのが、この根来衆だったのである。    何故彼らがこうした事を信じたかと言えば、日本に進駐していた大陸勢力が、徹底的に彼ら原住民を差別し弾圧したため、 人間とは認めない峻烈な政策をとって、要は差別と貧困の連鎖ゆえの止むを得ずの悲しい選択だったのである。    これは現在のイスラム過激派の状態と全く根源は同じである。   そして、死ぬことに恐れずという、不幸な信条ゆえ、大いに利用され、多くの命が失われた哀しくも憐れな衆(部族)でもあった。  だから江戸時代になって徳川家に仕えても、根来鉄砲衆は足軽扱いの最下級武士でしかなかったのである。
     聚楽第の縄張り
 京洛市街地の中心を、すっぽり包んでしまう大掛かりなもので、縄張り内の民家や武家屋敷は、もとより、寺や社にまで強制収用が命じられた。しかも秀吉の事ゆえ、余裕など与える訳は無く、即刻の立ち退きである。 京の者達がいくら抗議をしても、戦戻りの荒々しい兵達にかかっては一顧だにされず、「文句をぬかすと素っ首叩き落したる」と脅かされたり、本当にバッサリ斬られもした。  なにしろ兵達は、縄張り内の住民を力ずくで外へ出し、取り壊しをする前の家から、目星しい物を掻払って己の稼ぎにしようと、血眼になっていたから、病人まで放り出したりもした。  このため、時の天皇正親町帝のおわす御所へ、 「お願いです、助けておくれやっしゃ・・・・」と泣訴哀願する者たちが列をなした。    勿論、御所の中でも関白二条昭実以下甘露寺大納言、水無瀬中納言、時持明院中納言らが、鳩首評議して善後策を講じていた。  なにしろ市中の者らは家屋敷を奪われるので騒いでいたが、御所においては、もっと重大な事が起きかけていたからである。  というのは、京の目抜きの市街の十二町四方を取り払って、秀吉が建てようとしているのが、後の「聚楽第」だったからである。初めのうちは公卿たちも、 「京のどまん中に大きな城など建てても、役にたちませんやろ」 「そうどすな。古来例もおまへん。いくら秀吉さんが豪気でも、ちいと可笑しゅうおすな」と、冷笑しながら陰口をききあっていた。 が、縄が四方に張られ、強制立ち退きが始まり出すと、只事ならぬ噂が洛中に広まった。 「・・・・秀吉が自分で帝位につくに当たって、従来の御所では手狭で物足らぬ故と、  平安京の昔に戻しての大内裏の新築造営」とはっきりしてきた。
 総工事奉行は丹羽長秀。造営大工匠頭に引かせた図面にも、 「南北に美福門、朱雀門、皇喜門、達智門、偉整門、安喜門、東西は、上東門、陽明門、待賢門郁芳門、談天門、藻壁門、殷富門、上西門」とでていて、古式そのまま桓武時代さながらの 壮大なもので、後世の万博にも匹敵する大規模なものだった。
「こりゃ・・・・えらいこっちゃおへんか。御位を奪い、別に御所を新築するなど以ての外」 「秀吉が新帝にならはったら、うちら公卿はどないなりましょう」  と、御所の中では公卿達が己が身を案じて大騒ぎとなった。しかし文武百官の公卿全部が、秀吉の権勢を恐れて、唯おろおろと茫然自失していた訳ではない。
 従二位権中納言山科言経四十三歳が、妻の兄冷泉為満、義弟の四条隆昌らと連盟で、「諸国に勤皇の士を集め、もって錦の旗を上げ秀吉を討ち滅ぼさん」と奏上し勅命を乞うた。  建武の中興の時に帝のため決起したのが、上州新田別所の新田義貞、河内桐山別所の楠木正成、三河安祥筒針別所からは足助次郎といった者達だったが、山科言経の所領の洛北に在る山科という土地も、やはりそうした別所地帯で住民達は「こぞって、おかみの為に・・・・・」と  申し出てきたゆえ、言経も討秀吉の旗揚げを阻止せんとしたのである。 勿論、正親町帝は感涙され、歓ばれたものの、しかし秀吉を怖れる関白二条昭実は、 「とんでもないことに存じます。信長亡き後の秀吉は、最早天下に敵する者など一人も無き有様・・・・  それらに対して刃向かうは蟷螂の斧に飛びつくようなもの」と反対した。  
 
 大日本古記録・言経卿記
 
 
 そして六月に入って秀吉が「四国征伐」の発令を出したが、仙石権兵衛を名代として、己が代理に差し向け、自分は何故か大阪城に止まっていた。これを不安がって、 「泣いて馬謖を斬るの諺もありますれば」と関白が、帝に強請したので、正親町帝も、 「やむを得ぬことである」と、尽忠勤皇を叫ぶ山科言経ら三卿に対して、位階剥奪の上、「勅勘」による京追放を宣された。  この帝位を狙った秀吉を阻止せんと企てた山科言経ら三卿の都落ちは、幕末の七卿長州落ちに比べて、全然それは知られていない。歴史屋の不勉強である。  だから岩波版『大日本古記録・言経卿記』天正十三年六月十九日の条を引用すれば、
 「勅勘を蒙りて上京の柳原の住宅を棄て、ひとまず冷泉為満邸へ行き、二十四日には四条隆昌らその家族と共に、追われるごとく京を退散し川を下って淀へ向かう。淀城(大野宰相こと城主織田信雄)  の城代衆大野弥三郎の厄介になり、大阪へおもむき本願寺光佐の妻冷泉為満の姉で、山科言経にも義理の兄弟に当たっていたから、その世話で和泉堺の大寺明王院へ二十六日より落ち着く」とある。
 つまりこれを見ると、天正十三年六月当時は、淀に在った城は織田信雄のもので、「大野修理治長」となって 後には大阪落城の大立者になる弥三郎が、信雄には従妹に当たる後の淀殿である、弥々を守って、そこの城に居たことになるのである。  さて、ここに楠木勘四郎という、秀吉の野望を砕くため尽力した重要な人物が居る。 彼は楠木正成の子孫で、御先祖正成公の勘免を願い出た楠木甚兵衛成辰の子で、山科言経の室の妹婿という関係である。  彼は『楠木流軍学』『楠木流忍術』なる江戸期の版本に、楠木正辰なる編集名に使われ知られている。
 
 (注)この忍術をテレビや映画に出てくる、黒装束、手裏剣、忍びの者と間違ってはならない。  あんなものは全てフィクションで、本当は、体制から差別され、弾圧された部族が隠れ住み、耐え忍ぶ生活の知恵ともいうべきものなのである。
『山科言経卿記』の天正十一年八月の条を見れば、彼はほとんど連日のごとく山科家を訪れては、「楠木甚四郎、小者共を召し連れて来たりて、庭の垣根縄結びを終日なさせる」といったように、 山科家の雑用もしている有様である。
 また山科家の土地と言えば、言経の日記にも、 「山科在所より、年貢米の代わりに三毬打(蹴毬の一種)用細竹二百八十本を届ける」とある。 では非農耕地である山科の所領が米作りをしないのであれば、何処で飯米を入手していたかといえば、西梅津新地の三十石が蔵入り米だった。  これは言経の父言継の代に信長から貰ったものだった。 だが秀吉が、本能寺の変後に取り上げてしまった。
そこで天正十一年八月二十一日付けで、山科家の執事の大沢右兵衛太夫が、秀吉の京町奉行前田玄以宛てに差し出した抗議文も残っている。  食物の恨みは恐ろしいというから、山科言経が反秀吉の急先鋒となったのも、飯米用の梅津新地を返してくれぬ所為かとも考えられる。
さて、この当時織田信長の妹で、美人の呼び声の高かった於市御前だが、彼女には三人の娘が居た。
長女 弥々(後、秀吉の側室淀君) 次女 初子(京極高次の室西の丸殿) 三女 達子(初め尾張へ縁づいていたが、今は左大臣九条道房卿のもとへ秀吉が嫁がせた)
秀吉は体躯矮小だったのは有名な事実だが、この弥々は、亡父浅井長政似で、大柄骨太で肥満型。 だから秀吉の好みに合わず、この頃は放りっぱなしにしていたらしい。 これが何故にこの後秀吉が手をつけて、秀頼を産ませたのかという謎がここにある。
 それは、秀吉の野望を断念させる為、山科と楠木達の戦略が在ったと想われる。 この当時大野治長は二十五歳。織田信雄に弥々を秘かに面倒を見てくれと請われて淀城に住んでいた。 弥々は亡父の浅井家の復興を切望していて、それには、秀吉の側室になり、世継ぎでも生まれればそれは可能だと山科言経に勧められる。 山科家は医王山薬師如来を本尊とする「東光教」の司掌の家柄にも当たっていたから、今で言えば医者と薬剤師のような立場にもあった。 だから御医道曲直瀬正盛と結託して、子種を切望していた秀吉に「肥満大兵体躯の女ごこそ受胎が出来やすく  それは弥々様がよろしゅう御座います」と勧めた。           
 
 一品親王様毒殺される            
 
さて、この時京町奉行前田玄以の手の者五六百が東宮御所を取り囲み、一品親王と呼ばれていた 次の帝位を継がれることとなっていた誠仁親王様が自害し崩御された。 「突然の死因は疱瘡、はしかの類である」と発表されたが、親王様は正親町帝に代わって帝につかれる筈のまだ三十五歳の壮年。そんな子供の病にとりつかれ急死とは可笑しい。 他害、自害の両説がでているが、これでは皇位継承者が死んだので、もはや秀吉が次に即位するのは決まってしまったようなものである。
 とは現代活字本の『奈良興福寺多門院日記』にも明白に書き残されている。 これは医者上がりの前田玄以の毒殺と思推される。もちろんこれは秀吉の意を汲んでの事である。 そして秀吉は、迷信が蔓延っていた時代ゆえ、子授けの神と言えば当時は蔵王菩薩である。 主だった御祠へ秀吉の世継ぎを与え給えと祈願し、それぞれ新堂を勘請せよと、石田三成の兄の石田木工頭が、吉野山大嶺頂上、高野山山麓、本願寺川上地蔵の畔の三箇所を、天、地、人と三位に見立て、金銀を惜しみなく投じて、荘厳な子授け堂を落成させた。
 しかし、如何なる天魔の仕業か入仏式を前に、それぞれ新築の三蔵王党は焼失した。 石田木工頭は秀吉の怒りを怖れて直ぐ再建に掛かったが、落成すると又も焼亡した。 これには流石に豪気の秀吉もへこたれて、 「誠仁親王の祟りかもしれぬ。仕方がない、十六歳の御子に人皇百七代の御位を返し奉る」と返答した。
そして(わしが帝位について居たら、こんな結構な所に文武百官は入れたのだぞ)と 示威するごとく、新帝以下を四月十四日に招いた。 日本史の大家と謂われる故黒板勝美博士のごときは、このことをもって、秀吉は勤皇だったと誉めているが、この博士はまったくこうした歴史を判っていない。 『皇朝年代記』などでは明白に、 「藤原氏に追われ廃帝となり、山に入り木地師の祖になられた人皇五十七代陽成帝と同じような御境遇なりというので、代百七代様には、後陽成帝の名がおくられた」とある。
 これでも秀吉が勤皇扱いされ、山科言経、冷泉為満、四条隆昌らが秀吉に対する反体制というので、黙殺された儘の今の日本歴史は間違っている。 さてこの後、三卿には即位による恩赦令で位階も回復され、京へ戻ることができた。
 さて、弥々は秀吉の側室となって淀城と大阪城を掛け持ちで往復していたが、正室のねねはもとより、他の側室は一人も懐妊出来ぬのに、彼女だけはやがて妊娠し、鶴松を生んだ。 「まさか焼けた小谷の城は築き直してやれぬが、子を産んでくれた褒美として、信雄から召し上げた 淀城を其の方にくれて取らす」と歓んだ秀吉は弥々を淀の城主にした。
 そこで弥々のことはそれから、「淀殿」とか「淀君」と呼ぶようになった。 そして淀城と大阪城から、文禄・慶長の役の九州名護屋城まで淀は掛け持ちしていたから、鶴松は夭逝したが直ぐに色白で丸々とした後の秀頼が産まれた。
一方大野治長は、何時も淀君に影の如く付き従っていたが、天正十九年十一月の秀吉の三河鷹狩の時には供頭役を勤めたり、文禄三年の伏見城普請のときも出精して働いている。 (これは『続本朝通鑑』『関原軍記大成』『駿府記』に書かれている)  だから秀吉は取り立て一城の主にしようとしたが、飽く迄も淀君の傍に居たい為、淀城の城代で甘んじていた。 そして秀吉の死後は、弟の大野治房や治胤と共に、淀君と秀頼母子の守護に任じている。  しかし他の誹謗を怖れて己も一万石で止め、弟達も千三百石、千二百石の微禄の儘でいた。
大阪落城の最期の時も、大野治長は淀君、秀頼とまるで親子心中の如く爆死している。 だから後には秀頼の種は大野治長だったのではないかという、噂も立ったし、本妻であるねねはこのことを知っていたため、 「秀吉の種ではない治長ごときの血脈に豊家を継がせるわけにはいかぬ」と、 家康に味方して豊臣家を滅亡させたのである。
結果的には山科言経や楠木甚四郎らの働きにより、皇位は守られ、豊臣の血脈も断たれた。
    ねねは秀頼の父親を知っていた
秀吉の歿した翌年正月に、仏教徒の石田三成、増田長盛が淀君を大阪城へ移すと、ねねの憤りはついに爆発した。   初めは自分が本丸に頑張り、淀君は西の丸に入れて、本妻と二号の区別ははっきりつけていた。
 ねねにすれば淀君には秀頼という子供がいる。だからねねは大阪城を出て京へ移った。 そして「打倒二号策」を伏見城の家康と謀った。    翌年九月の関が原合戦には、ねねは最初の夫の浅野長政はじめ、子飼いの頃から面倒を見ていた福島正則、加藤嘉明、加藤清正らの神信心系の大名を動員させ、石田方を破った。  (これを、文官派と武官派の争いと皮相的な見方の読物もあるが、実態は全く違う)    そしてその後、十四年も辛抱して大阪冬の陣が起きるや、又も家康側について、大阪城総司令官の織田有楽を調略さして翌年五月八日、ついに淀君と秀頼を焼き殺してしまい、復讐を遂げた。家康からこの労に報いて一万六千石を貰っている。   そこでそれから非常に満足したらしく悠々とその後は、八十三歳までねねは長寿を保ち、寛永元年九月六日に亡くなったが、その墓所高台院には、江戸期まで古色蒼然とした扁額が寺宝に在ったそうで、その文字に曰く、   「女の一念、それ岩をも貫く」と読めたという。  勿論これは贋作だという説もあり、明治に入ってからは無くなったが、  江戸時代の二鐘亭半山の紀行記には、書き写されて出ている。    なお、秀吉は大陸系の天皇や公卿達を中国に戻すため「チャンコロは国へ帰れ」とばかり 大陸遠征の壮大な計画の下、朝鮮の役を起こした。 朝鮮は通り道であって占領が目的ではなく、あくまで北京周辺の占領だった。
そして己が日本原住民系の天皇になろうとした。 (秀吉は原住民系「サンカ族の出身」家康も同じくサンカ"あおい族"出身と鹿島昇氏の考察に在る)