新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

小泉進次郎に見る「コ」姓の考察

2019-08-12 09:29:55 | 新日本意外史 古代から現代まで

先頃、小泉進次郎と滝川クリステルの結婚が発表された。しかもやることも素早く彼女は妊娠中だというから誠に大慶。 フライデーや文春などの「暴露週刊誌」は何をしていたのか。こんな大物の結婚を見逃すとは大失態で、溜飲が下がる。 チンピラタレントや、芸能人のケツばかり追っているからこのていたらくになる。 彼女はまさに才色兼備、語学も堪能で、美人。進次郎より三歳上の「姉さん女房」。将来総理大臣のファーストレディとしては世界に出ても遜色ない。 進次郎の良き片腕になるのではないか。 だが、口では「お目出度い」等と言っている永田町の議員連中だが、内心では「あの野郎!旨いことやりやがってッ」が本音。だから、 この結婚が嫉妬と権謀術策渦巻く永田町で進次郎にとって吉と出るかは未知数だが、彼の今後の動き方は大変だろう。 父君の小泉純一郎はコケの一念、一点突破政策で「郵政民営化」をして大失政だったが、進次郎は総理になったらどんな政策を示すのか楽しみでもある。

 
さて、コの付く姓には、小泉、小島,近藤、小林,五島、後藤と多い姓である。 コのつく人の特徴はまず、〝努力型〟の一言につきます。しかし、メダカのごとく群れたがるというのではなく、 あまりサラリーマンでは立身せず、いうなれば独立営業的なところがあるのです。だから小泉は親子で派閥も造らず「一匹狼」的存在なのである。   一般には、コの姓をもつ人は、「小売業」というか、町の酒屋さんなどに多くて、それが一代で大きなビルを建てたりしている巷の成功者に多いようです。  といっても、運が良いというようなことではなく、「刻苦勉強型」というか、1円玉でも大切にしてこつこつと金を溜めて、その一代で金持ちになるといった、 〝カンナン汝を玉にする〟といったような銭ゲバ型でないと出世しない厄介なタイプなのです。ですから、コのつく成功者は静岡以西の出身者に多いのも、いわゆるド吝嗇精神を平然と振舞えるからです。  付き合いずらいというか、交際してゆく上にはうんざりさせられる向きも多いのですが、会社の経理など委せたら絶対に安心できるタイプですし、官公吏ならば能吏といえましょう。  それゆえ、この姓の人が係りの税務署員だったりしたら、夜逃げするしかありません。融通やお目こぼしは絶対にないからです。  また、この姓の相手から金を借りたら寝具まで剥がされて持ってゆかれてしまいます。
 きわめて金銭に厳しいのが、なんといってもその特徴といえます。 〝やり手〟型人間として、例えば雪印乳業の児玉由一社長が、珍しいセのつく瀬尾俊三会長の下で、田尾正副社長、山本庸一専務といった完璧な姓列の布陣をひいているのも、これは会社の位置が、不動揺るぎないものとなっている基礎ともいえます。  さて、現在の宝塚の生みの親ともいうべき阪急電鉄の故小林一三は、どんな場合でも決して自分からは財布の口をあけず、タクシーに乗っても決して先には入らず後から入ったということです。 つまり止まった時にさっさと出てしまえば、料金の支払いにはノータッチでいられるからでこれは晩年まで押し通したそうです。
 まあコのつく事業人は、これくらい徹底しないことには大成しないという例ですが、そのくせ儲かるとなると借金を質に入れてもヤマコをはるようなところがあります。 現在資産二千億といわれる近藤紡績の近藤信男にしても、やはり西の名古屋人ですが、六十九歳で数人の彼女をもち、中山製鋼の仕手戦で四十億円の欠損をしても、びくともしていない大物ですが、 それがかつて某という名奴が気に入って、二号さんにするしないの話しがあった時、彼はセックスが終わった際に、
 「一枚ずつ広げて用いれば三枚か四枚で済むものをあの女はかためて掴んで拭く。あれでは何回かに一帖はいるだろう」と中京花柳界ではNO1の麗名のあった浪越連の美人を、 さっさと惜しげもなくやめにしてしまったということです。あの時の事後処理の紙にまで目を配る男は全く大したものである。 やはりコのつく人は目のつけ所が違うようです。 東急電鉄もゴのつく五島昇の下で、副社長がタの田中勇、専務がカの唐沢勲、常務がヤの山田秀介といったアとオ姓列だけの陣容ゆえうまく発展しているのでしょう。
   コ姓は人嫌いなむっつりタイプ
 男性の場合は、性格的に見て、〝人嫌いな面〟をもっていて、〝むっつり型〟が多い。これは、酒でも呑ませれば発散して騒ぎもしますが、淋しがり屋ではないのですが、 あまり人付き合いはよくないということになります。ですから、それが女性の母性本能をくすぐるのか、年上の女性と一緒になってしまうような結果にもなるのです。   仕事に関しては〝刻苦勉励型〟の男性ですが、もし、女性が、夫を飼育して出世させようと考えているのでしたら、これくらい立身させ甲斐のある男性はいないといえます。
  しかし、自分の方も身なりにかまわず、共に働かないことには駄目だといえます。   さて、それではコのつく女性を妻にすれば、よく働いてくれて、おおいに楽できるかといえば、これはあべこべなのです。
  あまりこの姓のつく女性は働き者ではありません。怠け者です。   そして、どうも好色なタイプが多いようです。というと、それならば〝恋愛対象〟にと、コのつく女性を探そうとする男性がいるかもしれませんが、 一度、その女性が本気になったりしてしまうと、簡単に「さようなら」というわけにはまずいかないということを心得ておくことです。   したがって、コのつく女性を恋人にもっている男性は、真面目に付き合って結婚し、その後、浮気をさせないようにコントロールする以外はないようだといえましょう。 因みに私事になるが私の最初の妻は「小林」姓だった。私が長期に家を空けると必ず浮気をしていたもので、これが原因で別れたのだが、 私への愛情が無くなったというではなく、淋しさとセックスへの渇望だった。だから勿論相手の男を愛したわけでもない。 夫は夫として愛し、浮気は閨の寂しさを紛らすスポーツのような感覚で、騎馬民族の女の特徴なのである。
    騎馬民族系(崇神王朝・蘇民系)─オ姓列
 エビス、ダイコク、ビシャモンといった七福神は、今では単なる縁起物扱いされていますが、かつては、それらは蘇我氏人の奉ずる多神教の神々だったのです。  徳川家康が天下をとる際、徳川だけではオコソトノの姓列しか統合できないので、アカサタナハマのマのつく松平姓をも、二倍でゆこうと併称してからというもの、 ア姓とオ姓列は公然と混合させられてしまい、今ではごっちゃになってしまっているのです。
 しかし厳密にいえば、騎馬民族系は頭蓋骨が小さいのが特徴ですが、この蘇民将来系や白山神信仰、土俗八幡信心の人達は、大頭だったりフクロクジュのごとき長頭なのです。  彼らは、戦国時代には勇ましく戦ったものの、その後、武士から脱落した者が商人になっていったので、「番頭」「手代」といった武者言葉をそのまま商家でも用いています。
 が、なにしろ商人は殆どといってよいくらい出自が蘇民将来系ゆえ、大阪あたりでは、現在でも「十日えびす」とか「えびす講」といった売出しをやりますが、 堺や昔の佐渡などはかつてはエビス島と呼ばれたものでした。そしてエケセテネのエ姓列が、このオコソトノのオ姓列に入ってしまっているのは吸収合併されてしまったからの所為なのです。
 そして、その結果、オ列の女性上位の感化をうけ、相当に女人から苛め抜かれてきましたので、今でもその子孫は、恐妻家とか愛妻家と呼ばれる人には、 このオコソトノの姓を上へつけている人が多いようであります。しかし、復讐のために反動的になって、女性の敵ともなります。例えば、オのつく大久保清とか、コのつく 小平義雄といった例です。
 そしてアカサタナの第一横列とオコソトノの第五横列が、ともすると過激に走るのは、「連合赤軍事件」や、 アラブゲリラの関係者の名前を羅列しても一目瞭然です。これをみましても、この方則には感心させられましょう。
  <連合赤軍関係者一覧>  ア青砥幹夫  カ金子みちよ、加藤能敬、加藤順子、 サ坂口弘、酒井隆樹 タ ナ中村愛子、永田洋子  ハ坂東国男 マ前沢虎義 ヤ山本順一、山崎順、山田孝。  オ大槻節子、尾崎充男、太田直己 コ小島和子、近藤有司 ソ ト遠山美枝子 ノ野津和寿恵 ホ  モ森恒夫、持原好子 ヨ吉野雅邦。
  <アラブゲリラ事件>  ヤ安田安之 オ岡本公三、奥平剛司 ヒ(ホ)檜森孝雄・・・・・といったあんばいです。
 
戦国期になれば「コ」の付く戦国武者は多く出現してくる。<戦国人名辞典>にも、 秀吉の家臣や馬回りに「小出長政」「小出三尹」「小出吉政」「小坂助六」「小崎新四郎」「小島与衛門」「小寺休夢」「小西和泉守」らが見える。 「小介川親茂」(出羽由利十二党) 「小林家鷹」(高匠で信長に仕える) 「小堀政一」(秀吉から家康に仕え、元和九年伏見奉行)「小宮山内膳」(武田勝頼の臣)  有名な、小西行長、小早川秀秋、講談でお馴染みの後藤基次(又兵衛)、鉄砲同心五十人で有名な駒木根利政などこの他にも数十人が見受けられる。
さて、次回は進次郎の奥さんになった滝川クリステルの「タ」姓についての考察をしてみようと思います。
 
 

 


「古建築秘話」に見る日本史の裏側 法隆寺を造ったのは誰なのか 出雲王朝高天原論考

2019-08-10 10:19:18 | 新日本意外史 古代から現代まで
「古建築秘話」に見る日本史の裏側 法隆寺を造ったのは誰なのか
寺大工と宮大工の違い お宮と神社の違い
 出雲王朝高天原論考
 
 
 
 昭和三十七年に鳳書房から刊行された「古建築秘話」は日本書紀に合せているものの、まことに日本通史を裏返している点では、貴重な、希有な建築学上からの伊東平左衛門の後世に残したい研究書であるが、 刊行書房は廃絶になっている。遺族は著作権法を楯にとって覆刻を許可しないそうである。こうなると研究者には、実に残念で堪えられないことである。
 伊東家は慶長年間から三百余年続いた宮大工で、伊東氏は大正十一年、十一代目を継いだ。全国の寺社の設計、建築二百四十件を手がけた。代表作に出雲大社の拝殿下谷神社(東京)などがある。 二十八年にはニューヨーク近代美術館庭内に展示する日本の古典住宅の建築を担当。四十五年勲五等瑞宝章。長男要太郎氏は中部工大教授で、文化財の保存技術の研究者、 二男延男氏は文化庁建造物課長という立派な御一家のせいからであろう。
 
 さて、伊東平左衛門氏他界の節の中部日本新聞の当時の死亡記事をみれば、頑なに遺族が、研究者には渇望の幻の本が陽の目をみないのも、こうした立場の遺族をもっていればやむを得ない。 せっかく故伊東老は心血を注ぎ一冊でも読んでもらいたいと出版したが、あわれ黙殺されたままで、再版もできなくては故人は死んでも浮かばれまい。こうなれば、著作権法は有難迷惑である。  昭和三十七年といえば四六版並製の本の定価は百円から百二十円。上製でも二百円であった。
 七百円の定価は三千部ぐらいでも高くて売れず鳳書房は倒産したが、今のように神田の書店が第二流通機構を独占支配していなくて、特価書籍とか特別定価といったゾッキの本屋のあった頃ゆえ、 三千部のうちで二百部は知人に贈り取次経由で書店で売れたのが刊行部数の一割。残りの二千五百部が定価の一割でゾッキ本で卸され、倍の売値でも消化できず一冊二十銭でつぶされ、 この貴重な本は残されたのは四、五百部で、後はトイレットペーパーの製紙原料にされてしまったらしい。良貨は悪貨を駆逐するというが、こうした良書は復刻されない限りは、まったく消滅してゆくのである。 さて何故こうなったかの理由を改めて尊敬しつつ、ここで書く。
 
 
伊勢皇大神宮は昔から「宮」がつくから誰も何も考えず、明治神宮ができてから「宮」は、初めて畏れ多い存在と一変した。しかし元来が、社と宮とはまったく違うのである。 かしこくも御所におかせられても皇位継承の御方には「宮号」はおつけにならない。 もっとも拝む方にしても「社」はカラ神つまり韓国系のカラ神さまであって「宮」とつくのは、反韓国系つまり海洋渡来の黒潮による日本原住民のものとされ、それゆえ、一般の原住民の末孫は、 それゆえ「お宮詣り」とはいっても、決して「お社詣り」とは今でも言わないのである。 明治大帝の神宮ができてから、徳川五代将軍綱吉の「神仏混合令」の法制化みたいに今では、かつての区別がもはや、すっかり混同されてしまって「宮大工」が、さも「寺大工」 よりもはるか上位のごとくにも誤解を与えているけれど、これは違うのである。
山に自生の樹木を切り、炭焼き羽柴木売り、そのまま植える造園業。その樹木や草からの昔の染色業は、日本原住民の限定職として幕末まではっきりと区別されていたが、宮大工は日本原住民系である。 織田信長だけは解放のために、岡部の又左とよぶ宮大工に、バテレンの設計図で安土城を造営させて築城をさせはしたものの、信長の死後になると、またもとの侭の被差別の対象にされてしまったのである。 一説では岡部の又左は、もとの徒弟だった加藤清正に引き取られ、肥後にゆき晩年は死ぬまで土木工事や建築の監督をしたとも伝わる。
 
 
しかし寺大工というのは、当初は日本海を渡ってきた高麗人の高麗尺によって建築や後にいう「さし物」つまり今のハヤミズのような家具や戸襖を作った舶来職人で、宮大工の上だったようである。 後に江戸時代になって、貞享二十年代以降になって、 五街道目付が赤の道(堂)の者のハイウェイパトロールになった。同宗の赤の「八つ」の者は伝達をつけてもらい都市へ流入した際に、金をだして町人別を購入したり、永代供養料を納めて寺人別に入った者の他は、 当時はもはや人べらしの行革で、人別には入れなかったのは、無宿者として、公儀は佃島と千葉へ強制収容し、今でいえば職業指導をした。が原住民は限定職なのに公儀の方針として指物師やふつうの大工の徒弟の訓練。つまり仏を信じさせ舶来業につくように寄せ場でしたので、江戸後期にな ると、まったく区別が混同してしまった憾みがある。
 
 
しかし、地方では宮大工というのは獄門台や張付柱といった被差別課役だけを強制的に押しつけられていたのである。つまり「宮」は大工でも地方では仏教側の被差別語だったのは紛れもない事実である。 それが明治神宮の御名から、大正時代より誤られて由緒正しいもののごとく誤伝されだしているのを、その家柄の者はよく知っているので、宮大工とよばれるのを、日本原住民史が解明されていなかったので誤って、 みな誰もが極端に忌み嫌ったものらしい。  つまり時代の変遷で北条政子や織田信長の時代は、解放で宮大工がすべての工匠の頭梁で輸入宗教の仏教の寺院などは蔑んで建立しなかったが、五代将軍の神仏混合令の発布からは、 社有地や社領のある社や宮も坊主の被占領物となり、明治になっても大阪の四天王寺などは凱旋門のように鳥居を、わざわざ持ってきて建てたのを残していた。 廃仏毀釈で荒らされ寺の像が毀されるのを防ぐ為もあったという。
 伊東平左衛門の「古建築秘話」では、法隆寺の各寸法をカネ尺の9寸8分に1.2を掛けた曲尺1尺1寸7分6厘の高麗尺で割ってゆくとぴったり割りきれるゆえ、この建物は、 「大化の改新」以降の諸建築物は唐尺で作られているゆえ、騎馬民族の高麗尺が使われたのは、日本海をば渡ってきた日本原住民の制作したものであって、当時は奈良が都ではなかったから、 日本海の出雲に建てられていたものを、攻め滅ぼし戦利品とし権力で移したのだと主張する。
 
 
裏日本を流れる寒流は、沿海州や高麗の羅津から日本海を渡って、新潟や能登半島に突き当り、そこで二つに分かれて右へ行けば青森、左へ向かえば出雲だから、あながち仮説とはいえまい。 だから原文をその侭に紹介すれば、 「奈良の法隆寺が昔ながらそのままで現代まで残ってきたものだと思っている人が多いようである。一万円紙幣には、聖徳太子と、夢殿の絵が印刷されているので、あたかも聖徳太子が、 現今見られるような夢殿の内に起居されたようにも想像されているようである。かように簡単に考えて、それが間違いでないとして、済ましてしまえば甚だ安易なことであるが、 しかし、それは真実でないことを銘記しなければならない。
法隆寺については、今を去る七十数年の前から、既に疑問が起きていて、次に再建説と非再建説の両論に分かれ、以来その論争が、激しくしのぎを削り合ってきている。 再建論というのは、天智天皇九年に全焼し、その後において再建されたとして、法隆寺建築のみならず、同寺所蔵の芸術品までも、推古天皇の時の作品とはいわれない、とまで発展させてゆく。
 
 非再建論は、焼けないものが残っているのだ。法隆寺は焼けたことはあったとしても、それは若草伽藍と称せられる堂と塔とであったのであろう。 現今残っている堂塔は、創建そのままの法隆寺の伽藍の一部であって、決して焼けたことのないものである。正に推古天皇の時の作品だ」と主張する。
 ここに一言したいことは、非再建論の内に、建築物の尺度を測り、それで年代の限界を調べようと試みたことがあった。これは建築史内に、数理による科学的要素を加えようとした画期的な方法であった。 即ち、高麗尺を算定し、法隆寺建築のみならず、各古建築の各部寸法を測り、高麗尺を当てはめ、各長さに完数を求めて、建築当初の設計を推測することである。 そこで高麗尺を、曲尺の九寸八分に、1.2を掛けた曲尺の一尺一寸七分六厘と定めて、法隆寺建築の各寸法を測定して、これを高麗尺の尺度で割ることによって完数を求め、これにより、 おおよその一尺一寸七分六厘を尺度とする物差を用いて作ったものと認め、そして高麗尺は騎馬民族時代に用いられ、大化改新以後は唐制にならい、唐の大尺を採用し常用したのだから、 高麗尺を用いた法隆寺建築は、推古朝の頃に日本海に面し建造されたものに相違ないと結論した。これは非再建論に決定的優位を与えたようにみえたが、こぞって実際は反対された。
反対論の大要を述べれば、法隆寺等の古建築が高麗尺により設計されたと信ずべきとしても、大化を以て、高麗尺と唐大尺との使用の限界となるとは、それは単なる反仮説である。 故に高麗尺で作られたとしても、大化以前のものとする根拠とはならないというのだそうである。  この尺度論につき、いささか私見を述べれば、寺の建築物は、物差を用いて作らなければ建てられないと称してもよいのであるから、古建築に尺度を当てはめてみることは良策といわなければならない。 しかし近世建築ならば可能性も多いが、法隆寺建築のような工作法上頗る粗な建造物に、尺度を求めることは困難である。解体したとき、引き墨を検討すれば、比較的正確さを期することができるが、 建っているその侭のものから、建物の寸尺を測って、正確な寸法を求めることは非常にむつかしい。
 
 
 また、高麗尺は、文献によれば、大宝令前の尺であっても、推古朝に用いられたものだということは断言できない。ただ想像により、後魏の尺が用いられそうなものだと思うだけである。 高麗尺は東後魏尺(東魏尺)から出たものだと称せられる。高麗は東後魏に近かったからでもある。東魏尺は後魏大和尺と同じであることは、文献通考によって解る。 そして後魏尺は、曲尺の八寸程ということも判る。故に東魏尺を小尺とした大尺の長さは、約曲尺の九寸六分とみてよいのである。そして令集解に記された、慶雲三年九月十日格により、 高麗尺は唐大尺より僅かに短いことが推理される。 唐大尺はおよそ九寸八分位と思われるので、高麗尺は曲尺の九寸八分よりも、少し短い尺度であることが判っている。故に曲尺の九寸六分程でよいのであるから、ここさえ理解すれば一目瞭然。 東魏尺につき数字的説明以下に左に記すこととする。
 
 
『文献通考』に記された東魏尺は、実比晋前尺一尺五分八毫(もう)である。文献通考の書物の中でも、誤植のものがあり、それには実比晋前尺一尺五寸八毫としている。 この誤字の文献を盲信し、その上、晋前尺を八寸と仮定して次の如く計算した。0.8尺×1.5008=1.20064尺 これを以て、高麗尺を曲尺の一尺二寸だと推定の誤説が信じられている。だが、これは研究不足というものである。特に文献は選択に心掛けねばならないもので、徒らに盲信することは大禁物である。 東魏尺は実比晋尺前尺一尺五分八毫であり、そして晋前尺は、曲尺七寸六分と推定をなしているから、東魏尺は、0.76尺×1.0508尺=0.798608尺と、江戸期の狩谷掖斎の計算によってみても、 東魏尺は約曲尺の八寸程であるのが正しい」と、専門的な立場から、つまり1メートルが曲尺の三尺三寸から推して法隆寺なる建物は、仏像をおいたから奈良へ移送され寺に化けたが、 もともとは出雲で建てられた王宮で、制圧され勝利品として奈良へ解体して運ばれてきて、韓国人か中国人の工匠の指示で、改めて建て直されたものとみられる。
 
 
つまり法隆寺は出雲より運ばれてきたものであることが、はっきりする。 そして木村鷹太郎は、厩戸で生まれたといわれる聖徳太子の存在は、イエスがやはり厩で生まれたという降誕とあまり相似しているから、これは日本の聖徳太子伝説はキリスト教を巧く利用したものではないかと、 俗にイエスさまと崇められるのは吾が聖徳太子ではあるまいかと、「海洋渡来日本史」には書いてあるが、伊東平左衛門は、いわゆる日本書紀にでてくる聖徳太子は、 寺の仏教信奉者によって創作された架立の存在であって、本当は建築寸法から割り出しても出雲で法陵宮にあらせられた聖徳王を殺してから、その名をとったというのである。 科学的な理づめの尺貫法で、いまの法隆寺や夢殿建築のものは天孫系と称するトウ製ではなく、寒流で羅津から日本にはいてきて、滅ぼされた日本原住系らの出雲での建築物と立証されてしまうと、 壱万円札の聖徳太子の有難味も虚像となってしまい、むなしくなってしまう。
 
 

「韓民族こそ歴史の加害者である」

2019-08-07 17:44:24 | 新日本意外史 古代から現代まで
「韓民族こそ歴史の加害者である」
 
 
この本はテレビ解説でお馴染み、元中国人で今は日本人となった「石平」氏、渾身の一冊である。 以下に氏が参考にした文献の画像をUPしておいた。私も早速アマゾンより購入し読破した。 これらの書物の特徴は、中国や韓国人著者でも、決して自国贔屓に書かれていないことである。 如何に事実に基づいて公平に帰納的に書かれているかという事が大切だから、その意味でも納得できるし、これらを土台とした 石平氏の分析に全く間違いがないことが判明した。 以下に石平氏の前書きからの引用。
 
朝鮮問題の専門家でもない私が、韓民族の歴史をテーマとする本書を書こうと思い立ったのは、今から三年前のある出来事がきっかけであた。 二千十三年三月一日、ソウルで催された「三・一独立運動」の記念式典で、韓国の朴槿恵大統領は、日韓間の「歴史問題」に言及して、 「日本と韓国の加害者と被害者という歴史的立場は、千年の歴史が流れても変わる事はない」という発言を行った。 (中略) 彼女の言いたいことは、これから千年が経っても、韓民族は「被害者」の立場から、日本民族に謝罪を求めたり説教を垂れたりする権利を持ってしかるべき、ということだろう。しかしそれでは日本民族は子孫代々、何時まで経っても、半島の人々に対して平身低頭して謝り続けなければならない。
人類の長い歴史の中で、多くの民族同士が互いに傷付けあったり、争ったりすねような「負の歴史」はいくらでもある。 しかし世界史を通読してみても、一つの国あるいは民族が、隣国に対して、それほど過酷で理不尽な要求を強いている前例はいまだ見たこともない。 どうやら韓民族にとって、過去の歴史は未来永劫、日本を苛め叩くための恰好の材料となっているようである。(以下略)
 
さて、地政学的に、半島国家というものは、大国に囲まれ、困難な選択を強いられる側面は否定できない事実である。 しかしこの現実を差し引いても、韓民族はあまりにも特殊である。この事を念頭において、本書を読むべきである。 自国の政争や内紛を解決するため、韓民族は古くは「三国統一戦争」でも唐の軍隊を招きいれている。
時代は下がって「元寇」の原因さえ高麗王朝は、率先して蒙古軍を日本に引き入れていた事実があった。 近代になって「日清、日露戦争」の遠因も朝鮮であった。 さらに、南鮮の李承晩と北鮮の金日成らが、朝鮮戦争を起こし、拡大し、中国、米国を巻き込んだ張本人だったと判れば、 半島国家が起こすトラブルに巻き込まれないように、半島からの災いを遠ざけるため、それこそ「歴史に学んで」日本としては真剣に考えるための、貴重な書物である。
 

姓の法則から見える日本史の深奥 オ列の女は良妻賢母の見本 海外からの渡航者にも人気のあったオ列 オ姓の代表「織田信長」の考察

2019-08-06 09:57:47 | 新日本意外史 古代から現代まで

姓の法則から見える日本史の深奥

オ列の女は良妻賢母の見本

海外からの渡航者にも人気のあったオ列

オ姓の代表「織田信長」の考察

 オ姓は昔は神職に多かったという。  これは猿女族とよばれた原住系が、小野の野主の率いる小野族の男をことごとくたらしこんで、 「小野姓」を名のるようになり、諸国を、「語りべ」と称して流して歩くに際し、自分のことを、「おの」と第一人称でよぶようになり、例えば、 「おのが姿を影とみて」とか、自分の事を「おのれ」と自称したり、角兵衛獅子などやりだし、この流れが、 「歩き巫女」となって、やがて神社に居付いて、これが神職になって落ち着いてしまったものだろう。  しかし神を信ずる部族が、かつては多かったから、    ゛ 「オ」のつく部族は崇拝されてもいたらしく<続日本紀>にも書かれている。  もちろん語りべの女たちによって弘まった、「小野の小町」「小野の道風」といった伝説上の有名人の他に、 「小野派一刀流」の本当の元祖とされている女流の刀豪、小野於通も、絶世の美女にされ、信長、秀吉、家康の三人に愛されたと伝わっているが、オのつく姓が尊ばれた証拠としては、 寛永元年の、<老翁物語>にも、  「朝鮮百済王聖明第三子琳聖が渡海し周防に土着、多々良氏を名のる。その九世盛為に到り、周防介となり、更に大内氏をその姓に選びて称す」  とでているこの大内義隆が殺され、跡目の大内義長の時、毛利元就が山口城を占領すると、「『日本国昔年欽奉大明国勅賜』と在銘の『臣日本国王』の十センチ角の宝印を発見す」とあるのが<毛利家文書>には見られる。  つまり海外から渡航してきた者まで、このオコソ系を狙ったわけで、それを名のったのは、  「児島高徳」という、桜の幹に十字の詩、「天勾践をむなしゅうするなかれ」で有名な勤王の士も、<赤松再興記>によれば、

「百済人、備前に上陸し児島を名のり、今や児島半島とよばれる。児島三郎高徳はこの流れにて、のち、三宅氏、宇喜多氏となる」  となっていて、故渡辺世祐も、「大永四年に前南禅寺の九峰宗成のしたためた字喜多能家像の賛にも、これははっきりしているから朝鮮人であったのは動かしがたい事実であろう」  と、イ姓のミ、ウ姓のウとなるべき百済人も、渡航してきた際は、最初にオコソトノホモヲの系列をとったことを説明している。  また大化の改新で誅されてしまった蘇我入鹿が、やはりそがの、ソ姓を名のり、彼は中大兄皇子や藤原鎌足に殺されるまでは、おのが住いを、「宮」と称ばせ、自分の子らを、 王子と称ばせていたくらいの権勢だったと伝わる。

 そして、また中世は、三好基長の子で有名な、「三好長慶」の弟が四国讃岐の十河城主となって、「十河一存」を名のって、雑賀の根来衆や河内の畠山を討って勢威を振い、 また対馬の府中城にあって、朝鮮と日本の二股をかけて保身を巧くした「宗義調」などが、足利末期までは、伝統的に強かったらしいが、織田信長が足利義昭を追って天下を統一しかけると、 すっかり情勢が変わってしまったらしい。

 「一番槍を生涯に四度あげた」と評判をとった織田信秀の家臣で小豆坂七本槍の岡田助左衛門。  熱田大宮司で、信長の智謀役だった岡本定季らが、森三左衛門(この遺児が蘭丸、力丸、坊丸)とともに新しく募った兵で、比叡山や高野山を焼討ちしてしまってから、 この、「オコソトノホモ」の系列は、反仏的原住民、つまり神徒系列になってしまったらしく、岡田助左衛門は、 「星が畸」に城を築き、信長の遺児織田信雄を守って、秀吉に滅されるまでは頑張り、岡本定季も神徒衆を率いて戦ったが、本能寺の変の後は、その次男の岡本良勝が織田信孝の家老となって、 秀吉のため調略されたため、それを恥じて父定季は神前で自决している。

 ワンマンから自殺者まで多士済々のオ列姓

「誠実」というのが、このオコソトノホモヨの姓のつく人の特徴で、 「義理固さ」の一語につきよう。これは浅野内匠頭に義理だてした家臣の姓別が、大石内蔵助以下十六名もオのつくのがいたのを、前に説明したが、この伝統は今も続いている。 だから他社からスカウトしてよい人材は、こうした志操堅固なこの系列であるし、「結婚」ということを考えるなら、女性の立場ではこうした姓列の男性に限るようである。というと善良すぎるようにも思えるが、それは間違いで、昭和に活躍した小田実とか小中陽太郎のような、『反戦学生のすすめ』の本をだす反骨的な快男児もいるし、新劇界に叛旗をひるがえした「小沢栄太郎」とか、ゾルゲ事件で有名な、「尾崎秀実」のような人もいる。「また戦争になったら若いひとをやる代り、自分がゆく」と書いきる大岡昇平もいた。『万延元年のフットボール』や『厳粛なる綱渡り』を書いた大江健三郎。そうかと思うと、大森実、大宅壮一、小汀利得といったように世の中をリードしたがる人間も居る。この流れがオコソトノホモの特徴で、映画界でも昭和では、 松竹は大谷、東映は大川、日活は堀、東宝は森、大蔵映画は大蔵貢、独立映画は大島渚といったようなこの系列の人がやるとワンマン事業となる。

 さて仕事が順調にゆけばそれはそれで良いのだろうが、もしも不調のときはこの系列の人は、くさり方が他よりも烈しい。 非常に囗惜しがりやのむきが多く、腹をたてて抗議の自殺をする人が多いのは、『自殺の系譜』という本に、名の知られた人の自決の統計がでているが、その二割をしめている。 これもノホホンとしたり無為無策には世をおくれぬ真面目さの現われであろう。  だから用心のため生命保険をかけさせるのも一手だが、日本の保険は、自殺は契約二年後でないと支払ってくれないから、早くしないといけない。 また、この系列の女性は非常に思いやりがあって慎しみ深いが、しんが強く女流画家の小倉遊亀などもいるが、結婚相手として選ぶには無難といえる。 しかし、「神がかり」というのもおおげさだが、ヒステリー的傾向は内蔵している。といっても、「ワアワア」やるようなはしたない型ではなく、 慎しみ深いヒステリー内向型ゆえ、これが陰にこもると不意に爆発する。  「このこおそろしい」という江戸時代の、「女人へのいましめのこと」の話は後述するが、扱い方というかリードを巧くしないと大変なことになるらしい。  つまり、よく男が女を怖いというのは、なにも食いつかれたり引っ掻かれて、怪我をするからというのではなく、男としてはまったく意想外な、 「なにをしでかされるかも判らん」という不安をさすものであろう。

 が、それは原因あっての結果であってすべて夫の仕打ち次第ゆえ、まあ身もちのよい夫だったら、なんの心配もないといえる。 一般的には、良妻賢母の標本とおもい、このオコソトノの姓をつけている女性を、一生の伴侶にむかえることこそ望ましい。平凡だが無難である。

因みに、世界的に認められ「賢人」と言われる大前研一氏は、この国を良くしようと様々な提言をしている。 平成維新の会も立ち上げたし、東京都知事にも立候補したが落選。頭脳明晰弁舌巧みで、世界的分析能力は右に出るものがない。 だが、あまりにも自己主張が全面に出すぎ、多くの人間を引き付けられないのだ。日本にとって誠に惜しい人材である。 青島幸男のような素っ頓狂な知事を選んだ東京都民も馬鹿だが、当時大前氏の出した東京都改革がなされていれば、オリンピックのような無駄遣いイベントは無かったし、 その代わり、東京は世界の金融都市になり、東洋のハブとして発展し、その波及効果として地方も大いに発展していただろう。

「オ」の付く代表織田信長の考察

歴史上有名なオの付く「織田信長」について、再掲載しておきます。  信長の出自で、諸説は色々在るが故菊池山哉の研究に「アマの国は淡海の国か」とある。  天の王朝のことで、この王朝の民は尾張むらじの系図の中に隠しこまれていて、判然としないが、 判りやすく言えば近江八田別所に隔離されていた一族が、 越前、加賀の仏教勢力である一向宗の勢力から逃れて尾張へ行き、織田家に仕え勝幡城の城番となったのである。  そして織田の姓を貰った旧姓八田信秀の子が織田信長なのである。  そして信長が美濃を入手するや伊勢を占領し、やがて近江に入り琵琶湖畔の弁天崖に七層の安土城を建てて君臨したのも、 彼だけの武勇知略ではない。 <天下布武>では尾張、伊勢に多い「八」の民が、天の王朝復活のために彼に協力し、世直しをして欲しさに米穀の在る者は出し、男は皆武器をとって、信長に従って進撃したものらしい。 「・・・又も負けたか三師団」といった言葉が戦時中あった。  これは東北健児や九州の師団と比べ、京都と名古屋の兵は弱いのが有名で評判にされたのである。

「名古屋商法」といわれる程、銭儲けにはたけているが、戦場で勇ましい話しはあまり伝わっていない。  つまり接近戦の苦手な尾張兵のため、信長は鉄砲が喉から手が出る程欲しかったのである。  だから、大国ロシアと戦うには奇襲戦法しかないと、明治軍部が桶狭間合戦、をおおいに宣伝したが、この時ついていったのは山口飛騨守、佐脇籐八、らの四人の近習者だけにすぎない。     大勝利の筈の桶狭間合戦なのだから、その時の近習達を重用するのが普通だが、信長は棄て殺しにしようとしたため、 彼らは家康の許へ身を寄せ匿って貰っている。

  (こうした彼らの謎の行動に歴史家は何故目を向けないのだろう)   という事は、三万五千からの大軍を率いて上洛せねばならぬ立場の今川義元が なにも近くの尾張で戦うならば、前もって掃討していた筈であるし、それが戦国の常識である。  だから実際は信長は既にもう降参していて、尾張領内は無事通過の保証がされていたと見るのが常識である。   なのに俄かの大雨で、信長が畏怖していた今川本陣の火縄銃が濡れ、全く唯の棒っきれになっている田楽狭間の光景を見て、 信長は心変わりして、 ぞろぞろついてきた野次馬や一旗組を指揮して本陣目がけ逆襲したのが真相らしい。 これは戦などというものではなく”裏切り行為”である。   だから家康は裏切りの生き証人として万一の際に備えて彼ら信長の近習を匿っていた。  だからその為、高天神城が攻められた時は信長は援軍を一兵も送っていない。  だが三方が原合戦の時は、家康は彼ら生き証人を最前線に出して棄て殺しにしてから、信長に救援を乞うたのである。互いに虚々実々の駆け引きである。

さて分捕った五百挺の銃を持ち帰り、秀吉の妻、ねねの兄の木下雅楽助を鉄砲奉行にして、 永禄三年から、毎年夏になると美濃へ日帰り進攻をくり返した。  が、新兵器を持たせても尾張兵は弱い。  毎年連戦連敗。みかねた信長の妻の奇蝶が、まむしの道三と呼ばれた斉藤道三の娘ゆえ、買収戦術に切り替え、美濃三人衆の安東伊賀、稲葉一鉄らを抱き込んでようやく永禄七年に美濃、 井之口城を占領した。  岐阜城と名を改めて大増築工事中の永禄十年に、斉藤龍興が、服部右之亮らを先手として一向宗の力を借り舟をかり集めて長良川から攻めこんできたのを、本城は改築中ゆえ今の洲股大橋の処の中州に砦を作って、  木下籐吉郎が防いだだけの話しである。

こんな事も歴史屋共は判らなく、講談の儘なのが現状である。  明治に入って学士会を押さえる華族会会長の徳川公爵が青山堂から「松平記」を刊行して、  家康はの出身だった、と暴露した「史疑徳川家康」を書いた村岡素一郎の刊行本に対抗させると、東大史学会は徳川家の「松平記」の方を創作と知りつつ確定史料と認定した。   有体は史学会の歴史屋共が、徳川慶喜に金を貰って嘘と知りつつ買収されたのである。  その中に斉藤龍興の美濃合戦が狂歌として入っているので、岐阜城陥落は永禄十年が学説とされている。     余談になるが、那古野と呼ばれていた時代から奴隷扱いされていたので、尾張兵は弱かったと想われる。  それが調略とはいえ、伊勢を押さえ近江まで進出出来たのも天の王朝復活のため、 八の民が進んで協力したからである。

播州赤穂の森城主が今で言えば体育のため、木刀の指南を召し抱えたというのが、 今で言う治安維持法の叛乱予備罪容疑とされ、城地を没収され妻の里方へ身柄お預けになった。 その後へ浅野内匠頭の祖父が上州から転封されたきた。  この時に「塩尻」と呼ばれる製塩奴隷として那古野者が、強制移住させられたことがある。  関西へ行けば扱いで苛められるからと、連行中に脱そうを企てた連中は漁食人種なのに 山国の信州の囲い地へ送り込まれてしまった。   此処が今では「塩尻峠」の地名で残っていてトラック便の中継地点になっている。  つまり天の王朝の民は名古屋を中心に伊勢の荒神山から三重の桑名に近い矢田河原まて住まわされていたので、  愛知県海部字市江町が、かっての邪馬台国ではなかったかとの異説をたてる者もあるくらいである。   現代でも名古屋市が市章に○に八を入れているのも、かって弱かった尾張兵がこの紙旗で進軍していたせいである。  彼ら旧平氏の祇を信仰する者には、同堂、つまり同じ宗教の者とは戦わぬとされる厳しい戒律があった。   神社とか神宮はネギというのを、彼らの拝み堂で、博士、とか小太夫と呼ぶ。元締めは太夫とかと呼ぶ。  一方騎馬民族では、の元締めは弾正とか弾左エ門という。

 

   だから信長は鉄砲隊を全面に押したてて、尾張から美濃、伊勢、近江と進軍して、三河以東の騎馬民族の末裔たちが頑張る土地は家康に委せたのも、それなりの訳があったのである。  どうも信長は初めの内は、日本全土制覇といった野望は無く、同宗の圧迫されていた地域解放だけを目指していたようである。しかし本能寺で爆死する数年前辺りからは、マカオの火薬を一手に入手し、「八」の民の大同団結を図り、 天の朝の復活を目指して日本統一の計画があったふしも窺える。

  というのは、秀吉の代になると「何処方面を討伐せよ」と、武将達に軍資金を渡していたが、  信長はもともとアマの民の物を取り戻すだけだからというのか、金は出してやっていない。何しろ永禄六年に商売はハチの者に限ると布令を出している。  つまり物の売買は「八」と呼ばれる同族に限ったで、清洲を税金無しの楽市にしたり、当時は課税のため設置されていた関所の徹廃もしてのけた。  「八」はヤとも発音するゆえ、これが尾張屋、近江屋、松阪屋といったヤ号となって現在も残っている。   また、蜂屋頼隆らを使わし、勝手に商売をしている地区からヤ銭を徴収させ、それを軍費に充当させていたのである。  まあ、やらずぶったくりの合理的戦法である。  永禄十一年信長は堺衆に対して「矢銭二万貫の割当て」と日本史にある。   従来この矢銭の解明が出来ず、(弓矢の矢代=軍費のこと)  (屋銭と解釈して=棟別銭)の二通りの分け方がされている。   しかし尼子資料の「出雲鉢屋記録」でははっきりと「八銭(やせん)」となっている。だからこれは、八族である原住系が、  (これまで同族を奴隷に売り払って不当利益をあげていた仏徒に対する罰金)として強制徴収したものらしい。   この年の上洛の時の信長は、弓矢より良く飛ぶ最新兵器の鉄砲で武装していた。  だから、もし軍事費名目なら弾薬代とか、弾銭、というべきで、もうこのの時代の名目としては「矢銭」では可笑しい。  秀吉時代になると「段銭」という文字が出てくるから、一町一段というような 田畑の面積への課税とも間違えているが、幕末までの漢字は皆当て字ゆえ、段は弾丸の弾なのである。

 

 


明治維新秘話 薩摩のしゃぐまは何故赤、白、黒なのか

2019-08-02 10:42:32 | 新日本意外史 古代から現代まで

明治維新秘話 薩摩のしゃぐまは何故赤、白、黒なのか

日本ではいまだに「大和民族一つで構成されている」というのが通説になっている。 これは、古代や封建時代では誰もそんなことは思ってもいなかったし、言ってもいなかった。 維新後に天下を握った薩長勢力の明治軍部の宣伝なのである。明治政府は欧米に追い付け追い越せと「富国強兵、殖産興業」政策を推し進めた。 しかし、列強植民地政策と衝突し、日清、日露戦争と立て続けに戦うことになる。だが日本は江戸時代を通じて数百年間も外国と戦ったことなぞ無かった。 そこで明治軍部は平和ボケした国民を一致団結させて外国と戦わせるため、戦意高揚のため、国民精神作興に御奉公させるためのスローガンとして大いに喧伝したのである。 このお上の政策にいち早く迎合したのが日本の歴史学会で、歴史屋共が筆を揃えてそれを学説にし定説化してしまった。

しかし、それまでは源平藤橘という如く、騎馬民族系の源氏、海洋渡来系の平氏、唐を藤の字に当てた大陸系の藤原氏、契丹系で橘と変えた橘一族と、大別すれば最低でもこの日本列島には 四っ以上の民族が混在しあって棲み分けていたのである。だからいにしえより「名のり」つまり藤原の何某とか平の誰それといったように、日本列島における四大種族の区別をは、各自が昔は明白にしていたものなのである。
さて、この民族の部族の名乗りは、徳川期になるまで厳しく掟とされていた。 戦国時代の合戦絵図などを見ると、各陣営ごとに本陣には、その大将の旗や幟が立てられているその脇に、「馬印」と呼ばれる金色のひょうたんや、黒の大きな傘、白い羽毛の飾り物や赤い吹き流しが、 堂々とひるがえって立っている。
 
 もちろん徳川期になってからも大名行列の先頭には、合戦の際の旗や幟は禁止されていたが、馬印だけは立てていたもので、「武鑑」の類にも、先頭のそれさえ見れば、 何系の何処の殿様かは一目瞭然に判るように絵入りで記載されている。つまり大和民族は単一民族なりなどと大真面目に言い出したのは、明治二十二年の長州が招聘したドイツ人のお抱え教師の リースの制定からで、彼はゲルマン民族だから、それを日本史もろくに判らぬため強引に日本に当てはめたのである。 しかしそれまでは、 「赤布をひるがえしているのは真田幸村で、あれは平家の流れ」とか 「白扇大団扇は、白色なれば後藤又兵衛じゃ。ならば別所出身の源氏なり」 「千成瓢箪が金色なるは、やはり豊臣家は古平氏であったか」 といったように、寄せ手の徳川方も、同族同士討ちはしないようにと、やたらに戦は仕掛けずに、突き込む敵は選んだものなのである。 明治維新の際でも、様式武装で大砲までも引っ張っていても、この慣習は薩長側でも棄てず、「しゃぐま」とよぶ、てんの毛皮を、赤、白、黒に染めさせて、 馬印代わりに部隊ごとの先頭に立つ士官の頭に被らせていた。
それゆえ伏見街道を三万の軍勢を連れ、徳川慶喜は討薩表をかざして、先手には大目付の滝川土佐守が大阪から攻め上ってくると伝わると、 「滝川は拝火教徒のの流れじゃ、ならば彼らの民族色は赤だから、先頭には赤しゃぐまを被った部隊で突きこめ。すりぁ相手は此方の十倍の人数でも、ためらい迷い逡巡するは目に見えとる。 そこを一斉射撃で突き崩してしまうのだ。よいかぬかるな」 と、薩長側ではずらりと赤毛で攻め立てた。
一方、日野に住んでいた近藤勇や土方歳三らの新選組だけは、総崩れの幕府軍の中で唯一人最後まで頑張ったというのも、赤毛に対して同じ拝火教の多かった江戸の旗本どもは、 祖先からの言い伝えで、同族は討たずの戒律で、赤毛しゃぐまの士官のかぶり物を見て退却したが、新選組は宗旨違いだから、あくまで抵抗できたのである。
 
 
ちなみに、新選組は日野や百草の生まれで、ここは弾左衛門地で、婚礼縁組の一切の届け出をして許可を受けている土 地柄であり、宗教は白山信仰なのである。 それゆえ、鳥羽伏見で敗れて戻ってきた新選組が甲陽鎮撫隊として甲府へ向かう時弾佐衛門は黄金二万両の他にヘーゲル銃二百挺に弾薬をつけ、人夫百名も出している権勢ぶりなのである。 四民平等の明治になるまでの日本は、四民はそれぞれ対立しあっていた真実をよく理解しなければ、日本史の真実はつかめないのである。 つまり四民といっても藤は京の体制側の公家でこれは別格。 庶民とされている民族色赤の平家は拝火教徒、白の蘇民将来信仰は源氏、墨染めの衣を着る坊主からきている黒の仏教徒らが三つ巴になって対立させられていたのがこの日本で、 これを相克歴史という。 現在適当に書き写され、時代によって書き直されてきて残っている古文書まがいの解明は、労多く功少ない行為で、色分けで確かめた方が判りやすいのである。