新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

世耕弘成経済産業大臣から見える「エ横列」の考察

2019-08-02 08:41:49 | 新日本意外史 古代から現代まで
 
世耕弘成経済産業大臣から見える「エ横列」の考察
 
何しろ彼は安倍政権の当初から、 内閣府特命担当大臣、原子力経済被害担当大臣、産業競争力担当大臣、ロシア経済分野協力担当大臣、 国際博覧会担当大臣。 自民党政務調査会長代理、自民党参議院政策審議会長、内閣官房副長官等を歴任と、 眩しいばかりの経歴で学校法人近畿大学第4代理事長も兼務している。 安倍政権の外交から内政を総括すれば、様々な問題はある。その批判はここでは他のブログやマスコミに任せて、世耕大臣の 「エケセテネヘメエレ」横列の人間について考察してみましょう。
エ姓列の人は五千人に一人の希少価値
エ姓の先祖は山の民である
「影供」と書いて平安時代は「えぐ」と呼んでいた。今では、 「人間が歩くと、その影が後をついてゆく状態」または、「影かたちのごとくつき従う忠実な召使い」といった具合になっているが、本来の意味はそうではないらしい。これは、 「用心棒として、影を供にしてつれ歩く」のことらしい。つまり平安時代末期というのは、 <鉢屋由来記>にもあるごとく、山の民の彼らが京洛まででてきて荒し廻っていたので、身分のある公卿さんなどは、礼を払ったり給与をはらって、同じ影の者を護衛につれ歩いていたのをいうらしい。 「影」を「え」と発音するのは、今では、「えい」となっているからおかしいみたいだが、これは、いわゆる「陰陽説」からでたものらしく、ウクス系やイキシ系を、  「陽の民」とみて、日蔭の被征服民族、即ち日本原住民たちの彼らを、「影の民」とみなし、彼らの祖先の神話が、(エオトコとエオトメが天の浮橋によって、結ばれて)の建国話であるからして、 「エの民」として扱い、これを<日本書紀>の《景行紀》ににあるところの、「景行帝二十五年武内宿禰は風土巡察二十七年帰り奏す。 土地沃壌広し、これ蝦夷の地なり、撃ちて奪るべし」といった報告の時でも、「蝦夷」は初めのうち、その意味合いは、「之を見し」といった具合だったのだろう。
 だから、蝦夷をエゾと呼ぶ以前のものは、「エミシ」が呼称になっている。そこで、「影」が「え」とよばれ、これが白土三平の、『忍者武芸帖』の影丸にもなるのだろうが、 このため陽の民が持ちこんだ両刃の、「剣」に対して、蔭の民である影族がもたされた片刃の、「刀」を扱う刀術も、 「柳生新蔭流」「疋田陰流」「諸羽影流」とみな影とか蔭をつけ、正流とか陽流といった呼称はないのである。  しかしそれは後世のことで、山へ追われた初めはいくら山岳民族でも路頭に迷うどころか、山中で生活に窮しきったものと思われる。  草や木の実をもいで食用に当てたろうが、それだけではたらず女達は、「あれを捕えてこませ」と山野を駈け廻る野兎や鹿や山犬たちを男にとらせ、その肉を焙って食し、皮を剥いで衣服にしたらしい。  さて、船舶系の者たちが今の河内あたりにかたまって、そこの交野郡に住まっていたのは、「中宮」「片鉾」といった村名が残っているのでも判るが、長岡京のできる前後は、ここの行在所に延暦二年、六年、十年と桓武帝が行幸されたのでも判るし、 <公卿補任>や<本朝皇胤紹運録>によれば八三九年の承和六年に、河内国高安郡に、「百済宿禰」がその一族とともに栄えていたこともでている。さてその後、ここへは、 特にシャム方面からきた人間が住みつくようになったのか、彼らが軍用の食料として持ちこんだ南方鶏が飼われ、これを、「軍鶏」つまりシャモとよんだり、 鳥を捕えるための猛禽の鷹がもちこまれ、狩猟用に珍重された。  さて鷹は肉食なので、影の民である山岳民族がその飼育をいいつけられたのか、<揚氏漢語鈔>にあるごとく、  「餌取り」、つまり、エを上へつける呼び方で、里近くに居住を許された者は称された。これは<今昔物語>の一節にも、 「やがて草ぶかき茅屋をたずねあて、そこに一夜を求めしところ、やがて夜食に持ち来りしは牛馬の肉。僧はこれをみて、妖しき所へ来にけるかな、これ餌取りの住みかなるべしとおののき」  などとでている。この鷹の餌取りのため山野を駆け廻っているうちに、次第に逞しくなった連中が、やがて足腰が強くなって武士という階級になるのだから、彼らの成人式ともいうべき元服には、 「烏帽子」とよばれる加冠の式を行なうのも、「鳥」の宇を「え」と発音するのも、後年の、「鳥打ち帽」と同じことで、鳥の餌取りからの由来であろう。
<エケセネ>姓は少ない訳
 さて、ビニールや擬革のない時代にあっては、皮は貴重品であった。鎧や馬具の鞍にはどうにも欠かせぬ軍用品で、これを自己補給できる原住民系は、源氏没落後なりをひそめていたが、 応仁の乱の時代になると勢をもり返し、戦国大名の殆どは彼ら出身の者らで占められたのである。  そして徳川期に入って平和になっても、袋物や革羽織といった需要がきわめて多く、製革業者の原住民系は、非武士階級でもみな富裕になり、各地の神社が栄え、 したがって仏教の寺の勢力を上廻った。  このときに当たって、朝鮮系の生母をもつと伝わる甲府宰相綱吉が、徳川五代将軍についた。  将軍生母桂昌院を通じて勢力を得た隆光とよぶ大陸系の僧が、貞享四年正月には、将軍をそそのかし、ついに、「生類憐みの令」を天下に公布した。  これはなにも動物愛護精神によるものではなく、(動物を殺すな)ということは、皮をはぐなという、製革業者である原住系への弾圧の法令であった。ついで、 「厭離穢土」という三河松平家に伝わる大樹寺勢誉上人揮毫の旗の文字からとって、「エ」をことごとく「穢」に換えさせもした。  だから、江間、江原、遠田、枝島といった鎌倉時代には、花形だったエ姓が否応なしに改姓をしいられてしまった。つまりエの字は、 「夷無名(いむな)」=「忌名(いみな)」となってしまった。よく、
「ちゃきちゃきの江戸ツ子」とか「三代つづいた江戸ッ子」などと書く人もいるが、とんでもない出鱈目で、江戸に住む者は明治になるまでは「エ」を憚って、 自分の口からは決して「江戸」などとはいっていなかったようである。ではなんと称していたかとなると、  「ご朱引うち」とか「ご府内」といったもので、二号さんが、「おめかけ」と自称しないのと同じことであって、幕末の勝海舟が、 「おいら江戸人はねえ」という時は、自己卑下し、相手に油断させる時か、または皮肉のようである。  このエ姓が明治になっても忌まれた例としては、  「前司法喞参議の官をすて西郷南州と廟堂を去り、佐賀にて挙兵、君は敗れ鹿児島に身を匿さんと欲す。されど薩人頑迷にも、君の姓により拒む。 止むなく君は四国へ赴き捕えられるや、明治七年四月十三日に断罪にあう。されど嗚呼前司法喞江藤新平君、君の首級のみは梟首にかけらる。まこと悲しき哉」  と<南白遺稿文集佐賀乱記>にあるくらいで、まだ明治初年にはそうしたエ姓を嫌う因習が残っていたらしく、これは立派な証拠になる。 いかにこうした徳川史観の偏見がひどかったかという一例であろう。
 OMANの語源は政子
 さて普通は「一つの民族は一宗教……」ということに地球上どこの国でも決まっている。ところがである。不思議なことに日本だけは違う。 まず神信心(甲)と仏信仰(乙)とあり、その他に、蘇(素)民将来(丙)というのがある。日本列島へ移住してきた順序は、丙が一番古い。俗に、 「えびす、大黒、弁天」等といった七福神をもって守護神となし「素民」として太古は栄えていた民族である。  今日でも愛知県の渥美半島などは、全地域がいまだに、七福神の神域となっているし、牛にビール飲ませて育てるという、「和田金」の伊勢の本店の前の自宅の門には、 「蘇民将来開運之守」という御札がはってある。この部族は、弁天さまで名高いエノシマ、エダジマでも判るように、  「エ衆」とよばれていたので、エ横列(エケセテネ)の発音を上につけ、この方則ではエ姓であるが、 次々の弾圧によって今は僅かしか、その姓を名のっていない。その代り、現代でも、この横列姓を上につけている人は、風雪千五百年以上たたかれてきているだけあって、芯が強いのが特徴である。 反逆児的な要素は遺伝であって、明治時代は、「王将」で名高い坂田三吉をやっつけた「関根金次郎名人」のように、独立独行型が多い。  今日でいえば「自由職業型」か、サラリーマンでも教育屋か演劇屋、学校屋に多い筈である。
 もちろん維新まで、この部族は決して百姓なんかはしていない。殆ど山中にあって動物を友としたり、鉱山を掘っていたようである。  もちろん里へでてきた連中は、拝み屋や医者や鍛冶屋、いかけやなどもしていた。  さて、この素(蘇)民系の人々の祖先は徹底的に、イ列、ウ列姓に、苛め抜かれ通しできたものであって、 <日本後紀>などには「衣多」という文字を当てられ、こわもてしているがなにしろ捕虜である。 「われこそはミナモトの氏の何某なり」と全国二千有余の捕虜収容所から蜂起してきた原住民を名のる白旗武者が、馬の尻を叩いて天下を奪ったのが「文治革命」のとき。  今では、当て字を棒よみして「源氏」というが、この連中に与騎したり郎党になった者で今日、戦記ものに名が残っている蘇民系は、 <源平盛衰記>に「江田の基弘」 <吾妻鏡>には「江田の小次郎」 <平家物語>では「江田の源三」 <太平記>のは「江田源八」  とあるけれど、このほかに、女人の政子、ちなみにまさこと読むのは後年の読み違いで、秀吉の頃まで、政所とかいて「まんどころ」といっている。 つまりMANKOが正しい。それが証拠には関東地方では、ア姓エ姓オ姓の男性どもは、令和の今日でも謹んでオの敬語をつけて、これを女性名詞として呼んでいるほどで、 如何に政子は勢力があったか、この言葉一つでも、しみじみ口ずさむと、よく判るというものであり、男の側からすると政子を良妻賢母にするのは誤りでしかない。
 さて、その政子が頼朝の死後、鎌倉幕府を里方の北条氏にわたしてしまった時、源の未亡人なのに「平政子」として死んでゆくような彼女だけに、 「梶原景季」以下の主だった源の実力者をみな殺しにしただけでなく、江田姓を名のる土着系にも徹底的な弾圧を加えたらしい。 つまりこれまでの歴史では、源氏と北条氏を一つの血の流れの同族のように思いこんでいるから間違われるが、 大化の改新で追われた蘇我の民である蘇民と騎馬民族系の源民とはまったく相反するもので、このため、 <北条五代記>から、<南北朝争乱記>には、もはや、このエ姓は現われてこないのである。
 次の足利時代となると、これは明国と安保条約みたいなものを結んで、向うの銭を貰って日本で通用させていたような世相だから、表むきの治政上、足利将軍は源姓を使っていたが、実際は、「白旗党」として原住系を圧迫していた。  エケセの蘇民系もだからしてやはり<今昔物語>にでてくるような「餌取り」という代名詞のもとに虐待されていた。やがて、彼らが息を吹き返すのは戦国期から徳川初期の間である。  当時の有名人は、千の利休、仙石権兵衛、関一政、江村専斎、美濃の遠藤一族、江戸城主の江戸通政といったところであろう。  しかし、この部族は苛められるのだから次々と殺されたり処分され、その後も元禄期の徹底的な弾圧をうける。そこで改姓したり深山へ逃げたり、 または神仏混合になったから宗教家になって世を忍ぶことになる。
  エ列の女性に要注意    ところが不思議な事に終戦を境に、もはや絶滅されたかと見られた、この部族が百花繚乱と突如としてマスコミに現われてくる。  もちろん宗教家としては、海老名弾正、江部鴨村。風俗作家としての『山の民』の江馬修、プロ作家の江口渙は早くから知られていたが、 とかつては侮称されたジャンルにも、喜劇王と謂われた榎本健一のような人材も顔をだす。  社会党の江田三郎もいるが、作家としては、山にこもるかわりにパリで過ごしてきた芹沢光治良。 カトリックの作家遠藤周作や評論家の江藤淳(本名江頭淳夫)。財界では江戸英雄。賑やかなところでは、「オレはテレビのだ」と自称する永六韜や、 「せむし芝居の次は、ゲイボーイの芝居を」という寺山修司。
 そうかと思うと「マンガ」の手塚治虫。「これこそ華道だ」の勅使河原蒼風。  「おれの原稿を三十代の編集者が判るのだろうか」と憤まんを書いた故徳山秋声の女婿にあたるワセダ反主流派の寺崎佶。  女流では、小田仁二郎をして泣かせしめた女豪の、瀬戸内晴美女史(若い頃多くの男と浮き化を流し、今や97歳で尚元気な尼さんになっている瀬戸内寂聴)。 そして、 「文学界」の九月号に「秘密」と題して、堂々と「ちょうすけ」の軍部に徴兵忌避の主人公を書き、 「武士は死んだらいけんよ。銭をたんともってないかんよ」と「武者とは、なるべく死なずに、現金か証文で、首の落し前に話をつけて助かるのが常識である……」 を昭和二十年代の時点において見事に描写し「反逆精神の大作家」と認められている「丸谷才一」こと本姓根付先生。二年間「貝殻一平」として才筆をふるった評論も巧い国学院大学の教授。  それにお料理のテレビの江上トミ女史と昭和になって多士済々の様相を呈したものである。   日本の総人口の内で、このエケセテネの横エ姓は、わずか0.02パーセントもいない筈なのに、よくも、まあ反骨揃いの連中がパレードみたいに現われてきたものであると感ぜざるをえない。  まるで西暦三世紀から四世紀の時点に逆流したような活発な趣きである。  この人たちは前述したように、宗教的アトモスフィアが濃厚で、その上、十数世紀の生活環境からして、人間よりは動物と仲が良い。  男は、きわめて反逆精神にもえ、喧嘩っ早いが、自嘲的なオトボケ要素もある。しかし長年の圧迫生活に堪えてきた伝統で、根性はもっている。 つまり家庭的な夫としては、最高の存在であろう。しかし日本全国で恐らく未婚の男性は、残念ながら算えるほどもいまい。 希少価値をもつ国宝的記念男性であろう。「マンハントするなら、こういうのを見つけなさいよ、これぞ女にとってはダイヤ以上であろう」と、太鼓判を押し推薦する由縁である。  が、その反面「エケセテのイニシアルのつく女の人?」となると、これは、また問題が違ってくるのである。
「貴男がマゾヒズムなら別だが、そうでなかったら……千何百年も苛め抜かれてきた民族の女性が如何に強いか……体験者を探して聞いてください」としか、それは、書けない。  つまり女の立場からすれば、このエ姓の男性は、願ってもない夫の素質をもっているけれど、男の立場としては、この姓をもつ女性を妻にすることは、  「山の神のいけにえ」になるようなものだ、ということを敢えて忠告しておくしか、この場合、他にないようだ。
 さて、この希少部族は昔から人口がすくないので、エケセテネの同姓列では相手が見つがらぬ関係上、その一字下のオ姓、 つまり、「オ、コ、ソ、卜、ノ、ホ、モ、ヨ」を上につけている異性が、おおむねやられている。  だから前述の有名人の生母は恐らく、  小川、岡田、追山、小山田、尾崎。後藤、小島、近藤、小林。曾根、左右田。戸田、殿山、遠山、 富剛。野村、能田。星野、堀田、細川、穗瑞。望月、森出、持山、茂木。吉田、吉崎、横田、横川、の中の旧姓を、もっている筈である。 ということは、上記の男性は、「エケセの女性に引っかけられやすい」  という警戒警報でもある。立派すぎる妻をもつことが、如何に夫としては堪えられぬところかということが判る人は、 なるべくならば好んで火中の栗を拾うようなことはしないに限ると思うが如何であろうか。
このエ姓の国会議員は、衆参合わせて713人の国会議員の内、野党も含めて17人の少なさである。
 世耕弘成 江崎鐵磨 江田憲司 江田康幸  枝野幸男  江渡聡徳  衛藤征士郎  江藤拓  遠藤敬  遠藤利明  玄葉光一郎 関健一郎  関芳弘 手塚仁雄  寺田学君  寺田稔君    照屋寛徳    さて、世耕大臣を例に「エケセテネ」姓の考察をしたが、韓国への輸出制限問題では、理と正義は日本に在るのだから、反骨と頑固精神を十分発揮し、 所管大臣として安倍総理が途中で「政治的判断」をしても、首を賭けてでも日本国の為一歩も引かぬ交渉をしていただきたい。 そして、これらの議員は、純粋日本原住民の反骨と抵抗の精神を発揮し、与野党の垣根を越えて「日本を良い国」にして戴きたいと切に願うのである。
 
 

姓の法則による、日本史の真実 第二次大戦とイ姓列の考察 忠義一途のア列、オ列

2019-08-01 10:16:44 | 新日本意外史 古代から現代まで

姓の法則による、日本史の真実 第二次大戦とイ姓列の考察

忠義一途のア列、オ列

さて、同じ日本人でも、「歴史が好き」というのと、「歴史なんか嫌いだ」というのがいる。  おかしな話だが、歴史好きという人に、名前を聞いてみると百発百中、アカサタナの横行か、オコソトの横行に決まっている。  再言するが、現在の日本人の姓で、圧倒的に多いのもア横とオ横の二列だ。電話帳やその他の名簿をひいても、50音の五分の三の割合を突破して、約六割がこの姓の持ち主なのである。                                                      これが驚くなかれ皆同族で、かっての被圧迫階級なのである。だから国民の過半数の彼らに本当のことを教えて、もし大同団結されでもしては困るから、 これまでは、この<姓列遺伝>を何も教えないようになっているのらしい。 だから逆に、この歴史を国民に教えて「ア行とオ行」の大同団結を成せれば「原住民の原住民による、原住民の為の政治」ができるのである。政党名は「日本原住民党」とすればよい。

 しかし、これは日本の歴史学の発生が明治二十年代で、しかも底本にしたのが徳川時代の新井白石の<読史余論三巻>というお粗末さで、政権が一変したのに、 「徳川史観」がそのままで通っているというおかしさからきているらしい。というのは、 「かっての被圧迫階級は昔のことを根にもって反国家的であろう」とする誤解による。  が、こういうのは間違いであって、ウクスツヌ系のごとき公家の側こそ、「かつては船をつらねて渡ってきた仲ではないか」と、藤原氏のごときは恐れ多くも帝位を狙おうとする野心の者もないではなかったが、 その点、アカサタナやオコソ系の連中は初めから、「降参しました」と臣従してからは忠節そのものの国民なのである。  後醍醐帝の勅を奉じて戦ったのも公家ではなく、上州新田別所の義貞や、楠木正成といった者たちで、彼らは、脇屋に住していた弟の義助はそのままの脇屋姓だったが兄の方は、 新田の庄をとってイ横列系を名のらされたが、その子孫は、「世良田」「徳川」と工横列系オ横列系となった。楠木の方は、ウ横列系のクを公家の側より名のらされたが、俗には、 「河内」を名のり、さもない時は、「ナン」と音読をした。そこで、今でも、「ナンコウ」といった呼び方をされる。 つまり別所出身の原住民系日本人こそ、天皇様の御為にその身を鴻毛の軽きにした忠君愛国の民なのである。 昭和になっても、大東亜戦争時、公家の血の多い京都の師団はさっぱりだったが、「東北健児」として、滅私奉公のまことを尽して多くの血を流したのは、これは周知のことである。 しかしである。

 かつて大東亜戦争の終わりに当時の日本政府は、朝鮮人や台湾人に日本式の姓に変えることを強要した。そして改姓した青年を召集し次々と前線へ送った。 たまたま終戦になったから、彼らは旧の姓に戻ることができた。  しかし、アとオとの横列の純日本人は、融和された格好のままで今日まできている。だが、それに対して盲従したわけでもなかった。 純日本系は、あくまで、その「血」を純潔に守り通して今日まできている。これが唯一のレジスタンス運動だったのであるらしい。

 アとオの関が原

 さて十六世紀までは、アカサタナの姓をもつ者は、同じアカサタナの姓の者としか結婚しなかった。 ところが、このタブーをゆるめ、オコソの横列も同族だからと、範囲を二倍にして、ここにア横とオ横が血液の交流を認めだしたのは、神君徳川家康といわれる者に起因する。  もちろん仏君と言わず、神君という点からみても、家康は神徒の出身、つまり原住系だったらしいが、  『徳川家康は二人いた』によると、家康は岡崎城主松平三郎信康とは肉親関係はない。 家康は浜松から立った徳川党で、岡崎の松平家とは初めは無縁で交戦までした仲だという。だが、三郎の父松平元康の急死のあとをひきうけ、 その伜の三郎信康が成人したら家督を譲る約東をしたのだが、さて信康が大きくなると三河一国を戻すのが惜しくなって、信長の命令と偽って、その生母の築山御前とともにだまして殺してしまった。  というのであるが、さて家康は、 「ア横行の(マ)の松平姓、オ横行の(卜)の徳川姓」の二つを兼用した。  このため二千六百年の慶長五年八月、この松平兼徳川の家康は、諸国大名に檄をとばし、天下分け目の合戦をしたが、この時の諸国大名をその姓別で引用を一覧表にすれば、

ア 浅野幸長(山梨・府中城主)赤座吉家(石川・今庄城主)有馬晴信(長崎・日野城主)

力 加藤清正(熊本城主)金森長近(岐阜・高山城主)加藤嘉明(愛媛・松浦城主)

サ 真田信幸(長野・上田城主)佐野信吉(栃木・佐野城主)坂畸出羽(山口・津和野城主)  

夕 竹中重門(岐阜・不破城主)田中吉政(愛知・西尾城主)伊達政宗(岩手・岩手沢城主)  

ナ 長岡藤孝(京都・田辺城主) 南部利直(岩手・盛岡城主) 中村一氏(静岡・府中城主)  

ハ 蜂須賀家政(徳島城主)長谷川重成(岐阜・岩村城主) 花房助兵衛(岡山・高松城主)

マ 前田利長(石川・金沢城主)松下重綱(宮城・二本松城主)松浦鎮信(長崎・亀岡城主)

ヤ 山内一豊(静岡・掛川城主)山岡景友(茨城・古渡城主)屋代勝永(長野・屋代城主)

ワ 分部光嘉(岐阜・上野城主)脇坂安心(香川・州本城主)渡辺 了(奈良・郡山城主)

オ 小寺宮兵衛(福岡・中津川城主)大関資増(栃木・黒羽城主) 小川祐忠(愛媛・府中城主)

コ 小早川秀秋(佐賀・名陥城主)小出秀家(大阪・大島城主)近藤重勝(新潟・燕城主)  

卜 富田知信(三重・阿久津城主)戸沢政盛(秋田・角館城主)藤堂高虎(愛媛・板島城主)

ホ 堀尾吉睛(静岡・浜松城主)堀 親良(山形・蔵王城主)細川忠興(京都・宮津城主)

モ 毛利輝元(広島城主)最上義光(山形城主)森 忠政(岐阜・金山城主)

ヨ 横井伊織介(愛知・赤目城主) 吉旧家隆(愛知・吉田城主)米津田政(東京・小岩城主)ということになる。

そしてこのア横列オ横列の大名は、豊家思顧の者でも一人のこらず終局的には東軍につき、家康を勝たせてしまった。つまりは<列姓遺伝>の賜物である。  しかし、現在のクのつく歴史家や、その第三字横列の学者たちは、アとオの日本系住民団結の歴史を抹消しようとしてか、なにも知らずにか、この合戦を、  「西軍文臣派と東軍武臣派の衝突」と袮している。  だが当時の武将は戦さばかりでなく、帳面つけや勘定も、つまり経理事務もしたのである。  現在の自衛隊みたいにシビリアンコントロールが建前ということはないのである。石田三成にしても立派な武将だった。 もし文臣を今日の文士なみに考えるならば、当時の歌道の大家で、「細川幽斎」の名で知られた長岡藤孝までが、やはり東軍なのはなんといいわけをするのだろう。

 起て! 純日本系

 現代はイの横列の黄金時代であることはのべたが、次代は、どのイニシアルの姓の者が、これに取ってかわるかというのが問題だ。  第四字列のエ横行が、しきりに動きだしているのは事実だ。だが江崎グリコも、今は前ほど一粒で三百メートルも走らない。 エサキーダイオードの発明者もイの井深大に負けて、アメリカへ行ったままである。昭和はエの遠藤周作が谷崎潤一郎賞をとったのと、江上波夫と弟の不二夫や、永六韜が流行ったぐらいである。 が、やはりこのイニシアル列が、次の激動期である令和には日本を制覇することになろう。

 しかしエ、ケ、セ、テ、ネ、へ、メ、ヱのこの連帯民族は、きわめてわずかしか今は、その姓を残していない。源氏鶏太だって本姓は田中で、ア列の人間だ。 セで働いていた千田是也も、本当はいま流行の伊藤姓のイ列だ。  孤立する姓列の民族の運命を象徴していたのは、目下のところ故芹沢光治良だけでテだけが元気で、 漫画の鉄腕アトムの手塚治虫、詩人の寺山修司、草月流の勅使河原蒼風がいた。坊主の寺内大吉は本姓成田でア横行の人間。ネで漫画の根本進と「天皇家の歴史」を書いてにらまれた、 ねづまさしなどがいる。  へもメもこれはという名を思い出せない。なにしろこの列を名のるのは全日本でせいぜい二百万弱。 なんといってもエ列は人数がすくないので今のところではバイタリティがないようにも表面はみえる。  イ横列にとってとにかく警戒せねばならぬのは、また「わが世の春」を謳歌せんとする第三字の宇佐見や藤原氏を中心とするウ横列の進出だろう。  ウクスツヌフムの姓のつく人達の天下となると、イキシチニ列は押しつぶされてしまうのである。 彼らが権力の座を降りたのは戦後で、それまで千何百年という長い間、ずうっと国家権力を握ってきている。 だから、その蓄積してきた力はあなどりがたいものがあるからである。  なにしろ前述したように、われわれが見せられる日本歴史だって、彼ら製のものであるからして、このウ横列にじわじわ攻勢をとられたら、今でこそエリートであっても、 かつて集団革命の実績のないイ横列などは、ひとたまりもなかろうと思われる。

昔のように軍国主義にせず、平和に日本を守れる民族はこれから先は、エケセテネ横列か、もしくはア横列とオ横の系列しかない。 いくら伝統の血の流れとはいえ、自分の女房ばかり恐ろしがっていないで奮起するべき時である。攻めるのではなく守るべき愛国精神を発揮すべきだろう。  なにしろ十七世紀の初頭に「慶長革命」として、一度はまがりなりにも原住民の手で、国家権力を押えた実績もある。 さかのぼれば、その四百年前にも、「文治革命」を成功させたこともある。そのバイタリティをもって、日本のために尽すべきであろうと思う。

 さて関が原合戦のリストは前拙したが、秀吉の若い頃の部下には、 「宇喜多秀家」「上杉景勝」「上田長安」「氏家行広」 「黒田官兵衛」「桑山重晴」「熊谷直盛」「九鬼守隆」 「杉原家次」「薄田隼人」「角倉了意」「須田波親」 「福島正則」「不破光治」「藤井与兵衛」「福原右馬助」  とウクス横列が多い。また、木下藤吉郎を名のっていたせいか、 「生駒親正」「井尻是時之助」「池田輝政」[石川貞清]「石田三成」「稲葉直通」 「木村吉清」「木村常陸介」「喜連川国朝」「城戸十乗坊」「京極高次」「吉川広家」とイキシ列の大名もそろっている。だから、 「羽柴」「豊臣」を名乗っていたが、晩年に秀吉本人が公言していたように、あるいはウクスツヌ系の出身なのかもしれない。 というのは「土民出身」とするのは江戸時代に神君家康を立てるために出来た説だからである。

さて、前記したがエ横列の姓を持つ人たちは昭和になると多く出てきて、各方面で活躍したものである。

○野球でも江本、江夏、江川、江藤、テレビでも榎本美佐江、榎美沙子、江上トミ、それに遠藤周作、江守徼、 永六輔といった工のつく人が頻繁にに顔をだしてくる。

○だから工のつく人は多いように錯覚をするが林家三平こと海老名といったエ姓は元禄十二年の柳沢吉保の大弾圧によって、 生きのびてゆく為に余儀なく改姓を強いられ、今では全国に二十万人ぐらいしか残っていない弱小民族でもあるのだ。 しかし、不思議にエ姓は,アイウエオの立ての繋りかオ姓と結びつき自己顕示欲強くその種族の繁栄を保っている。 もちろんエ姓の男も管理社会ではハミダシして、自由業しかないゆ、妻になった女は堪え耐えて夫についてゆくべくである。

なお、近日中に長期安倍政権の閣僚で、エケセテネの内のセのつく「世耕弘成経済産業大臣」について考察してみたい。