つぶやき城ー。のブログ

日本の城、歴史的建造物の旅日記
※個人的観点

丸亀城@香川県

2024-10-19 12:00:00 | 100名城
2024年10月19日

昨日の高松城に続いて、今日は丸亀城に向かいました。

まさかの曇りで、雨予報。

当初の予定は午前は高松城で午後は丸亀城の予定でしたが、晴天の昨日の内に高松城に行ったのは正解!

高松駅からJR伊讃線で約20分ほどで丸亀駅に到着。



レトロなアーケードを歩き、丸亀城を目指します。
城が目的であっても、知らない街並みを歩くのも旅の楽しさの一つ。



歩いて10分〜15分ほどで丸亀城の水堀に到着です。

丸亀城周辺は大型バスも入れる大きな駐車場もあり、観光客を受け入れる体制がしっかりしているように思えました。

1587年に17万石でこの一帯を納めた生駒正親。
1597年に丸亀城に着手。1602年には完成したものの、本城は昨日行った高松城でしたので、1615年の一国一城令によって廃城とされてしまいました。

しかし、生駒氏がお家騒動によって所領没収により、丸亀藩が立藩し山崎氏が入封し丸亀城再建に着手。

その後、京極氏が入封して明治期を迎えます。

京極氏の時代に32年間の改修の末、現在の丸亀城に生まれ変わりました。


城下から城を見上げた瞬間、丸亀城の石垣に衝撃を受けます。

山一つを削り出して造られた城です。

まるで天空の城ラピュタのような、いくつも段になった石垣。

雨が強くなり、どんよりとした天気でも、この石垣を見ればテンションが上がってしまいます。

写真では何度も見ていましたが、実際に見ると圧倒されます!



まずは大手二の門から入城します。

大手二の門脇には、鉄砲を打てる狭間があります。

水堀に架けられた橋は極度に細く、大軍が攻めても横並びで進行するのは不可能。

つまり1000人で攻めてこようが、10000人で攻めてこようが、この橋を渡れる人数は決まっています。

この橋を渡る敵は狭間から完全にロックオンされます。

遥か奥の天守は今でこそ美しいですが、攻める側であれば、総石垣も含めて威圧が凄いですよね。



横から見ると分かるのですが、橋が途中で途切れています。

おそらく、有事の際はこの橋ごと落とすことで、より攻めにくくする狙いがあるのではと個人的には感じます。

水堀の石垣は綺麗な切込接で目地を揃えた布積み。

しかし、土塀下の石材だけは一回り大きな石材を使用しています。



二の門を抜けると枡形になっていて、大手一の門が出現!

枡形には鏡石と呼ばれる巨石が使われて、メインゲートとなる大手門にふさわしい格式高い門となっています。


上から見た枡形虎口。これぞ城門!

袋小路にすることで、敵に一斉攻撃を仕掛ける仕組みになっています。

二の門は高麗門で、一の門は櫓門。
櫓門で藩士が太鼓を打ち、時を知らせていたので太鼓門とも呼ばれていました。



大手門を抜けるとお土産屋があり、その脇の見返り坂を登り進めると天守へ繋がります。

坂は150mあります。



見返り坂の途中には、丸亀城の名所となる扇の勾配と呼ばれる石垣が現れます。

高さ20mクラスの石垣が丸亀城を取り囲みます。



先進的な切込接で隅は算木積み。
扇の勾配と呼ばれる通り、下は緩やかな勾配ですが上にいけばそり返って、ほぼ垂直になっています。

熊本城も同じ扇の勾配で有名です。
この巨大な高石垣を築いたのは、当然最高技術を有した石工集団の穴太衆。
熊本城の石垣も穴太衆が積んでいます。

元は自然石をその形を生かして利用した野面積みから始まった石垣は、綺麗に加工され、最終的には隙間がないように敷き詰められ、横目地が綺麗に揃った切込接と呼ばれる技術に辿りつきました。

昨日の高知城では野面積みの最高峰技術を見ましたが、丸亀城では日本の城郭建築における石垣技術の最高到達地点を目にしました。



見返り坂を登りきると、二の丸大手口跡が見えてきます。

写真では分かりづらいのですが、勾配がきついです。



二の丸には多くの櫓や渡櫓が建築されていて、本丸を防御していました。



本丸を支える石垣。
奥の張り出した場所には二重の塩櫓がありました。



天守に続く本丸の入り口、本丸虎口跡。
丸亀城はどこまで行っても勾配と石垣!


天守に到着。
三重三階の層塔型天守。

丸亀城は現存12天守の一つで、1660年に完成。
四国には現存天守が4城ありますが、四国の中で最も古い天守です。

国指定重要文化財の貴重な建築物。

長手面には黒の下見板張りが施されています。



天守入り口が可愛らしいのは、元々は天守と渡櫓が接続していた為。

天守の高さは15mで現存12天守の中では最も小さなサイズ。

総高60mを誇る石垣の要塞にしては、可愛らしい天守ですね。

しかし、この天守は小ぶりなのに相当な実装を備えた軍事施設なのです。

後ほど紹介!



非常にシンプルな天守で、後から付けたかのような唐破風が特徴的。
控えめながら千鳥破風もあり、一通りの装飾があります。



下から見上げる石垣も素晴らしいのですが、上から見る石垣もまた良き。

丸亀城には天守以外には麓にある城門しか建築物が残っていないのですが、至る所に櫓の跡が残ります。

丸亀城には12基の櫓が上がっていたので、当時の姿は壮麗だったことでしょう。



天守内部に潜入ー!



天守は1950年に解体修理が行われ、当時のままの姿を維持しています。

やはり木造建築は素晴らしいです。
小さめな天守ですが、一階は50本の柱で支えています。



一階は天井が高く、階段も急です。



いくつも複雑に重なり取り合っている横架材。
現存12天守だからこそ楽しめる昔ながらの技術。



海側に向けられた狭間。
鉄砲狭間はよくありますが、鉄砲狭間より大きなサイズの大砲狭間は、漆喰を塗られて穴が塞がれています。

これは非常時に壁を破って大砲を使用できるようにしたもの。

この天守から放たれる大砲の威力は、きっと強力であったと思われます。

丸亀城は一度も戦うことが無かった城です。



こちらも珍しい防御アイテム、太鼓壁。
写真をよく見て頂くと、長押から下の壁が分厚く内側に張り出しているのが分かります。

漆喰が厚く塗られ、鉄砲の弾丸が貫通しないように防御力を高めた壁になっています。



最上階。
昭和の解体修理をした際に、南東隅の壁の中から、祈祷札が出てきて万治三年の年号が墨書きされていました。

築城した日付なのか、解体修理した日付なのか、可能性は幾つか考えられますが、この時には天守が存在していたことが証明されました。

数百年の時を超えて、先人から我々に送られたメッセージ。



最上部の天井は面白いですね。

日本に12城にしか残されていない貴重な現存天守。これからも素晴らしい天守を、そして受け継がれた技術を守り続ける使命があります。



天守を見た後は、本丸→二の丸→三の丸へと戻り、南東隅にある月見櫓跡へ。

何故か天守を出た30分程だけ雨が止みました。

曇ってはいますが、それでも景色が素晴らしい。奥に見える大きな山は飯野山。

当時もこの月見櫓で絶景を楽しんでいたことでしょう。



二の丸を取り囲む南東側の石垣。


圧巻の打込接の高石垣です。



帰りは登ってきた見返り坂とは逆側となる搦手口側から降ります。



こちら側からの石垣も凄い!

張り出した石垣が多い為、隅部が多く石垣の技術の高さを、より一層感じることができます。


三の丸下の石垣。

二の丸下の石垣も高くて魅力的でしたが、三の丸下も同じくらい高い。
最上部に向かうに連れて勾配がキツくなり、最上部はほぼ垂直!



右奥には先程立っていた月見櫓跡の石垣。
下から見上げると、石垣の反り具合が分かります。

時代や城、築城者、地域によって石垣は全く異なります。

そんなところに石垣の魅力があります。



複雑に形成する三の丸を囲む石垣群。


上には三の丸の石垣。
下段は三の丸下にある帯曲輪の石垣。



これはさらに凄い!

一番上段は三の丸の石垣。
中段は三の丸下の帯曲輪の石垣。
下段は時代の異なる野面積みの石垣。

丸亀城には各曲輪ごと石垣で形成していて、いくつもの段々になっています。

三の丸石垣上には二の丸を囲む石垣と、さらに上には本丸を囲む石垣が存在します。

これが石垣の総高60mという、日本一の高さを誇る要塞、丸亀城です。

そんな全国のお城ファンからも愛されている丸亀城ですが、悲劇が襲います。


平成30年7月7日、七夕。
断続的に続いた西日本豪雨により、


南側の帯曲輪の石垣が一部崩落。


同年、10月8日
帯曲輪の南西隅部も崩落。


翌日、10月9日
三の丸坤櫓を含む南西隅部の大部分の石垣が崩落。



日本屈指の石垣の名城、丸亀城は大ダメージを受けてしまいました。

三の丸と帯曲輪の石垣は以前から危険とされていて、修復工事に着手する直前だったそうです。


6年経過した今も、鹿島建設が必死に復旧をしています。

本来は2024年度末に完工予定が、2028年完工に変更されました。

それは単純に復旧すべき石垣の数が増えたからです。
では、なぜ当初の見立てより増えてしまったのか



実は帯曲輪で隠れていましたが、三の丸の石垣は帯曲輪の土の中深くまで積まれていていたことが、崩落によって判明。

写真の通り、上段の石垣がグッと下まで伸びているのが分かります。

その高さは驚愕の31m!!
この発見により、単体の石垣としては徳川大阪城に次ぐ全国2位の高さとなりました。



土の中で隠れていた石垣によって、修復石材個数は1万1746個。

石材一つ一つに番号が振られ、城の前の広大な敷地に並べられています。


発見は石垣の高さだけではありません。

崩落した石垣の中に、丸形などに加工された石材が多く発見され、重ねると五輪塔が幾つも発見されました。

供養塔やお墓の一種とされる五輪塔が、なぜ石垣の中から出てきたのか、今だに謎のままだそうです。



発見は素晴らしいことですが、痛々しい姿に20分ほど立ち止まって現状の姿を眺めていました。

石垣は崩落したら何年もの歳月を費やします。
可能な限り元の姿に戻すには、おそらく新たに石垣を積むよりも難しく、さらに莫大な費用が重なります。

それでも元の姿に戻すことを決断したのは、現代の我々に先人から託された丸亀城を守るため。
そして未来に繋ぐため。

そんな誇り高き復旧を陰ながらワタクシも応援しています。



再び雨が強くなりましたが、再び大手口に戻る途中には、玄関先御門があります。

旧藩主居館の表門とされていて、江戸時代初期に建築。

形状は薬医門。左上には天守も見えます。


皆さん天守や石垣に目がいきがちですが、忘れてはいけないのが、再び戻ってきました大手一の門。

入口が通り過ぎてしまうほど影が薄いのですが、お土産屋を出てふと見たら中に入れることを知りました。

丸亀城に来たら観覧必至です。



一の門の中から太鼓で時間を知らせていたので、奥には太鼓がおいてあります。

現在は正午に太鼓で時を知らせているようです。



しかし、丸亀城のメインゲートの大手門ですから、当然防御機能も備わっています。

櫓門の防備アイテム石落とし。



丸亀城の枡形は18m×20mで大きめ。

大手二の門から侵入した敵はこの枡形で立ち往生。
そこを一の門から狙い撃ちます。

ここからだと、全てが手に取るように分かります。
しかし、鉄砲狭間などはなく窓も大きめなのでガチガチの戦国期の防御機能に比べると、やや劣る。もしくは他の意図があったのでしょうか。



大手一の門は1670年に京極氏によって建造。
関ヶ原の合戦からは70年が経過しています。

櫓内部の木材はやや細め。

しかし大手門の現存は珍しく、天守と大手門が現存しているのは、弘前城と高知城そして丸亀城のみ。

丸亀城の大手一の門も国指定重要文化財になっています。



大手一の門内部を見たら、来た時と同じ大手口の枡形から帰ります。



名残惜しいですが、大手口から丸亀城を後にします。


日本一の石垣の名城なので、見どころが多い丸亀城でしたが、やはり心に突き刺さったのは崩落した石垣。

崩落する前の、10月8日、9日共に住民から石垣から音がすると市役所に問い合わせがあったそうです。

物理的に音が鳴ったことは間違い無いのですが、石垣にも魂が宿っているのではないかと考えてしまうのです。
実際に石材一つ一つに職人の手が加えられ、思いが詰まっています。

そんな思いを今、一つ一つ繋ぎ合わせています。

1日も早い復旧を願っています。

3日間で岡山城→高知城→高松城→丸亀城と日本100名城の4城を周りました。

全ての城で素晴らしい石垣や建築物を見ることができました。

同じ城なのに全く性質が異なるので、城めぐりはやめられない。

四国にはまだまだ多くの名城があります。

また、改めて四国での城めぐりを敢行したいと思います。



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高松城@香川県

2024-10-18 17:30:00 | 100名城
2024年10月18日

岡山県→高知県→香川県へと移動。
四国には多くの城があり、限られた時間の中では周りきることが出来ないので、高知県の後は香川県に絞りました。

香川県の中心地、高松市には日本100名城の高松城があります。

高松市は讃岐一国を与えられた生駒親正によって1588年から築城が開始され、生駒氏が転封後は松平氏が11代に渡って納めた地域。

その居城となったのが高松城です。

高松駅前からは西門から入城すると近いのですが、ワタクシはぐるっと遠回りをして大手口がある東側から入城します。

時間は15時。本当は明日の朝から周る予定でしたが、超快晴の天気だったので疲れをおして強行突破です。


大手口の脇には高松城の名所となる艮櫓が姿を出します。

高松城といえばこの艮櫓の写真が多いですが、間近で見るとすごく大きいです。

外部に跳ね出した石落としは、まるで袴を着衣しているようです。

1677年に造らた艮櫓は、日本で12基しか残っていない現存三重櫓の一つです。



高松城は水堀で防御した近世城郭。
城郭に向かう橋は旭橋。その先には旭門があります。

橋と門を見て違和感にお気づきでしょうか。

旭門に対して旭橋が斜めに架かっています。
これは敵が攻めてきた際にスムーズに通過させない狙いがあると言われています。



斜めの旭橋の先に現れるのは巨大な枡形虎口。

綺麗に石材を隙間なく加工した切込接の乱積み。



旭門は格式ある高麗門。
門脇にチケット売場があり、御城印などもここで購入することができます。



枡形の一角に石垣を切り欠いた場所は埋門(うずみもん)です。

字の如く、綺麗に形成された石垣に埋め込まれた門です。

近世城郭でたまに見かける築城技術。
門上の石垣は一つの長い石材で荷重を受けています。
原理が全く同じ木造建築の技術を石材で表現しています。



枡形を抜けると艮櫓と対面!
外部の水堀側からの写真しか見たことがないので、楽しみです。



内部には入ることができなかったのですが、近くで見るとより一層大きさを感じます!

三層三階の城漆喰の総塗籠。
特徴は一階の千鳥破風ですね。

二階の屋根部を貫通するように千鳥破風が設けられています。
唐破風もあり、高さ11.5mの壮麗な建築物となっています。



艮櫓は昭和40年に解体修理が行われ、太鼓櫓があった現在の位置に移築復元されました。

その際に艮櫓に合わせて石垣も拡張したそうです。

意外と手を加えられているようですね。

昭和25年に国の重要文化財に指定されています。



大手口を抜けると早速、天守台が現れます。 
これは巨大な天守台。石垣の積み方は野面積み。

 

背景には高層建築物。

石垣の石材が様々な色をしているのでアーティスティックです。



本丸に向かう途中には三の丸の入り口に桜御門があります。

国宝に指定されることが内定していましたが、翌年高松空襲によって焼失。

しかし、令和4年に77年ぶりに復元して蘇りました!



復元には膨大な時間を要します。
この門一つ復元するのに、発掘調査から完成まで12年を要しました。

しかし、これは未来への継承です。
復元を実現させた高松市は素晴らしい。



桜御門を抜けると重要文化財の披雲閣が現れます。

披雲閣は松平氏時代に作られ、藩の政庁及び藩主の居城として使われていました。

明治期に老朽化で取り壊されたものの、大正6年に現在の建築物が完成しました。



延べ床面積1.887㎡の巨大敷地に142畳の大書院があり、今は貸会場として利用されています。



ワタクシが入城した日はコンサートの予定になっていました。
中には入ることが出来ませんでした。



続いて月見櫓、水手御門、渡櫓。


三重の月見櫓は1676年に完成し現代に残る現存の貴重な櫓です。

日本に12基しか現存していない三重櫓の内、艮櫓と月見櫓の二つが高松城にありす。



千鳥破風、唐破風、総塗籠の月見櫓は風格があります。
階層の中間にある黒の木材のラインが特徴的で、カッコいいです。


月見櫓下からの景色。
絶景の海!

今は城郭と海の間に道路が走っていますが、当時はこの月見櫓の下は海でした。

高松城は近世の平城ですが、水城とも呼ばれ日本三大水城の一つで海と直結した城。

いつか行きたいと思っている小豆島も見えました。



月見櫓の隣には渡櫓がありますが、間に接続した門が水手御門。



堀の中にある水手御門。
この門こそ海と直結した水城たる所以。

水手御門の階段下には船が泊まり、この門から入城することができたようです。
まさに海の大手門。

これは他の城で見ることのできない、海城独特の建築物。



通常、月見櫓はお月見をするために造られた平和の象徴的な建築物ですが、高松城では出入りする船の監視の役割と、藩主が江戸から船で帰られるのをこの櫓から望み見ていた事から「着見櫓」と呼ばれていたそうです。



当時の高松城の模型。
町ごと堀で囲んだ総構え。

海に面していて、海水を引き入れて水堀としているのも高松城ならではの特徴的な造り。



本丸に行くには鞘橋を渡る必要があります。



鞘橋から見た天守台。
現在は天守はありませんが、もし天守があったら水に浮かぶ城だったと想像します。


海の城らしさとして、堀には鯛が泳いでいました。

普通は鯉が一般的ですが、鯛やヒラメなど海の魚が生息しています。



間近で見る天守台。

野面積みで隅は算木積みになっています。勾配も急で高さ幅共に大きな天守台です。



天守台入り口。
高松城の天守は三層四階+地下一階の構造で四国最大の規模を誇っていました。

しかし明治17年に老朽化によって取り壊されました。



天守の礎石。

取り壊してしまった天守ですが、平成17年にイギリスのケンブリッジ大学図書館で、高松城天守の鮮明な写真が発見されたことで、天守台の修復工事を平成17年から25年まで行われました。
そして、地下一階部分から58個の礎石が出土。
発掘調査が進められています。 

天守の復元案もあり、今後の動きが非常に気になるところ。



資料館にあった模型。
天守は張出造りと呼ばれる建築スタイル。
天守台石垣よりも一層目が大きく張り出しています。
有名な熊本城が同様の形式になります。

また、最上部が南蛮造りになっているのも特徴的。

日本の城は上の階に連れて幅が小さくなって行きますが、南蛮造りは最上階が一階層下よりも大きくなるのが特徴。

小倉城や岩国城が同じ南蛮造りの天守になります。
この模型を見ただけでワタクシはテンションが上がってしまいます。



天守台から見た水門。
高松城は海から海水を引き入れているので、水門にて調整を計っています。

ちなみに、水門の前では鯛にエサをあげることができ、大量の鯛がエサ欲しさに集まっていました。



同じく天守台から見た鞘橋。
上から見ると曲輪や城郭の構造がよく分かります。
橋は二の丸と本丸を繋いでいて、本丸は完全に独立した曲輪となっているのが分かります。

そして、本丸にはこの橋を渡る以外には行くことができません。
これは本丸が城の本質である軍事施設としての役割を意味します。

しかし、高松城は一度も戦を経験することなく明治を迎え廃城となります。





松平氏の時代に高松城は拡張され、東ノ丸が完成しました。

しかし、廃城と共に堀は埋め立てられ取り壊されましたが、現在の県民ホールや県立ミュージアムあたりに石垣が復元されています。



すごい光景ですね。
石垣の上を現代建築物が跨いでいます。



一番最初に見た艮櫓は本来はこの辺りにありました。

奥に見えるのは月見櫓。

艮櫓の向きが現在と違いますね。
90度回転して太鼓櫓があった現在の位置に移築されました。



城郭と町と一体化していて良き。
高松城にきたら是非、この県民ホールあたりも周って頂きたい。


今まで幾つもの城を見てきた中で、高松城はやはり海城特有の独特な城という印象。

二日間で岡山城、高知城、高松城に行きましたが、それぞれが素晴らしく全くテイストが違う城でした。

これだから城巡りは楽しい。

桜御門も復元させた高松市ですから、天守の復元は現実的に可能だと個人的には思っているし、願っています。


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高知城@高知県

2024-10-18 10:00:00 | 100名城
2024年10月18日

岡山城を見た後、20時に高知市のビジネスホテルに到着。

高知県といえばカツオ!
ホテル近くの堀川さんで食事をしましたが、全ての料理が超絶品。



素晴らしい夜を堪能し、ホテルに帰って就寝。

高知県に来たからには高知城に行かない選択肢はありません。

朝7時にホテルを出発し、高知城を目指します。



ホテルから高知城までは約2キロ。
メインストリートの脇には水路が整備されています。

何気ない水路でも、城郭近くだと遺構ではないかと想像してしまいます。

城造りで欠かせないのは水路。
水路は城下町発展のファクターとなります。



高知城へと続く道は開けて中央には路面電車が走ります。

普段の生活では2kmは抵抗感ある距離ですが、思いを馳せながら見知らぬ土地を歩けば、あっと言う間です。



歩いて25分程で高知城が見えてきました。

設計の打ち合わせは10時からなので、それまで存分に楽しみたいと思います。



水堀と現在のメインゲートとなる追手門から入城します。

奥には天守見え、あいにくの天気ながら素晴らしいショットです。

高知城には貴重な現存12天守があり、日本で唯一の天守と本丸御殿が現存している城です。



追手門は枡形となっていて、1663年に崩壊しましたが、翌年64年に改築したものが今でも現存している貴重な門です。



やはり城門は良いですね。
追手門は格式高く、櫓門となっています。

追手門と天守が現存している城は、高知城、弘前城、丸亀城のみ。


高知城の櫓門の特徴は、脇の櫓台よりも跳ね出して柱で支えている点。

このアングルから見ると、清水寺の懸造のようになっています。

こんな有難い追手門ですが、昭和の写真では門の下を普通に自動車が通行していました。

現代では考えられませんが、城の文化的価値は年数が経つ度に高まってきています。



追手門を抜け、右へ左へとクランクしつつ、標高44mの天守方面へ向かいます。



まず、高知城は石垣が素晴らしい!
昨日の岡山城も圧巻でしたが、高知城もマニアの心をくすぐる石垣です。

そして、見どころの一つでもある石樋が現れます。

他の城ではなかなか見ることのできないレア技術。
排水が直接石垣に当たらないように多雨地帯の高知城では排水に関して工夫がなされました。


三ノ丸下の石垣。
見事な野面積み。しかも隅石が算木積みになっていて、急勾配を実現しています。

これが野面積みの技術における最高到達地点。



感動すら覚えるこの石垣を積んだのは、最高技術を有した石工集団の穴太衆。

数々の名城の石垣を手掛けた穴太衆。

ワタクシのブログにも度々出てくるワードですが、穴太衆が詰んだ石垣を目の前にすると涙が出るほど感動してしまいます。

カッコ良すぎる。



見上げる天守と石垣。

後ほど記載しますが、決して大きな規模の天守ではありませんが、この大迫力な石垣の要塞を前にすると、威圧感が凄いです。


本丸と二ノ丸の間から撮った一枚。
いつの間にか天気も快晴に!



左手は天守のある本丸。
右手は二の丸で、正面には本丸と二ノ丸を繋ぐ詰門。

貴重な現存天守と現存本丸御殿がピックアップされがちな高知城ですが、縄張りが素晴らしい。



追手門から見て天守裏側に周ります。
本丸下の石垣。

本丸、二ノ丸、三ノ丸それぞれが高い石垣で強固に守られていて、まるで迷路のような縄張りはまさに戦う為に造られた城。



本丸に向かう道と二の丸に向かう道の分岐点。
エグい程の180度に折り返した道。

石垣だけでも興味深く、また十分楽しめる城です。


二ノ丸から見た本丸側の天守。



そびえ立つ石垣の上には櫓群で囲まれています。

これが本来あるべき日本の城の姿です。

城にはたくさんの櫓などが存在していましたが、廃城令によって明治初期に全国の城は取り壊されてしまいました。

城の文化的価値が見直されたのは、残念ながら壊された後のこと。

左手は本丸に繋がる詰門。横向きになっている櫓は廊下門。
奥に見えるのは西多聞櫓。



二ノ丸から本丸を繋ぐ現存の詰門は2階が渡廊下になっていて、1階は門になっています。

他の城には無い、1802年から残り続ける現存唯一の廊下橋です。



詰門の出口は廊下門の下をくぐる造りになっています。
この先を抜けると、いよいよ本丸へ。



抜けた先の廊下門。

天守は白漆喰のホワイトで、櫓群も外側はホワイト色に対して、本丸側は黒色。



そして、天守にやっと到着です。
ここまで、既に見どころが多すぎて書ききれないほど。

しかし、高知城の凄さはここから!



天守は外観は4重ですが、内部は三層六階。
望楼型天守で、最上階にある高欄と呼ばれるバルコニーは、現存電車の中では犬山城と高知城だけ。

そして、高知城といえば天守と直結した現存の本丸御殿!



店主の開城は9時。8時半に本丸到着。
天守に入る前に重要文化財の黒鉄門を紹介しないわけにはいきません。

本丸を守る黒鉄門は黒漆で塗られた鉄板が打ち付けられており、石落としや武者が隠れることができることを考えると、最後の砦となる本丸を防御する極めて重要な城門だったかが分かります。



白と黒のコントラストが絶妙なアングル。

高知城はやはり戦う為の城。
これこそ日本が誇る城郭建築です。



いよいよ本丸御殿の懐徳館に入ります。
少し早めに開城して頂き、ポールポジションから入城します!

本丸御殿は対面所としてつくられました。



高知城は1601年に山内一豊が初代佐賀藩の藩主として着工。1611年に完工しました。

1600年の関ヶ原の合戦以降、大坂の陣までの14年間は軍事緊張が高まり、日本全体が築城ラッシュの時代。



日本の伝統的な書院造り。

城は軍事施設ですが、御殿に入ると何故かひと時の安らぎを感じます。

日本人の中に脈々と流れている木造のDNAがホッとさせるのでしょうか。



日本で唯一、現存天守も見える御殿。
これは高知城でしか味わうことができません。

清々しい朝と城巡り。
こんな贅沢は他になし。


御殿からの景色。
今も昔も変わらぬ眺め。

すごく安らぎと風情を感じます。



左が本丸御殿、右が天守。


右手には石落としと鉄砲狭間。

先程の安らぎの御殿とは一変、軍事施設にテイストが変わります。



天守の一階は模型など展示品があります。
高知城は石垣の大要塞。

天守は1603年に完成しましたが、1727年に火災により焼失してしまいます。

しかし1749年に再建され、当時のまま現代を生き続けています。



ポールポジションだったので、階段も気兼ねなく写真撮れました。

急勾配の階段も、軍事施設としての役割を果たしています。



天守最上階。
やはり現存の天守は内部も隅々まで楽しめるので素晴らしいです。



天守からの本丸エリア。
本丸にこれだけの建築物が現存しているのは他にはありません。

江戸時代の形をそのまま大切に保存してきた地域の努力の賜物。



上から見るとよく分かる城郭の形。
奥には二の丸、手前は本丸。

完全に独立した曲輪は、先ほど歩いた詰門で繋がっています。



三ノ丸の高石垣。

下から見上げる石垣もカッコいいのですが、上から見るとまた違った見え方がして良き!



高知市を一望。



意外と山に囲まれた高知市。
何百年も前には、山内一豊も見ていた景色。


天守を降り、右手の廊下を渡ると現存の東多聞に入ることができます。


東多聞→廊下門と繋がり、櫓内は展示物や高知城の歩んできた道のりを学ぶことができます。



廃城令、空襲、南海地震。
数々の苦難を乗り越えた高知城ですが、古い写真を見ると漆喰は剥がれ、瓦も落ち大きなダメージを受けています。

昭和に10年以上の歳月をかけて修復。

今の高知城は日本の受け継がれてきた技術の結晶ともいえます。



こちらも本丸にある西多聞櫓。
西多聞櫓も含めて、高知城には15棟もの現存建築物が残っており、国の重要文化財に指定されています。



帰りは二ノ丸の北側より下ります。
こちらは、より無骨感のある野面積み。

たまらないですね。この高石垣!


錦倉門跡からのショット。
高知城に来たのであれば、是非北側も周って頂きたい。



北側より三ノ丸下から。
高知城の石垣を存分に楽しみ9時45分に周り終えました。

夜はライトアップをしているようなので、見てみたかった!

江戸時代の姿のまま残された本丸と天守も魅力的ですが、個人的には戦う城として造られた縄張りと、穴太衆の技術の結晶を感じる石垣が本当に魅力的でした。

築城ラッシュによって急速に発展した石垣ですが、江戸時代になると一国一城令によって城の築城が禁止されたことで、石工職人も数が減ってしまいました。

しかし、穴太衆の技術は400年以上経過した今でも、滋賀の粟田工業によって継承され続けています。

城の楽しみ方は様々。
城を通してその地域の歴史を知り、日本の伝統的な技術を知る。

素晴らしい一日の始まりです。


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岡山城@岡山県

2024-10-17 17:00:00 | 100名城
2024年10月17日

岡山県に初上陸!
高知県で設計打ち合わせがあった為、岡山駅で乗り換え四国入り。

当然、岡山で乗り換えるならと岡山城へやってきました。

岡山城は日本100名城で宇喜多秀家、小早川秀秋、池田氏などによって戦国期から江戸時代末期まで活躍した城。

結論から言うと、想像を超えて素晴らしい城で3時間ほど見て周りました。

岡山駅から歩いて15分〜20分ほどですが、岡山到着が15時だったので、タクシーでひとまず岡山城に向かうことにしました。

運転手さんの計らいによって、大手門の前まで連れて頂きました。

降車の際に、楽しんで!と運転手さんに言われ暖かい気持ちになりました。



橋を渡るとすぐに本丸となります。

つまり、この水堀は主郭を囲んでいて、当時は内堀とさらにその外周を囲む外堀で形成された大きな城郭でした。

岡山城は旭川に面している為、城の後方部は旭川によって守られ、前方は幅の広い水堀で防御しています。

水堀の石垣は高くありませんが、石材ひとつひとつが大きく威圧感は十分です。


入ってすぐに枡形虎口の跡があります。
櫓門と櫓が上がっていたそうです。



こちらは、枡形虎口の正面にあたる石垣。
かなり巨大な石材が使われていることがわかります。

縦に長い隅の石は、他の城では見ることのできない独特な積み方。



模型で見るとこのような重厚感のある櫓と櫓門がカッコいいですね。


岡山城といえばやはり特徴的な天守が有名なので、ネットを見てもやはり天守の写真が多いですね。

しかし、まず思ったのは岡山城は石垣がすごい!

時代を感じる幾つかの積み方を見ることができます!



内堀の低めな石垣とは一変して、高い石垣群が現れます。
より本段に近い、中の段を囲む石垣。
重要な場所だけに堅牢な造りになっています。



信長の安土城から始まった総石垣の城ですが、野面積みの技術がかなり進んでいるのがよく分かります。



武骨ながら出隅は算木積みになっていて、出隅が急勾配になっています。

これこそ、荷重分散の石垣技術進化の象徴。

長い石材を角部で交互に積むことで、石垣の荷重が一点に集中せず分散することで、高く急勾配の石垣を積むことができるようになりました。



復元された不明門。
この門は主郭の本段に直結した門で、普段は閉ざされた門だったことから不明門と呼ばれました。



櫓門で明治の廃条例で取り壊されましたが、昭和41年にRC造で復元。

門の土台の石材は鏡石と呼ばれる巨石を使用。

鏡石は敵への威嚇や権力の象徴として、重要な門に使われます。

徳川大阪城が典型的ですね。



不明門を抜けると岡山城天守が見えてきます。
天守の前は現在広場になっていますが、当時は城主が住んだり政治を行う御殿がありました。



横幅のある、ずんぐりとした造りが特徴的の岡山城。
脇には付櫓もある複合式の望楼型、四層六階。

望楼型天守は豊臣期の象徴した天守といえます。


外壁は下見板で真っ黒。
この外観から岡山城は烏城と呼ばれています。



天守内は現在、展示や歴史を学べる博物館になっています。

金箔瓦なとが展示されています。



天守を出て、付櫓の脇の道から天守の裏側にまわります。



極度に狭く、まるで迷路のように折れ曲がります。



振り返っての一枚。
奥には天守台の石垣見えます。



右は天守を含めた本丸石垣。
左手には廊下門。
個人的にこのアングルの写真はお気に入り。

何百、何千という敵が攻めてきた際に180°旋回すればスピードが落ちます。

そこを、石垣上の狭間から攻撃。

道が急に狭くなるのもポイント。
大勢の軍勢がせめてきても、この場所では横並びで進むことはできません。

攻めにくく守り易い。
城は戦国の軍事施設。岡山城は至る所でその片鱗を見ることができる素晴らしい城です。



廊下門は1620年の池田忠雄によって造られましたが、明治に取り壊されました。

現在の門は1966年にRC造で復元されました。



廊下門の左手に、年季の入った建築物が現れます。

こちらは現存の月見櫓。
廊下門と同じ時期に作られたとされていて、外観は二層ですが内部は三階の造りになっています。


月見櫓の脇には穴倉があります。
上から銃で攻撃する際の穴で、石垣が加工されています。

同じ穴倉田は大阪城や江戸城でも見ることができます。



月見櫓アンダーショット。
月見櫓はその名の通り、お月見をするための櫓。

軍事施設の役割だった城は、江戸時代に戦のない平和な世が訪れたことで、役割も変化しました。

月見櫓は平和な象徴とされています。
岡山城にとって貴重な現存建築物といえます。



月見櫓脇の石垣。
月見櫓が建築されたのは1620年。
つまりこの石垣も岡山城が拡張されてから、日が経過した石垣といえます。

この一帯の石垣は、石材の形をそのまま生かした野面積みではなく、石材を加工して積んだ打込接。

特に隅にある石垣は綺麗に加工され、長手と短手を交互に積む算木積みのお手本となるような技術が詰め込まれています。



岡山城の天守裏側。
特徴は多角形の天守構造という点。

安土城をモデルにしたとも言われています。
こちらから眺めた天守の方が個人的には好みです。



天守裏は石垣が高いので、より迫力を感じます。
歪で特殊な形状をしている珍しい天守。
この多角形が安土城と同じスタイル。



こちらも天守のある本丸に直結した六十一雁木門。

この階段の下に当時は櫓門があり、強固で大きな城門を抜けた先の門のため、守りに徹した城門とは一味違います。



六十一雁木門の脇には土塀が連なり、その下の石垣は岡山城の中でも古い積み方をしています。

自然の石を生かした野面積みの中でも、岡山城は比較的大きな石が使用されていますが、こちらは小さな石材が使われています。

土塀と取り合っている石材だけは、綺麗に加工されていますね。



一周まわって最初に通過した不明門の下に戻ってきました。

この辺りの石垣が一番迫力あるように感じました。

それもそのはず!
豊臣政権時代の石垣技術の中ではトップクラスの15m級!



出隅は算木積みになってはいますが、技術の進化途中なのが分かります。

先ほどの月見櫓下の石垣とは違いが一目瞭然。
算木積みの技術が確立されて、高く勾配がきつい石垣ができるようになりましたが、この時代はやや勾配が緩いのが分かると思います。

しかし、この時代で15mの石垣は素晴らしい。

これだから、城の石垣は見ていて楽しい!
ちなみに、この石垣は築城者の宇喜多秀家の時代になりますので、関ヶ原の合戦前となります。

城の技術は石垣も含めて、関ヶ原の合戦以降に急激に進化します。



中の段の隅には大きな櫓が上がっていました。

櫓台を見ても横幅が大きいですね。
そして、石垣はやや大きめの自然石で積まれた野面積み。



模型で見るとイメージがつきやすい。
右下には変わった形の幅広い櫓が、先程の櫓台の上に上がっていました。


このまま中の段を囲む石垣下を進みます。



このあたりは、石材が綺麗に加工された打込み接。

場所によって石垣のタイプが全く異なります。
宇喜多秀家時代の岡山城の石垣を積んだのは、石工職人の集団穴太衆。
織田信長の安土城の石垣を積んで以来、全国各地の名城といえる城郭石垣を手掛けた集団。

穴太衆の技術は日本の宝です。



再び天守裏側へ。
天守裏側には旭川が流れていますが、現在後楽園と繋ぐ鶴見橋があります。

鶴見橋からの天守の写真が一番かっこいい。
段々に連なった入母屋破風がオシャレです。

主郭から見た姿とは違った見え方をします。



岡山城の特徴とも言える金箔瓦と金鯱、金の鬼瓦。

一部の大名にしか使用を許されていなかった金箔瓦を、岡山城は大量に使用しています。
やはり豊臣政権下での宇喜多秀家の立ち位置は重要であったと考えられます。

白漆喰の城も素晴らしいのですが、黒漆の城は重厚感があり金色が綺麗に映えます。



岡山城の裏に流れる旭川。
河岸にも石垣が使われています。


現在の上空写真。
旭川が岡山城の三方を守っているように流れています。

現在は主郭の前の内堀しか残っていませんが、当時は城の前面はいくつもの水堀で防御していました。



最後は内堀からのショット。左手には月見櫓。奥には小さく天守が見えます。

現在は本丸しか残っていない岡山城ですが、見どころは満載でした。



岡山駅まで帰る途中、至る所に石垣を発見しました。

天守台クラスのこの高石垣の上には、現在駐車場になっています。
これには衝撃でした。



突如街の中に現れたこの石垣も素晴らしい。



食い違いになっているこの場所は、門があったのではないかと個人的には思います。

今では一般車が普通に通行しています。



街と完全に一体化しています。
貴重な城郭の遺構なので、複雑ではありますが、ある意味では市民の手で守られているとも言えます。



駅へ向かっている路地で、偶然に櫓が出現しました!

櫓を模した建物かと思って調べたら、西丸西手櫓という重要文化財でした!

岡山城で一番大きな石材が使われていて、月見櫓と同じ現存建築物です。

10.4m×7.3m。高さ10.6m。二層の櫓です。

超貴重な建築物が、街中にあります。

まるでスタンプラリー。街そのものが城郭の遺構です。


こんなに素晴らしい岡山城ですが、天守や櫓など廃条令による取り壊しを免れた建築物は、空襲によって残念ながら焼失してしまいました。

もしこの大天守が現存で残っていたら・・・
そう思わずにはいられません。

すごく胸が締め付けられる悲しい歴史。

しかし、今では岡山県のシンボルとして、歴史を知るための観光スポットとして市民や観光客に愛され続けています。



戦う城、権威の城、政治の城。様々な時代を生きてきた岡山城は、今でも金箔瓦のように輝いています。


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佐倉城@千葉県

2024-10-14 15:00:00 | 100名城
2024年10月14日

本佐倉城の最寄駅、大佐倉駅から一駅の京成佐倉駅へ。

戦国期の中世の城が本佐倉城であれば、江戸時代の近世の城は佐倉城になります。

駅を降り、歩いて15分ほど。
本佐倉城で歩きまくったので、体力的には厳しめ。

しかし、佐倉城は日本100名城の千葉県を代表する城なので、行かないわけには行きません。



城郭の麓には水堀になっていて、整備された道路を上がっていきます。

雰囲気が出てきました。



戦国時代、この一帯の下総は千葉氏が納めていました。

本佐倉城が本城だった千葉氏は、この地に築城を命じたが事情により頓挫。

1610年に徳川家康の命で土井利勝によって築城が再開し佐倉城が完成しました。

佐倉城は佐倉藩の藩庁が置かれた城でした。



切り落としたような崖があり、城郭に近づいていることを肌で感じることができます。



佐倉城の見どころの一つの馬出し空堀。
この空堀は明治期に連隊造営のために埋められました。

しかし、発掘調査をした上で復元。
現在は深さ3mですが、当時は5mでした。

綺麗に整備されています。



早速、主郭に向かいます。
入り口には堀田正睦の銅像があります。

佐倉城は長きに渡り、堀田氏が幕末まで藩の経営を行ってきました。



こちらは二之門跡。
ここには桁行8間ほどの二重の櫓門が建っていました。

当時の写真も残っていて、見事な城門でした。
現在は公園になっている佐倉城ですが、何気ない道の折れ曲がりも、城跡であれば全てが意味をもたらしていると感じることができます。



二の門を抜けると二の丸が広がります。
二の丸の周りは空堀で防備されているのですが、木や草が生い茂っているため、深さなどを確認するのは困難です。



さらに先に進むと二の丸と本丸を区切る空堀があり、橋がかけられています。

本丸は孤立させて敵が攻めてきた際の防御策をしいています。

草木で見えはしないものの、空堀はけっこう深さがあるように思えました。

この橋の先には一之門があり、当時は間口が4間の二階建ての櫓門でした。

こちらも、当時の写真が残されています。



一之門跡。
脇には高めの土塁があります。
高さは3m越えくらいでしょうか。


土塁の上は歩くことができ、主郭となる本丸はこの土塁で全て囲まれています。



本丸の角にある天守台跡。



佐倉城には天守があがっており、7×8間の三重三階の天守でした。
三層としては規模の大きな天守だったそうです。
慶長の築城ラッシュ後の天守のため、破風などの装飾がなくシンプルやデザインだったようです。

しかし、城郭の一番角部に造られた天守だったので、城下からもよく見えたであろうと思われます。

1813年に盗賊による火の不始末が原因で、天守は焼失してしまいます。



天守の近くにあるのが銅櫓跡。
6間四方の二重の櫓で、下方は下見張り、上方は白漆喰。

明治の廃城令によって解体される時の写真がしっかり残っています。

複雑な気持ちになります。


本丸から登城した逆側の方面は向かいます。
整備された道から一転、急に山城のような雰囲気に。

佐倉城は平城の近世城郭だと思っていたのですが、裏の道から通ると割と高低差があり、やる小高い山に築かれた城なのだと感じることができます。



城郭の一番下にあたる場所では城郭の片鱗を見て取れます。



水堀と外郭の曲輪。
奥の山の上が本丸になります。

地上との高低差を考えると、やはり本丸と二の丸を区切る空堀は、深いかもしれませんね。


遠くから見た佐倉城。
外から見ると本佐倉城と変わらないくらいの山ですね。

近くには一級河川の鹿島川が流れます。



城の周りを歩くと、水堀が所々で現れます。

本佐倉城と佐倉城。
近くにありますが、全く異なる性質を持った城です。

それは、時代の移り変わりを象徴しているともいえます。

千葉氏時代の本佐倉城は、中世城郭で戦うための城。
それが役割でした。

しかし、江戸期の佐倉城は藩庁がおかれ、政治を行う場所としての役割を果たしました。

今では公園としての役割を話していますが、あれだけの貴重な写真があるのであれば、いつか城門や天守を復元すれば、より魅力的な城になるのかなと思います。