
2025年3月2日




左側は二の丸で奥に見える城門は表御門。



多聞櫓と平櫓には無料公開されています。

平櫓内部は畳張になっています。

多聞櫓の長さは約68m。

二の丸と本丸には足の橋が架かっており、右側の石垣は中御門の櫓台石垣。





中御門の隅石は綺麗な算木積みになっており、隙間なく加工されています。


広島城は輪郭式なので、本丸の北西隅に五重五階の天守が鎮座。








天守から見た東小天守跡。
天守を軸にして東小天守と南小天守をL型に展開することで、天守前は巨大な枡形のようになり、かなり攻撃力の高い設計をしています。

東小天守の天守台。







できることならば、もう一度解体される前に行きたいと思います。

にほんブログ村
本日は打ち合わせで広島に来たので、前乗りして広島城へと向かいました。
広島城は日本100名城に選定され、国の史跡にも登録されています。
また、名古屋城、岡山城と並ぶ日本三大平城
なのでとても人気の城です。
広島城を築城したのは毛利輝元。
小国の大名だった毛利氏は、毛利元就の時代に中国地方を支配する大名となります。
毛利元就の孫にあたる毛利輝元は豊臣政権下で五大老にまで上り詰めます。
そして、本拠地の安芸郡山城から新たに広島城を築城。
1589年 築城開始
1590年 堀と城塁が完成
1591年 毛利輝元が入城
1593年 石垣工事が完了
1599年 全工事完了
しかし、1600年の関ヶ原の戦いにおいて、西軍総大将だった毛利氏は減封の上、山口県の萩に転封。
以降は福島正則が入り、1619年からは浅野氏が250年に渡って広島城主となり明治を迎えます。
福島正則の時代に内堀、中堀、外堀を備えた現在の巨大城郭に変貌を遂げます。
しかし、明治期に外堀は埋められ、昭和期に中堀が埋められ、現在は本丸、二の丸、内堀のみが残ります。
それでも当時の面影を十分に見ることができるので、広島城は今でも人気の城です。
残っている本丸と二の丸は、内堀で完全に囲まれているので、城内には表御門と裏御門跡からしか入ることができません。
今回は水堀周りを少し歩きながら、表御門から入城します。

水の上に浮かぶ石垣に囲まれた曲輪は本丸。
水堀の広大さと美しさが目を惹きます。
内堀幅は西側で104mを超えていましたが、現在は少し埋められて狭くなっています。それでも北側の堀幅は60mを超え、現在も残っています。
その巨大さは数字を見ても明らかです。
内堀の周りは道路が整備されており、埋められて堀幅が小さくなったとはいえ、周囲約1.3kmもあります。

さらに、広島城には櫓が88基もあり、全国で最も多く櫓を配していた城でしたが、現在は櫓台の石垣のみが残っています。
本丸を囲む石垣には定間隔で櫓台が配置されていて、本来は角地に設置する櫓ですが、中間にも多くの櫓が上がっていました。

櫓の数も規格外の多さですが、天守クラスの櫓台石垣が幾つもあったのに驚きました。
実際に足を運んで自分の目で見たことで、広島城の規模の大きさを体感することができました。

左側は二の丸で奥に見える城門は表御門。

二の丸は完全に独立した曲輪となっており、規模が小さいことから、本丸を守る為の馬出として設計されたと考えられています。
航空写真を見ても、敵を迎え撃つための重要な曲輪となっているのが分かります。

二の丸の隅には復元された太鼓櫓と多聞櫓、奥には平櫓が並びます。

二の丸の隅には復元された太鼓櫓と多聞櫓、奥には平櫓が並びます。
平櫓と多聞櫓の半分は明治期に取り壊され、残った多聞櫓の半分と太鼓櫓は、石垣を残して原爆により倒壊炎上しました。
当時の現存写真も残っており、平成初期に復元されました。
下見板張で外壁を保護する為に、素地の木材で仕上げています。


平櫓と表御門。
二の丸の石垣は打込接となっており、加工した石を使用しています。
隅部は算木積みで直方体の石材を交互に積んでいるのが分かりやすく見ることができます。
建築物は天正末期に築造されたものでしたが、石垣は積み直されたのでしょうか。
技術が本丸を囲む石垣に比べて進んでいると思われます。

三の丸と二の丸は御門橋で接続。
二の丸を通過するには、この表御門を抜けます。
二重の櫓門形式で、長押と呼ばれる水平材と柱が外観に出ているのが特徴。
これは真壁造という日本の伝統的工法で、柱と柱の間に壁を形成する技法。
建築士の試験で出題されたことを思い出しました。

表御門は天正末期に造られ、1945年の原爆倒壊まで約350年間現存していました。

表御門は天正末期に造られ、1945年の原爆倒壊まで約350年間現存していました。
旧陸軍が作成した実測図と発掘調査、当時の写真を元に平成3年に復元。
現存の礎石を使用しているようです。

多聞櫓と平櫓には無料公開されています。

平櫓内部は畳張になっています。
平櫓は表御門と繋がっている為、門の出入りを監視する役割があったそうです。

多聞櫓の長さは約68m。
近世城郭では、櫓と櫓を多聞櫓で繋いでいることが多かったのですが、復元ケースが少ないので、この姿を目に焼き付けておきます。


多聞櫓から見た中御門跡。
手前に見える礎石は馬屋跡になります。

二の丸と本丸には足の橋が架かっており、右側の石垣は中御門の櫓台石垣。
左側の石垣には単体の櫓が上がっていました。

左側の櫓台。
天守台のような大きな櫓台です。
石垣の隅部を見ると、二の丸の隅部に比べて無骨な積み方になっているので、これこそ天正末期や慶長初期の積み方のように思えます。
この荒々しい石垣が芸術です。
そして、築城ラッシュの数十年間で石垣技術が如何に進歩したかを感じることができます。

反対側の右側には中御門の石垣が残り、表御門のように櫓門となっていました。
中御門の櫓台には鏡石があり、広島城で一番大きな石材が使われています。

中御門は残念ながら原爆によって倒壊。そして、中御門の石垣には原爆の放射能によって赤く変色しています。

振り返っての一枚。
中御門は枡形になっています。
敵が侵入した際に折れ曲がることでスピードが遅くなり、さらに門の前で立ち往生しているところを銃などで狙い撃ちします。

中御門の隅石は綺麗な算木積みになっており、隙間なく加工されています。
そして、いよいよ本丸となります。

本丸は上段と下段があり、下段には現在護国神社があります。
廃城令の後、本丸にあった御殿建築などは取り壊され、広島城には日本軍の大本営や司令部などが置かれました。
大本営跡が本丸上段に残ります。

広島城は輪郭式なので、本丸の北西隅に五重五階の天守が鎮座。
千鳥破風が施された望楼型の独立天守ですが、絵図では写真を撮っている南側と右手の東側に渡櫓が伸びて小天守が結合する連結型の天守でした。
現在は大天守のみで、内部は資料館となっています。

1958年に鉄筋コンクリート造で外観復元されました。
古風な感じの外観が、味があってカッコいい!

南小天守の天守台石垣。
まだ石垣初期に近いゴツゴツとした石で積まれています。

反りが美しい天守台石垣。
芸術的な野面積みの天守台石垣は約14m!
石材一つ一つが大きめですごい迫力。
天守と天守台を合わせると、約40mの大天守になります。

小天守は明治に取り壊されましたが、大天守は廃城令を免れて現存していました。
しかし、1945年の原爆によってバラバラに倒壊しました。

天守最上部は回縁となっていて、特徴としては寺院建築でよく見られる華頭窓になっていること。

天守最上階からの南西側の内堀。
かなり大きな内堀ですが、もっと幅があったと考えると巨大な城郭だったのだと改めて感じます。
下に見える曲輪は南小天守跡。

北東方面の内堀。
この水堀が本丸を囲んでおり、更に中堀と外堀まであったので、天守から見る景色は壮大で格別だったと思われます。
広島の街も一望できます。

天守から見た東小天守跡。
天守を軸にして東小天守と南小天守をL型に展開することで、天守前は巨大な枡形のようになり、かなり攻撃力の高い設計をしています。

東小天守の天守台。
天守入り口あたりは大勢の人で賑わっていますが、東側は誰もいませんでした。

東小天守跡からの大天守。
めちゃくちゃカッコいい!
東側からだと入母屋破風が見えるので、南側とはテイストが全く異なります。
白漆喰の白亜の天守も美しいですが、下見板張も渋くて良いですね。

広島城は毛利氏の後の福島正則の時代、浅野氏の時代などで、石垣が修復されたりもしているので、毛利氏の時代の石垣は一部しか残っていませんが、天守台はまさに毛利氏時代の貴重な石垣!
本当は天守台石垣を近くで見たかったのですが、昨日足を捻挫した為、階段を降りることが困難だったので、今回は断念。

本丸には大天守の礎石が原型のまま移されています。

帰りは裏御門から広島城を後にしました。
裏御門にも表御門同様に櫓門がありましたが、現在は櫓台が残ります。

裏御門右側の石垣。
横長の大きな櫓台が城の裏手を守ります。

裏御門左側の石垣。
裏御門の前は枡形になっていました。

広島城は太田川のデルタ地帯に造られているので、立地そのものが天然の要害に守られています。
幾つもの貴重な建築物は残念ながら戦争で失われましたが、広島城天守が木造で復元されることが議会で決定したとニュースで放送されました。
現在、資料館となっている天守内の展示品は、三の丸跡に新たに造られている資料館に移動され、耐震に問題がある天守は解体されます。
天守からの眺望はしばらく見ることができなくなるので、今のうちに見ておきたいと思い、怪我しているにも関わらず無理して天守最上階まで登りました。
広島城は戦国、江戸時代の文化を伝える貴重な遺構であり、戦争復興の証です。
できることならば、もう一度解体される前に行きたいと思います。
にほんブログ村
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます