学生記者ビオール・ガランによる意見
10月10日の国民の祝日について、ケニアでは当初から賛否両論があった。
2020年、ケニア政府はこの日の名称を「フドゥマデー」から「ウタマドゥニ」に変更した。しかしケニア以外ではまだ過去の名称が残っている。
10月10日問題は、ケニアの支配者が、自分達の遺したものを記念しようと祝日を制定したことが発端だ。ダニエル・トロイティッチ・アラップ・モイがケニア第2代大統領に就任したことが基となっている。この「モイ・デー」が国家による命令となり、後に憲法にも記された。
2010年、民衆の要求でケニア憲法は改定された。モイ・デーも、ワンマン政党がすべてを牛耳ったことを思い起こさせると民衆の不興を買って、改定の対象になった。しかし、2017年にケニアの最高裁判所は、この祝日をなくすのではなく、名称を変え別の意味を持たせるべきだという判断を示した。
憲法改定という大仕事を迅速に進めるため、当時の大統領ウフル・ケニヤッタはこの日を「フドゥマデー」とした。スワヒリ語で奉仕を意味する言葉で、この祝日に新しい意味を持たせる意図があった。こうして10月10日は「フドゥマデー」という祝日になった。
フドゥマデー制定から9年後、「かけ橋イニシアティブ(BBI)」の成果を記念する日を制定することとなり、12月26日が「ウタマドゥニデー」となった。
しかし残念なことに、祝日が一度海外で認知されてしまうと、変更があってもなかなか他国のカレンダーで変更されない。いずれにせよ、かけ橋イニシアティブと手を結んだ政府は、10月10日をウタマドゥニデーとし、フドゥマデーは消された。
こうして10月10日の祝日名は変更されたが、ウタマドゥニデーをどのように祝うのかについては、何のコメントもなかった。ケニア人たちは自分で好きなようにこの日を祝うことになったが、この日が一体何の日なのか議論を呼んだ。
ではウタマドゥニデーと南スーダン系ケニア難民はどう関係するのか。
UNHCRの最近のアフリカ難民報告によると、アフリカ大陸の中で難民の受け入れが最も多いのはエチオピア、次がケニアである。難民の多くは隣国ソマリア(53.7%)、南スーダン(24.7%)から来ている。
ウタマドゥニとは、スワヒリ語で文化を意味する。ケニアでこの日が祝われるならば、難民の共同体もそれぞれの文化的遺産をその国の人々と分かち合うべきだろう。
しかし、ケニアの難民政策は非常に厳しい。多くの難民がキャンプに集められ、危険と隣り合わせの都市で生活しているのはごく少数である。
第二の難民受け入れ国であるケニアは、多くの人に30年以上も難民生活を強い、世界の難民人口の24.7%が住んでいる。ケニアに住む南スーダン難民は、キャンプの生活を拒んできた。多くは都市部で生活することを選び、南スーダンから来た難民ではない人と家族になり、移民のように暮らしている。
UNHCRによる都市難民の統計によれば、エルドレットには2,746人の難民が住んでいる。ナイロビ、モンバサ、ナクラに住む難民を合わせると、8,888人になるそうだ。
現地の南スーダン人らによると、南スーダン人口が多いのは、順番にナクル、エルドレット、ナイロビだそうだ。エルドレットはケニア第二の南スーダン人口の多い都市であり、現地では良いことであれ悪いことであれ南スーダン人について様々な事柄が新聞種になるほどだ。
ケニア政府の難民支援局事務所は当初、ナイロビとモンバサにあった。新しくナクルとエルドレットにも新しい事務所ができ、エルドレット事務所はカクマ事務所の補佐的役割を果たしている。
エルドレットに住む南スーダン人難民にとっての10月10日は、ケニア人らと文化的遺産の豊かさを表現したり祝ったりする日ではない。難民として生きることがいかに苦しいことか、沈黙のうちに思いめぐらす日となっている。自分のために戦ってくれるはずの行政が、自分の人権を侵害していることを体感するからだ。
難民支援局も10月10日について完黙している。
内務省ホームページによれば、難民支援局のルーツは植民地時代にある。独立後に立ち上がった政府が、難民の登録や再定住を担当する事務所を設立したのが始まりだ。
2021年制定の難民法第8章によれば、難民支援局は、「関連機関と共に、難民受け入れ側と難民の双方が平和共存できるよう促す」ことになっている。文化遺産の共有は、多くの人が多様性を受け入れ、共生と平和を生み出すための最善の方法だ。ならばなぜ10月10日がその機会となっていないのだろうか。国中の難民が自分達の文化を披露し、ケニアも受け入れ難民の多様性を理解し祝うべき日であるのに、難民支援局が沈黙しているのは解せない。
〈エルドレット難民支援局の失敗〉
エルドレットは、地理的にケニアに入国する際の中心地であり、南スーダンからの難民の受け入れ場所になってきた。そのため難民支援局が設置されたのである。
設置されたところで、難民にとって必要な支援があったかと問われると、答えは否だ。新しい生活を始めようとする大勢の人々にとって、この支援局は支援をせず、悪夢の根源となっている。難民支援局に存在感が全くない。
新しくやってきた難民がエルドレットの難民支援局へ向かおうとすると、そもそも支援局が見当たらないことに頭を抱えることになる。「透明事務所」というあだ名が付けられるほどである。どこに事務所があるのか案内もない。やっと探し出したところで、大きくて造りが複雑な入国管理局の一番後ろのビル内の一番後ろの部屋である。支援局探しは、手当たり次第、出会った人に場所を尋ねながらの謎解きである。
〈難民支援局は誰のためのもの〉
奇跡的に事務所を見つけたところで、迎えてくれる役人たちの反応はひどい。やれやれとうとうやってきたか、また悲劇が降ってきた、と言わんばかりの顔をされる。応対に出てきた役人に用件を伝えても、対応はひどいままである。
〈難民学生にとっての苦悩〉
お決まりの質問や、苦痛でしかない手続きが始まる。役人たちは、本来どのように働くべきか知らないようだ。その後、どの学生にとっても、恐怖の質問が待っている。外国人登録はしたか、という質問だ。
外国人学生登録をしてしまった不幸な学生たちにとって、ここから悪夢が始まる。最長5年間、説明も指示もないまま、たらい回しにされる。
また、難民外国人登録をするという決意が揺らがなかった学生は、旅行許可書や支援もないまま、ナイロビにある内務省に向かうよう指示され、システムから自分を消す手続きを申請し、難民として再入国したという登録をしなければならない。こういう手続きは電話1本で済むはずだが、難民学生は、想像を絶する心理的また金銭的な負担を強いられる。生まれ育った国から離れた不安の中で、本来ならば自分を守ってくれるべき人々に苦しめられる。
10月10日の国民の祝日について、ケニアでは当初から賛否両論があった。
2020年、ケニア政府はこの日の名称を「フドゥマデー」から「ウタマドゥニ」に変更した。しかしケニア以外ではまだ過去の名称が残っている。
10月10日問題は、ケニアの支配者が、自分達の遺したものを記念しようと祝日を制定したことが発端だ。ダニエル・トロイティッチ・アラップ・モイがケニア第2代大統領に就任したことが基となっている。この「モイ・デー」が国家による命令となり、後に憲法にも記された。
2010年、民衆の要求でケニア憲法は改定された。モイ・デーも、ワンマン政党がすべてを牛耳ったことを思い起こさせると民衆の不興を買って、改定の対象になった。しかし、2017年にケニアの最高裁判所は、この祝日をなくすのではなく、名称を変え別の意味を持たせるべきだという判断を示した。
憲法改定という大仕事を迅速に進めるため、当時の大統領ウフル・ケニヤッタはこの日を「フドゥマデー」とした。スワヒリ語で奉仕を意味する言葉で、この祝日に新しい意味を持たせる意図があった。こうして10月10日は「フドゥマデー」という祝日になった。
フドゥマデー制定から9年後、「かけ橋イニシアティブ(BBI)」の成果を記念する日を制定することとなり、12月26日が「ウタマドゥニデー」となった。
しかし残念なことに、祝日が一度海外で認知されてしまうと、変更があってもなかなか他国のカレンダーで変更されない。いずれにせよ、かけ橋イニシアティブと手を結んだ政府は、10月10日をウタマドゥニデーとし、フドゥマデーは消された。
こうして10月10日の祝日名は変更されたが、ウタマドゥニデーをどのように祝うのかについては、何のコメントもなかった。ケニア人たちは自分で好きなようにこの日を祝うことになったが、この日が一体何の日なのか議論を呼んだ。
ではウタマドゥニデーと南スーダン系ケニア難民はどう関係するのか。
UNHCRの最近のアフリカ難民報告によると、アフリカ大陸の中で難民の受け入れが最も多いのはエチオピア、次がケニアである。難民の多くは隣国ソマリア(53.7%)、南スーダン(24.7%)から来ている。
ウタマドゥニとは、スワヒリ語で文化を意味する。ケニアでこの日が祝われるならば、難民の共同体もそれぞれの文化的遺産をその国の人々と分かち合うべきだろう。
しかし、ケニアの難民政策は非常に厳しい。多くの難民がキャンプに集められ、危険と隣り合わせの都市で生活しているのはごく少数である。
第二の難民受け入れ国であるケニアは、多くの人に30年以上も難民生活を強い、世界の難民人口の24.7%が住んでいる。ケニアに住む南スーダン難民は、キャンプの生活を拒んできた。多くは都市部で生活することを選び、南スーダンから来た難民ではない人と家族になり、移民のように暮らしている。
UNHCRによる都市難民の統計によれば、エルドレットには2,746人の難民が住んでいる。ナイロビ、モンバサ、ナクラに住む難民を合わせると、8,888人になるそうだ。
現地の南スーダン人らによると、南スーダン人口が多いのは、順番にナクル、エルドレット、ナイロビだそうだ。エルドレットはケニア第二の南スーダン人口の多い都市であり、現地では良いことであれ悪いことであれ南スーダン人について様々な事柄が新聞種になるほどだ。
ケニア政府の難民支援局事務所は当初、ナイロビとモンバサにあった。新しくナクルとエルドレットにも新しい事務所ができ、エルドレット事務所はカクマ事務所の補佐的役割を果たしている。
エルドレットに住む南スーダン人難民にとっての10月10日は、ケニア人らと文化的遺産の豊かさを表現したり祝ったりする日ではない。難民として生きることがいかに苦しいことか、沈黙のうちに思いめぐらす日となっている。自分のために戦ってくれるはずの行政が、自分の人権を侵害していることを体感するからだ。
難民支援局も10月10日について完黙している。
内務省ホームページによれば、難民支援局のルーツは植民地時代にある。独立後に立ち上がった政府が、難民の登録や再定住を担当する事務所を設立したのが始まりだ。
2021年制定の難民法第8章によれば、難民支援局は、「関連機関と共に、難民受け入れ側と難民の双方が平和共存できるよう促す」ことになっている。文化遺産の共有は、多くの人が多様性を受け入れ、共生と平和を生み出すための最善の方法だ。ならばなぜ10月10日がその機会となっていないのだろうか。国中の難民が自分達の文化を披露し、ケニアも受け入れ難民の多様性を理解し祝うべき日であるのに、難民支援局が沈黙しているのは解せない。
〈エルドレット難民支援局の失敗〉
エルドレットは、地理的にケニアに入国する際の中心地であり、南スーダンからの難民の受け入れ場所になってきた。そのため難民支援局が設置されたのである。
設置されたところで、難民にとって必要な支援があったかと問われると、答えは否だ。新しい生活を始めようとする大勢の人々にとって、この支援局は支援をせず、悪夢の根源となっている。難民支援局に存在感が全くない。
新しくやってきた難民がエルドレットの難民支援局へ向かおうとすると、そもそも支援局が見当たらないことに頭を抱えることになる。「透明事務所」というあだ名が付けられるほどである。どこに事務所があるのか案内もない。やっと探し出したところで、大きくて造りが複雑な入国管理局の一番後ろのビル内の一番後ろの部屋である。支援局探しは、手当たり次第、出会った人に場所を尋ねながらの謎解きである。
〈難民支援局は誰のためのもの〉
奇跡的に事務所を見つけたところで、迎えてくれる役人たちの反応はひどい。やれやれとうとうやってきたか、また悲劇が降ってきた、と言わんばかりの顔をされる。応対に出てきた役人に用件を伝えても、対応はひどいままである。
〈難民学生にとっての苦悩〉
お決まりの質問や、苦痛でしかない手続きが始まる。役人たちは、本来どのように働くべきか知らないようだ。その後、どの学生にとっても、恐怖の質問が待っている。外国人登録はしたか、という質問だ。
外国人学生登録をしてしまった不幸な学生たちにとって、ここから悪夢が始まる。最長5年間、説明も指示もないまま、たらい回しにされる。
また、難民外国人登録をするという決意が揺らがなかった学生は、旅行許可書や支援もないまま、ナイロビにある内務省に向かうよう指示され、システムから自分を消す手続きを申請し、難民として再入国したという登録をしなければならない。こういう手続きは電話1本で済むはずだが、難民学生は、想像を絶する心理的また金銭的な負担を強いられる。生まれ育った国から離れた不安の中で、本来ならば自分を守ってくれるべき人々に苦しめられる。
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