カクマ難民キャンプで勃発した争いで、少なくとも20人が死亡し多数の負傷者が出た。
南スーダンで争っているディンカ族とヌエル族という大民族の間で起きた戦闘で、少なくとも20人の命が奪われた。これら2つの民族集団は自分たちの居住ブロックを出て民族ごとに集結し、白昼に公然と闘争行為をしてキャンプ内に戦闘を広めている。この民族グループ同士の争いは、南スーダンで現在起きている危機を反映したものだ。
最初の殺人が報告されたのは、2014年10月25日の土曜日のことだった。これは、10月23日の木曜日に9歳のヌエル族の女の子がディンカ族の男の子に襲われたことに対する報復だといわれている。ヌエル族コミュニティーの人たちは、この事件の捜査が警察の汚職で機能していないと非難した。ヌエル族難民のリーダーは、警察はレイプの容疑者をうさんくさい状況にもかかわらず釈放したと言っている。「私はこのレイプ事件で個人的に”香港”地区の警察駐留地を訪問しました。しかし警察は責任のある行動をしてくれませんでした」と、カクマ1のヌエル族難民のリーダーはKANEREに話してくれた。
この闘争はカクマ1のゾーン3/4、俗に”香港”とよばれる地域で始まった。そしてその後キャンプ全体にまで拡大して行った。10月26日の日曜日の朝には4人の死亡が確認された。
10月30日までに、死者は9人になった。加えて、ヌエル族とブルンジ人の間にも敵意が生じた。カクマ4でヌエル族の子どもをオートバイで故意にはねたとされるバイクに乗ったブルンジ人を、ヌエル族の若者たちが脅したことで新たな紛争が生まれたのだ。その対立で2人のブルンジ人が重傷を負い、キャンプ内の病院で治療中に1人が亡くなった。また、死亡したブルンジ人のバイクが直ちに焼却されたことで、大湖地域出身の難民とヌエル族の闘争心がさらに高まってしまった。
キャンプに警官がいるにもかかわらず、最初の事件が起きてから7日経って状況が悪化した。キャンプ内では暴力が横行し、他の国籍の人たちも脅威を感じるようになった。その日、あるディンカ族の男性がカクマ4のアルヌル小学校の外で異なる民族の出身者によって殺された。白昼堂々と行われたこの殺人で、子どもたちは怖がって学校に近づけなくなってしまった。
主にブルンジやコンゴ出身の8000人近い難民が、安全を求めてキャンプの外にある教会や警察署に1週間以上避難した。
【写真】激しい戦闘の後で避難先を探す子どもたち
10月31日の夜には、カクマ2と3で殺人が起き2人のヌエル人がカクマの異なるセクションで殺害された。また、セクションの境界になっている干上がった川床で、4人の南スーダン人の遺体が発見された。こうした殺害行為は昼夜を問わず11月3日まで続いた。国連の難民機関であるUNHCRと地元の自治組織は、この状況を押さえ込もうとしたが失敗した。ケニア人の警官たちがキャンプに駐留しているにもかかわらず、ディンカ族、ヌエル族、そして大湖地域の難民たちは、槍や鉈などの原始的な武器を手にしてお互いに殺しあった。
【写真】殺害行為で立ち退きを余儀なくされるたくさんの人たち
難民のリーダー2人から聞いた話では、その暴力行為で22人の難民が殺されたようだ。そしてUNHCRの報告は現場の状況を反映していないとも言っていた。「どの人権NGO団体も実際に起きた殺害行為を正確に記録しているとは思えません。6人の難民が殺され、多くの人たちが大湖コミュニティーに住めなくなりました」と、あるコンゴ人の人道支援活動家がKANEREに語ってくれた。
UNHCRカクマ支所の所長は、キャンプの状況についてマスコミに対して意見を述べることができなかった。しかしケニアのUNHCR広報担当者の証言によると、殺された難民は8人だったが、難民のリーダーたちはこれに異論を唱え、殺された人数は国連の当局者が作成したリストに掲載されている倍の数だと言っているということだった。
ディンカ族のリーダーがKANEREのインタビューに答えて次のように話してくれた。「暴力行為が続いた最初の1週間で少なくとも10人の南スーダン人難民が殺されました。翌週になると状況がさらに悪化しました。異なる国籍の11人の難民たちが亡くなったのです」
夜間外出禁止令が布かれ、夜通し銃声が轟いていた。それは、何週ものあいだ、闘争の当事者たちを食い止めるためのものだと信じられていた。
闘争をしている集団の多くの人々が、ケニアの警察官がキャンプ内で法的な手続きによらない殺人をしたと非難している。その時期、治安維持に当たっていた警察官によって少なくとも4人が射殺されたといわれている。
KANEREが交渉した段階では、地域の警察署長は政府の立場についてコメントできなかった。しかしながら、カクマ4に駐在している警察官がKANEREに対して語ったところによると、状況は悪化し、暴力行為が始まって2週間目までに殺された人たちの正確な数は分かっていないようだ。また、「たくさんの死体を集めましたが、まだ発見されていないものもあるでしょう」と個人的な意見を述べていた。
この戦闘の後で400人以上の難民が逮捕され、そのうちの240人は法的な手続きのためにロドワル裁判所に連行された。そして、戦闘行為を扇動した罪で告訴されることになっている。
11月17日の月曜日には、50人以上の人たちがカクマ治安判事裁判所の前に姿をあらわした。拘留者たちの多くは、48時間以上も留置場に入れられ、その間に暴行を受けたと申し立てた。「みんな、ひどく殴られました。コミュニティーに集められた時には、みんなが傷を負っていました。私たちは留置場に3日以上も入れられていたのです」とガトルアク・ングは語った。
「部族間の戦闘の根本的な原因は警官たちにあります。警官たちはこの簡単な事件にプロらしい態度で取り組むべきだったのです」と、ヌエル族のメンバーが匿名で話してくれた。
殺害行為を警戒して武装強化されても、カクマの対立する部族間の状況は不安定なままだった。
最後の事件が起きたのは12月8日の月曜日。カクマ3でブルンジ人が運転するボダボダ(オートバイのタクシー)が異なる民族の2人に襲撃されたのだ。タクシーの所有者は鉈によって身体中に深い傷を負った。負傷者の容体は悪化しており、現在その生存が危ぶまれている。
カクマ難民キャンプは設立から20年以上が経過し、今では18の異なる国出身の20万人近くの人たちの収容所となっている。
南スーダンで争っているディンカ族とヌエル族という大民族の間で起きた戦闘で、少なくとも20人の命が奪われた。これら2つの民族集団は自分たちの居住ブロックを出て民族ごとに集結し、白昼に公然と闘争行為をしてキャンプ内に戦闘を広めている。この民族グループ同士の争いは、南スーダンで現在起きている危機を反映したものだ。
最初の殺人が報告されたのは、2014年10月25日の土曜日のことだった。これは、10月23日の木曜日に9歳のヌエル族の女の子がディンカ族の男の子に襲われたことに対する報復だといわれている。ヌエル族コミュニティーの人たちは、この事件の捜査が警察の汚職で機能していないと非難した。ヌエル族難民のリーダーは、警察はレイプの容疑者をうさんくさい状況にもかかわらず釈放したと言っている。「私はこのレイプ事件で個人的に”香港”地区の警察駐留地を訪問しました。しかし警察は責任のある行動をしてくれませんでした」と、カクマ1のヌエル族難民のリーダーはKANEREに話してくれた。
この闘争はカクマ1のゾーン3/4、俗に”香港”とよばれる地域で始まった。そしてその後キャンプ全体にまで拡大して行った。10月26日の日曜日の朝には4人の死亡が確認された。
10月30日までに、死者は9人になった。加えて、ヌエル族とブルンジ人の間にも敵意が生じた。カクマ4でヌエル族の子どもをオートバイで故意にはねたとされるバイクに乗ったブルンジ人を、ヌエル族の若者たちが脅したことで新たな紛争が生まれたのだ。その対立で2人のブルンジ人が重傷を負い、キャンプ内の病院で治療中に1人が亡くなった。また、死亡したブルンジ人のバイクが直ちに焼却されたことで、大湖地域出身の難民とヌエル族の闘争心がさらに高まってしまった。
キャンプに警官がいるにもかかわらず、最初の事件が起きてから7日経って状況が悪化した。キャンプ内では暴力が横行し、他の国籍の人たちも脅威を感じるようになった。その日、あるディンカ族の男性がカクマ4のアルヌル小学校の外で異なる民族の出身者によって殺された。白昼堂々と行われたこの殺人で、子どもたちは怖がって学校に近づけなくなってしまった。
主にブルンジやコンゴ出身の8000人近い難民が、安全を求めてキャンプの外にある教会や警察署に1週間以上避難した。
【写真】激しい戦闘の後で避難先を探す子どもたち
10月31日の夜には、カクマ2と3で殺人が起き2人のヌエル人がカクマの異なるセクションで殺害された。また、セクションの境界になっている干上がった川床で、4人の南スーダン人の遺体が発見された。こうした殺害行為は昼夜を問わず11月3日まで続いた。国連の難民機関であるUNHCRと地元の自治組織は、この状況を押さえ込もうとしたが失敗した。ケニア人の警官たちがキャンプに駐留しているにもかかわらず、ディンカ族、ヌエル族、そして大湖地域の難民たちは、槍や鉈などの原始的な武器を手にしてお互いに殺しあった。
【写真】殺害行為で立ち退きを余儀なくされるたくさんの人たち
難民のリーダー2人から聞いた話では、その暴力行為で22人の難民が殺されたようだ。そしてUNHCRの報告は現場の状況を反映していないとも言っていた。「どの人権NGO団体も実際に起きた殺害行為を正確に記録しているとは思えません。6人の難民が殺され、多くの人たちが大湖コミュニティーに住めなくなりました」と、あるコンゴ人の人道支援活動家がKANEREに語ってくれた。
UNHCRカクマ支所の所長は、キャンプの状況についてマスコミに対して意見を述べることができなかった。しかしケニアのUNHCR広報担当者の証言によると、殺された難民は8人だったが、難民のリーダーたちはこれに異論を唱え、殺された人数は国連の当局者が作成したリストに掲載されている倍の数だと言っているということだった。
ディンカ族のリーダーがKANEREのインタビューに答えて次のように話してくれた。「暴力行為が続いた最初の1週間で少なくとも10人の南スーダン人難民が殺されました。翌週になると状況がさらに悪化しました。異なる国籍の11人の難民たちが亡くなったのです」
夜間外出禁止令が布かれ、夜通し銃声が轟いていた。それは、何週ものあいだ、闘争の当事者たちを食い止めるためのものだと信じられていた。
闘争をしている集団の多くの人々が、ケニアの警察官がキャンプ内で法的な手続きによらない殺人をしたと非難している。その時期、治安維持に当たっていた警察官によって少なくとも4人が射殺されたといわれている。
KANEREが交渉した段階では、地域の警察署長は政府の立場についてコメントできなかった。しかしながら、カクマ4に駐在している警察官がKANEREに対して語ったところによると、状況は悪化し、暴力行為が始まって2週間目までに殺された人たちの正確な数は分かっていないようだ。また、「たくさんの死体を集めましたが、まだ発見されていないものもあるでしょう」と個人的な意見を述べていた。
この戦闘の後で400人以上の難民が逮捕され、そのうちの240人は法的な手続きのためにロドワル裁判所に連行された。そして、戦闘行為を扇動した罪で告訴されることになっている。
11月17日の月曜日には、50人以上の人たちがカクマ治安判事裁判所の前に姿をあらわした。拘留者たちの多くは、48時間以上も留置場に入れられ、その間に暴行を受けたと申し立てた。「みんな、ひどく殴られました。コミュニティーに集められた時には、みんなが傷を負っていました。私たちは留置場に3日以上も入れられていたのです」とガトルアク・ングは語った。
「部族間の戦闘の根本的な原因は警官たちにあります。警官たちはこの簡単な事件にプロらしい態度で取り組むべきだったのです」と、ヌエル族のメンバーが匿名で話してくれた。
殺害行為を警戒して武装強化されても、カクマの対立する部族間の状況は不安定なままだった。
最後の事件が起きたのは12月8日の月曜日。カクマ3でブルンジ人が運転するボダボダ(オートバイのタクシー)が異なる民族の2人に襲撃されたのだ。タクシーの所有者は鉈によって身体中に深い傷を負った。負傷者の容体は悪化しており、現在その生存が危ぶまれている。
カクマ難民キャンプは設立から20年以上が経過し、今では18の異なる国出身の20万人近くの人たちの収容所となっている。
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