松ひとり言

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≪二宮金次郎の一生≫を読んで初めて知った二宮尊徳

2014年12月08日 10時11分16秒 | 日記

正直、まだ半分しか読んでませんが、なんと凄い人がこの時代に

二宮金次郎と言えば、小学校の校門を潜ると、あの姿で佇んでいた少年

  

 そうなんです薪を背負って歩きながら本を読んでいる少年像

私なんか、この本を読むまで、金次郎さんの事・・・(気安く言うなよ)

全くと言っていいほど知りませんでした、名前も通称≪金治郎≫なんですってね~

それも知りませんでした、一般には『金次郎』と表記されることが多いらしい

天明7年7月23日(1787)相模国足柄上郡栢山(かやま)村に生まれ

安政3年10月20日(1856)下野国都賀郡今市村で70年の生涯を閉じている

二宮尊徳も(そんとく)で通っているが正確には『たかのり』と読むらしい

百姓・利右衛門の長男として生まれているが、農村復興に生涯を捧げている

これは自分自身の過酷な体験からくるもので、5歳の時濁流で家が流され

その時、父の田畑も流失している、又14歳で父を、16歳で母を亡くしている

そこからが、金次郎の頑張りが始まる、荒地を復興させ、僅かに残った田畑を

小作に出すなどして収入の増加を図り、20歳で生家の復興に成功する

百姓が好きでありながら、学問も好きであった金次郎が18歳で岡部家へ奉公に

それは、今までの伯父の家では「ただ働き」同然で、しかも伯父は学問嫌いである

岡部家は学問好きで、しかも給金が頂ける、これも生家復興の為であった

或る時、岡部家の主人から「どうして、講義を聞かないうちからそのように

理解が出来るのかね」と聞かれた金次郎はこのように答えています

「世の中の人達は書物を読む時、まず文章を読んでから、その後で

内容を理解しようとします。 しかし私は、先ず最初に天地大自然の中にある

道理をよく考え、しかる後に読んだ書物の内容が、天地大自然のどの道理に

当たるのであろうかと考えると、おのずと見当がつきます」と

又こんな逸話も残っている・・・・・

* 子供の頃、草鞋を編んで金を稼ぎ、父の為に酒を買った

* 荒地を耕して田植え後の田に、捨てられている余った苗を集めて植えて米を収穫

* 一斗枡を改良し、藩内で統一規格化させた。役人が不正な枡を使って量をごまかし

  差分を横領していたのを防いだ

* 倹約を奨励し、かまど番から余った薪を金を払って買い戻した

* ナスを食べたところ、夏前なのに秋茄子の味がした事から、冷夏となる事を予測

  村人に冷害に強い稗を植えさせた。 予想通り冷夏で凶作(天保の大飢饉)となったが

  桜町では餓死者が一人も出なかった

* 村人の仕事ぶりを見て回り、木の根しか撤去できない、周りの人から馬鹿にされていた

  老人に15両もの褒美を与え、逆に人が見ているときだけ他の村人よりも3倍近くも

  働いているように見せかけて、普段はサボっている若者を厳しく叱った

数え上げると切りがないくらいの逸話があるので、今回はこのぐらいで

この後、生家を復興した力量が認められ、奉公先の服部家の財政建て直し

桜町領の復興事業、殆んど原野と化した青木村の復活、と財政再建や

復興事業に生涯を懸けた、その中でも特に特筆すべきは金融政策である

これまでの小田原藩が投入した補助金や援助費は与えてしまっていたが

金次郎の投入する金は、与えるのではなく、貸すのである

一旦は貸すが、返せるようになった時に返してもらうのである

すなわち、鍬がなければ鍬を買う金を貸すが、鍬で田畑を耕して作物が出来れば

その利益から返済してもらうのである、一度で返せなければ長期分割返済もある

金は与えてしまうと、百姓を甘やかすだけである、と言うのが金次郎の持論である

いわゆる現在に於いての、投資のかたちをこの頃から始めていたのである。

この本の著者【三戸岡道夫】さんは、”あとがき” に

薪を背負って読書する少年像、すなわち一生懸命働きながら、懸命に勉強する少年

これは、少年時代のみにスポットライトを当てただけで、全体像ではないと言っていて

更に、二宮金次郎というと、思想家、道徳家、農村指導者、と言うイメージは半面で

他面には、スケールの大きい実業家、したたかな商人、偉大なる政治家、

静かなる政治家、静かなる革命家、と言う面と両者を総合したのが実像である

その結果、関東を中心に、六百余カ村という村の復興を手掛け

何千町歩、何万町歩と言う、田畑を開発したのである・・・と

そして金次郎の報徳の教えの核心は

  勤労 (よく働く)

  分度 (身分相応に暮らす)

  推譲 (世の中の為に尽くす)

この三大徳目のように、自分の全生涯を農村に推譲した

大資産家になれた事は間違いないはずが、日光の地で死亡した時

金次郎所有の田畑は一坪もなく、また膨大な資金もすべて、

報徳金として貯蓄されて、農村復興資金に投入され、

私有財産としては全く残していなかった、すなわち・・・・・

自分の全財産を、自分の為でなく、農村のために捧げたのである