RIKAの日常風景

日常のちょっとしたこと、想いなどを、エッセイ風に綴っていく。
今日も、一日お疲れさま。

連載小説「冬枯れのヴォカリーズ」 vol.15

2008-12-16 22:33:07 | 連載小説

     §

 12月6日の金曜日は、前から予定していた奈歩と島根に行く日だった。十日ほど前に緑のお母さんに連絡したら、

「来て下さるなんて、申し訳ないです。緑に外泊取らせますね、本当にありがとうございます」と言ってくれた。

 ハチ公前で奈歩と七時に待ち合わせ。出発は八時だ。私は三限まで出て、四限は休み、一旦アパートに戻って、バッグに荷物を詰めた。なんとか仕上がったビーズのネックレスを綺麗にラッピングして、荷物の一番上にそっと置いた。

 遠出は、紅葉ドライブ以来だった。今の時期に島根に行っても海水浴も楽しめないけれど、今回は緑に会いに行くのが目的なのだからそんなことは気にしない。

 七時に奈歩と落ち合い、バスの発着所へ向かう。一泊なのに二人共けっこうな大荷物だ。
 夕食は近くのカフェで簡単に済ませた。二人共コンタクトは取ってメガネにしてきたので、しかも二人共、縁がカラフルで太いメガネなので、傍から見たらデザイナーのように見えたかもしれない。

 19時45分、バスに乗り込む。空いていた。確かにただでさえ東京ー島根間はマイナーな路線だし、時期も中途半端だからだろう。真ん中あたりの席だった。私は奈歩に窓側を譲る。
 ゆったりした座席で、一番後ろには温かい飲み物を自由に取れるところがあって、お手洗いも付いていた。

   バスは八時を少し過ぎて出発した。

 いつもは徒歩か電車での移動がほとんどの東京の街を、大型バスから眺めると、又違ったように見える。これから夜の遊びに繰り出すらしい若者の集団、スーツにネクタイ姿のサラリーマン、露店で商売しているアラブ系外国人、カラオケ屋、飲み屋の勧誘の店員…などが小さく見える。

 ほどなくしてバスは東名高速道路に入った。バスの中の明かりが暗くなる。私と奈歩は、コートを膝掛け代わりにして、後ろに人がいなかったので、おもいっきりリクライニングした。

 奈歩とこうして二人で旅行するのは、考えてみれば初めてだった。一年の始まりから、松崎がいたので、旅行は専ら松崎と行っていたし、そうじゃない時は緑と三人だったりした。

 まだ眠くなかったので、最近の、高村くんと出会ってからの私を反芻していた。本当に降って湧いたような恋。私は奈歩に話してみた。

「奈歩、この間はありがとう。なんか、切ないよ。高村くんとは、ひとたび会って話始めたら、あんなに楽しいのに…。もともと叶わなぬ恋だったんだよね。なのになんで美雪さんがいるのに、会ってくれるんだろ。余計辛いよ。私、どうすればいいかな?早苗にも中村コーチにも、高村くんのことは反対されてる。まずは高村くんに、私に彼がいることを伝えるべきなのかな…」

「理美、理美はね、自分が特別な経験をしているように思っているかもしれないけれど、私たちみたいに多感な時期には、二人の人を同時に好きになってしまうことって珍しくないと思うわよ。私はね、そういう経験、中・高でさんざんしてきて…。昔そういうことあって。だから、私は特定の彼を、結婚を考えられるぐらいの人が現れるまでは、作らないことに決めたの。そのことで、安住する人がいない、不安になることもあるけれど、深く付き合うことに臆病になっちゃったのよね。一方を傷つけるくらいなら、最初から深入りしないようにって。理美、松崎にも高村くんにも、まだ何も言わない方がいいわ。次に高村くんに会う時に、まず告白してみて。美雪さん云々ではなく、あくまでも自分の気持ちを大切にして。正直に自分と向き合ってみて。気持ちって言わないと伝わらないと思うの。でもね、私高村くんに会ってないから何も言えないけど、これだけは言えるわ。松崎は、真っすぐに理美のことを想っているってこと。大切にしてくれているってこと。松崎にとっては、理美以外にいないってこと。松崎を傷つけるくらいなら、少しの間嘘をついてあげて。そのくらい松崎は…」

「わかった。奈歩の言う通りにする。私、高村くんに出会ってね、今まで松崎を基準にしてた恋愛観そのものが見事に壊されたって言うか打ち破られたって言うか…。高村くんは、松崎と何もかもが違うの。そう、女性的って言うのかな。話しやすいし、メールも丁寧に打ってくるし、考え方、目線なんかが似ていて、親近感が湧いてしまって…。私、そういう気持ちって男の人に対して抱いたの初めてなの。松崎とは、確かに一緒にいて心底落ち着くし、同じ物理専攻で色々教えてもらえたり、お母さんがピアノの先生だから嬉しかったり…。でも、震えるような刺激は感じないし、物足りなさを感じているのも事実で…。比べられることじゃないのかもしれないけれど、高村くんが新鮮だったのね。付き合えないって分かっても、気持ちだけ伝えてみるよ。」

 バスは秦野中井ICを通り過ぎてゆく。

 でも、好きとか言ったら、また須藤の時みたいになってしまうようで、内心、迷っていた。好意を抱いた男の子と、振られたからって友達として続いた試しは、未だかつて、ない。

 時計は九時を回ろうとしていた。リクライニングを戻し、後ろから温かいお茶を取ってきて飲む。

 車窓からのキラキラした夜景を眺めていたら奈歩がふいにこんなことを言った。

「理美覚えてる?松崎の友達で今カナダに留学している井上くん。彼がね、この冬帰国するんだ。私ね、メールのやり取りはずっとしてたんだ。一年の時四人でスノボー行ったことあったじゃん、あの時実は井上くんに一目惚れしたんだ。でも、あの時は彼には素敵な彼女さんいたじゃない?で、私、あれ以来特定の彼氏って作らなかったじゃない。それってね、実は井上くんがすごく好きで諦められなかったからなの。でもね、今は一人なんだって。メールで話してくれたんだけど、カナダ留学決意したのも、元カノの影響なんだって。彼は振られたの。元カノの麻里絵さんは、帰国子女でかなり頭のきれた人だったそうよ。井上くんは彼女の視野の広さ、考えの深さ、大人っぽい部分にいつも嫉妬してたって言うか、悔しかったみたい。もっと自分が、彼女と対等なくらい英語ができたり、視野の広い会話ができたりすれば、振られなかったんじゃないかって、彼なりにすごく悩んだ時期があったみたいなの。それで、カナダ留学したんだって。提携してる大学に行けば単位も一部は振り替えてもらえるとかで。それが二年の九月からね。学校は今年の八月で終わったんだけど、彼、今三ヶ月の世界一周旅行に出てるのよ。旅先から一週間おきぐらいにエアメールが来るの。私、夏に思いきって告白したの、『帰ってきたら私と付き合って下さい』って。そしたら、『いいよ、こちらこそよろしく!』って返事がきて。だから私も、今まで中途半端に付き合ってきた人たち、稲葉とかね、12月までに清算するんだ」

 奈歩が井上くんとそうなっていたなんて…。

「奈歩、良かったじゃない!私も嬉しいよ。また一年ん時みたいに、四人でダブルデートもしようね!」  それならカウントダウン・ライヴは奈歩を誘おうと思った。香織には幸い、まだその話をしていなかった。

「松崎もこの間、井上くんが帰国するんだ、って嬉しそうに話してて、年末カウントダウン・ライヴのチケットを四枚取ってくれるらしいの。私が誰か友達を誘って四人で行こう、ってことになってて。じゃあ奈歩絶対一緒に行こう!」

 松崎の友達の井上くんと、私の友達の奈歩が付き合いはじめる…。私は思った、奈歩もこの一年、寂しかったんだろな、と。遠距離恋愛のようなものだったんだもんな。  バスはあっと言う間に浜松まで来ていた。

15分の休憩があり、用はなかったが降りて、伸びをし、うなぎパイを買った。  それから後は、バスのエンジン音が眠気を誘い、深夜にトイレに起きた以外は朝まで熟睡した。


   朝六時過ぎ、日の光で目が覚める。程なくして島根県の県庁所在地松江に到着した。ここで乗客の約半分が降りた。緑の実家は出雲だ。その後、宍道、玉造、と停車し、出雲に着いたのは七時半過ぎだった。

 バス停には緑のお母さんが車で迎えに着てくれていた。

「遠くからありがとうございます」  お母さんが車から出て挨拶してくれた。緑は?と思って車の中を見ると、後ろの座席に、乗っていた!表情は明るかったが随分と痩せていた。
 その姿を見て、私は即座に「拒食症」「対人恐怖症」と言う単語が頭に浮かんでしまった。

 奈歩と私は車に乗り込む。私たちは久しぶりの再会にしばし喜び合い、緑の実家へと向かった。ちょっとよそよそしい緑を感じて、

(ああ、緑はまだ治ってないんだな…)と悲しい気分になったが、表面上はそういう素振りはせず、きわめて明るく接した。

「島根はもっと暖かいのかと思っていましたが、やはり12月ともなると寒いんですねー」
 私は当たり障りのない会話をした。

「そうなんですよ。島根って南の方だから冬は雪が降らないと思っている方もいますけどね、実は積雪量がけっこうあって、スキーも出来るんですよ」
 とお母さんは運転しながら、優しい声で言う。

 20分足らずで到着する。住宅街の一軒屋で、ごく普通の家だ。  前に緑が話してくれたことがあった。緑のお母さんはとても心配症で、3~4日に一回は必ず電話をよこすのだ、と。おそらく十月に、緑の異変に気付いたのだろう。そしてたぶん両親が上京し、アパートに来たら、緑は目に隈を作って、冷蔵庫は空っぽで、もしかしたら廃人のようだったのではないか…。明らかに精神の病と察知できたのだろう。  いわゆる精神病院に入れることはためらったに違いない。が、今、島根県立医大付属病院の精神科に入院しているそうだ。昨日一泊だけ外泊を許されたとのこと。

 どこかで聞いたか読んだのだが、対人恐怖症になると、まずは外界と遮断する時間が、平均丸一ヶ月は必要だそうで、拒食症も伴うと、規則正しい食事の時間も回復につながるということで、それなりの順序と時間を要し、こうやってその道のプロに任せるのが最も早道らしい。

 お母さんは気を利かせて、私たちを緑の部屋に通し三人だけにしてくれた。

 緑が、ポロリ、ポロリと話し始めた。

「私、一年の春休み以降、工藤に夢中だった、工藤が私のすべてになってた、工藤に寄り掛かり過ぎてた。なんであんなにのめりこんだのか…彼にはそういう力があったのだと思う。工藤は、自分の世界を強く持っている人だったの。工藤の考え方は建設的だったし、ゆるぎない心と言うか、自信、気迫みたいなのがあった。それに金銭面でも、デート代は100%彼が持ってくれたし、とにかく私、工藤という人間に身も心も惹き付けられていったの。そうして知らないうちに彼に従順にもなっていった」

 ここまで話すと、トントンとノックの音がして、お母さんがお茶を運んで来てくれた。みかんも三つ添えられていた。お茶を一口飲んで、緑が続けた。

「忘れもしない8月17日、横浜でのデートの最後に、夜の海を眺めながら、工藤はこう言ったの。緑には、もう魅力を感じなくなった。他に好きな人ができた。そして会社が忙しくて、もう会えないって…。魅力を感じなくなったって言われたの、ショックだった。私、自分を亡くしてしまっていた。従順になり過ぎて…捨てられたのよ。で、気が付いたら、周りに誰も友達がいなくなってた。と言うか、自分でそう決めつけていたのね。捨てられたこと、奈歩や理美には恥ずかしくて言えなかった。自分だけでなんとか現実を受け入れようとしたんだけど、工藤に裏切られたことでどの人も信じられなくなって。人に会うのが怖くなってしまったの。それで九月は、デンマにだけは頑張って行ってたけど、バイトも辞めて、ほんとに最低限の人にしか会わずに、食事の準備もできず…料理やその他、普通にできていたことが急に難しくなって。お母さんが島根からお父さんと二人で駆け付けてくれて。即、帰ることになって。奈歩や理美だけにはちゃんと話したかったんだけど、入院しちゃってケイタイも使えなくて…。ほんとに心配かけてごめんね」

 やっぱり想像した通りだ、と思った。深いため息が出てしまった。緑が、あんなに大人っぽくしっかり者の緑がどうして、どうして…。工藤が憎らしかった。別れるには、もっと別のセリフがあってよかったんじゃないか。好きな人ができたなんて正直に言えばいいってもんじゃないだろうが。でも、これだけ緑が過去を認めて振り返ることが出来ていることに、ああ、これなら病気も快方に向かってるんじゃないかと思いホッとした部分もあった。ただ、始末が悪いのは、緑が今でも工藤を、過去の幻影を懐かしんでいることだった。奈歩が、

「緑、工藤はね、悪い男だったのよ。緑もそれを認めて早く立ち直んなきゃ。緑、自分を大切にして。工藤はもう戻ってこないんだから」
 と必死で緑を見つめた。

「緑にふさわしい人はこの先いくらだって現れるわよ。工藤を卒業すればね」
 私も励ますように、肩を叩いた。

 緑はこんなことを言った。

「私、付き合ったのって初めてだったの。中学の時はそういうコト考えすらしなかったし、高校は女子高で。私、初めて付き合ったのが工藤だったの」

 同情せずにはいられなかった。最初に付き合った人というのは、強烈にその後のその人の人生を左右するって、どこかで聞いた事がある。

 それから、またお母さんが、今度はケーキと紅茶を持って来てくれたので、ひとまず話し合いは中断してお茶をした。私は、このタイミングはちょうどいいと思い、バッグからネックレスを取り出し、

「はい、誕生日のプレゼントだよー」  持って来たネックレスを渡す。ラッピングは、緑のイメージに合わせて、エメラルドグリーンにオフホワイトのリボンを結んできた。

「うわぁ、理美、ありがとう」  緑は早速包みを丁寧に開ける。
 そのネックレスは、水色のビーズと透明なビーズを使った、自分で言うのも何だけれどとても精巧なもので、真ん中には緑の誕生石であるターコイスのちっちゃい丸い石をあしらってある。

「作ったものなんだけどね…」  私は照れ笑いをする。

 奈歩もプレゼントを出してきた。それはセリーヌ・ディオンのバラードコレクションのCDだった。

「病院ではCDは聴けるんじゃないかって思って。これを聴くと芯から癒されるわ」

 すると緑は、今まで我慢していたのか、突然箍が外れたように、わっと泣き出した。

  「泣きたいだけ泣くといいのよ。涙は汚いもの全部洗い流してくれるわ」  奈歩も私も、もらい泣きして、三人で声を立てて泣いた。


 しばらく経って、お昼になったので、リビングに下りる。緑のお母さんがお昼を準備してテーブルに並べて待っていてくれた。スパゲッティナポリタンにクラムチャウダー、それにレタスとパプリカのサラダだった。

 お昼を食べた後、リビングの端にピアノがあったので、緑の為に、浜崎あゆみの「ボヤージュ」を弾き語りした。
 緑が真剣に聴いてくれて、終わったらいつまでも拍手してくれたのが印象的だった。
 その後、さすがに長旅で疲れていたせいか睡魔に襲われ、緑の部屋で二時まで昼寝をした。

 一眠りしたらさっぱりして、天気もよかったので、出雲大社に参拝に行こうということになり、準備をして出かけた。

 緑の実家から出雲大社まではほんの十分足らずで着いた。道中うっすらと雪が降っていた。

 出雲大社は鼻高山という山の入り口にあった。縁結びの神・福の神として親しまれているということで、皆、思い思いの願いを込めて、かなり長く手を合わせていた。  帰り病院へ寄り、緑は病院へ戻った。奈歩と私は、

「明日、帰る前に病室に寄るね」  と言って別れた。

 その日の夜は、緑の実家で手巻き寿司をご馳走になり、ご両親と色々お話した。大学のことを話すとお父さんは、

「遠くに出したのが悪かったと思った。こんなことになってしまって…。でも、緑にはこんなに良いお友達がいたんだね。緑は良くも悪くも私に似て、自分の思いを内に閉まってしまうところがあってね。今回のことで、緑は随分苦しんだ。大切なのはこれからどうするかだ。起こってしまったことはどうすることもできないのだからね。これから緑が学校に戻っても、どうかそばにいてやってください」  と私たちに頭を下げた。

 緑は、お父さんが言うように、性格もお父さん似なのかもしれないが、顔も、目が細めだけれど優しく、鷲鼻のところなど、バッチリお父さん似だ。

 その後順番にお風呂に入らせてもらい、十時にはもう緑の部屋へ行き眠りに就いた。  

 次の日、帰る前に緑の病室を訪ねて行った。
 受付を済ませて病室へ向かう。
 緑の病室は四人部屋で広々としていて、時間の流れがゆったりとしているようだった。ベッドもスチール製ではなく木製で、あまり病院という感じがしない。  
  緑は私たちを見ると、目を輝かせた。きっと自分が、普通の人とは違ってしまったような激しい悲しみがあったのだろう。だから、普通の人であろう奈歩や私が、この病室に入ってきてくれた、そのことが本当に本当に嬉しかったに違いなかった。  ベッドでは狭いからと言って、緑は笑顔をいっぱいに興奮しながらデイルームという淡い木の色のテーブルと椅子の置いてある部屋へ連れて行ってくれた。  緑は、昨日よりもスッキリした表情をしていた。  一人、色黒で目がギョロギョロした年配のおばさんが、こちらを興味津々に見ている。

「マサエさん、私の大学の友達なのよ」  緑は、そのおばさんと仲がいいのだと言う。  マサエさんは、急にくしゃくしゃと笑顔になって、

「あ、どうもどうも。ごゆっくりしてらっしゃーな」  と言って背中に太陽を背負って去って行った。

「マサエさんはね、この病棟のボスなの。患者間の情報をいち早くキャッチしてる、すごく頭のいい人よ。あの人を味方につけとけば、ここの病院は過ごしやすいわ」

 私は、ここが「過ごしやすい」と言っている緑にちょっと不安になった。それで、
「緑、でもさ、もちろんゆっくり休んで治して欲しいけど、一月の試験、なるべく受けられるように頑張って戻って来てね」  と優しく言った。

「分かってるわ、ありがとう。実は病院暇だから試験勉強してるんだ。茜が試験範囲とか色々情報教えてくれて」

 茜…戸田茜は、同じ学科のクラスメートで、戸田・永井・夏木と出席番号が並んでいて、二年までは緑の実験パートナーだった。今は彼女も数学を専攻しているので緑にとっては一番の友達だ。因になぜ奈歩とは出席番号が離れているのに仲良くなったかと言うと、入学式でたまたま隣に座っていて、私から声をかけたのが始まり。

「それはいいね。暇つぶしにどんどん勉強して。でも無理はしないでね」

 帰りはお母さんが飛行機の手配をしてくれていて、出雲空港に送ってくれた。

 「色々、ありがとうございました」  丁重にお礼を言われ、

「こちらこそ、お世話になりました。それでは」

 と、三回ぐらい頭を下げながら別れる。

 行きは丸十時間以上かかったのに、飛行機に乗っていたのはたった一時間半足らずで、あっと言う間に羽田空港に着いた。



連載小説「冬枯れのヴォカリーズ」 vol.12.13.14

2008-12-16 21:46:00 | 連載小説

     §

  その週の木曜日、物性論の後、デンマーク体操に行った。奈歩は友達と映画の約束があるということで休んだ。きっと男とだ。奈歩が、奈歩の恋愛の自由さが、少し羨ましい気もした。

 デンマーク体操を躍っている時は、頭の中が白紙状態になって、心がときほぐされるようなリラックス感がある。今日は佐々木コーチだった。佐々木コーチが、整理体操で使うヒーリングミュージックがすごく好きだ。この曲はラジオでも一度偶然聴いたことがあっていい曲だなぁ、と思っていた。佐々木コーチは整理体操の時に、一人一人を回って、肩を揉みほぐし足をブラブラ揺すってくれる。これが何と言っても好きだ。きっとみんなも、心待ちにしているに違いない。

 練習の後は、ずっと先延ばしになっていた、目白祭の反省会を兼ねた飲み会が、池袋の『カプリチョーザ』であった。佐々木コーチがタクシーにしましょう、と言ってくれて、不忍通りで三台やっとつかまえて、カプリチョーザの場所を知っている私が先頭の助手席に乗り向かった。久しぶりのアフターだ。

 着くと、中村コーチは既に着いていて、席で待っていてくれた。
 デンマーク体操部の飲みはいたって健全、コーチが保護者のようで安心感のある飲み会だ。アルコールの入らないお食事会も多い。女ばかりなので妙な色気も出す必要がないので、とてもゆったりのんびり気楽に楽しめる。女ばかり十余人の団体に、なんとなく店員さんの応対も丁寧で気持がいい。世の中、女は得にできている。

「それでは、目白祭お疲れ様でしたー」
 曲がりなりにも部長の私が、乾杯の発声をする。ビールの人が一人もいない。皆カシスオレンジとか、ファジーネーブルとか、甘いカクテル系で、中にはソフトドリンクの人もいる。

 乾杯の後しばらくして、後輩の女の子が、

「私、理美先輩の動きが憧れなんです。すごく伸びやかで柔らかくて、顔の付け方とかも上手いですよねー」

「そう?ありがとう」  後輩にそんな風に見られていたかと思うと単純に嬉しくて、残りのカクテルをグイッと飲み干した。

 奈歩は、会が始まって30分くらいして顔を出した。デートを早めに切り上げたらしい。
「奈歩の好きなトマトとニンニクのスパゲッティまだ残ってるよ」  奈歩によそってあげた。

「永井さん、このところ顔見ないけど、どうしたのかしら?」  と中村コーチに聞かれ、私は一瞬止まったが、中村コーチは一年からの付き合いで、気心も知れているお母さん的存在なので、ありのままを話した。

「そうだったの…。可哀想に。何にもしてあげられなかったわ」  と、とても悪がっていた。

 何ごとも未然に防げたらそれは願ってもないことだ。でも起こってしまったことについて、誰を攻めることもできないし、恋愛って特にそういう要素が強いんじゃないかと思う。

「近くにいたはずの奈歩や私でも手助けできなかったんです。でも、もしかしたら緑にとって、目白祭の練習は、唯一気が紛れた時間だったのではないでしょうか?彼と別れたのが八月の中頃だったと思うので。とにかく、今度12月に奈歩と島根に様子を見に行って来ようと思っています」

 店を出たのは九時半過ぎだった。みんな気分良く酔ってすっかり和んで、手を繋いだりして駅まで歩く。奈歩や中村コーチたちとは池袋で別れる。新宿方面の3~4人で一緒に山手線に乗り、新宿で皆と別れた。

  東中野からの帰り道、酔った勢いで高村くんに電話してみたくなったけれども、話すことも見つからなくてやめた。     

  
    
    §  


 11月最後の週末は、松崎に予定があって、久しぶりに土・日が空いていた。  私は土曜日の11時頃、高村くんにメールしてみた。

「11月もあっという間に終わりですね。ところで今日、もし良かったら午後近所でお茶でもどうですか?」
 2、3分してすぐ返事が来る。
「大丈夫、空いてます。では二時半にアパートの下に迎えに行きます」  高村くんとデートだ。これはもう完全に二股だ。でも…奈歩と比べたら大したことではないだろう。高村くんとは手も繋いでないし、キスもしてないんだし。
 私は、随分迷った末に、グレーで前にワインレッドとピンクとシルバーのダイヤ型の模様の入ったセーターに、黒と白の細かいチェックの、脇に黒いベルベット素材のリボンの付いているミニスカート、そして黒のロングブーツにした。コートは言わずと知れた赤いPコートだ。お化粧は、格好に合わせて暗めのアイシャドウにマスカラはあまり濃くない程度に吟味して付け、口紅はいつもよりも濃い色のにした。われながら季節にふさわしい満足のいくオシャレができた。

 2時28分、メールが来る。

 「着きました」

 お気に入りのヴィトンのショルダーバッグに化粧ポーチとお財布と携帯とハンカチを入れ、さっと黒のロングブーツを履き、鍵をかけ、下へ降りる。

 高村くんも、今日はオシャレをしていた。紺のPコートを羽織り、ボタンは閉めずに、中には白いシャツに私と偶然同じダイヤ型のカラフルな模様のベスト、そして黒い細みのズボンを履いている。

「今日は、ファミレスじゃなく、連れて行きたいところがあるんです」  高村くんはそう言うと、ゆっくりと歩き出した。もしも、私が手を差し出せば繋いでくれそうな、そんな雰囲気だった。でも、この距離感が心地よくて、手を繋がずに二人並んで歩いた。

 街路樹は葉っぱをすっかり落とし、風も冷たく、道行く人たちも皆、冬物のコートを着込み、マフラーをしっかりしている。手袋をしている人もいる。今年の流行は毛布を捲いたような袖無しニットで、ポンチョとか言うらしい。

 五分ほど歩いただろうか、スーパートヨクニの手前で、高村くんは細い道に入った。立て掛け式のオシャレな焦茶色の看板に『Cafe 傅ーDENー』と書いてある。その奥に、ひっそりとした喫茶店があった。近所にこんなオシャレな店があったとは知らなかった。高村くんは美雪さんと、いつもこういう素敵な所でデートしてるんだなぁ、と想像した。

 聞くと、この店は高村くんの秘密の場所で、高村くんはよくここで、本を読んで時間を過ごすのだそうだ。

 中に入ると、店内のカウンターにオーナーらしき、グレーヘアーに整えられた口ひげのダンディなおじさんがいて、コーヒーカップを真っ白い布巾で磨いていた。

 「お好きな席へどうぞ」
 愛想よくも無愛想でもなくオーナーはそう言って目配せをする。

 店内には、私たち以外誰もいなかった。そもそもこの店はオーナーの趣味で始めたらしく、特に儲けようとしてはいないのだと高村くんは言った。

 私たちは、一番奥の端の席へ座った。
 大きなガラス張りの窓の外には、綺麗な深い緑色のツタの葉が茂っていて、その奥には形のいいもみじの木がすっかり葉っぱを落とし立っていて、私たちを興味深そうに見ている。

 店内には、バッハの平均律が流れている。
 照明も蛍光灯ではなく白熱灯で落ち着いた雰囲気だ。
 メニュー表もおしゃれで、和紙に筆文字で書かれてある。高村くんは、

「いつものブレンドお願いします」  丁寧な頼み方にすごく好感がある。どうやら店員さんにも顔を覚えられている様子。
 私はケーキセットを頼んだ。飲み物はこの店自慢の炭焼ブレンドコーヒーにしてみた。

 二人はしばらくの間窓の外を眺め、心からリラックスしていた。もう最近では初めて出会った頃の、息の詰まるような、むせるような緊張感は取れていた。  

 この喫茶店は、天井が高いからか、美術館のように声が響く。彼のボイスがとても心地よい。
 そして、今日も、実にさまざまなことを話した。おじいちゃんは被爆者で車椅子生活をしていること、記者クラブの活動のこと、好きな本や食べ物のこと、音楽のこと…。

「世界中の核兵器がなくなることを、おじいちゃんは願っています。ヒロシマ・ナガサキの惨事が再び繰り返されることのないように、と。ほんとに優しい心を持った人だから、オレもおじいちゃんの想いを受け継いでいきたいって思っていて、今、おじいちゃんの書いた手記を英訳してるんです。この間はNPOの集会に参加してきたんですが、けっこう学生も多くて、今後様々な事業を展開していこう、という活気に満ちあふれた集会でした。その後の懇親会にも出席したんですが、尊敬するフォトジャーナリストも来ていて、少しだけ話をすることができて、それはもう感激でした」   
 
 彼の話し方、声のトーンや抑揚はとても上品で、その声を聞いているだけですごく満たされた気分になった。そして、その端正な顔を見ているだけで…。

 高村くんは、人に分かりやすく話すことに関して天才的だった。

 時間はあっと言う間に過ぎ、日も傾きかけてきた。

 気が付くと、初雪が降っていた。

「あっ、雪」  高村くんがちょっと興奮気味で言う。

 私は窓の外を見た。ふわふわのとても柔らかそうな、綿を小さく千切ったような雪が風に舞い散っている。高村くんは雪が珍しいらしく、

「夏木さんはウインタースポーツ何かされるんですか?」  と聞いてきたので、

「ええ、三才ぐらいからよくスキーに連れて行ってもらってたよ。だから上手かどうかはともかくも、恐怖感っていうのはないの。私、スキー場で見る樹氷がとても好き。それからリフトで流れている音楽も」

 地元のスキー場を懐かしく思い出す。

 それからは雪にまつわる話になった。

「美雪は12月24日、なんとクリスマス・イヴ生まれなんです。広島でクリスマスに雪が降るのは珍しいんですが、美雪が生まれた日は、真っ白な雪が降って。それで、美雪っていう名前が付いたんです」

 高村くんが美雪さんの話をすることに、不思議と嫉妬は感じなかった。むしろ、高村くんが発音する「ミユキ」という響きが、とても綺麗で、憧れのようなものさえ抱くようになっていた。

 すっかり暗くなったと思い、時計を見ると、あっと言う間に五時半になっていて、そろそろ出ようということになった。こんなに素敵な場所に連れてきてくれたお礼に、お代は一緒に払った。

「ありがとうございます」  丁寧にお礼を言われた。

 それから高村くんは、馬場でサークルの人たちと飲みがあると言うことで、店の立て看板の所で別れて、落合駅の方へ歩いて行った。少し寂しかったけれど、それでも十分幸せで、アパートに帰ってからもその日はずーっと余韻が残っていた。

 夜、お風呂を沸かして入った。部屋の明かりを消してロウソクの炎で入るのが好きだ。バラの入浴剤を入れてお湯は熱めにする。お風呂に入りながら、やっぱり考えることは高村くんのことだった。 




     §

 早苗に高村くんのことがバレたのは、翌週の月曜日だった。
 珍しいこともあるもので、午後からの応用物理学実験がお休みだったので、二限のLL教室での英語の授業の後、いつものように奈歩と坂を下りラウンジに行った。そしたら早苗もいて、

「ちょっと来てよ」  と私と奈歩をカフェテリアに連れていって席に着くなり、

「理美、どういうこと!うち、聞いとらんよ」  といきなり切り出した。

「優のことや。高村優。あんた知ってるの?いつからよ?どういう関係?松崎はどうしたんよ!」

 あまりの剣幕に、私と奈歩はちらっと周りを見渡した。

 高村くんのことは、実は奈歩にもまだ内緒にしていたから、私は返答に困った。

「早苗には言おうと思ってたんだけど…」

「優は、同じ西の方出身で、一年の中では唯一話が通じる、かわいい弟のような存在なんよ。土曜、サークルの飲み会やったんけど、優が理美のこと聞いてきたんでびっくりして。いつから知り合いなん?知り合ったきっかけは?え?」

 私は、まずいことになったと思った。早苗に知られたということは池上くんに流れるのは時間の問題で、そこから松崎にバレるのは確実だ。

「高村くんは、近所のファミレスでよく顔を合わせてて、ある日話すきっかけがあって、それ以来友達になったの。でも早苗、誤解しないで。高村くんとは、単なる近所の友達で…」

 と自分に都合のいいような無難な返答をする。

「二人で会ったりしてるんじゃないの?」  早苗が詰問する。私は涙目になった。

「二人で会ったことはあるけれど、本当に友達としてよ。キスはもちろん、手を繋いだこともないのよ」

「松崎がいるのに、他の男と二人で会うっていうのは、もうそういうのは二股って言うんよ!」  早苗は容赦なく言い放った。

「じゃあ奈歩はどうなのよ。奈歩はキスまでする相手が五人もいるじゃない。それでも私は悪いのかな」

「奈歩は同罪やない。奈歩は特定の彼がいないから許されるんよ。そういうことができてるんやから。そやけど理美、あんたには松崎がいるんよ。松崎がもし知ったらどう思う?悲しむわよ」

 私は下を向くしかなかった。

「理美、うち池上にも松崎にも言わんどいてあげるから、自分でちゃんと解決するんよ」
 早苗は、厳しいのか優しいのか分からない。

 五時からデンマーク体操だった。部活の後、中村コーチに悩みを打ち明けた。

  「私、好きな人が二人いるんです。一人は一年からずっと付き合っている人で、この間の発表会にも友達連れて観に来てくれました。彼とはもうすっかり落ち着いていて、ちょっとマンネリ気味で…そんな時、もう一人、高村くんって言うんですけど、を最近すごく好きになってしまって、彼に内緒で会っているんです。彼、最近研究で忙しくてあまり会ってくれなくて…高村くんは彼と何もかもが正反対で、とても新鮮で。この間も近所の喫茶店に連れて行ってくれて、とても楽しくお話したんです。彼とは高村くんほど話が盛り上がったりしたことがなくて、今、正直高村くんとの時間の方がすごく楽しくてドキドキするんです」

 すると中村コーチはこう言った。

「恋愛って楽しいことばかりじゃないわ。時には辛くなる出来事もあるものよ。今理美さんは大事な時ね。高村さんは、理美さんに彼がいることを知らないからそういう振る舞いをしているのだと思うわよ。だから理美さんは、このままだと彼と高村さんの両方を失ってしまうかもしれないわよ。自分の気持ち、整理してみて。彼とのこれまでの軌跡を簡単に壊しちゃだめ。ダメージを受けるのは理美さんあなたなんだから…」

 その晩、私はアパートで、TVも音楽もつけず、部屋の電気もつけず、考えていた。そうか、高村くんは、私に彼氏がいることを知らないんだ。それなら高村くんは悪くないのか。でも美雪さんに対して後ろめたい思いはないのだろうか…。悪いのはすべて自分なんだろうか…。

 私は耐えられなくなって、アパートを飛び出した。向かったのは高村くんの家だった。  高村くんの部屋を外から眺める。明かりは点いていた。2~3分寒い中立ち尽くして、ずっと高村くんの部屋を見上げていると、犬を連れたおばさんが不審そうに私をじろじろ見て、そうして去って行った。それでも私はまだその場から立ち去ろうとはしなかった。 そのうち、明るいカーテンにちらちらっと人影が見えた。

 (あっ、高村くんだ)  と思ったら、すぐ後にもう一人の人影が見えた…。

 (美雪さんだ……)  知ってはいた。けれどショックだった。私は入れない高村くんの部屋に入れてもらってベッドで戯れている美雪さんに、私が嫉妬しないはずがなかった。私はもと来た道を小走りで引き返す。分かっていたはずなのに…。それなのに…。涙が出て来た。

 アパートに戻っても、まださっき見た光景が頭に焼き付いて離れない。涙がじんわり流れ出して、だんだん大粒になり、止まらなくなった。私は無意識にケイタイを取り出し、検索して通話ボタンを押す。

「理美、どうしたの?」  奈歩は心配そうに言う。こういう時に聞く親友の声って、なんて柔らかいんだろう。私は奈歩に今の出来事をありのままに話した。

 「うんうん、わかるわ。理美、辛いね」  奈歩は肯定も否定もせずに、私をただ、受け止めてくれた。




連載小説「冬枯れのヴォカリーズ」 vol.11

2008-12-16 14:36:06 | 連載小説
 
     §  

 その週の土曜日、11月16日に代々木第一体育館で、フットサルの秋季リーグ戦「オータム・カップ」があった。  こうやって他大との交流試合をするようになったのは、つい最近になってからだ。一年の時はフットサルの認知度はまだまだ低く、三年になってやっと8チームまで増えた。しかし、運営費などの関係で、まだ会場を二日間借りたりはできないので、トーナメント戦で行われる。

 全試合が終了したのは夕方五時過ぎだった。ベジェッサ西早稲田は惜しくも4位、まずまずの成績だ。六時から渋谷で交流を兼ねた合同飲み会が開かれ、ドライブ以来皆が顔を合わせた。

 松崎もいたが、席が遠かった。この間の深夜から朝方の高村くんと過ごした、あの、なんとも言えない神秘的な時間の余韻が残っていて、後ろめたさを感じ、松崎の近くにいくのがためらわれたのだ。

 私は、飲みながら、周りの人の話を聞いているフリをして、ぼんやりと、遠くにいる松崎を見ていた。高村くんのことも反芻しながら…。

 飲み会場は、広々とした座敷で、8人が座れるくらいのテーブルが、合計12卓あった。ざっと数えても90~100人いる。すごい団体だ。

 私のテーブルにいる池上くんと早苗は、さっきからいちゃついている。池上の食べかけのやきとりを早苗が食べたり、お互いのお酒を交換して味見したりしている。ほんとに仲がいい。修平は、というと、隣の後輩たちのテーブルにいて、おそらくあの子が修平に告白したのだろう、と思われる子と隣り合って、楽しそうにおしゃべりをしている。

 奈歩は、あれ?奈歩がいないなぁと、思って、ついでにトイレに行こうと思って、席を立った。この店はビルの八階にあって、トイレは、一旦店を出て七階に下らなければならない。  エレベーターがなかなか来ないので、非常階段を使おうと思って人気のない階段を下ろうとした、その時だ。

 八階と七階の間の踊り場で、キスをし合っている男女がいる。私はなるべく目を合わせないようにして、でもちょっと興味があって、ちらっと彼等を見た。

 …奈歩と稲葉洋介だった。 「奈歩…」  私は、声を押し殺し、二人に気付かれないように、そそくさと、だけど静かに階段を下り、トイレに駆け込んだ。

 今見た光景を、頭の中で再現してみる。
 特定の彼氏は作らず、キスまでできる男が五~六人いることを、親友として忠告したこともあった。しかし奈歩の言い分はこうだ。

「私は、セックスをしたら二股だけど、キスまでは二股とは言わないって思ってる。それに、大学時代は広く浅く色々な人と知り合いたい。だから特定の彼氏は作らない。そして、男友達の中に、キスまでする人が何人いたって、私がそれぞれの相手とそれぞれの時間を過ごして、どの人にも、他の男の話をしないことにしている。それが最低のマナーだと思ってるわ。それさえできれば自由にしていいと思う」

 だが、もしも、相手が奈歩の素性を知ったら、ショックを受けるんじゃないだろうか。キスだって、ちゃんと付き合っている人とじゃなかったら、それか、付き合おうと思っている人とじゃなきゃできないんじゃないだろうか。
 奈歩にとって、きっとキスとは、どこかの国でのそれのように、挨拶代わりぐらいのものなのかも知れなかった。セックスだって挨拶代わりみたいな価値観の国だってあるぐらいだ。人それぞれでいいと思う。でも……。

 私は、私は、松崎と別れないうちに、高村くんとキスすることは、できないだろう、と思っていた。高村くんが男女の付き合いについてどう感じているかは分からないけれども、少なくとも、自分自身を欺くことになる。美雪さんの存在を知っているのだから、なおさらそんなことはできない。

 でも…。今の私はもう、そういう自信はなかった。今度高村くんと会ったら、手ぐらい繋いでしまいそうな予感がした。キスだって、絶対ないとは言いきれない。

 飲み会場に戻ると、なんだかみんなべろんべろんに酔ってすごいことになっていた。ふと松崎を目で探すと、松崎は他大の同期の男の子数人と話していた。おそらく理系同士の真面目トークか、それでなければフットサルのことだろう。

 私は、さっきの奈歩と稲葉のキスシーンを見て、急に寂しくなって、松崎の方へ近寄って行った。

 松崎は、他大生の前で困ったような顔をした。松崎は、顔に似合わずヒゲも濃くひそかに立派な胸毛もあって、欧米人の血が流れているようにもかかわらず、公衆の面前でいちゃいちゃしたりすることを何よりも嫌う。私は、もちろんこういう場でキスはしないにしても、池上と早苗がしているような、食べかけのものを食べたり同じコップの飲み物を飲んだりするくらいいいじゃないかと思う。でも、松崎は、そういうことにもいい顔はしない。たぶん、いい解釈をすれば松崎は私を大切にしているのかもしれない。私との時間は神聖なもの、スキンシップは秘めやかに行いたい、と…。

 飲み会は10時にお開きになり、その後カラオケに流れた。2時間歌って、アパートに帰った時には既に1時を回っていた。松崎は誘ったが来なかった。

 翌日の日曜日、まだ布団でぐずぐずしていると、実家から電話がかかってきた。

「理美、昨日は夜遅かったの?何回か電話したのよ。それはそうと、今日午前中に届くように野菜送ったから…」

 「ありがとう」  私は眠い目をこすりながら、あまり働いていない脳からやっとその言葉を出す。

「理美、年末の予定はどうなってる?お姉ちゃんは長澤さんを連れて12月30日から帰ってくるんだって。理美もその頃帰ってきたら?」

「うん、ちょっとまだわかんないや。もう少し近くなったら連絡するよ」  とにかく眠くて、適当に返事して切ってしまった。

 11時頃、玄関のベルが鳴り、野菜が届いた。箱を開けると、いつものように、各野菜を新聞紙で包んで、筆ペンで「ダイコン」とか「ゴボウ」とか書いてあった。野菜の他に、乾燥したプルーンやコーンの缶詰、カットわかめなども入っていた。私はそれらを冷蔵庫や戸棚にしまい、ひと休みして、出かける準備を始めた。午後、松崎と目黒の庭園美術館へ行くことにしているのだ。時間を決めてなかったから、
「2時半に目黒駅東口改札でいい?」とメールをして、着替え、化粧をしていると、十分ぐらいして
 「了解」と返信が来たので安心する。

 松崎は、メールもあまり好きではない。出しても返事はすぐに来ないし、来ても最低限のことしか書いてこない。でも、男の人は大抵皆そうなのかもしれないから、あまり気にしないようにしていたが、高村くんは違った。丁寧に長いメールをよこしてくれる。

 庭園美術館では、企画展『マリー・ローランサン展』が開催されていた。幼い頃、長野に家族旅行に行った時、初めてマリー・ローランサンの絵と出合い、子供心にも、なんて素敵な色合いの絵だろうと思ったことがあった。パステル調の、ピンクや白やラベンダー色を使い、女の子や動物などをモチーフにしている絵だ。数週間前、電車の中刷り広告でこの企画展のチラシを見て、松崎を誘ったのだ。  

 松崎は白金台に住んでいるから、目黒駅に来るよりは直接庭園美術館へ行った方が近かったのだろうが、庭園美術館は初めてだ、と言うと、快良く駅まで迎えに来てくれた。松崎は小さい頃よくお母さんと弟と一緒に、この美術館へは散歩のついでに立ち寄っていたらしい。

 美術館の正面入り口には、なんと大好きな『ルネ・ラリック』の作品が待っていてくれた。女神が羽を広げているガラス細工だ。

 展示物は、素晴らしかった。『接吻』は、淡いピンク、ブルー、グレー、そしてアクセントにブラックが使われていて、どこか哀しさが漂う。『狂乱の1920年代』と言われるお祭り騒ぎのパリ社交界で人気画家だった時代の代表作だ。晩年を飾る大作『三人の若い女』には、憂いの面影は消え、暖色系を使った楽しげな心模様が映し出されている。

 松崎と私は、終始無口だった。もちろんこういう場で大きな声でしゃべるのはどうかと思うが、お互いの感じたことを小声で言い合うのはいいと思うのだが、松崎は無口だった。私は、もし高村くんだったら、高村くんとだったら、色々話しながら楽しく鑑賞できたんじゃないだろうか、そんなことばっかり考えていた。

 展示を見終わった後、木の渡り廊下を通って、別棟にある喫茶店でお茶をした。店内にはベートーヴェンの交響曲『田園』が流れている。この喫茶店は、普通の家の応接間にあるような木製の低いテーブルにゆったりとしたソファだった。窓はとても大きく、庭の景色が見える。松崎はさりげなく私を窓側にしてくれた。

 「理美ちゃん何頼む?」  ケーキセットを頼んだ。
松崎はコーヒーを頼む。松崎はKOOLで一服する。

 一生懸命話すことを考えた。それで、この前のりんご狩りの時早苗に言われた『話を引き出してみる』ことを実践してみようと、研究のことを初めて聞いてみた。

「ねえ、大ちゃん、液晶ってさ、正体はどんなものなの?」  理系とは思えないような幼稚な質問だっただろう。けれども、松崎は『液晶』と言う言葉を聞いたとたん、顔にひまわりが咲いたのだ。それからは思いもよらぬ、松崎のオンステージだった。

「まあ、確かに正体って言い方が合ってるね。あのね、液晶って一言で言うとね、液体と結晶の中間の物質のことを言うんだ。結晶とはそもそも、例えば氷の結晶の場合水分子H2Oが一方向を向いてるように、原子や分子が規則的に並んだ状態のこと。それに対して液体は、例えば氷が溶けて水になると、分子がいろんな方向を向いてある程度自由に動けるんだ。これは分子間力とか熱による力の関係によるんだけれど。さらに水がもっと温度上昇すると水蒸気になるでしょ。この状態になるともう、分子は自由奔放に動きだすよね。この固体(結晶)、液体、気体の三体の存在がこれまでの地球上の物体の状態であるというのがこれまでの考えだったのね。1800年代頃までの…」
 ここまで松崎が話したところで、松崎のコーヒー、私のケーキセットが運ばれて来た。  松崎はコーヒーを右端によけて、続けた。

「液晶は、液体と結晶の両方の性質を持っているんだ。外観は半透明でドロドロしたものと言っておこうかな。液晶には『粘弾性エネルギー』っていうのが働いていてね。液体って、実は不安定なんだ。考えてもみてごらん。氷はそれこそマイナス273℃からあるし、水蒸気は100℃以上ですごく高温にもなるけれど、水っていう状態は0℃から100℃の間だけなんだ。液晶は有機化合物だよ、ベンゼン環って習ったじゃん?あの形態が基本になってるんだ。で、温度は常温が最適温度とされる。25℃くらいかな。それ以上でも液晶状態が保たれる組み合わせもあるけどね」

 松崎がこんなに雄弁なのは今までで初めてだった。ちょっとびっくりした。松崎はコーヒーを一口飲んだ。私は、素朴な疑問を投げかけてみた。

「じゃあさ、液晶テレビと普通のテレビの違いは?」
 松崎は、にこっと笑って、また話し始めた。

「液晶と液晶テレビって言ったらまた別の話なんだけどね。普通のテレビ(ブラウン管)はね、それ自体が光ってる、すなわち『発光』と言う現象を用いているテレビで、自発光型って言われてる。液晶テレビ以外はすべてこのグループに入るんだ、プラズマテレビやFEDや有機ELなんてものが今出てるかな。それに対して液晶テレビっていうのは、非発光型って言われてて、液晶そのものは光っていなくて、液晶の裏にある光源からの透過量をコントロールしているだけなんだ」

 松崎の眼は、すっごく生き生きしていた。松崎の頭の中は、私には想像できない位の世界が入っているみたい。
 私は、松崎の情熱に圧倒されて、ただただ、ふ~ん、と頷くしかできなかった。松崎は、こんなことを言った。

「理美ちゃん、この世の中って不思議なことの固まりじゃないかな?発光って言う現象もね、人間の目に見えるほんのちょっとの波長の間でのことでさ、本当は目に見えてる世界なんて、全体のごく一部にすぎないんだ。オレさ、前から思ってることなんだけどね、同じ人間や哺乳類でも、瞳の色によって見えてる世界って違うんじゃないかって。オレと理美ちゃんだって見えてる色が違うかもしれないよね…」
 松崎って、そんなこと考えていたんだ。やはり松崎はとてつもない人なのかもしれない。  それから松崎はふと思い出したように話題を変えて、

「理美ちゃん井上祥って覚えてる?上智休学してカナダ行ってるヤツ。井上が年末帰ってくるんだ。昨日パソコンにメールきててさ。でね、カウントダウン・ライヴに行こうと思うんだけど、理美ちゃんも誰か一人友達誘って、四人で行くのはどうかな?」
 井上祥。松崎と中・高一緒で、一、二年の頃はたまに一緒に飲みに行ったり、クラブに行ったり、と親しくしていた。

「いいね!じゃあ香織にでも声かけてみようかな」  田中香織は、中学二、三年で同じクラスになって以来の友達で、唯一高校でも同じクラスになった友達だ。地元で一番の親友だ。

 カウントダウン・ライヴっていうのに一度行ってみたいと私が去年だったか言ったのを、松崎はちゃんと覚えていてくれたんだ。両親はちょっとがっかりするかもしれないけれど、こういう年明けに憧れていたし、ライヴから福島に直行すれば、数日は帰省できる。

「夜通し、かあ~。楽しみだぁ」  その日は実家にはお邪魔せずに、目黒駅で別れた。



 翌日の月曜日、銭湯に行ったら閉まっていた。

「そうだった、月曜日は休みなんだっけ…」  がっかりして、アパートに戻ろうとして、ふと、高村くんの家の方へ足が動いていた。  すみれ荘の二階の奥の部屋。明かりが点いている。なんだかそれを見ただけで、心の中にもポーッと明かり点いたような気分になった。



連載小説「冬枯れのヴォカリーズ」 vol.9.10

2008-12-16 14:35:29 | 連載小説
   


  §


 天気予報は、仙台で初霜を観測したと告げた。

 週明けの月曜日、四限の後、学内の喫茶店で奈歩と私は、緑に会いに島根に行く計画を立てていた。

 飛行機じゃ高いから夜行バスにしようと言うことになり、日程は緑の誕生日に一番近い週末の、12月6日金曜の夜出発、ということにした。

「緑には言えないけど、私、昨日の新聞で、工藤勇哉の会社が倒産した記事を見たの。工藤って、関西でも指折の不動産会社の社長だったのね、あんなに若いのに…。それもそうよ、私たち三人にティファニーのネックレス買ってくれたんだもんね、やっぱり普通の人じゃなかったんだ」
 その不動産会社は、かなりの数の物件の住宅ローンを水増しして組み、一年間でおよそ7000万の利益を得ていたことが明るみに出たのだった。緑は、誰がどこから見ても悪い男に引っ掛かったという構図になる。

 次の日の夜、私は翌週に提出予定の応用物理学実験のレポートを、例のファミレスでやっていた。今回は「弾性体の共振現象」というテーマで、前回の「ホログラフィー」に比べると分量も少なく、だいたい見通しはたっていた。

レポートに取りかかりながら、高村くんのことを考える余裕もあった。
 この間、ここで夕食を食べた時、高村くんにケイタイの番号とメールアドレスを教えてもらっていた。それは、既に登録済だった。早々と登録はしたものの、彼女さんがいることに気を遣って、そして、自分も松崎がいる手前、ためらわれて、あれからメールはしていなかった。でも、レポートに飽きて、高村くんのメールアドレスを凝視し、メールしてみたくなった。

「夏木です。この間は偶然お会いでき、夕食ご一緒できてとても楽しかったです。ところで、今日は銭湯に行く予定はありますか?」
 自分でもびっくりした。夜中のデートに誘ったようなものだ。送信した後ものすごく後悔した。
 2、3分して、すぐ返信がきた。緊張して受信ボックスを開く。

「僕も今日は銭湯行くつもりです。よかったら12時にロビーで待ち合わせましょう」
 おいおい、いいのか?彼女さんいるのにいいのか?今日は思いきって彼女さんのこと、聞いてみようか。
 私は急にそわそわし始めた。よし、レポート提出までまだ日数あるし、今日はここで終わらせてアパートに戻ろう。
 帰り道、久しぶりに豆腐屋さんに寄ってみた。なんだか心が弾んでいておばちゃんに初めて話しかけてみた。
「私このすぐ近くのエレガンス東中野に住んでいるんです。ここのお豆腐はスーパーのと全然味が違いますよね。いつも朝早くから作ってらっしゃいますよね?この間朝早くドライブに出掛けた時、5時半頃ゴミを出しに下に降りたらもう開いていたので…」
 いつもの1個150円の大きめのお豆腐一丁を、容器に入れるおばちゃんの手付きを眺めながら、そんな風にベラベラとしゃべった。
 するとおばちゃんは顔をくしゃくしゃにして、
「そうなんですよ。豆腐屋はみんな早起きなのよ。うちはね、ほら、そこの小学校あるでしょ、あそこの給食に使ってもらっててね。それでなんとかやっていけてるんですよ」
 私はおばちゃんの話を聞いて、地域の商店っていうのはその地域と密接に関わっているんだな、と妙に納得した。

 夕食を簡単に済ませ、早速うきうきして、どの服を着ていくか選ぶ。

「たかが銭湯に行くのに、オシャレしたら変だよなぁ。さりげない普段着ってどんなかなぁ…」
 結局色々悩んだ末、黒の五分袖のニットにジーンズにした。でも今日はL.L.Beanのフリースではなく、赤いPコート。
「ブーツじゃ大げさかなぁ」
 近所に買い物に行く時によく履くプーマのスポーツシューズに足を入れる。

 銭湯では、はりきって体を磨いた。もしかして、もしかしてロビーで話した後…とはまさか思わなかったけれど、高村くんと私なら、何があってもおかしくはないように思われた。つまり、高村くんは彼女さんがいるのにこの間私を夕食に誘ったし、私は私で松崎がいるのに今日高村くんを銭湯に誘った、そして二人共その誘いに乗ったこと。そんなイケナイ二人なら何かあってもおかしくはないじゃないか。『二股』の二文字が頭に浮かんだ。

   早めにお風呂から上がる。時刻は11時20分。今日は入念にドライヤーで髪を乾かす。替えの下着は、自分が持っている中で一番高く気に入っている、表参道で夏のバーゲンに買った青紫色のフランス製のエレガントなのにする。半額になっていたにもかかわらず上下で8000円もしたもの。

 鏡の前で自分の顔をじいっと見て、風呂上がりにおかしくない程度のナチュラルメイクにすごい時間を使って、自然なまゆを描き、薄くピンクのグロスをぬる。髪は、ワイルドさを出そうと思い、わざと束ねずに、前髪と脇の髪だけをざっくりとバレッタで後ろに一つにする。私は、髪質にだけは自信がある。特に整髪料をつけなくてもツヤのあるサラサラのストレートで、松崎も私の髪を触るのが趣味だ。

 11時45分。ロビーに行く。心臓がバクバクいう。今頃高村くんは、このすぐ後ろで湯船に浸かっているんだろうか…。

 11時53分。緊張でたまりかねて、内容に集中できないと分かっていながら新聞を取り、読んでいるような格好をする。

「あ、夏木さん、どうもお待たせしました」

 11時59分、彼が上がってやってきた。約束は冗談じゃなかったのだ。白いTシャツにジーンズ姿が、これ以上ないほど爽やかだ。
 大画面の深夜のニュースを眺めながら、私たちはその夜、銭湯が閉まるギリギリまで、身辺のこと、サークルのこと、最近のニュースの話題、高田の馬場のよく行くお店のことなど、色々語り合った。

「この間もバリ島でテロありましたよね。ニューヨークのテロ以来、世界情勢が不安定ですね…」

 それから私は、この間の彼女さんのことを聞いてみた。

「美雪は、同じ広島出身で。彼女とは地元で同じ高校で、高校一年の時から付き合ってて…。オレにとって美雪は、青春そのものです。地元では、よく自転車の後ろに乗せて、出歩いていました。海にもよく行きましたよ。オレの青春は、美雪といることで生き続けるんです。こんなこと言うと傲慢かも知れないけれど、美雪にとってもオレに変わる人はいないと思ってます。美雪は、聖心女子大ってとこに通っています。一人暮らしです。彼女は、何度も同棲したいって言うんですけど、オレは学生の間は自分の時間も大切にしたくて…。いい距離感で付き合えていますよ。いずれ社会人になって一緒に住むつもりです」

 一時になったので銭湯を出る。ここの銭湯の閉店の音楽は蛍の光ではなく、グリーンスリーヴスによる幻想曲だ。銭湯にしてはなかなかシャレている。

 ツンとした寒さが身にしみる。

「この近くに公園があるんですよ」  と、私を促すように目配せして歩き出した。そんなに大切な人がいるのに私なんかと夜中の公園に行っちゃっていいのかな…。こういうのがいわゆる『二股』って言うんだろう、と言う後ろめたい思いが、頭をよぎった。けれども、この先の公園での彼との時間を想像すると、どうしても自分の気持ちを止められなかった。

 その公園は、以前散歩をしていて立ち寄ったことのある所だった。ベンチが二つあって、無造作に高くもない低くもない木がざっと15本ばかり植えられている、ひっそりとした公園だ。

 高村くんと私は、奥のベンチに腰を下ろした。

「…オレ、将来は新聞記者になりたいって思っているんです。国際政治にすごく関心があるので、できれば特派員とかになって、世界の情勢を伝え、その後40ぐらいで独立して、ジャーナリストやルポライターになれたらいいなっ、なんて思ってます。今、サークルでは、いろんな業界の人に会って、インタビューしたりして、すごく充実しているんです。マスコミってすごい力があるなって感じています…」

 なんだか眩しかった。それに引き換え私は、三年も半分を過ぎたと言うのに、未だに将来の方向性はぼんやりしたままだ。

「オレ、九月に二十歳になったんですけど、サークルの先輩に誘われてM党議員の選挙活動のお手伝いをしているんです。少しの力かもしれないけれど、オレ、何かせずにはいられなくて…」

「へぇー、高村くんは本当に精力的に活動しているんだね」  私は誉めてあげた。

 前の家の二階の部屋に、ふいに明かりが点く。ちょっと緊張したけれど、考えてみれば傍からみれば恋人同士に見えるだろうから、怪しまれる心配もない。

 静かな夜だった。木々も、まるでこちらの話に耳を傾けているように、息を殺して立っていた。空を見上げると、月明かりで意外と明るく、星もたくさん出ている。高村くんは、話題を変えた。

「夏木さん、ランボーっていう詩人をご存知ですか?オレ高校の時に彼の詩に出合って、とても興味を持って。第二外国語フランス語にしたのは、ランボーの詩を原書で読みたかったからなんです。けっこう文法難しくてまだほんの一部分しか読めていないんですけど。日本語訳はもちろんあらゆるものを読み尽くしていて。ランボーの詩は、あの荒々しい文が生き物のようで好きなんです。まるで紙から飛び出してくるような…。そんなエネルギーのたくさん詰まった詩に触れると、自分の心の中と一体化して、逆に気持ちが安定して、精神が研ぎ澄まされるんです」  

高村くんが自分のことを、こんなにありのままに、素直に、情熱的に話してくれていることが、私に気を許してくれているなぁ、と感じて、愛おしかった。しかも今は深夜の三時。とても不思議な時間…。

「高村くんって、何て言うか、ちゃんと目的をもって生きている気がする。私はさ、もう三年なのに勉強も中途半端で、少し自慢できることって言ったら一年からずっと続けている体操と、家庭教師のアルバイトぐらいかな」

「それはすごいことじゃないですか?夏木さん、体操やってる雰囲気ありますよ。続けていることは大切にした方がいいですよ。あっ流れ星!」

 高村くんが空を指差す。私にも最後の尾だけ辛うじて見えた。

「うわぁ、東京のど真ん中で流れ星なんて見たの初めて」

 なんだか、また運命を感じてしまう。でも、自分の気持ちはまだ言えない。言うべきではない。言ったらまた須藤の時のように終わってしまうのが怖かった。  

 本当はすごく寒かったはずなんだろうけれど、気持が高潮していたせいか、そこで四時まで話していても寒いと思わなかった。

 朝方、高村くんと別れ、まだ興奮はしていたがさすがに睡魔が襲ってきて、奈歩に一限流体力学の代返を頼むメールを打ち、ロフトで爆睡した。


 起きたら十時だった。二限が空きだから、久しぶりに落合駅から東西線に乗り、早稲田のラウンジへ行く。

 ラウンジには修平がいて、後輩の男の子二~三人とだべっていたが、私に気が付くと修平は、後輩の子たちを残し、

「理美ちゃん、ちょっと相談したいことがあるんだけど…」  と言って、カフェテリアでお茶しようと言うことになった。

「修平さん、いいんですかぁー?松崎さんにおこられるんじゃないですかぁ?」  後輩のひやかしの声を尻目に、カフェテリアへ向かう。
 カフェテリアで飲み物を注文し、席に着くと、修平が切り出した。

「相談っていうのは…」
「奈歩のことでしょう?」  私は先走って言った。

「やっぱわかちゃった?っていうかオレ昨日、サークルの一女から告白されたんだ。オレ、それまでその子を、全然意識したことなかったんだよね。なのにその子、四月に会ってからずっとオレのこと好きだったって…。でもさ、オレ、即答できなかった。可愛い子なんだけど、オレ、どうしてもまだ奈歩ちゃんが諦められなくて…。でもさ、オレ奈歩ちゃんにはもう既に振られてるわけじゃん。その子には、少し時間くれる?って言ってあるんだ。オレ、その子のこと全然知らないし、合うか合わないかなんてわからない。もしかしたら好きになれるかも知れない。けどさ、オレ、恋愛でだけは妥協したくないんだよね。恋愛で妥協するくらいなら、原宿のど真ん中で腹踊りした方がマシだって思うくらい。理美ちゃんの言う通りにするから。ね?オレどうしたらいいかなぁ…」

 それで、私は、いつも持ち歩いている私の恋愛のバイブル…廣瀬裕子の『LOVE BOOK』…を取り出し、次のページを修平に見せた。

     
   あきらめること

 気持ちはしばることができない。
  だから、自分の思いとちがっても  
  あきらめなければならないこともある。
  どんなに自分がすきでも  
  相手に気持ちがないとき、  
  その人の感情が冷めてしまったとき、
  はなれていく気持ちは、  
  だれにも止められない。  
  しばれない。  
  それは、苦しいことだけど、
  あきらめることが、
  さいごの愛情になる。  

  がんばれば、
  あきらめなければ、   
手に入るものは、
 いくつかある。
  だけど、
  人の気持ちは、
  それとはちがう。
  すきだからあきらめる。  
  こころを整理する。
  つらくてもさいごに  
  そういうことが必要なときもある。

   修平がいつになくしょんぼりしてしまった。
「…わかった。オレ、奈歩ちゃんを諦めるよ。その子に前向きな返事をするよ。理美ちゃんありがとう」

 私は、修平の悩みは痛い程わかった。高校一年で、同じクラスになった須藤に告白したけれど振られ、そして、三ヶ月後告白された他の子と付き合った経験を思い出していた。両想いなんて、この世には存在するのだろうか。  でも、私は修平を励ましたくて、こう付け加えた。

「でもね、奈歩、この間の紅葉ドライブの時、修平のことは好きか嫌いかって言ったら好きな方だって言ってたよ。修平のユーモアのあるところが、好きだって…」
 修平は力なく笑った。
 それから昼食を簡単に済ませ修平と別れて、坂を上って三限に出席した。



     §


 東京も最近では吐く息が白くなり、朝起きだすのが辛くなってきた。ベランダから見えるモミジの木が、紅葉の最盛期だ。

 私は、一年のゴールデンウィーク明けから家庭教師のアルバイトをしている。今は、ユウナちゃんという中学二年生の子をもっている。基本的には毎週木曜の八時から二時間で、都合の悪い時には火曜にしてもらうことが多い。中間テストや期末テストの直前には土曜日もやってあげたりする。東池袋なので、大抵は木曜のデンマーク体操の後、徒歩で行く。有楽町線は走っているけれど、護国寺に歩いて行くのとユウナちゃんちに行くのがだいたい同じくらいの距離なので、歩くことにしているのだ。途中にはお墓があったりする。あまり歩いていて楽しいコースではない。ユウナちゃんちも高速道路の真下で、けっこう騒音がする。

 家庭教師を付ける家庭には、二通りあるような気がする。いわゆる教育ママがいて、東大や医学部などに我が子を入れたいが為に付ける裕福な家庭のタイプ、それから、成績が悪くてどうしようもないとか、いじめにあっていてお友達がいない子などに付ける、ごく普通の家庭のタイプ、ユウナちゃんちは後者だ。

  ユウナちゃんのお母さんは化粧品の販売をしている。その上、週に2日は、夜中パン工場のアルバイトにも行っていて、工場からもらってくるパンを、私もよく頂く。美味しいし、一人暮らしにはとても助かっている。ユウナちゃんのお母さんは、いつも家の中でも目のさめるような朱色の口紅をしている。でも、人は見掛けで判断してはいけないということをこのお母さんから学んだ。とにかくすごく人がよくて、私のことをまるで神様のように扱ってくれるのだ。こんな経験は今までなかった。ユウナちゃんもお母さんに似て、とても素直ないい子だ。でも勉強ができない。来年は高校受験だから、と言う事で四月から家庭教師を探していて、私が派遣されたのだ。
 三月までで終わった子の後、場所等の条件を出して、しばらく紹介待ちをしていたところだった。派遣会社を通しているので、時給1600円と、家庭教師の相場としてはそれほど高くはないが、立ち仕事などに比べると楽だし、早苗のように、大勢の生徒を前に講義する塾講師は自信がなかったのと、家庭教師のある日は、食事の心配をしなくていいのが気に入って続けている。

 ユウナちゃんのお父さんは自動車整備士で料理も上手く、いつも行くと最初にお父さんの手料理が出てくる。

「こんばんは。おじゃまします」

 私がピンポンを押すと、お母さんがまず出てきてくれて、その影からユウナちゃんがはにかみながら挨拶する。ユウナちゃんの家は平家だ。けして広くはない。そしてズングリムックリな三毛猫がいる。名前は「くり」。

 ユウナちゃんの下には妹がいる。まだ小学二年生だ。普段は二人同じ部屋を使っているが、家庭教師の日は妹がお茶の間に移ってくれる。

 ユウナちゃんの部屋には二段ベッドがあって懐かしい。私も小さい頃は姉と二人部屋で二段ベッドだったからだ。ユウナちゃんはいつもコロンを付けている。私は中学二年の時なんてコロンはもちろんのこと、リップすら付けなかった記憶がある。
 ユウナちゃんは国語や社会はまあまあできる。だから都合がいい。なぜなら私は国語や社会が苦手だからだ。それで、いつも数学、英語を中心に指導している。たまにテスト前は理科も教えたりする。

 でも、私の仕事は勉強を教えるだけではない。ユウナちゃんの学校生活の悩みなんかを聞いたりしてあげるのだ。もしかしたらそっちの方がメインかもしれない。ユウナちゃんの悩みは色々ある。部活の苦手な先輩のこと、席替えで一番前の席になってしまったこと、好きな子がいるのだけれどその子には別に好きな子がいると最近分かったこと…などなど。ごく普通の中学生だ。

 今日もお父さんの手料理(今日はマーボー豆腐だった)を食べながらユウナちゃんは学校での出来事を話してくれた。家庭教師の日は家族が気を遣って、夕食はユウナちゃんの部屋に持って来てくれて二人で食べるのだ。私はこの食事の時間もユウナちゃんを知るために貴重だと感じている。

 ユウナちゃんは中学二年生とは思えない、私も羨ましく思うほどのナイスバディだ。小柄だけれども胸がすごく大きくて(あれはきっとEカップくらいだろう)足は細くて、まつ毛がすごく長くてつぶらな瞳で…なのにいつも自信なさそうなオドオドした眼差しをしている。そんな表情とは裏腹に、本人も自分の大人っぽさを意識しているのか、いつもきわどい服を着ている。それにしても、どうしてこんなに不安そうなのだろう。私は彼女に自信をつけさせてあげたいのだ。

 今日も、マーボー豆腐を食べながら、

「くりはいいなぁって思うんです。何にも苦労しないでいいんだもん…」  その発言には、さすがにどういうフォローをしていいか分からなかった。

 自信をつけるには、とにかく少しでも、日常の授業について行けるようになるのがまず一番だ、と思い、食後に早速問題に取りかかった。

「三角形の内角の和は180度である、っていうのはこれからも色々応用で使うから、今日はなぜそうなるのかを証明してみようね。一回ちゃんと理屈を分かって覚えると、忘れないから心配ないよ」

 ユウナちゃんはちょっと身構える。

「それじゃあいくよ。この三角形ABCのそれぞれの頂点の角度をa、b、cとするね。まず、辺ACに平行な線をちょうど頂点Bが重なるように引いてみて。…そうそう。そうするとaの同位角はどこでしょう?」

「ここ?」

「その通り。しかも平行線の同位角だから角度も等しいね。それじゃあついでにcの錯覚はどこでしょう?」

「ここ?」  ユウナちゃんはちょっと迷ったけれど当たっていた。

「そうだよ!よく覚えていたね。それで平行線の錯角も等しいんだったよね?っていうことは、見てごらん。abcが一直線上に並んだでしょう。だから180度となります」

「うわぁ本当だ。私ずっと分かんなくて」  ユウナちゃんの顔がパアッと明るくなった。

 その日は、いつもにも増して満たされた気分で、足取りも軽く家路に着いた。

 大学生になって、自分が何か役に立つことをしていると感じるのが、家庭教師をしている時だ。少なくともそこでは私はまぎれもなく『先生』であり、良いことをしてお金を頂いている。自分の存在が人のためになっているなんてこんないいことはないじゃないか。