RIKAの日常風景

日常のちょっとしたこと、想いなどを、エッセイ風に綴っていく。
今日も、一日お疲れさま。

連載小説「冬枯れのヴォカリーズ」 vol.18

2008-12-17 11:24:19 | 連載小説
 

     §

 翌日、いつもより遅めに十時頃起きる。ユウナちゃんのお母さんから頂いたパンと牛乳で簡単な朝食を摂り、松崎の実家へ向かった。

 目黒駅で降り、アトレでケーキを買って、天気も良かったので地下鉄に乗らずに歩いて向かう。

 この間行った庭園美術館の前を通る。とても緑が多くて、通りにもオシャレなお店が多くて気持がいい。

 松崎の家のマンションは、よくある四角形ではなく、上の階に行くにしたがって狭く台形のような形になっている、とてもゆったりした造りのマンションだ。エントランスも広々としていて、アーチ型の大きな門があり、バラの木が植えられていて、その周りには春になると花がたくさん咲く。
 松崎は昨日のうちに、お昼頃着くと電話をしてくれていて、ご両親が土曜日なのに出掛けずに待っていてくれた。

 玄関には一足早くクリスマスリースが飾られていた。きっとお母さんの手作りだ。ヒイラギの葉をふんだんに使い、銀色の玉をちりばめ、ナンテンの実をあしらってあって、リースの上部真ん中にはベルが二つ、紺と金のリボンを付けてある。それは重厚な玄関の戸にとてもよく似合っていた。

 戸を開けると 「ニャー」  とまずルルが挨拶してくれた。
 それからお母さんが出てきた。松崎はお母さんにそっくりだ。松崎のお母さんは、薄く化粧をしていて、白いブラウスにピンクのカーディガン、花柄の茶色のロングスカート、それに赤いエプロンをしていた。

「こんにちは、お久しぶりです。お邪魔します」

 松崎の家の間取りは4LDKで、LDK部分がすごく広い。リビングは南向きで、グランドピアノもそこの窓際に置いてある。

 松崎のお母さんは、昼食の準備をしてくれていた。イースト菌のいい匂いが漂っている。

 松崎のお母さんは料理が上手い。ピアノももちろん上手い。総じて器用な人なんだと思う。松崎も小学生の頃から工作や絵が得意だったと前に聞いたことがある。でも、バイオリンやピアノは続かなかったのだそうだ。その代わり歌がとても上手い。高校の時友達とバンドを組んで、ボーカルを担当していたと言う。今はそのメンバーはみんなバラバラになってしまって、バンドは消滅してしまったらしいが、たまにカラオケに一緒に行くと、私も歌を歌うのが好きなので、二人で平気で二時間は歌っている。松崎は普段はねちっこい声なのに、歌になると別人のような美声になるのは不思議だ。

 私は先程買って来たケーキを差し出した。

「まぁ、ありがとう。さあさ、どうぞお上がりになって」

 とお母さんは私をリビングに促しながら奥へ歩いて行って、キッチンへ行き、ケーキを冷蔵庫にそっとしまう。

「今日は久しぶりにピザを焼いてみたの」

 ああ、この匂いはピザだったのか。

 松崎は反抗期もなかったのだそうだ。このような家庭では反抗する材料もないだろうけれども。

 松崎のお父さんはリビングのソファにゆったりと凭れて新聞を読んでいた。私に気が付くと

 「ああ、理美ちゃんいらっしゃい」

 と笑顔で挨拶してくれた。私が来るからちょっと気を遣ってか、ワイシャツにVネックのセーター姿だった。

 松崎のお父さんは、ちょっと変な例えかもしれないが、リンボウ先生に桂文珍の雰囲気を加えたような、知的で穏やかな方だ。

 南向きの窓からは、12月だというのに明るい日射しが入ってきていて、大きなバルコニーにはパンジーが咲いている。学校から坂を下る途中にあるマンションの中庭にも、植えられていたっけ。
  出窓には、サーモンピンクのような色の、大きなポインセチアが飾られている。ソファとピアノの間に置いてあるベンジャミンの木も、手入れが行き届いていて、つやつやの葉を繁らせている。

 このリビングに飾ってある、大きなルノアールのレプリカ、が私は大好きだ。女の子が三人、野外で敷物を敷いてピクニックをしている風景画。昔家族でニューヨークに行った時に、メトロポリタンミュージアムで買って来た思い出の品だそうだ。日本に来てから額装してもらったとのこと。額も素敵なので絵が引き立っているのかもしれない。

 ルルが、我がもの顔でソファに寝そべっている。ルルも年だ。顔をよく観察すると、まゆげとあごひげのところには白髪のような、白い毛がたくさん生えている。松崎が中学校に入ると同時に飼い始めたというから、もう十年ぐらい経つんだな。それにしても可笑しいのは、目をつぶって寝ているのになぜかしっぽを定期的にピヨ~ンピヨ~ン、と振り回していることだ。

 ピザは、今まで食べたことのあるどこのピザよりも格段に美味しかった。味は二種類あって、ベーシックなモッツァレラチーズとトマトのピザで、上にフレッシュバジルがさりげなくトッピングしてある。もう一方はきのことベーコンとほうれん草のピザだった。

「理美さん、よかったらもっと召し上がって。遠慮しないでね。昔はこの子の弟もいて、今は名古屋の大学に行っていて家を出ているのだけれど、英文はよく食べる子でね。それで昔の癖でいつもたくさん作ってしまうのよ。大志もほら、もっと食べて」

 松崎の弟さんが英文くんと言うことは一年の時に聞いて知っていた。

「…英文は文系で。ピアノはオレと違ってずっと上手いんだ。背もオレより高いし…」
 なんて愚痴ってたっけ。

 お昼を食べて、後片付けを手伝った後、窓の方へ行って、

「ちょっとバルコニーに出てみてもいいですか?」

 と言って外へ出る。

 下には冬枯れの前庭が見える。春には濃いピンク色の額をつけるハナミズキも、あの色はいったいどこから来るのだろうと不思議に思うほど今は無彩色で、春の来るのをじっと待っているかのようだ。

 戸をなるべく狭く開けて部屋入り、すばやく閉める。松崎の隣に戻って、目を上げると、ソニーの大画面液晶テレビには、どこかヨーロッパらしい素敵な風景…両側が瑞々しい緑の河、近くにお城が見える…が映し出されている。

 ルルはいつのまにかお父さんのひざの上にのっかって頭をなでてもらっている。

 時計の針はちょうど二時を指した。

「理美さん、コーヒーとお紅茶どちらがよろしいかしら?」

 と聞かれたので紅茶を頼む。

 アトレで買ってきたケーキでお茶をした。ウエッジウッドの、苺の絵柄のお皿とカップ。スプーンもピカピカだ。私なんて食器はほとんど100円ショップのだから、たまにこういうものに触れると本当に優雅な気分になる。

 お母さんがポットを傾ける。アール・グレイの香りが部屋に広がる。濃さもちょうどいい褐色で、地が真っ白のティーカップによく映える。

 松崎はお母さんのことを、 「オレのお母さんは教育ママだったよ」  とこぼしていたことがあったが、少なくとも私の目には全く厳しい方には見えず、憧れの存在だ。私も将来こんな風に年を重ねられたらいいなぁと、松崎のお母さんに会う度にしみじみ思う。

 ふと、母のことを思い出した。私の母はいつも仕事に追われていた。だからお弁当は自分で作っていたし、学校の行事にもあまり出てはくれなかった。かぎっ子で、いつも誰も居ない家に帰って行くのが本当は嫌だった。三時のおやつが出てくるような友達が羨ましかった。それでも、働くお母さんはかっこいいなと思ったし、自分も将来は仕事を持ちたいと思う。でも母はちょっとがんばりすぎていたんじゃないだろうか。さまざまなストレスがガンを呼び起こしたのだと考えるならば、やはり仕事の無理が祟ったんじゃないだろうか…。

 ケーキは二種類選んだ。お父さんと松崎にはニューヨークチーズケーキ、お母さんと自分には四種類のベリーの乗った、ババロアとスポンジが二層になった筒型のケーキ。

 ルルも物欲しそうにこちらを見ている。

 この部屋にいると、すべてのことは成るようになると素直に感じてしまう。この家は、世間の些細な荒波にはびくともしない、動じない雰囲気がある。お母さんも、単なる教育ママとはきっとひと味違ったんじゃないだろうか。松崎をみれば分かる。何ものにも突き動かされない安定感というかポリシーみたいなもの、を持っている気がするのだ。

 ケーキを食べ終わると、松崎が自分の部屋に誘ってくれたのでリビングを失礼して松崎の部屋に行く。

 松崎の部屋は九月に来た時と全然変わっていなかった。そのことは妙にほっとした。

 松崎は少し古いごっついノートパソコンを使っている。お父さんのおさがりだそうだ。その『アクセサリ』の中にちょっとしたゲームがあって、私はひそかにそれが好きで、今日もやった。
 それは『ケロケロケロッピのおいかけっこ』というゲームで、パソコンの中で、サイコロを振り、その数字の分だけ進み、二匹のカエルが追いかけっこをするゲームで、ちょうど同じマスになってつかまえた方が勝ち、という簡単なゲームだ。およそ大学生の遊びには幼稚すぎるのだが…。
 マスは池のようになっていて、進むごとに『チャポンチャポン』とかわいい音がする。五分もしないうちに私は松崎のカエルにつかまえられてしまった。

 ゲームの中のことなのに、松崎は実際に私にとびついてきて、

「つーかまえたっ!」

 と嬉しそうに抱き締めてくれたのは、とても可愛かった。

 それから松崎は窓を開けてKOOLを吸った。松崎の部屋は西側に窓がついている。小さなベランダもあって、煙草はいつもそこで吸う。

 松崎の煙草デビューは中学二年の短期留学先でだったそうだ。ロンドンから少し離れた田舎町に、夏休み三週間ホームステイをした時、そこの家の高校生のサムウェル君に教えてもらったという。教育ママのお母さんに見つからないように、日本に帰って来てからも隠れて吸っていたという。

 四時ぐらいになって、またリビングへ行くと、

「理美さん、今日よかったら夕ご飯も召し上がって行きません?これから近くのスーパーに買い物に行くのだけれど、一緒にどうかしら?」

「はい、もちろんです」

 即答した。嬉しかった。

 サッとお化粧直しをし、茶色のコート(今日は黒いファーも付けてきた)を羽織り、ヴィトンのショルダーバッグを下げて、玄関に行き、ブーツに足を入れる。

 お父さんを残し、三人でスーパーに買い出しに行った。近くなのに車で行った。松崎がクラウンを運転する。

「大志は日曜にはよく買い物に付き合ってくれるのよ」

 松崎は本当に優しい子だ。

 着いたのは、聞いたことのない立派なスーパーだった。駐車場はさほど混んでいなかった。  自動ドアがスーッと開き、松崎がかごを持ってくれる。

 店内にはアッパークラスのマダムが多かった。松崎はこのスーパーでよく芸能人に会うのだそうだ。でも、周りの人はそういう人がいてもいちいち反応しないのだそうだ。  松崎のお母さんは、

「お昼がピザだったから、夜は和食がいいかしら?お刺身に茶わん蒸しなんてどう?」

 と高級食材を、次から次へとかごに入れる。


 マンションに戻ると、素敵な外灯が灯されていて、白い外壁をぼんやりと照らし、まるで軽井沢辺りの避暑地に立つホテルのよう。

 夕食の準備のお手伝いはとても楽しかった。流しはピカピカで使いやすい配置になっていて、コンロは四つもあって、とにかく何もかもがゆったりしている。  準備しながら、松崎のお母さんも心なしか嬉しそうだ。

「息子が二人でしょ。だからね、理美さんが来てくれると、娘ができたみたいでね…」

 そして松崎の小さい頃のことなんかを懐かしく話してくれた。

「大志は、立てるようになったのも話せるようになったのも普通の子よりずっと遅くてね、それはもう心配したものよ。でもね、いつもにこにこしていてかわいい子だったから、気長に育てたの。だって他の子と比べてもしかたないでしょう?だから元来マイペースなのよ、大志は。困ることあったらピシッと言ってあげて下さいね。あ、理美さん、この冷ましただし汁とたまごを合わせて混ぜてくださる?」  

 ダイニングテーブルにお料理を並べて午後七時、夕食が始まった。
 お刺身は、なんと鯛やアワビやまであって、豪華なものだった。ふと秋に皆で母の実家に泊まりに行った時、松崎がスーパーで蛤をかごに入れたことを思い出した。
 茶わん蒸しにはとり肉、しいたけ、かまぼこ、そして底の方にギンナンが入っていて、上に三つ葉が添えられていた。器も素敵な茶わん蒸し専用のもので、まるで料亭で出てくるもののようだった。

「こんなに美味しい茶わん蒸しを頂いたのは初めてです」

 お世辞ではなく、自然にそんな言葉が出た。

 お酒も少し飲んだ。 

 夕食の後片付けを手伝った後、お父さんの中国出張土産というジャスミンティーを淹れてもらって飲んだ。

 お父さんは気分よく酔ったらしく、

「お母さん、久しぶりにアレをやらないか?」

 と言ってバイオリンを取り出して来た。

 松崎のお父さんはバイオリンが上手い。松崎のお父さんとお母さんは学生時代同じ音楽サークルで知り合った、と前松崎が話していた。

「それはいいわね」

 お母さんも手を合わせてそう言って、壁側にある大きな楽譜棚の戸を開けて、楽譜を探し始める。

「あったわ」

 お父さんがピアノの真ん中辺りの『ラ』の音を中指で弾いて、先っぽのネジで弦の張りを調節する。

 そうして始まったのは、ラフマニノフの『ヴォカリーズ』だった。  松崎の実家に初めてお邪魔した時に、ご両親が披露してくれた、思い出深い、曲。「後悔」「やるせなさ」を訴えているような、切ないのに力もある、壮大なストーリー性のある曲。そのストーリーは例えて言うならば、別れ別れになった二人が、二度と戻らぬ愛の日々を追憶するような、それでも現実を受け入れて人生は進んでゆく…そんな感じに聴こえる。メランコリックで美しいメロディーで、不思議と今の季節にも合っている。

 曲の中盤で、知らず知らずのうちに涙が出てきた。高村くんとの恋の挫折が、自分では思いもよらないくらい、深く根を這っているのかもしれなかった。そして、松崎のことを、少しの間であっても欺いてしまったことへの、自分への怒り、そんなことをしてまで、好きになってしまった人…。

 キレイゴトかもしれないが、松崎を好きな気持ちと高村くんを好きになった気持ちを、同じ天秤にかけることは出来なかった。それらは同じ器機で量れる性質のモノではなかった。
 そもそも、間違っていたのだ。松崎でいいじゃないか?私はいったい何がしたかったんだろう。もう松崎だけを見て生きていこうよ。今からならまだ間に合うよ。  高村くんとの思い出は、心の奥底に閉まって、鍵をかけよう。


 時刻は九時になろうとしていた。

「理美さん、もしよかったら今日泊まっていかない?ほら、英文の部屋が空いているし」

 初めてだった、こんなこと言われたのは。松崎はそのお母さんの言葉を聞いて、急に顔を輝かせた。

「いいんですか?ありがとうございます。それではお言葉に甘えてお世話になります」

 松崎の実家に泊まれる。下着がないとかパジャマはどうしようか、なんてことはどうでもよかった。ただただ、お母さんの気持ちが嬉しかった。

 お母さんはお風呂を沸かしに行った。

 ヴォカリーズの余韻が部屋じゅうにまだ漂っていた。松崎はルルを抱き、喉の下をなでてあげている。  お父さんに、

「理美ちゃんもピアノで何か弾いてくれないかね?」  と言われたのだけれど、

「いえいえ、あんなに素晴らしい演奏の後では、弾ける曲がありませんよ」  と答えた。実際そう思ったから。

 その後お風呂を頂いた。

「確か新しい下着があったはずなんだけど…あったわ。理美さんこれ、良かったらどうぞお使いになって。それから化粧水や乳液も、私ので良ければどうぞお使いになってね」

 松崎が毎日入っているバスルームに入る。脱衣所には、よくあるピンクや黄緑色のプラスチックのかごなどはどこにも見当たらず、広々としていて、余計なものは一切置いてない。洗面所は、大袈裟ではない大理石調で、大きな鏡が付いていて、傍らには、ライム色のポトスが透明の花瓶のようなものに水指ししてあって、まるでどこかの高級ホテルのようだ。

 バスルームの中も掃除がゆき届いていた。まずおそるおそるシャワーを出して周りに跳ねないように気をつけながらお湯を体にかけ、髪を洗わせてもらう。意外にも、シャンプーは庶民的な安いものだった。高級なフランス製の、何千円もするのとかじゃなくてホッとする。それから体を洗い、ゆったりと湯船に浸かった。なんて優雅なんだろう。心からリラックスすることができた。最近、頭を使い過ぎていた。

 上がる時に髪の毛が浮いていないか何回も碓認し、バスタオルでよく体を拭いてから脱衣所に上がる。用意してもらった新しい下着とパジャマを着る。サイズはぴったりだった。松崎のお母さんと体型が似ていることに、初めて気付く。

 最近、松崎の実家に来ていなかった。その間に高村くんと出会って、松崎を蔑ろにしてしまっていたのを、今、すごく反省している。私には肝心な部分が見失われていた。高村くんの実家はどんな家なのかは分からないが、とにかく私は、やはり松崎と別れることはあり得ない。

 付き合うって、もちろん本人同士の問題だろうけれど、家族ぐるみの付き合いを始めた以上、責任があるんだ。そして、それは重たいものではなく、かえって二人の支えになり、クッションになり、二人を繋いでくれる大切なものであると…。

   翌日午後二時半、松崎の実家を後にして、目黒駅で松崎と別れ東中野に帰る。  松崎は別れ際に、

「理美ちゃん、ヴォカリーズ聴いて泣いてたよね。オレもね、あの曲は訳もなく切なくなるよ」

 昼下がりの山手線は健全だ。これから原宿の竹下通りにでも繰り出すだろう、まだあどけなさが顔に残る中学生の男の子六人組や、二十代前半ぐらいの小綺麗な女の人、オシャレな革製のハンチング帽を被り、新聞に目を通しているおじいさん、なんかが、皆穏やかに電車に揺られている。

 中学生六人組は予想通り原宿駅で降りた。空いた席に座り、車窓の景色を、ただぼんやり眺めていた。

 東中野に着いて、まっすぐ家に帰っても良かったのだが、お母さんにはがきを書こうと思って、駅前の文具屋さんではがきを買い、ドトールに寄る。あの二階の窓際の席が今日も取れた。

 オーダーして席に着く。

 私にとって、高村くんは全く異色な出現だった。それは例えて言うなら、現実の中の『夢』の世界、という感じの時間だった。現実的でない現実…。どんな人にも、そういう時間っていうのは与えられているのだろうか。

 窓の下には、いつもの八百屋さんが見える。冬なのに真っ赤なトマトとかピカピカのきゅうりとか、いろんな色のいろんな種類の野菜がまるで芸術品のように並んでいる。まだ夕方の買い物客もいなくて閑散としていて、店員さんも暇そうだ。  そんな景色を見ながら、金曜に受信したメールのことを思い出し、受信箱を開く。

 高村くんへの疑問が、また浮上してくる。高村くんは、美雪さんを大切にしている。なのに、なんで私と二人で会ってくれたのか。朝方まで公園で話したり、真夜中に部屋にあげたり。それでいてあくまでも礼儀正しく、健全であり続けようとする。その態度が不可思議で、私は、そのことをちゃんと聞いてみたいと思った。でも、そんなことを聞いて、いったい何になるというのだろう。

 高村くんには、きっと、美雪さん以外の女友達なんて沢山いるのだろう。それで、その女友達たちのことは、女として見ることはないのかもしれない。そして、高村くんはきっと、私を含め、女友達とは、自分の男友達と同じように付き合っているのかもしれない。同性の友達と夜通し話し込むなんてことよくあるし、同性の友達とするようなことを、普通に異性の友達ともしているに違いない。そんな結論に達した。

 冷めた残りのコーヒーを飲む。
 結局、色々考えた末、高村くんには次のようなお別れメールを出した。

「高村くん、ずっと言ってなかったのだけれど、私には一年の時から付き合っている彼がいます。でも高村くんに出会って、貴方に急速に惹かれ、すごく迷い、本気で彼と別れることも考えました。でも、この間高村くんの気持ちを知って、諦めることにしました。付き合えない以上友達とはどうしても思えないから、これからはもう連絡しないようにします。短い間だったけれど、こんなに楽しく話せた人は高村くんが初めてでした。どうもありがとう。貴方のことは一生忘れないと思います。私高村くんの考え方が好きです、きっといいジャーナリストになれますよ。頑張って下さいね。それでは元気でね、さようなら」

 最後の言葉に高村くんを非難するようなことは書きたくなかったのだ。書いた後、何回も読み直して、修正して、送信した。

 これでいいんだ。私は自分に言い聞かせた。

 それから母にはがきを書いた。



 拝啓  目白通りの銀杏並木もすっかり葉っぱを落とし、街はクリスマスの飾りで賑やかになってきました。その後体の具合はどうですか?  私の方は、サークルもピアノも楽しく頑張っています。家庭教師のアルバイトも続けています。  ところで、年末なのですが、カウントダウン・ライヴに行くことになったので、一日のお昼頃帰ることになると思います。大学は六日からなので五日に東京に戻ります。それでは久しぶりにお会いできるのを楽しみにしています。

                         かしこ  理美  


 手帳の帯から50円切手を取り出し、貼る。

 それから急に、松崎にケイタイストラップを作る約束をしたことを思い出した。

(クリスマスまであと十日もないな。さっき原宿で降りてビーズ屋さんに寄ればよかったなぁ…)

 表参道に、よく買いに行くビーズ屋さんがあるのだ。まだ明るかったので、ドトールを出て表参道に向かった。定期は新宿までだけど…。

 原宿駅の表参道口はいつものことながら大混雑だった。改札で手前の人が『ピーッ』となって、あからさまに嫌な顔をしてしまう。

 すれ違う人の中には、白人系外国人の姿が結構あった。それから自意識過剰なロリータ・ファッションの女の子達もいる。

 ここのビーズ屋さんは、店内が暗くて正確な色がいまいちはっきり分からないのは不満だけれど、今まで行ったどこのビーズ屋さんよりも圧倒的に種類が豊富で、だいたいイメージ通りのものが手に入る。

 今日も、満足のいく買い物ができた。

 高村くんにも、何か作って渡せたらよかった。



連載小説「冬枯れのヴォカリーズ」 vol.17

2008-12-17 10:49:34 | 連載小説
   
     
      §


 欅の大木はすっかり葉を落とし、ジョウビタキの雄が裸の枝に寒そうに止まって、頭を下げ、尾を細かく振って「クワックワッ」と鳴いている。

 私は昨日の余韻のさめやらぬまま、量子力学2の授業に出席していた。

「P185 8.3.2 HーJ表示のハミルトニアン…」

 一月のテストへ向け、最低限ノートだけはまめに取っている。

 授業が終わり、奈歩と坂を下りサークルへ行く。

 坂の中腹に建つマンションの中庭には、パンジーがきれいに並べて植えられている。ここのマンションはいつも花が絶えない。

 ラウンジには早苗がいた。私を待っていたようだった。

「理美、カフェテリア行かへん?」  席に着くなり、早苗が切り出した。

「どうや?それから解決した?優のこと」

「高村くんとは近所の友達なの。彼もそう思っていて、それ以上には思っていないわ」

 昨日高村くんのアパートへ行ったことは話せなかった。

「うちはあんたがどう思ってるかを聞いてるんよ!」

  早苗はきつく言った。

「理美は、理美の気持ち的には、優は本当に単なる近所の友達なん?この際徹底的に話し合わんと」  早苗は続けた。

「優だから心配なんよ。理美は絶対引き寄せられていくと思うんや。うちかて彼にはすごい惹かれとって、池上に話すことが憚られるくらいなんよ。優はね、ある意味危険な人や。彼とは友達以上にはならん方がええ」

「なりたくてもなれないのよ。昨日、そう言われたわ」

 静かに言った。

 早苗は口を開けたまま、私を凝視し続ける。

「この先、近所の友達以上になることはないわ。私の気持ちが緩んだとしても、彼の気持ちが緩むことはないと思う。そういう確かな意志を感じたわ」

 私がそこまで言うと、早苗は、今度は同情の眼差しになって、

「理美、ごめんな。うちてっきり二股してるんかと思っとって。うちもな、優は憧れの存在なんよ。池上と比べてとか、そういうことやなく…。きっと、優は万人に愛される何かを持っているんよね。優と話をして嫌がる人がいたら見てみたいくらいや」  すると、それまで黙っていた奈歩が、

「二人共、れっきとした恋人がいるのにそんな不純でいいのかなぁ?」

 遠慮がちに言って、そして続けた。

「私もね、冬からは正式に彼ができるわよ。理美には話したけど、松崎の友達で上智を休学してカナダに行ってた井上祥っていう人なんだけど、この冬帰国するの。メールのやりとりをしていて、帰ったら付き合うことになったの。私ね、ずっとこういうことを夢に思い描いてたんだ。井上くんのこと、初めて出会った時から好きだったから。でも自分から言うことってずっとできなくて…」

「良かったやん。奈歩にそういう人ができるの待っとったよ」

 早苗は明るく言った。

 「うち、正直奈歩のことは軽蔑することもあったんや。うちと考えがあまりに違って。広く浅くの意味を取り違えていると思っとったんよ。特定の彼を作らないっていうのは、都合はいいんやろけれど、得るものも限られる。人を本気で愛して得られるものは、宝物やと思うんや。今度井上って子が帰ってきたら本気で愛してみ。怖くないから。もし何かダメになってもいいやん。当たって砕けてみなよ。ダメになった時にはうちらがクッションになってあげるから…ねぇ理美?」

 「そうよ。広く浅くって言っても、ちゃんと付き合ってみなければ本当のことは分からないと思う。だから奈歩、がんばってみて。でも、今までも、きっと、中・高の経験があってのことだと思うし、悪くなかったと思うわ。過去の自分を責めなくていいわよ」 

 早苗も奈歩も、それぞれに思い思いのことをしゃべり、顔には陰りがなく、明るい表情だった。私は…ちょっと疲れていたかもしれない。高村くんと、これからどうなるのかは、まるで想像がつかないし。なんとなくもやもやが残っていた。 「さてと、食べましょうか!」

 早苗は、きのことベーコンのスパゲッティ、奈歩は煮魚定食、私は一番安いカレーライス。

「冬物の服でどうしても欲しいのあって倹約してるんだ」

   私は頭をかいてみせた。


   その週の金曜の夜、研究の後、松崎が直接アパートに来てくれた。

 私は、松崎が来る前、ベランダで久しぶりに煙草を吸った。高村くんの胸に飛び込んだ自分を反芻しながら…。

 寒かったのでグラタンにした。ちょうど支度が終わった頃に「トン・トン」とドアを叩く音がしたので覗き穴で碓認し、中に入れる。

 松崎に会うのはすごく久しぶりだった。島根に行く直前も結局会えなかったから、実に20日ぶり。

 松崎はいつもと変わらない雰囲気で、今日で研究が一段落したんだ、とにこにこして言った。

  「ワインとチーズ買ってきたよ」

 コンビニのビニール袋を渡す。

「うれしい。ありがとう。今日は大ちゃんの好きな、エビととり肉のグラタンだよ。今ちょうどできあがるとこ。あと2~3分待ってね」

 松崎はダッフルコートとマフラーをハンガーにかけ、洗面所で手と顔を洗ってうがいをしようとして、

「理美ちゃん、オレ、ちょっと風邪気味でさぁ」

 と言った。

「大丈夫?あれ、確かうがい薬あったはず、ちょっと待ってて」

 私は押し入れの奥に閉まい込んでいた薬箱を取り出し、中からうがい薬を取り出した。

  「これ、使ってみて。ちょっと古いかな…」

 私は松崎にそのうがい薬を差し出した。

 その後、テーブルに水色のビニール製のランチョンマットを敷き、赤と白のギンガムチェックのキッチン手袋で、グラタンをテーブルに並べた。ワイングラスがなく、小さなガラスのコップで代用した。

  「サラダもあるのよ」

 私は冷やしておいたサラダを出してきた。
 今日はきゅうりとレタスとピーマンのグリーンサラダにした。

「理美ちゃん、ここんとこ会えずにいて、ほんとごめんね。でもこれからしばらくは試験もあるっていうことでひとまず研究お休みできることになったから。明日は久しぶりにオレの実家に遊びに来ない?理美ちゃんのピアノもどのくらい上達しているか聴きたいし」

 ドキッとした。最近島根に行ったり高村くんと夜会ったりしていて、ピアノの練習があまりできていなかった。

「ピアノね、最近あんまり進んでないんだ。月の光が終わって、ベートーヴェンのテンペスト第三楽章が始まったんだけど、ほんの少ししか進んでない」

「それでもいいよ。そんなこと家のお母さんに言わなくてもいいし」

 グラタンはすごく美味しいと誉められた。

「理美ちゃんってさ、料理の本見ないで作ってるんだよね。天才的だね」

 確かに私は、参考にこそするが、一から十まで料理本の通りに作ったことは一度もない。でも、別にそれは自慢することでもない。

「そうそう、緑にね、会ってきたの。彼氏のことは引きずってたけど、元気そうだったよ。病院もとても落ち着いた環境で、暇がたくさんあるからテスト勉強もできてるみたいなの」

「がんばって作ったネックレスも渡せた?」

 つぶらな瞳で、松崎が私の顔を覗く。

「うん、泣いて喜んでくれた。苦労して作った甲斐があったよ。ビーズで大ちゃんにも何か作れるものがあったらいいのになぁ」

 「この間ケイタイストラップ壊れちゃったんだよね。理美ちゃんとおそろいで作ってくれないかな?クリスマスプレゼントそれだけでいいよ」

 とてもよい提案だ。

「いいよ。色はやっぱり青系?緑系?どっちも混ざったようなのにするね」

  夕食の後紅茶を入れ、松崎にこの間の島根旅行の写真を見せた。

「出雲大社って有名だよね。理美ちゃん何を祈ったの?」

 松崎にそう言われて、戸惑った。なぜなら、松崎とも高村くんともうまくいきように、と祈ったからだ。あの時とは、だいぶ状況も変わって、複雑な気持ちだった。でも、それは顔には出さず、

「大ちゃんの研究がうまくいきますように、って祈ったよ」

 ウソをついた。

「理美ちゃん、自分のことも祈ったでしょう?」

 大ちゃんは、大きな目でこっちを見ている。私は、

「うん。一月のテストがうまくいきますようにって」

 と言った。実際そんなことも祈ったような…。

「そう」

 松崎は一通り写真を見終わると、アルバムを机の上に置き、ベランダに出てKOOLを吸い始めた。自分のジャムの空き瓶は隠し、松崎用の缶にしておくことは、いつも忘れない。高村くんとのことを、松崎に言えない自分が、すごく嫌らしく感じられた。

 そんな思いを振り切るようにして、お風呂を沸かした。入浴剤を入れる。

「すっごく寒い!」

 煙草を吸い終わって、両腕で体をかかえて部屋に戻り、急いで窓を閉める。

「今、お風呂沸かしてるから」

 私はTVの脇にあるミニコンポに、ショパンのノクターン集のCDを入れ再生を押し、ソファに凭れた。一曲目は哀愁漂うOP9ー1。大学に来て初めての発表会で弾いた曲だ。

 松崎も隣に座った。そして20日ぶりにキスをした。

 しばらくして唇をそっと離し、松崎は私の顔を正面からじいっと見た。

「理美ちゃん、好きだよ」

 松崎は優しくそう言った。

 私は、もう限界だった。もう、本当は全て見透かされているような気がした。涙が出かかった。

「大ちゃん…」

 抱き合って、貪るようにキスし合った。

「大変、お風呂忘れてた」  

 急いで止めに行ったが、既にお湯はあふれかえっていた。

「今日私生理だから大ちゃん先入って。お湯たぷたぷだから、最初に髪や体を洗ってね」

 松崎がお風呂に行くと、私は、力が抜け、ソファに横になった。

 ノクターンを聞きながら、何も考えないように、目をきつく閉じ、眠る。

 突然メール音がする。ケイタイを取り出し、見る。二通来ている。そのうちの一通は、なんと高村くんからだった。

「この間は楽しかったです。あとで思ったんですが、夏木さん、もしかして何か用事があったんじゃないですか?オレでよかったらいつでも相談のりますよ。それではまた」

 高村くんは何を考えているのだろう。私の告白は、『用事』にも入らなかったのか…。空しかった。読むだけで返信はしなかった。

 もう一通は、香織からだった。

「お久しぶり。12月22日からフランスに行ってきます。何か買って来て欲しいものあったらリクエストして。年明け二日に成田からそのまま福島に帰省する予定なんだけど、時間あったら向こうで会わない?」

 こちらにも、今は返信する気力がなく、閉じる。

 松崎がお風呂から上がって、Tシャツと短パン姿でリビングにやってきた。このラコステのTシャツと短パンは、松崎が初めて私のアパートに泊まった一年の夏、持参して以来私のアパートに置きっぱなしになっているお決まりのだ。何年も丁寧に洗濯され上品に色落ちしている。

 私もお風呂に入る。生理の時はお風呂に入らない人もいるようだけれど、私は、医学的にどうかはわからないが、そういう時こそお腹を温めてあげようと思って、いつもより長風呂をする習慣だ。

 浴槽はちょっと汚れたけれど、次に誰が入るわけでもない。ちゃんと洗えば済むことだ。

 お風呂に入りながら、自分の、このところの信じられない行動を、後悔していた。  冬用パジャマを着てリビングに行くと、松崎はTVを点けたままソファに横になって眠っていた。研究で相当疲れてるんだな。私はその横顔を眺め、とてつもなく愛おしくなった。松崎はまつ毛も長い。その無防備な表情が何とも言えなく可愛い。私は洗面所に行ってコンタクトを取り、化粧水と乳液で肌を整え、歯磨きをする。  優しく揺すって、

「大ちゃん、歯磨いたら?」

 と促す。松崎は少しの間ぐずぐずしていたが、起きて洗面所へ行った。

 松崎はコンタクトをしていない。目がいいのだ。ただ最近、研究でパソコンもよく使っているらしく、少し視力が落ちてきたようだ。

 その後、ロフトに行った。

 松崎が求めたわけではなかったが、セックスできない代わりに口でしてあげた。体の繋がりに頼るしかなかった。そうやってしか、今は、愛を示せなかった。

 相手の気持ちになって舌を上手に使って、私は松崎を快楽の世界へ連れて行く。松崎は目をきつく閉じ、うなり声は次第に甘い声に変わっていった。
 
 「だめだよ、もう」

 と必死で言うので、

 「大丈夫、口に含んであげるから」

 と、優しく、さらに激しく、上下に動かす。

 松崎は、悪がりながらも快楽に勝てず、間もなく射精した。精液は、甘いような渋いようなしょっぱいような何とも言えない味がした。

 時計は12時を回っていた。  ロフトに戻ると松崎はつるんとした良い表情で早くも寝息を立て始めていた。

 高村くんとは、もう会ってはいけない。そう強く思い、目が冴えていたが、波の音楽を小音でかけ、しばらくして眠りに就いた。





連載小説「冬枯れのヴォカリーズ」 vol.16

2008-12-17 10:33:35 | 連載小説

    
 §

 島根旅行から帰った翌週の火曜日、フットサルの練習試合が『ミズノ藤沢』という体育館であった。12月21日に開催されるクリスマス・カップへ向けての練習だ。
今日の対戦相手は慶応藤沢キャンパスのチーム『コルミージョ藤沢』だ。ベジェッサ西早稲田は交通費がかかるということで、体育館の使用料はコルミージョ藤沢のメンバーでもってくれた。
 奈歩と私は四限が終わり次第直行したが、さすがに藤沢は遠く、六時からの試合に少し遅れて到着した。
 松崎はいなかった。研究が忙しいのだろう。ベジェッサ西早稲田の今日のスタメンは池上、修平、内山、大西、秋元だった。
 コルミージョ藤沢のメンバーは揃いも揃ってかっこいい。特にその中でも、柏原崇似と谷原章介似の二人がいて、類は友を呼ぶとはまさにこの二人のことかと思う。いつだって一緒なので、ますます目立つ。ターコイズブルーと白のボーダーのユニフォーム姿もかっこいいが、何と言っても私服姿がかっこいい。私はこのチームとの試合の時は、だいたい予定を返上して顔を出す。まるで、本物の芸能人に会うようなそんな気分なのだ。こんなこと言ったら松崎に怒られそうだけど…。  

  早苗は、今日は大した授業はなかったということで、池上くんたちと一足先に到着していた。  コルミージョ藤沢と対戦するのはオータム・カップ以来で、あの時は0ー3で大敗してしまった。
 コルミージョ藤沢は、何と言っても連携プレーが持ち味だ。相手がボールをキープしている時、連携しながらプレッシャーをかけていく。修平などは急いでボールを奪おうとするので、相手の選手にすぐかわされてしまうが、コルミージョ藤沢の選手たちは、腰を落としてジリジリと間合いを詰めながら、パスのコースを消していく。それも、なるべくゴールから遠い場所へ相手を追い詰めていくのだ。  

 コルミージョ藤沢側にもマネージャーが二人いて、彼女たちは一年から一緒で顔はよく覚えている。なにせ二人共美人なのだ。きっと、選手の中の誰か二人は間違いなく彼女たちの彼氏なんだろうな。やっぱりあの柏原&谷原かな…。

 応援をがんばった疲れを取ろうと思い、夜、銭湯に行った。11時を回っていたけれど、たっぷり一時間入れれば満足だ。いつものように受付のおじさんに100円玉4枚を渡し暖簾を潜ると、今日は脱衣所が混んでいた。一番下の真ん中のロッカーが辛うじて空いていたので、両脇の人に気を遣いながら遠慮がちに割り込む。

  『本日の湯』のコーナーは『レモングラスのお風呂』だった。
 いつものように、まず髪を洗い、次に化粧を落とし、最後に体を洗って、『レモングラスのお風呂』に入る。レモングラスの匂いに包まれて極上のひととき。  

 すっかり温まったので上がって、ロビーでひと休みし、持ってきたケイタイを取り出す。この間早苗に言われたことや、中村コーチに言われたことが気になっていた。中村コーチの言うことも正しいのかもしれない。けれども奈歩のアドバイスを信じたかった。高村くんに、思いを伝えなくては。

 銭湯を出て、静かな夜道でもう一度ケイタイを出す。画面がすごく明るくて懐中電灯のようだ。

 高村くんを検索する。
 寒い中、何十分も考えた。お寺の方にも歩いて行って、また銭湯に戻って、うろうろしていたから、誰か見ていたら、相当怪しまれただろう。

 そして、約30分後に、思いきって通話ボタンを押した。
 
 手が震える。

 呼出し音がヤケに大きく聴こえる。

 五回呼び出し音が鳴って、高村くんが出た。

 「はい、もしもし」  歯切れの良い、あの声。

「あ、私、夏木です。突然ごめんね。今大丈夫?あのね、今藤の湯を出たところなんだけど、ちょっと出てこない?」
 私は、何気なさを全面に出して、さりげなくこう言った。

「そうですか、いいですよ」  高村くんが二階から降りてくるのと、私がすみれ荘の入り口に着いたのはほぼ同時だった。

 あんなに狂いそうになるほど考えて電話したのに、いざ会うと、笑顔で、季節の挨拶などをしてしまう。

 しばらく家の前で立ち話していたが、高村くんは、

「寒いから、良かったら入りませんか?コーヒーでも淹れますよ」  と言った。

 「えっ?本当に?」  耳を疑った。松崎の顔が浮かぶ。それから美雪さんのことも…。ためらいは、高村くんには伝わっていない。スタスタと階段を上って行ってしまう。
 どうしよう…。階段を上る。一歩一歩をゆっくりと…。
 二階に上がって初めて気付いたのだが、高村くんの部屋の向かい側の家では、二階のベランダでうさぎを飼っていた。結構大きな小屋で、私が初めて見る顔だと知ってか、足をダンダンと踏み鳴らし威嚇している。

 いつも外から明かりだけを見ていた部屋…。その部屋にまさか入れるなんて。信じられなかった。
 高村くんは鍵をかけずに出てきたようで、鍵はかかっていなかった。

「汚いですけど、どうぞ」

 玄関には、靴がごちゃごちゃと五足ぐらい置いてあった。高村くんはつっかけを脱いで、玄関の靴を急いで靴箱にしまう。部屋の匂いはエキゾチックな香水の香りと、なんとも言えない小学校の体育館のような懐かしい匂いがミックスした感じ。部屋全体が雑然としていて、高村くんのかっこよさとのギャップに思わず気持ちが緩んだ。  ざっと見たところ、確かにきれいではなかった。けれども、その雑然さに、妙にあったかい人間性みたいなものが見え隠れしているような気がしてホッとした。人間、完璧な人なんてそうそういないんだなぁ。

 玄関に入ると、手前にまず六畳ぐらいのキッチンがあり、料理はあまりしないのか、流しにはコーヒーカップが二個置いてあるだけで、ガス台には鍋類は見当たらず、前に話してくれた注ぎ口の細い銅製のポットだけが目に入った。

「どうぞ、汚いですけど」  いつものあのパリッと決まった高村くんが、今日は部屋着らしいグレーのアディダスのトレーナーに、やはりトレーナー生地の紺の先がつぼまっているズボンを履いている。すごくアットホームだ。

 キッチンを通り、奥の部屋に向かう。そこの空間に入った瞬間、脳内からα波が出たように感じたのは気のせいではないだろう。和室を洋室風に使っていて、つまり、畳には薄いブルーのカーペットを敷き、左側にはグレーのカバーのソファがあり、真ん中にはガラスのテーブル、そして右側に21インチぐらいのTV、それにオーディオがあった。そして部屋の奥の窓側をベッドが占めていた。見てはいけないものを見たような気持ちになった。ソファやカーペットと同系色の、グレーと青のチェックの布団カバーで、枕もお揃いのカバーだった。シンプルで、とても居心地のよい感じの部屋だ。

 確かに雑然とはしているのだが、それは綺麗な汚さだった。例えば机の上に食べかけのカップラーメンがあったり、服が脱ぎ捨ててあったり、そういういかにも生活臭い感じはなく、本とCD、それから新聞や雑誌、そういったもので床やテーブルが埋まっている、敢えて言うなら、無機質な汚さだった。

 壁に目を移すと、電話器の上にはヨーロッパの田舎の風景カレンダー、そしてその傍には『グレン・グールドの生涯』という映画のフライヤーや、東京ジャズフェスティバルのチラシ、などが無造作に貼ってある。

「どうぞ座って下さい。今コーヒー淹れますから」
 そう言って、台所でお湯を沸かし、コーヒーを淹れる準備を始める。

 ゆっくりとソファに座る。すぐ手が届くぐらいの所に本棚があって、社会学や政治学などの専門書や、小説、そして詩集がズラッと並んでいる。忘れもしない高村くんに初めて出会った時、彼が読んでいた『ランボー詩集』もあったので思わず手に取ってみたくなって、

「ちょっと詩集見せてもらってもいい?」  と言うと、
「どうぞ、オレのコレクションなんで、見てもらうのは嬉しいですよ」  と爽やかに言われ、『ランボー詩集』を手にした。ページをパラパラ捲ると、すごく、こう、力のある言葉、そしてちょっと乱暴な言葉がちりばめられていた。

(またみつかったよ!何がさ?永遠)

 という素敵なフレーズもあった。裏表紙にランボーの顔写真があった。びっくりしたのはその顔や雰囲気が、高村くんにとても良く似ていたことだった。

「高村くんってランボーに似てるんじゃない?」  と言ってみたら、

「そうなんです。実は、高校の時の現代文の先生にそう言われて、興味を持ったのが始まりなんです」

 気が付くと、いつのまにかけたのか、オーディオからはマイルス・デイビスの「カインド・オブ・ブルー」が小音でかかっていた。私はもう一度部屋を見渡す。カーテンの桟には、三、四着のコートやジャケット、それにいろんな色のマフラーがハンガーにかけてある。その中には、この間秘密の喫茶店に連れて行ってもらった時に着ていた紺のPコートもあった。

 TVの下の戸棚に、DVDが十本ぐらい入っているのが見えた。私はそこに近付いてみる。『スモーク』『トリコロール/青の愛/白の愛/赤の愛』『太陽と月に背いて』など知っているものもあったが、『汚れた血』『水の中のナイフ』『袋小路』『桜桃の味』といった知らないものもあった。それから『世界遺産』が数本あった。 「スモーク私も好きよ」  と高村くんに言うと、

「やっぱり。今度貸そうかなと思ってたところなんですよ。絶対好きそうって思って。最後の盲目のおばあさんと孫になりすました主人公のクリスマスストーリーとかね。太陽と月に背いてはランボー役がディカプリオってのは許せないんですけどね…」

 と高村くんが話しながら、コーヒーを運んでくる。

 二人でソファに座る。

 今日電話したのは、思いを告げようとしてのことだった。でも、高村くんの姿を見て、高村くんの部屋に入って、肝心な言葉が出て来なかった。告白したら終わってしまう怖さもあって…。

「そう言えばトヨクニ潰れちゃったの知ってる?夜逃げだったんですって。今度あの敷地には、ドラッグストアができるみたい」

 私はいつものように近所の話題を出してみた。高村くんにとって私の存在は、きっと、単なる近所の友達になりつつある知り合い、っていう程度なんだろう。なのに、そんな話をしたら困らせるだけだし、二度ともう会えなくなるのは嫌だった。

 「そうそう、びっくりしました、突然だったから。東西線使ってるからトヨクニはよく使ってたんですよ。まぁ、ドラッグストアも便利だけど…」

 高村くんはそう言って、ゆっくりコーヒーを飲む。

「そういや、りんご、とても美味しかったですよ。美雪も喜んで食べました」

 私はそれを聞いて一瞬ドキッとした。高村くんが美雪さんに、私からもらったとかそういうことを言ったのか気になったが、言葉にはしないでおいた。  そこからは、また訳もなく話が弾んで、映画のこと、好きな音楽のこと、国際政治論のこと、私の実験の失敗談などなど楽しくおしゃべりしてしまった。

「グレン・グールドの生涯、観に行ったの?私結局行けなかったんだ。私ね、ピアノずっと習ってて。大学に入ってからも二年から再開して。目白にある音楽教室に通ってるの。でもグレングールドのことは、母が好きで結構前から知ってたの。彼は一九三二年、カナダのトロントに生まれたのよね。お父さんは毛皮商、お母さんは声楽教師で、親戚には確かあの偉大な作曲家グリーグがいたはず。彼のCD一枚だけ持っているんだけど、あのノン・レガート奏法が私は好きだわ」

 「夏木さん詳しいですね。オレの家でも親父が好きでよく流れてたんです。きっと夏木さんのお母さんとオレの親父は同年代で、見たり聞いたりしたものが似ているのでしょうね。彼、ある意味変人だったらしいですよ。芸術家って多かれ少なかれそういうところあるんでしょうね」

 私は、高村くんと共通の話題が沢山あることに、言い様もなく満たされた。  

 高村くんが、CDを変える。
 サロンで流れているような曲が流れ出す。

「これって、聴いたことある。何て言うんだっけ?」

「エリック・サティの『ジムノ・ペディ』っていう曲です。これも結構好きなんです」

 彼の話し方、身ぶり手ぶり、心地よい声、切れ長の目、整った鼻と口…本当はそれらを見ているだけで嬉しくてしょうがなかった。それにプラスして、こうやって共通の話題が多いのは本当に楽しく、素晴らしい時間だった。こんな時間が、本当にあっていいのだろうか…。高村くんは明るい。そして、たまにポロッと出す広島弁がとても可愛い。高村くんはどこまでも礼儀正しかった。そのことが、私との間に明らかにある一定の距離を置いているように感じられたが、その距離感までもが心地よく上品に思えた。

 話している間、高村くんには頻繁にメールが来ていた。おそらく美雪さんだろう…と、

「どうぞ、返信してあげて」  と言ったけれど、

「大丈夫ですよ、ありがとうございます」  と明るく言われた。

 あっと言う間に午前二時を回ろうとしていた。

「ごめんなさい、こんなに遅くまで」
 私は時間に気付くと謝って出ようとしたが、高村くんは、

「オレは、授業いつも午後からなので、二時ぐらいは平気で起きてるんです。三時からのNHK総合の『映像散歩』好きでよく見てますよ。その後の『視点・論点』まで見ることも…なので気にしないで下さい」
 なんと明るいフォロー。どうしよう、告白するなら今かな…。でも…。

「あ、オレ、家まで送りますよ。この時間に女の子の一人歩きは危険ですから」  と言って彼はコートをさっと着て、マフラーをした。

 すみれ荘を出ると、外はすごく寒かった。あまりに寒くて、私は思わず高村くんに寄り掛かった。

  「寒い」

 高村くんは避けなかった。

 ほんの2~3分、こうして身を寄せ合って歩いた。恋人の予感がした。私はどうしようもなく高村くんが愛しくて、この時間が永遠に続いてくれたら、と本気でそう思いながら一歩一歩大切に歩く。

 途中誰ともすれ違わず、シンと静まり返った住宅街に二人の靴の音だけが響いた。  エレガンス東中野に着く。

 向かい側の家の犬が私たちに気付くとひとしきり鳴いて、そうしてまた鳴き止んだ。

「それでは夏木さん、また」

 高村くんが私の腕をゆっくり離し、手を振ろうとした…その時、私は、離れて行く高村くんを引き止め、抱き締めた。Pコートは、かすかにエキゾチックな香りがした。

  時間が止まったようだった。ずっとこうしたかったんだ。すごく切なくて、嬉しくて…。私は高村くんの胸に顔を埋めた。

  「夏木さん…」

 高村くんは冷静だった。私をゆっくり引き離し、両肩に手を置いて、

「夏木さん、こういう風だったら、もう会えないですよ。オレも、美雪がいるから、夏木さんとは近所の良いお友達でいたいんです。それじゃ駄目ですか?」  

 高村くんの目はとても真剣だった。  私は、

「高村くん、私、あなたのことが好き。本当にこんなに好きになったのは高村くんが初めて。友達でいたいけれど、こんなに好きじゃ友達にもなれない…」

 隠さず正直に話してみた。すると高村くんは、

「大丈夫、オレの気持ちはしっかりしていますから。だから友達としてこれからもまた楽しい情報交換しましょうよ、ね、夏木さん」

 高村くんは、私が好きだと言う気持ちを告白したからか、とても綺麗な笑顔を見せてくれた。

 アパートの鍵を開け、真っ暗な部屋に戻る。

 さっきの抱き合った余韻が、いつまでも残っていた。