RIKAの日常風景

日常のちょっとしたこと、想いなどを、エッセイ風に綴っていく。
今日も、一日お疲れさま。

連載小説「冬枯れのヴォカリーズ」 vol.19

2008-12-19 00:33:19 | 連載小説

 
 水曜日はピアノの日。

 この間松崎の実家へお邪魔した時に、満足に弾けるものがなかったことにすごく後悔していた。次に松崎の家にお邪魔する時までにテンペスト第三楽章を弾けるようになってご両親に誉められたいと、今日はレッスンの後夜中まで練習しようと思い、一旦アパートに帰り、自転車でアルルに行った。
 八時からのレッスンの前にも30分くらい練習できて、先生に誉められた。  レッスンの後、どの部屋もレッスンで埋まっていたので、(レッスン室が空いている時、そこは練習室として使えるようになっている)待合室で、持って来た文庫本を読んだ。
 アルルの待合室は、赤茶色のビニール製のソファがあって、すぐ手の届く所にあるマガジンラックには「音楽の友」や「ぴあ」などの雑誌、それに新聞が置いてあって、横の本棚には、ヘレンケラーやキュリー夫人などの小学生が読むような、マンガの伝記ものが数冊、それから手垢の付いた、村上春樹などの文庫本が、十冊ぐらい置いてある。同じく待っている人たちは、会社帰りの50代ぐらいのおじさんや大学生などだ。

 今井先生がレッスン室から出てきた。22時7分だった。

「あーら、夏木さん待ってたの?ここ、もうレッスン終わったから、どうぞ使って。頑張ってね」

 レッスン室に入り、荷物を横のパイプ椅子の上に置く。楽譜とケイタイを取り出し、練習を始めた。

 テンペストが書かれた頃、ベートーベンは聴力をほとんど失っていたそうだ。ニ短調のこの激しくも哀しげな調べは、音楽家にとって致命的なハンデを背負った絶望や苦悩を乗り越え、孤高の精神で突き進むという感じを表現しているのだと今井先生は教えてくれた。
 仕上げの時はテンポを速めるが、今日はゆっくりめに弾いた。

 ピアノをやっていると、どの曲にもそれぞれの『言葉』があるように感じる。私の解釈ではこの曲は『迷い』『葛藤』『悲痛』という言葉が似合う。かきたてるような焦燥感とでも言おうか。作曲家というのは本当にすごい。

 ピアノを弾くと、自分と対話しているような感覚になる。心が澄み渡るのだ。感情が研ぎ澄まされて、まるで鍵盤を押す指からストレスがピアノに吸い込まれていくよう。  ケイタイも目にくれず没頭した。なんとか二ページ目の最後の段までを弾けるようになったところで、顔を上げると、壁時計の針はちょうど0時を指していた。手を止め、耳を澄ます。他の部屋から小さく音が聴こえ、まだ誰かいるということで安心する。自転車で来たので終電も心配しなくていい。

 テンペストは一旦終わりにして、今まで弾いたことのある曲で、指が覚えているものを、ランダムに弾き始めた。
 ドビュッシー月の光、ショパンのノクターン数曲、シューベルトの即興曲NO.3、リストコンソレーション第三番、ベートーヴェンソナタ悲愴第二楽章、風の谷のナウシカのテーマ曲、加古隆のパリは燃えているか…こうして弾いてみると、意外とレパートリーはあった。

 自分の中にあった、もやもやした気持ちが、ピアノを弾くことで解決していくように感じられた。まるで大声を出してスッキリするような感覚だった。高村くんへの気持ちの清算も、できたような気がした。

 あっという間に一時間が過ぎた。さすがに疲れてきたので帰ることに。エアコンを切り、ピアノの鍵盤をハンカチでさっと拭いて、赤いカバーをし、静かに蓋を閉じる。
 部屋を出ると、待合室には誰もいなくなっていて、他の部屋から漏れる音も一人いるだけだった。
 階段を降り、目白通りに出る。この時間でも交通量はけっこうある。自転車にまたがり、山手通りに向かって自転車を漕ぎ出す。 だ。
 あったかいダウンジャケットに分厚いマフラーをして一生懸命漕いだからか、外気はかなり冷たかったのに少し汗ばんできた。
 中落合付近、山手通りの道沿いに、この間通った時は建設中だったマンションが完成していた。とても立派な大きなマンションで、松崎の実家のようなライトアップがされていた。

 次の日は目覚ましをかけていたはずなのにいつのまにかまた消してしまったようで、起きたら9時5分前だった。

(またやっちゃった)

 急いで奈歩に代返を頼むメールを打つ。終電の心配をしないついでに、一限の心配まで忘れていたのだ。
 すぐに「了解」の返事が来てほっとする。
 カーテンを開けるとよく晴れていた。どうせだからと洗濯機を回し、朝食を作る。
 木曜の時間割りはよくない。二限がないからついつい一限を軽んじてしまう。  
 この前の家庭教師は、すごく充実した時間だった。

 四月から四年になる。研究室も決めて卒業研究で忙しくなるだろうし、院に行く予定はゼロなので、とりあえず就活も人並みにしなければならないだろう。けれども家庭教師は続けたいと思う。バイト代はやはり貴重な収入源だし、何よりもやりがいがある。ユウナちゃんは最近見る見る自信がついてきたようで、私はそれが何よりも嬉しいのだ。

 洗濯機があのいやな『ピーピーピーッ』という音をたてて止まった。洗濯機を作るメーカーは、この音をもっとマシにすればいいのに…。  

 十時半に家を出て、落合駅から東西線に乗りラウンジに寄る。ラウンジには誰もいなくて、ノートを見ると『戸山公園で筋トレ』と修平の汚い字で、でっかく書いてある。とても天気が良かったし、三限までまだ時間があったので、ちょっと顔を出そうと思ってラウンジを後にし、早大生の顔に摺り替え、なるべく堂々と意識して構内を歩く。

 校門を出て、しばらくゆるい上り坂を歩く。定食屋さんやメガネ屋さん、不動産屋などが軒を列ねているここの通りには、早大生がうじゃうじゃいる。

 早稲田通りを横断し、文学部の前を通り過ぎ、しばらく行くと戸山公園がある。
 戸山公園はけっこう広い。でも、ベジェッサ西早稲田のメンバーが練習するエリアは大抵決まっていて、奥の方の藤棚の近くだ。他の体育系サークルの色々なグループの間を通り抜けてゆく。

 広々としていて、枝だけ剥き出しになった高い木を仰ぎ見、深呼吸をしてみる。吐く息は白い。

 やわらかな、白い冬の太陽光線が、心地よく体に染み渡る。まるで、一瞬にして地元の裏山にでも来たような錯覚に 陥るほど、長閑でゆったりしている。が、カラスがたくさんいることで、やはりここは都会の中なのだ、と我に返る。
 カラスと言うと、さも汚いものの代名詞のような響きだけれども、彼等をよくよく観察してみると、つぶらな瞳、がに股の歩き方、なかなかあれで愛嬌があると思うのは変だろうか。

 私に最初に気付いてくれたのは、後輩のマネージャーの子で、修平に告白した智子ちゃんだった。そして修平もいた。なんと松崎もいた!研究が休みになって余裕ができたっていうことだろう。松崎は私を認めると、まんざらでもない顔をしてみせた。その他には、内山、大西、秋元、それに後輩が五人ほどいた。池上くんはいなかった。それにしてもけっこうな出席率だ。そう、土曜日は今年最後の大会クリスマス・カップだ。

「それじゃ、今度は各自ももあげ50回に腹筋50回、これを三セットだ」

 内山が号令をかける。

 私は久しぶりに松崎の練習を手伝った。

  「1、2、3、4、…」
 二セット終えて少し休憩する。

 顔を上げると、周りの木々は軒並み紅葉を終え、まばらに木に残った枯葉が、頼りなく風に揺れている。高い木の上に停まり、しきりにビービー鳴いているのは、ヒヨドリだろうか。空気は美味しくて、鼻からいっぱい吸い込み、吐く。そばをしっぽのこじれた茶トラのねこが優雅に通り過ぎる。少し離れた広場では、大きな犬を二匹連れた男の人が、犬を放し飼いにして、テニスボールを投げ遊ばせている。

 練習が終わると、皆その場で着替えをする。いつもその間はなんとなく目のやり場に困るので、少し離れたベンチに座り、智子ちゃんと話をした。

 私は基本的にあまり詮索好きではない。だから智子ちゃんにも修平のことは特に聞かず、六本木ヒルズやこの冬流行するものなんかの話をした。

 12時に公園を後にして、文学部の斜向かいにある激安ファミレスでアフターのランチをした。

 店内はけっこう混んでいたけれど、内山がご来店お客様控えの紙に名前と人数を記入すると、三分も待たずに通された。

 メンバーは今日、はりきって九時に集合して、まず箱根山の周りをランニングしたそう。箱根山というのは戸山公園の裏手にあって、丘みたいな小さな山だ。ここには昔、陸軍戸山学校というのがあったらしく、山の中腹に石碑が立っている。箱根山周辺はアップダウンがあるから、脚力をつけるにはうってつけのコースだ。オータム・カップでの雪辱が、練習の原動力になっているらしかった。

 そんなわけで皆腹ぺこだったみたいで、(男の子の一人暮らしなんか、朝食はろくに食べないに違いない)席につくなり、皆無言でメニューに目を落としている。

 ここは、とにかくびっくりするくらい安いので、ビンボー学生にはかなりありがたい店で、よくアフターで重宝している。

「決まったか?」
 内山が皆に碓認すると、ボタンを押し店員を呼ぶ。

「イタリアンハンバーグにスープセットでスープはコーンスープで」
「半熟卵のミラノ風ドリア」
「三点セットと包み焼きハンバーグ」
「あ、それをもう一つ」
「野菜ときのこのピザ」
「三点セットに厚切りランプステーキで」
「ハヤシ&ターメリックライス…」

 そんなに食べられるのか?と不安になるほど頼みまくる。私は朝食も遅く、さほどお腹は空いていなかったので、フォッカチオとコーンスープだけ注文した。  
 当り前かもしれないが、皆といる時は、松崎に話したいことがあっても、なるべくみんなに共通の話題だけで話すようにしている。席だってわざと遠くに座ったりもする。でも、この間初めて実家へ泊めてもらって以来、松崎との距離が縮まっていたので、躊躇することなく、すぐ向かい合わせのところに座った。だいたいメンバーはそういうことにさりげない気遣いをしてくれる。

 サークルの心ってあったかい。三年もすれば、サークル内で一年の時付き合っていた子が別れたり、他の子とくっついたりってことはよくある。けれども、皆そんなことを把握しつつも、必要以上に割り込まないし非難中傷などもちろんしない。それで当人同士も、サークルという柔らかなクッションで、ひと休みし、充電して、再生し、角がとれ、また成長してゆく。考えてみたらこんな環境、後にも先にもないんじゃないだろうか。

 大学生っていうあまりにも宙ぶらりんな、それでいて自分の心がけ次第で、どんなことでも成し遂げられそうな、根拠のない自信もあったりする今の環境がたまらなく愛おしい。こんな時間が、永遠に続いてくれたら…と時々考えてしまう。その一方で、日々の勉強への焦りや、親からの援助がなければ成り立たない生活へのもどかしさ、未だ定まらぬ自分の将来の方向性など、色々な葛藤があるのも事実だ。でもこうした貴重な仲間たちとの時間が、そういった焦りや葛藤を、薄めてくれている気がする。ノアの箱舟じゃないけれど、運命共同体がいることは本当に心強い。

「じゃあ私、悪いけどもう行かないと」
 と私がお財布を取り出すと、向かい側にいる松崎が、

「いいよ、一緒に払っておくから」
 と小さな声で言う。こんな時私は、なんだかとても守られているという気持ちでいっぱいになる。

「ありがとう、じゃあ悪いけど」
 黒いファー付きの茶色のオーバーを着て店を出ると、さっきまであんなに天気がよかったのに、なんと粉雪が舞っていた。私は急ぎ足で歩き、坂を上って大学に向かう。

 学内喫茶店で奈歩が待っていた。

「理美、流体力学遅刻多いね、私、理美の声まねうまくなったよ」

 皮肉なことなのに明るく言うから奈歩は憎めない。というか自分が悪いのだから…。

 午後は輪講だ。これは来年の研究室をどこにするか、自分がどこに向いているか、二~三か月ずつ一通りの研究室を経験してみる、教授を囲んでの少人数ゼミのようなものだ。今は全然興味のない研究室だから、頭も全然動かさないで、英語の辞書をペラペラめくって読んでいた。輪講ではだいたいは論文の和訳なんかをする。英語は好きだけれど、専門の英語はまるで別の言語のように理解が難しく、珍妙な訳をしてしまったりする。

 デンマーク体操の後、家庭教師へ行った。このあたりはイルミネーションを飾っている家が少ない、などと思いながら、凍えるような寒さの中、急ぎ足で向かう。

(今日もユウナちゃん元気かな?どんな服を着ているだろう…)
 既に私はユウナちゃんのファンだ。

「こんばんは」
 お母さんがいつもの満面の笑顔で応対してくれる。ユウナちゃんもその後ろからはにかみながら顔を出す。今日はザックリ目のキラキララメ入りの胸元が大きく開いている黒いセーターに、ピチピチのジーンズ生地のミニミニスカートだ。セーターの袖を指でつまんで伸ばしているのが可愛い。

 今日も集中して楽しく教えることができた。

「六角形の内角の和を求めよ、って言う問題だね。これを解くにはユウナちゃんならどうする?」
 ユウナちゃんはさっぱり検討がつかない様子。

「それじゃまずね、頂点AからCDEに対角線を引いてみてごらん。そうそう。そうすると六角形の中に三角形が四つできたでしょ。三角形の内角の和は180度っていうのはこの間やったよね?だから六角形の内角の和は180×4=720度となります!」

「へぇーすごーい!夏木先生魔法使いみたい」

 ユウナちゃんは目を大きく見開いて、両手を何回もパチパチ叩いて喜んでくれた。

 帰りの電車の中でその情景を何度も反芻して、充足感でいっぱいだった。   

 アパートに着き、郵便受けを見ると、テレクラの小さなチラシや引越業者のチラシの合間に、あの見慣れた文字が見えた。母からのだ。

 母は、私がはがきを出すと100%返事をよこしてくれる。はがきを大雑把に眺めながら、鍵をあけ、誰もいない部屋に入る。
 明かりを点けて、留守録を解除して、早速はがきに目を通す。


 拝復   お便りありがとう。今年も残すところあとわずかとなりましたね。体の事を心配してくれてありがとう。ランと毎朝散歩するのが日課で、最近は寒くて億劫になりますが、ランに引きずられるようにしてがんばって行っています。健康に良いようです。  お父さんは先日学会で神戸に行ってきました。霊山の畑は、もうあまり忙しくないようです。  年末は何か予定があるとのこと、くれぐれも無理をしないように。それではお正月に会えるのを楽しみにしています。                     
                             かしこ  母より

 ランと言うのは実家で飼っている犬で、明るい茶色のトイ・プードルだ。母が乳ガンを患ってしばらくして飼い始めた。私は一年しか一緒にいられなかったけれど、両親は可愛がってあげているようだ。

 その後松崎にメールを打つ。明日は金曜日だ。

「明日は何か予定ある?なかったら夜ご飯一緒に食べない?」

 20分ぐらいして返事が来る。

「明日は試合の前日だから、個人練習をするんだ」
 すぐに返事を書く。

「どこで?私付き合ってもいい?あと、千駄ヶ谷は一本で行けるから、泊まっていって明日一緒に行かない?」

 20分ぐらいして「わかった」と返事が来る。


 次の日の夕方、高田馬場で松崎の筋トレに付き合った後、東西線に乗りアパートに来てもらった。

 片づけは朝のうちにしておいた。ロフトのベッドスペースにはベッドメーキングした後今日はユリの香りをスプレーし、掃除機をかけ、洗い物をし、トイレをきれいにした。お気に入りのサボテンは、冬だからか最近元気がない。

 今日は、簡単で栄養のバランスもいい、八宝菜にかきたま汁、を作った。こういう定食風のメニューは、きっと松崎の家では出てこないんだろうなと…と心配していたが、松崎からは、

「美味しい!」
 という言葉が出たので、ほっとする。

 その後、松崎が思わぬことを言ってきた。

 「理美ちゃんってさ、近所の銭湯によく行ってるって言ってたじゃん?オレ、最近筋トレがんばったから、ちょっとゆったりお風呂入りたくてさ。そこ、連れてってくれない?」

 考えてみれば、松崎を銭湯に誘ったことは今まで一度もなかった。お金持ちの子は銭湯なんて入りたがらないだろう、と決め込んでいたのだ。

 高村くんのことがちらっと頭をよぎったけれど、時間も早いからカチ合う心配はないだろう。

「うん、いいね。私、大ちゃんとほんとはずっと前から一緒に行きたかったんだよ」

 そして早速、バスタオルやタオル、松崎用にお泊まり用のシャンプー・リンスなどを用意して、藤の湯へ出掛けた。

                          (つづく)