RIKAの日常風景

日常のちょっとしたこと、想いなどを、エッセイ風に綴っていく。
今日も、一日お疲れさま。

連載小説「冬枯れのヴォカリーズ」 vol20

2008-12-20 19:11:05 | 連載小説

 クリスマス・カップの開会式は九時半からだった。目覚ましは六時にセットしたはずだった。だが、目覚ましの鳴る前に目が覚めた。
 松崎がパッチリ目を開いて、私の髪をなでていたのだ。
 私が起きたのに気付くと松崎は、

「理美ちゃん、愛してる」
 と言った。

 朝起きぬけにそんなこと言われたのは今までなかったので、びっくりして、ああ、そういや昨日…と思い出し、

「具合良くなった?良かった。愛してるよ、大ちゃん」
 と言って、仲直りした形になった。

 私は心のもやもやが少しは消え、下へ降り、おにぎりとおかずを作った。のりはいつも実家から送られてくるのがたくさん余っていた。味は、梅と、シャケと、シーチキンマヨネーズの三種類にした。おかずは、ありきたりだけれど、卵焼きとソーセージ。
 松崎はTVをつけて、ニュースを観ていた。

「大ちゃん、今日はベジェッサどこまで行くかな?」

 松崎が普段通りに戻ってくれたなぁと思い、すごくホッとして、おにぎりを握る手が弾む。

「わかんないけど、今回、オレたちメンバーは、結構練習がんばったと思うよ」  
 窓の外を見ると、ところどころ雲はあったけれど、良く晴れていた。室内競技とは言っても、天気がいいのは嬉しい。
 おにぎりは、なかなか上手にでき、皿の上に並べて冷ます。その間におかずを作って、使い捨てランチボックスに綺麗に詰める。おにぎりは松崎の分三つと私の分二つを、それぞれアルミホイルで包んだ。

 朝食を済ませ、8時20分、家を出る。服装は、いくらスポーツ観戦とは言っても夜は飲み会だし、と思い、お気に入りの赤いPコートにした。でもスカートではなくジーンズにし、上もカジュアルな五分袖の黒いセーターにした。松崎は、ユニフォームには向こうで着替えるということで、白地に細い紺色の格子模様の入ったカジュアルなワイシャツに、グレーのVネックセーター、それにブルージーンズ、そしてお決まりのダッフルコートにマフラーだ。

 住宅街の細道を歩き出すと、朝なのにあの二匹の猫がいた。二匹はうずくまって、私たちの方をあまり関心なさそうに見て、前足で顔を拭くポーズをする。松崎が近寄って触ろうとすると、ひょいっと逃げてしまった。

 東中野から松崎と一緒に電車に乗るのは、この間実家に泊めてもらった日以来だった。総武線は大抵座れる。今日も空いていた。

 新宿でかなり人の出入りがあったが、千駄ヶ谷まではあっと言う間で着いた。  
 東京体育館には、既にたくさんの学生が詰め掛けていた。大半は知っている顔だ。

「よぉーっ!」
 後ろから声がしたので、振り向くと修平だった。修平はこの寒いのに、上に何も着ずユニフォーム姿でやる気マンマン。そんな格好の人は誰もいなかったのでちょっと恥ずかしい。

 そうこうするうちに、みんな集まったので中に入る。

 九時半、開会式が始まった。前回のオータム・カップ同様8チームが参加だ。コートが二面しか取れないということで、今日もトーナメント戦で行われる。  

 開会式で目を惹いたのは『アミーゴ日芸』と言うチームで、なんとみんなサンタクロースの帽子をかぶって登場したのだ。なかなかユニークだ。

 そしていよいよくじ引き。これでもし、初回に強豪と当たったらかなり厳しい。みんな息を飲む。

 内山が引き当てたのは、あのサンタクロースの帽子のチームだった。思わず皆から笑みがもれた…あそこのチームは東京六大学野球の東大のように、万年負け続きだからだ。しかも、黒板に貼付けられた大きなトーナメント表を見たら、なんとオータム・カップでの上位二チームが初回に激突する!トーナメント戦っていうのはこれだから分からない。ある意味今日はついてるんじゃないか?

 ベジェッサ西早稲田のメンバーはみんな輝いている。そんな中、池上くんだけなんとなく元気がない。早苗もいつもの弾けるようなパワーがない。さてはケンカでもしたのかな?
 修平の彼女の智子ちゃんは、修平と一緒にいることが嬉しくてしょうがない、と言った様子。修平のタオルを握りしめ、終始笑顔だ。

 初回は、後半で少し詰め寄られたものの、前半に大量得点していたのであっさり勝ってしまった。修平は彼女の前でいいプレーを見せたいのだろう、いつもよりさらにハッスルしている。実際前半の頑張りは見ていても気持ちが良く、おもいきったプレーが目立った。

 それから午後の試合まで時間が空いたので、その間にやっていた『コルミージョ藤沢』の試合を観ていた。柏原&谷原は今日も好調だ。柏原がボールをキープし、美しく正確なインサイドキックを谷原に。谷原はうまくトラップし、左右にドリブルしながら敵を交わす。あっと言う間にゴールに近付き、ため息のもれるような鮮やかなシュートを決めた。

「なぁ、今のうちに昼めしにしようぜ」
 と修平に声をかけられ、観客席に行って弁当を広げる。私は何の変哲もないおにぎりだったけれど、奈歩はいなり寿司、智子ちゃんはなんとサッカーボールをイメージした球形に、六角形に切ったのりを付けてきた。ソーセージや卵焼きはありきたりで恥ずかしいと思ったけれど、みんな残らず食べてくれた。

 二回戦は『エストレージャ駿河台』とだった。ああ、運のつきもこれまでか…と思いきや、前の黒板を見ると、初回弱いチームにわずか一点差で勝ち進んだようだ。あのエストレージャ駿河台がどうしたのだろう。

 稲葉の様子がおかしいと気付いたのは、試合開始後間もなくのことだ。エストレージャ駿河台は、ハッキリ言うと彼がキーパーソン的存在で、あとは意外にみな並のレベルだ。でも役割をきっちりこなすから、チームとしてのまとまりはあるのだが、シュートはどうしても稲葉が断然上手く、他に代わりがいないのだ。

 普段はポーカーフェイスで果敢に攻める彼が、今日はまるで試合に集中できていない。パスの出し方も、受け取るタイミングもちぐはぐで、まるで別人のようだ。

「稲葉くん調子悪いね」
 私は奈歩に向かって言ってみた。

「うん…」
 奈歩は何か心当たりがあるようだったが、話してはくれなかった。

 ついに決勝戦だ。相手はなんと『コルミージョ藤沢』だ。

 「ピーッ」
 アミーゴ日芸のキャプテンの笛で、試合が始まった。交流試合では、審判も学生たちでする。

 ベジェッサ西早稲田のメンバーは、生き生きしていてみんな動きがいい。引き分けのまま、後半戦へ突入する。
 後半はゴール際での松崎のシュートが決め手となり、見事逆転で勝った。

 全試合が終了したのは午後3時半だった。その後表彰式が行われた。ベジャッサ西早稲田はなんと優勝してしまった。

 夕方六時から高田馬場で合同飲み会があった。高田馬場になったのは、今回の飲み会の幹事がたまたまベジェッサ西早稲田に回って来たからだ。他のチームの交通の便を考えると、新宿辺りが無難だったのだろうけれど、いつも使っている飲み屋で気に入っているところがあり、会員割引もあるから、と馬場にしたのだ。

 奈歩は飲み会を欠席した。帰国後初めて、井上くんと会う約束をしたのだ。

「まさか優勝するとは思っていなかったから…」
 と悪がっていたけれど、

「ドキドキだね!楽しんで来て」
 と明るく送り出してあげた。

 六時にビックボックス集合。

 クリスマスが近いから待ち合わせに使う人でかなりの混雑だ。日中あんなに天気が良かったのに、ポツッポツと雨が降って来た。

 松崎はいつ何時でも折り畳み傘を持っている。松崎に入れてもらった。他の人で傘を持っている人はほとんどいなかった。なんとなく悪かったけれど、お姫さまのような気分で嬉しかった。とは言ってもお店は駅から近かったのでみんなそんなに濡れずに済んだ。

 今日の飲み会は鍋。一つのテーブルに二つ。海鮮よせ鍋に豚キムチ鍋。私は松崎のすぐ隣に座って、鍋をよそってあげる。

「それじゃ、ベジェッサ西早稲田の初優勝を祝して、乾杯!」
 と内山が中ジョッキを一気に飲み干すと、続いて修平、大西、秋元が揃い踏み一気をする。松崎はその様子をにこにこして見ている。智子ちゃんはとても心配そう。それでも三人が飲み干すと、どっと拍手が沸き起こった。

 向かい側にいる早苗は、普通はよく飲むのだが、今日はやけに ピッチが遅いので、

  「どうしたの?具合でも悪いの?」
  と一応聞いてみたけれど、

  「うん、ちょっとね」
 と早苗らしくない、しおらしい視線で、池上くんの方を向く。やっぱり何かあったんだな。

 鍋はあつあつで美味しくて三回おかわりした。

 修平と智子ちゃんは今が一番いい時期なのだろう。修平の器によそってあげたり口に運んであげたり、甲斐甲斐しくお世話している。きっとクリスマスあたりに初Hかな。

 それにしても今日の松崎のプレーはかっこよかった。松崎は普段の性格はとても穏やかなのに、フットサルになるとすごく機敏になる。相手からボールを奪うのも上手い。決勝戦での逆転は、松崎がゴール前での攻防の末、こぼれ玉をすかさずシュートしたことで入った点だった。とにかく選手みんながうまくフォローしながらチャンスを無駄にしなかったのが、今日の勝因だろう。

 奈歩は今頃、新宿辺りで感動的な再会をしているかな。

 お店を出たのは九時半過ぎだった。雨脚が強くなっている。今夜いっぱい降り続くようなシトシト雨だ。身震いする。

 二次会は特に設定していなかったので、

「大ちゃんどうする家来る?雨だしタクシー乗ろうか?」
 とか相談していると、早苗が急にみんなに向かって、

「今日、みんなに家来て欲しいんや」
 と西早稲田のアパートに誘った。それで、三年の六人が早苗のアパートに行くことになった。

 タクシー二台で早苗のアパートに向かった。松崎と私は後ろの方に乗る。私の乗ったタクシーの運ちゃんはとても陽気な人だった。

「あいにくの雨ですがね~こっちはありがたいもんでね、雨の日は普段の何倍も忙しいんですよぉ~」
 助手席の名前をチラッと見ると、「寿 喜一」とある。

「そうですか」
 誰も反応しないので私が相槌を打つ。

「あなたがた早稲田の学生さんでしょ?うちのね、向かいの家の娘さんも早稲田受かりましてね、今一年なんですけどね」

 苦笑しながら、
「へぇ~そうなんですか」
 と言うしかなかった。

 ちょっと道が混んでいたものの、あっと言う間に早苗のアパートの前に着いた。松崎が千円札をスッと出す。

 早苗のアパートは早稲田通りから少し奥まった、理工学部材料技術研究所の近くで、何回かお邪魔したことはあった。

 早苗のアパートは結構古い、木造だ。しかも女の子なのに一階だ。早苗のそんな無頓着さはやはり男っぽい。

 ゾロゾロと、皆濡れた靴を脱いで上がる。玄関にいる文鳥は今日も元気だ。松崎は文鳥を見つけると、指を網の間に入れたり出したりして遊んでいる。

 早苗のアパートは和室で、炬燵が出ていた。

「みんなこたつにあたって、いまスイッチ入れたから」
 みんな酒が入っているから遠慮なくズカズカと言われるままに炬燵に入る。早苗は全然気にしない、むしろ嬉しそうだ。

「湯飲み茶わん人数分ないな」
 などと独り言をいいながら早苗は台所でお湯を沸かし始める。

「なんか手伝うよ」
 私はまた立ち上がる。湯飲み茶わんは三つ、あと残り四つは大小色も様々のマグカップだった。よくあることだ。

 炬燵でみんな顔を寄せ合い、今日の試合をまた振り返り、改めて良かったプレーについて語り合った。

「最初の内山のくじ運が最後までもったんだね。エストレージャの稲葉の不調とかもあったしな。あとはやっぱメンバーの実力もついたんだと思うよ。箱根山ずいぶん走ったしね。松崎の最後のシュートはホントすごかったな…」

 軒下に雨粒の落ちる音がして、窓側の私の座っている辺りは隙間風が入って寒い。

 それから一瞬の沈黙があって、早苗が、 


  「うち、子供ができたんや」

 確かにしっかりとそう言った。皆一斉に早苗の方を向く。

「親にはまだ言うてない。反対されるのはわかってる。そやけどうち、池上の子を生むつもりや」

 表情は心なしか明るく、そしていつもの豪快な早苗ではなく、やわらかな女性的で穏やかな表情の早苗がそこにはいた。

 さっきの飲み会で、お酒をほとんど飲んでいなかったのは、こういう事情だったとは。それにしてもびっくりして、現実を理解するまで、しばらく時間がかかった。まだハタチそこそこ、しかも学生、来年丸々一年まだ残っているのに…。  

 そんな私の心の声を聞いてか、早苗は、

「卒業はするつもりや。休学してでもな」

「すっげーかっこいい。やっぱ早苗は根性あるよ」
 大西が羨望の目指しで、そう言った。

「今、何か月?」  私は聞いてみた。

「今月生理が遅れてたから市販の検査役で調べたら陽性だったんで、すぐ病院行ってきたら二か月って診断された」

 と早苗。

「ということは、ええと……七月か八月生まれになるね!」
 結構すぐだ。

「オレの誕生日に近い」
 松崎が早苗のアパートに来てから初めて口を開いた。

「早苗と池上くんの子なら、芯の強い優秀な子になること間違いなしだね。あーなんかすごいね」
 私は、羨ましかった。

「ってコトは結婚式も近々やる?」

 内山が尋ねる。

「うん、そこの奉仕園で、形だけ挙げちゃおうかって池上と話してたんよ。きっと家の方の親戚はゼロや思うけど…。みんな来てくれる?二月安いみたいやから二月の中旬頃に、と思うんやけど」

 と早苗がちょっと自信なさげに言うと、内山は間髪入れずに、

「絶対やった方がいいよ。オレの姉貴は、今時ダサイとか言って一切やんなかったんだけど、その後よく友達のにお呼ばれされてるみたいで、行く度に、やっときゃよかったって後悔してる」

 早苗の花嫁姿を想像した。きっと早苗ならタイトな大人っぽいドレスが似合いそう。

「うち、塾講のバイトでお金はたまっててな、挙式とか出産とかはなんとかなりそうや」

 池上くんは終始黙ったままだった。どうも最近様子が変だと思っていた。責任を感じているのだろう。

「池上くんも半年後にはパパになるんだねー。そんな浮かない顔してないで、さあさ、乾杯しなくっちゃ。早苗何かお酒ない?」

 私は池上くんを励ますように言う。

「あー、いっぱいあるよ。どうせしばらく飲めんから、消費してってもらえると助かるワー」

 そう言って早苗は台所から次々とお酒を出して来た。『久保田』『雪中梅』『八海山』など日本酒が3~4種類、そして芋焼酎、ジンロ、およそ大学生の女の子とは思えない渋いコレクションだ。

「おつまみ買ってくる」
 と松崎が立ち上がったので、
「待って、私も行く」
 と立ち上がり、Pコートを着る。

 雨はだいぶ弱まったようだが、それでもまだシトシト降り続いていた。
 松崎と相合傘をして、一番近いコンビニへ行った。

 コンビニには、夜遅いのにもかかわらず、早稲田生らしき学生が三~四人も立ち読みしている。

 夜のコンビニは、やけに明るい。『街のホットステーション』というキャッチコピーのコンビニがあるが、まさにそういう感じだ。

 おつまみを三~四種類かごに入れる。それから松崎は、

「お祝いだからね」
 とハーゲンダッツのアイスクリームを七つかごに入れた。

 帰り、早苗のアパート近くの路地裏でキスをした。雨の中、結構長く…。

 早苗のアパートに戻ると、音楽がかかっていた。早苗の好きなミーシャだ。

 松崎がテーブルにおつまみを出し、アイスを早苗に差し出した。

「うわぉ、松崎ありがとう」
 ハーゲンダッツを嫌いな人は滅多にいない。

 そうしてめいめい飲んでみたいお酒をコップに注いで、早苗はウーロン茶を渋々注ぎ、内山が、

「では、早苗のおめでたと今日の優勝に、乾杯」
 と言ってコップを高々と持ち上げた。

「乾杯」

 皆が声を揃えて、コップをカチンカチャンと合わせた。文鳥がびっくりして鳴く。

 この頃には、池上くんの顔にもやっと笑みが戻って来た。もともと愛想がいいタイプではないけれど。

 ふいに私のメール音がした。時刻は既に11時を回ろうとしていた。早苗がちょっと怪しんで、

「理美、こんな時間に誰や?」
 と聞く。メールはすぐ見ないと気が済まないタチなので、もし高村くんからだったらとちょっと心配だったが、その時は適当にごまかせばいいと思い受信箱を開く。
 香織からだった。明日出発とのメールだったので、すばやく返信する。

「明日フランスに旅立つ友達からだった」
 と一応早苗に報告すると、早苗は、

  「ふぅーん」
 といぶかし気に私を上目遣いで見る。松崎が早苗と私を交互に見ている。

 カクテル派の私にはどのお酒も合わなかったが、松崎は黙って、『八海山』を手酌で飲んでいる。松崎に、また疑われてしまったかな…。

 皆がいい気分に酔い始めた頃、池上くんが突然話し始めた。

「オレの親父はオレが五才の時家を出て行った。真相は知らないけれど、おそらく外に女ができたんだと思う。おふくろは当時からスナックで働いてたんだけど、その後店長になって、ずっと店を維持してきた。今にして思うと、早々と店長になったのは、家計を安定させるためだったんだと思う。小学校でオレが成績いいと分かって、おふくろは中学受験させてくれて。おふくろはオレのことを誇りに思ってくれてる。だから今回のことはまだ言えずにいるんだ。いずれ言わなければならないけれど…」

 早苗はその話は全部知っているらしかった。

「アイスでも食べよか」

 冷蔵庫からハーゲンダッツを取り出して来て、皆で食べる。

 アイスを食べ終えると、0時半になろうとしていたので、

「早苗は体に毒だから、もう寝た方がいいわ」
 と私が言うと、早苗は、

「うちが誘ったのに、何や悪い気がして」
 と言うので、そんなことはないから、と寝床に連れて行った。

 それから私は、やかんにお湯を沸かして、みんなにお茶を淹れた。

 ほどなくして、大会で大活躍した松崎、内山、大西も炬燵で横になって、グーグー眠ってしまった。

 残された池上くんと私は、この二人だけで話すってレアだな…とお互い意識しながらも、色々話し込んだ。

「池上くんはさ、お母さん想いだし、自活しているし、なんか同い年とは思えないよ。私なんてね、親からの仕送りがなくちゃ成り立たない生活だしさ。かと言って学部の勉強もちゃらんぽらんで。早苗とのこと、池上くんのお母さんならきっと分かってくれるんじゃないかな」

「夏木は松崎とはうまくいってるのか?」

 私は高村くんの話はせずに、

「うん、ずっと付き合っていきたいと思ってるよ」と答えた。

 その後、雨の音を聞きながらお茶を啜っていると、池上くんが、

「永井は最近見ないけど大丈夫なのか?」
 と聞いてきたので、

「緑ね、体調崩して今島根の実家に帰ってるの。この間奈歩と会いに行ってきたんだ。元気そうだったわ。あの調子なら一月のテストまでには、なんとか戻って来れるんじゃないかな」

「そうなのか。永井って何か自病とかあるのか?」

 と池上くんが聞いたので、

「男、よ。失恋のショックで…」

 と言ったら、池上くんは、

 「そうか…」と言って、じっと湯飲み茶わんに目を落としていた。


  雨は止んで、早朝の早稲田通りは閑散としていた。ツンと寒く、まだ空が生白く、カラスがゴミの上に止まって、ゴミ袋を突ついている。

 私は先程、松崎をそっと起こし、寝ている皆を起こさないようにして、短い書き置きを炬燵の上に置いて、早苗のアパートを出て来たところだ。

 松崎はまだ半分寝ている感じだったが、駅に近付くと、

「オレ山手線で帰るよ」
 とJRの改札を指差すので、また連絡するね、と言って別れた。

 私は東西線で一駅乗り、落合で降りる。

 徹夜明けというのは、疲れているにもかかわらずなぜかハイテンションになる。ドーパミンの分泌量が狂ってしまうのだろうか。用もないのにコンビニに寄りたくなって、普段読まないような雑誌まで手を伸ばして、20分も立ち読みした。けれどもさすがに疲れは限界まで来ていたので、アロエヨーグルトだけを買い、店を出る。

 アパートに着くなり、バサッと荷物を放り投げて、辛うじてコンタクトを取り、化粧を落とし、服はそのままでロフトになだれ込んだ。  




連載小説「冬枯れのヴォカリーズ」 vol.19後半

2008-12-20 19:00:05 | 連載小説

 
  藤の湯は、ちょうど十日前、高村くんの部屋に初めて入れてもらった日以来、久しぶりだった。なんだか、あれからずいぶん経った気がする。

 でも私は、自分の中で、もう高村くんとの時間を封印したつもりでいた。実際私の気持ちは、松崎に急速なスピードで戻っている。
 いつもは一人で歩く寂しい藤の湯までの道のりが、松崎と歩くと、まるで違ったように感じられる。クリスマス間近で、道沿いの家のベランダや庭木には、色々な趣向のイルミネーションが、キラキラ光って賑やかだ。あの、先走って一番乗りに点灯を始めた家の前を通り過ぎた時、連休明けに、高村くんとバッタリ会って、すみれ荘までついて行った自分を、一瞬思い出してしまった。

 松崎は銭湯に入るのが、なんと生まれて初めてだと言う。
 靴箱を見て、

「居酒屋みたいだね」

 と、見慣れない所に来た時の、好奇心いっぱいの小学生の目をして言う。

 受付の人は、今日は運よくいつもはあまりいない、杖をついたちょっとボケの入ったおじいちゃんだった。松崎はスッと千円札を出す。当然のように私の分も払ってくれた。
 
  時計を見て、
「じゃあ、まだ時間早いからゆっくり十時まで入ろう。ロビーでね」

 そう言って、別々の暖簾を潜る。

 今日はいくぶん空いていた。ロッカーもちょうど手が届きやすく着替えもしやすい、下から三段目の端が空いていて、内心にっこりする。番号も27、私の大好きな数字だ。

 私は、なぜか数字への感度が高い。三で割り切れる数っていうのが好きで、特に12と27が好きだ。 「ロト6」って言う宝くじを、秘かにたまーに思い付いたように買って、好きな数字を塗る。六つの数字のうち、12と27を外したことはない。私にとってのラッキーナンバーだと信じているのだ。

 そんなことを考えながらいつのまにか裸になり、シャンプーやボディーソープのセットを持って、お風呂場のガラス戸を開ける。

 中には全部で7~8人いた。時間が早いからか、お母さんと来ている小学生高学年らしい女の子もいる。

 『本日の湯』は、高村くんと出会った日と同じ『コーヒー風呂』だった。
 体が冷えきっていたので、温かいシャワーを頭からかけて、前髪をかきあげ、しばらく流しっぱなしにする。それから頭を洗い、化粧を落とし、体を洗って、髪を一つに束ねて、湯船に浸かった。

 ここはリニューアル後、モザイクの富士山の絵がなくなってしまった。

 泡のぼこぼこという音に身を委ね、ゆっくりと目を閉じる。

 無意識に頭に浮かんだのは、高村くんにファミレスで初めて出会った日、ここのロビーでバッタリ再会したシーンだった。その後は、次々と思い出が甦った。ギンザ商店街でまたまた偶然会った時の高村くんの笑顔。コーヒーの缶をスルッとゴミ箱に投げ入れた瞬間のこと。りんごの入った袋を手渡した時の高村くんの喜んだ顔。深夜の神秘的な公園デート。そして…つい十日前、高村くんの部屋に初めて入った、あの得も言われぬような時間…。

 封印するにはあまりにも刺激的な思い出ばかりだった。でも、終わったんだ。もう、すべては終わったんだ。そう自分で決めたんだから。私の中には不思議と惜しいという気持ちはなかった。高村くんとの凝縮した一か月半よりも、何十倍も長い松崎との時間、培ってきた絆へのいとおしさの方が今は勝っていた。

 15分は優に入っていただろう。周りのメンバーは大方入れ替わっていた。一旦浴槽から出て、ぬるめの水シャワーを浴びる。

 その後、今度はコーヒー風呂に浸かった。

 また目を閉じる。

  『カフェ傅』でのオシャレな大人っぽいデートが鮮やかに頭に浮かんだ。あの初雪の一粒一粒さえも手に取るように…。

 …もう終わったんだ。

 久しぶりに顔のマッサージをしてみた。あごのライン、まゆの間、鼻の周り、口の周りなど、ゆっくりと指圧する、落ち着く。

 そんなことをしているうちにあっという間に10時10分前になっていた。

(やばっ)

 急いで上がり、タオルをきつめにしぼって体を拭き、さっと着替えて、暖簾を潜りロビーへ行く。

 十時を少し過ぎてしまった。松崎は、借りてきた猫のように、TVニュースを見ていた。

 もしかして、と少し心配した高村くんの姿がなかったのですごくホッとして、

「トントン」

 と松崎の肩を優しく叩く。

「おまたせ」

 その後、私は90円で瓶のコーヒー牛乳を買って、松崎の隣に座って一緒に飲んだ。

 特に会話という会話はしなかったけれど、ちょうど10時のニュースが始まったばかりだったから、しばらく見ていた。

 それが間違いだった。

「そろそろ行こうか」

 10分ぐらいして私は立ち上がり帰ろうとした。コーヒー牛乳の瓶をコンテナにストンと戻して、靴箱の木の鍵を取り出し、出口へ向かおうとしたその時だ。玄関をガラッと開けて入って来た男の子はまさしく高村くんだった。

「ああ、夏木さん、こんばんは」

「あっ高村くん…」

 松崎の方をちらっと見る。松崎はその会話を見逃してはいなかった。高村くんをまっすぐ見ていた。目が点になっていた。

 靴箱の鍵を持つ手はかすかにふるえていた。

「それでは、おやすみなさい」

「おやすみ…」

 高村くんは状況を察知して、でもやはり丁寧に明るく挨拶をして、中に入って行った。

 高村くんが去った後、平然を装って私はこんなことを口走っていた。

「あのね、早苗のかけもちしてるサークルの後輩の子でね、前にカフェテリアで偶然早苗のサークルと隣になった時に、さっきの子もいて。顔知ってたんだけど、一か月前くらいにここで偶然会って。近所みたいなんだよね」

 自分でもよくこんなしらばっくれたうそが言えたと思う。けれども松崎は明らかに何かを感じたらしかった。帰り道、松崎はひとっ言もしゃべらなかった。私が、なんとか話題を変えようとして、

「初めての銭湯、どうだった?」

 と聞いても、よかったとも悪かったとも言わずうわの空でただ、

「ああ…」

 とだけ言った。とても気まずい沈黙のまま、アパートへの一本道を歩く。たった二分ぐらいなのにものすごく長い時間に感じられた。

 やっとアパートの目の前まできて、松崎はぼそっと、

「そんな話、一度もしたことなかったよね」

 と言った。いたたまれない気持ちだった。私はきわめて明るくこう言った。

「うん、このへん学生多いし、特に珍しいことでもないしさ、わざわざ報告することもないかなと思って。それにあの子に銭湯で会ったのはつい一か月前くらいで、最近大ちゃん研究忙しかったからあんまり会ってなかったじゃん。それに…」

「もういいよ」

 松崎にしては珍しくややきつい言い方で私の『弁解』を遮った。

 アパートの鍵が、ガチャリ、と開いて、真っ暗な部屋に入る。

 松崎は黙って靴を脱ぎ、お風呂セットを黙って私に渡し、リビングに入る。ソファに背中を凭れずに座り、TVもつけずに、ずーっと俯いて、貝のようにしっかりと口を閉じている。私はその様子を気にしていないフリをして、

「大ちゃん、緑茶と紅茶どっちがいい?」

 とさりげなく聞いた。返事がない。

「…じゃあ緑茶にするね」

 私は声だけ明るく、心はどんより沈みながら、茶つぼを開けティーポットの網にトントンと力なく入れる。

 松崎はお茶が入る前に、

「ちょっと具合悪いから、上行ってる」

 と言って、歯も磨かず、服も着替えずに、ロフトに行ってしまった。

「大ちゃん大丈夫?うん、休んでて」

 本当に気持ち悪いのかもしれない。松崎はもともと結構弱くてすぐ風邪を引くから。でも…。

 高村くんのことを疑われてしまったに違いない。頭がいっぱいになる。本当のことを話した方がいいかな。どうせもう終わったことなのだし。

 でも…奈歩が島根行きのバスで言ってくれた言葉が頭をよぎる。

(…松崎を傷つけるくらいなら、少しの間嘘をついてあげて。そのくらい松崎は理美のことを…)

 体の関係もない、キスさえもない。でも、この一か月半の『心の浮気』はまぎれもない事実なのだ。もしこのことを松崎に話したら、いくら温和な松崎だって、許してはくれないだろう。最悪、別れを切り出されるかもしれない。

 私は高村くんのことを一切言うのはやめた。

 二人分用意した湯飲み茶わんを一つしまい、ティーポットにお湯を注ぎ、リビングに持っていって机に置き、静かにソファに座った。

 松崎の実家に泊めてもらった、あのヴォカリーズを聴いた夜に、高村くんとはもう会わない、メールもしない、とあれほどまで決意した。なのにこんなことになってしまうなんて。

 上はシンと静まり返っている。でも松崎は、たぶんまだ寝ていないに違いない。きっと何か、私の言葉を待っているはずだ。

 でも、今は何を言っても逆効果になるような気がしたので、とにかく松崎はただ気持ちが悪いだけだと思い込むようにして、そっとしておいた。

 そう言えば明日は、マネージャーが手分けして、選手のお弁当を作って行く事になっていた。私はご飯釜が小さいということで、おにぎりは自分と松崎の分だけで、代わりにおかずを二品ぐらい作って行くことになっていた。

 戸棚を開け、朝食の分も考え、釜に米をカップ四杯入れる。

 時刻は10時40分になろうとしていた。無意識にお風呂を沸そうとお風呂場へ行く。ふとお風呂はもう入ったことを思い出す。洗面所で洗面台に両手を付いて、ボーッと自分の顔を見た。カエルみたいな情けない目をした自分がそこにはいて、思わず顔を両手でぐいぐいマッサージする。歯を磨き、電気を消してロフトへの梯子を静かに上る。

 その夜松崎は壁側を向いたまま、一度も私の方を向くことはなかった。天窓からは月も見えず、風も強く、寒々しい長い夜だった。