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天気予報は、仙台で初霜を観測したと告げた。
週明けの月曜日、四限の後、学内の喫茶店で奈歩と私は、緑に会いに島根に行く計画を立てていた。
飛行機じゃ高いから夜行バスにしようと言うことになり、日程は緑の誕生日に一番近い週末の、12月6日金曜の夜出発、ということにした。
「緑には言えないけど、私、昨日の新聞で、工藤勇哉の会社が倒産した記事を見たの。工藤って、関西でも指折の不動産会社の社長だったのね、あんなに若いのに…。それもそうよ、私たち三人にティファニーのネックレス買ってくれたんだもんね、やっぱり普通の人じゃなかったんだ」
その不動産会社は、かなりの数の物件の住宅ローンを水増しして組み、一年間でおよそ7000万の利益を得ていたことが明るみに出たのだった。緑は、誰がどこから見ても悪い男に引っ掛かったという構図になる。
次の日の夜、私は翌週に提出予定の応用物理学実験のレポートを、例のファミレスでやっていた。今回は「弾性体の共振現象」というテーマで、前回の「ホログラフィー」に比べると分量も少なく、だいたい見通しはたっていた。
レポートに取りかかりながら、高村くんのことを考える余裕もあった。
この間、ここで夕食を食べた時、高村くんにケイタイの番号とメールアドレスを教えてもらっていた。それは、既に登録済だった。早々と登録はしたものの、彼女さんがいることに気を遣って、そして、自分も松崎がいる手前、ためらわれて、あれからメールはしていなかった。でも、レポートに飽きて、高村くんのメールアドレスを凝視し、メールしてみたくなった。
「夏木です。この間は偶然お会いでき、夕食ご一緒できてとても楽しかったです。ところで、今日は銭湯に行く予定はありますか?」
自分でもびっくりした。夜中のデートに誘ったようなものだ。送信した後ものすごく後悔した。
2、3分して、すぐ返信がきた。緊張して受信ボックスを開く。
「僕も今日は銭湯行くつもりです。よかったら12時にロビーで待ち合わせましょう」
おいおい、いいのか?彼女さんいるのにいいのか?今日は思いきって彼女さんのこと、聞いてみようか。
私は急にそわそわし始めた。よし、レポート提出までまだ日数あるし、今日はここで終わらせてアパートに戻ろう。
帰り道、久しぶりに豆腐屋さんに寄ってみた。なんだか心が弾んでいておばちゃんに初めて話しかけてみた。
「私このすぐ近くのエレガンス東中野に住んでいるんです。ここのお豆腐はスーパーのと全然味が違いますよね。いつも朝早くから作ってらっしゃいますよね?この間朝早くドライブに出掛けた時、5時半頃ゴミを出しに下に降りたらもう開いていたので…」
いつもの1個150円の大きめのお豆腐一丁を、容器に入れるおばちゃんの手付きを眺めながら、そんな風にベラベラとしゃべった。
するとおばちゃんは顔をくしゃくしゃにして、
「そうなんですよ。豆腐屋はみんな早起きなのよ。うちはね、ほら、そこの小学校あるでしょ、あそこの給食に使ってもらっててね。それでなんとかやっていけてるんですよ」
私はおばちゃんの話を聞いて、地域の商店っていうのはその地域と密接に関わっているんだな、と妙に納得した。
夕食を簡単に済ませ、早速うきうきして、どの服を着ていくか選ぶ。
「たかが銭湯に行くのに、オシャレしたら変だよなぁ。さりげない普段着ってどんなかなぁ…」
結局色々悩んだ末、黒の五分袖のニットにジーンズにした。でも今日はL.L.Beanのフリースではなく、赤いPコート。
「ブーツじゃ大げさかなぁ」
近所に買い物に行く時によく履くプーマのスポーツシューズに足を入れる。
銭湯では、はりきって体を磨いた。もしかして、もしかしてロビーで話した後…とはまさか思わなかったけれど、高村くんと私なら、何があってもおかしくはないように思われた。つまり、高村くんは彼女さんがいるのにこの間私を夕食に誘ったし、私は私で松崎がいるのに今日高村くんを銭湯に誘った、そして二人共その誘いに乗ったこと。そんなイケナイ二人なら何かあってもおかしくはないじゃないか。『二股』の二文字が頭に浮かんだ。
早めにお風呂から上がる。時刻は11時20分。今日は入念にドライヤーで髪を乾かす。替えの下着は、自分が持っている中で一番高く気に入っている、表参道で夏のバーゲンに買った青紫色のフランス製のエレガントなのにする。半額になっていたにもかかわらず上下で8000円もしたもの。
鏡の前で自分の顔をじいっと見て、風呂上がりにおかしくない程度のナチュラルメイクにすごい時間を使って、自然なまゆを描き、薄くピンクのグロスをぬる。髪は、ワイルドさを出そうと思い、わざと束ねずに、前髪と脇の髪だけをざっくりとバレッタで後ろに一つにする。私は、髪質にだけは自信がある。特に整髪料をつけなくてもツヤのあるサラサラのストレートで、松崎も私の髪を触るのが趣味だ。
11時45分。ロビーに行く。心臓がバクバクいう。今頃高村くんは、このすぐ後ろで湯船に浸かっているんだろうか…。
11時53分。緊張でたまりかねて、内容に集中できないと分かっていながら新聞を取り、読んでいるような格好をする。
「あ、夏木さん、どうもお待たせしました」
11時59分、彼が上がってやってきた。約束は冗談じゃなかったのだ。白いTシャツにジーンズ姿が、これ以上ないほど爽やかだ。
大画面の深夜のニュースを眺めながら、私たちはその夜、銭湯が閉まるギリギリまで、身辺のこと、サークルのこと、最近のニュースの話題、高田の馬場のよく行くお店のことなど、色々語り合った。
「この間もバリ島でテロありましたよね。ニューヨークのテロ以来、世界情勢が不安定ですね…」
それから私は、この間の彼女さんのことを聞いてみた。
「美雪は、同じ広島出身で。彼女とは地元で同じ高校で、高校一年の時から付き合ってて…。オレにとって美雪は、青春そのものです。地元では、よく自転車の後ろに乗せて、出歩いていました。海にもよく行きましたよ。オレの青春は、美雪といることで生き続けるんです。こんなこと言うと傲慢かも知れないけれど、美雪にとってもオレに変わる人はいないと思ってます。美雪は、聖心女子大ってとこに通っています。一人暮らしです。彼女は、何度も同棲したいって言うんですけど、オレは学生の間は自分の時間も大切にしたくて…。いい距離感で付き合えていますよ。いずれ社会人になって一緒に住むつもりです」
一時になったので銭湯を出る。ここの銭湯の閉店の音楽は蛍の光ではなく、グリーンスリーヴスによる幻想曲だ。銭湯にしてはなかなかシャレている。
ツンとした寒さが身にしみる。
「この近くに公園があるんですよ」 と、私を促すように目配せして歩き出した。そんなに大切な人がいるのに私なんかと夜中の公園に行っちゃっていいのかな…。こういうのがいわゆる『二股』って言うんだろう、と言う後ろめたい思いが、頭をよぎった。けれども、この先の公園での彼との時間を想像すると、どうしても自分の気持ちを止められなかった。
その公園は、以前散歩をしていて立ち寄ったことのある所だった。ベンチが二つあって、無造作に高くもない低くもない木がざっと15本ばかり植えられている、ひっそりとした公園だ。
高村くんと私は、奥のベンチに腰を下ろした。
「…オレ、将来は新聞記者になりたいって思っているんです。国際政治にすごく関心があるので、できれば特派員とかになって、世界の情勢を伝え、その後40ぐらいで独立して、ジャーナリストやルポライターになれたらいいなっ、なんて思ってます。今、サークルでは、いろんな業界の人に会って、インタビューしたりして、すごく充実しているんです。マスコミってすごい力があるなって感じています…」
なんだか眩しかった。それに引き換え私は、三年も半分を過ぎたと言うのに、未だに将来の方向性はぼんやりしたままだ。
「オレ、九月に二十歳になったんですけど、サークルの先輩に誘われてM党議員の選挙活動のお手伝いをしているんです。少しの力かもしれないけれど、オレ、何かせずにはいられなくて…」
「へぇー、高村くんは本当に精力的に活動しているんだね」 私は誉めてあげた。
前の家の二階の部屋に、ふいに明かりが点く。ちょっと緊張したけれど、考えてみれば傍からみれば恋人同士に見えるだろうから、怪しまれる心配もない。
静かな夜だった。木々も、まるでこちらの話に耳を傾けているように、息を殺して立っていた。空を見上げると、月明かりで意外と明るく、星もたくさん出ている。高村くんは、話題を変えた。
「夏木さん、ランボーっていう詩人をご存知ですか?オレ高校の時に彼の詩に出合って、とても興味を持って。第二外国語フランス語にしたのは、ランボーの詩を原書で読みたかったからなんです。けっこう文法難しくてまだほんの一部分しか読めていないんですけど。日本語訳はもちろんあらゆるものを読み尽くしていて。ランボーの詩は、あの荒々しい文が生き物のようで好きなんです。まるで紙から飛び出してくるような…。そんなエネルギーのたくさん詰まった詩に触れると、自分の心の中と一体化して、逆に気持ちが安定して、精神が研ぎ澄まされるんです」
高村くんが自分のことを、こんなにありのままに、素直に、情熱的に話してくれていることが、私に気を許してくれているなぁ、と感じて、愛おしかった。しかも今は深夜の三時。とても不思議な時間…。
「高村くんって、何て言うか、ちゃんと目的をもって生きている気がする。私はさ、もう三年なのに勉強も中途半端で、少し自慢できることって言ったら一年からずっと続けている体操と、家庭教師のアルバイトぐらいかな」
「それはすごいことじゃないですか?夏木さん、体操やってる雰囲気ありますよ。続けていることは大切にした方がいいですよ。あっ流れ星!」
高村くんが空を指差す。私にも最後の尾だけ辛うじて見えた。
「うわぁ、東京のど真ん中で流れ星なんて見たの初めて」
なんだか、また運命を感じてしまう。でも、自分の気持ちはまだ言えない。言うべきではない。言ったらまた須藤の時のように終わってしまうのが怖かった。
本当はすごく寒かったはずなんだろうけれど、気持が高潮していたせいか、そこで四時まで話していても寒いと思わなかった。
朝方、高村くんと別れ、まだ興奮はしていたがさすがに睡魔が襲ってきて、奈歩に一限流体力学の代返を頼むメールを打ち、ロフトで爆睡した。
起きたら十時だった。二限が空きだから、久しぶりに落合駅から東西線に乗り、早稲田のラウンジへ行く。
ラウンジには修平がいて、後輩の男の子二~三人とだべっていたが、私に気が付くと修平は、後輩の子たちを残し、
「理美ちゃん、ちょっと相談したいことがあるんだけど…」 と言って、カフェテリアでお茶しようと言うことになった。
「修平さん、いいんですかぁー?松崎さんにおこられるんじゃないですかぁ?」 後輩のひやかしの声を尻目に、カフェテリアへ向かう。
カフェテリアで飲み物を注文し、席に着くと、修平が切り出した。
「相談っていうのは…」
「奈歩のことでしょう?」 私は先走って言った。
「やっぱわかちゃった?っていうかオレ昨日、サークルの一女から告白されたんだ。オレ、それまでその子を、全然意識したことなかったんだよね。なのにその子、四月に会ってからずっとオレのこと好きだったって…。でもさ、オレ、即答できなかった。可愛い子なんだけど、オレ、どうしてもまだ奈歩ちゃんが諦められなくて…。でもさ、オレ奈歩ちゃんにはもう既に振られてるわけじゃん。その子には、少し時間くれる?って言ってあるんだ。オレ、その子のこと全然知らないし、合うか合わないかなんてわからない。もしかしたら好きになれるかも知れない。けどさ、オレ、恋愛でだけは妥協したくないんだよね。恋愛で妥協するくらいなら、原宿のど真ん中で腹踊りした方がマシだって思うくらい。理美ちゃんの言う通りにするから。ね?オレどうしたらいいかなぁ…」
それで、私は、いつも持ち歩いている私の恋愛のバイブル…廣瀬裕子の『LOVE BOOK』…を取り出し、次のページを修平に見せた。
あきらめること
気持ちはしばることができない。
だから、自分の思いとちがっても
あきらめなければならないこともある。
どんなに自分がすきでも
相手に気持ちがないとき、
その人の感情が冷めてしまったとき、
はなれていく気持ちは、
だれにも止められない。
しばれない。
それは、苦しいことだけど、
あきらめることが、
さいごの愛情になる。
がんばれば、
あきらめなければ、
手に入るものは、
いくつかある。
だけど、
人の気持ちは、
それとはちがう。
すきだからあきらめる。
こころを整理する。
つらくてもさいごに
そういうことが必要なときもある。
修平がいつになくしょんぼりしてしまった。
「…わかった。オレ、奈歩ちゃんを諦めるよ。その子に前向きな返事をするよ。理美ちゃんありがとう」
私は、修平の悩みは痛い程わかった。高校一年で、同じクラスになった須藤に告白したけれど振られ、そして、三ヶ月後告白された他の子と付き合った経験を思い出していた。両想いなんて、この世には存在するのだろうか。 でも、私は修平を励ましたくて、こう付け加えた。
「でもね、奈歩、この間の紅葉ドライブの時、修平のことは好きか嫌いかって言ったら好きな方だって言ってたよ。修平のユーモアのあるところが、好きだって…」
修平は力なく笑った。
それから昼食を簡単に済ませ修平と別れて、坂を上って三限に出席した。
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東京も最近では吐く息が白くなり、朝起きだすのが辛くなってきた。ベランダから見えるモミジの木が、紅葉の最盛期だ。
私は、一年のゴールデンウィーク明けから家庭教師のアルバイトをしている。今は、ユウナちゃんという中学二年生の子をもっている。基本的には毎週木曜の八時から二時間で、都合の悪い時には火曜にしてもらうことが多い。中間テストや期末テストの直前には土曜日もやってあげたりする。東池袋なので、大抵は木曜のデンマーク体操の後、徒歩で行く。有楽町線は走っているけれど、護国寺に歩いて行くのとユウナちゃんちに行くのがだいたい同じくらいの距離なので、歩くことにしているのだ。途中にはお墓があったりする。あまり歩いていて楽しいコースではない。ユウナちゃんちも高速道路の真下で、けっこう騒音がする。
家庭教師を付ける家庭には、二通りあるような気がする。いわゆる教育ママがいて、東大や医学部などに我が子を入れたいが為に付ける裕福な家庭のタイプ、それから、成績が悪くてどうしようもないとか、いじめにあっていてお友達がいない子などに付ける、ごく普通の家庭のタイプ、ユウナちゃんちは後者だ。
ユウナちゃんのお母さんは化粧品の販売をしている。その上、週に2日は、夜中パン工場のアルバイトにも行っていて、工場からもらってくるパンを、私もよく頂く。美味しいし、一人暮らしにはとても助かっている。ユウナちゃんのお母さんは、いつも家の中でも目のさめるような朱色の口紅をしている。でも、人は見掛けで判断してはいけないということをこのお母さんから学んだ。とにかくすごく人がよくて、私のことをまるで神様のように扱ってくれるのだ。こんな経験は今までなかった。ユウナちゃんもお母さんに似て、とても素直ないい子だ。でも勉強ができない。来年は高校受験だから、と言う事で四月から家庭教師を探していて、私が派遣されたのだ。
三月までで終わった子の後、場所等の条件を出して、しばらく紹介待ちをしていたところだった。派遣会社を通しているので、時給1600円と、家庭教師の相場としてはそれほど高くはないが、立ち仕事などに比べると楽だし、早苗のように、大勢の生徒を前に講義する塾講師は自信がなかったのと、家庭教師のある日は、食事の心配をしなくていいのが気に入って続けている。
ユウナちゃんのお父さんは自動車整備士で料理も上手く、いつも行くと最初にお父さんの手料理が出てくる。
「こんばんは。おじゃまします」
私がピンポンを押すと、お母さんがまず出てきてくれて、その影からユウナちゃんがはにかみながら挨拶する。ユウナちゃんの家は平家だ。けして広くはない。そしてズングリムックリな三毛猫がいる。名前は「くり」。
ユウナちゃんの下には妹がいる。まだ小学二年生だ。普段は二人同じ部屋を使っているが、家庭教師の日は妹がお茶の間に移ってくれる。
ユウナちゃんの部屋には二段ベッドがあって懐かしい。私も小さい頃は姉と二人部屋で二段ベッドだったからだ。ユウナちゃんはいつもコロンを付けている。私は中学二年の時なんてコロンはもちろんのこと、リップすら付けなかった記憶がある。
ユウナちゃんは国語や社会はまあまあできる。だから都合がいい。なぜなら私は国語や社会が苦手だからだ。それで、いつも数学、英語を中心に指導している。たまにテスト前は理科も教えたりする。
でも、私の仕事は勉強を教えるだけではない。ユウナちゃんの学校生活の悩みなんかを聞いたりしてあげるのだ。もしかしたらそっちの方がメインかもしれない。ユウナちゃんの悩みは色々ある。部活の苦手な先輩のこと、席替えで一番前の席になってしまったこと、好きな子がいるのだけれどその子には別に好きな子がいると最近分かったこと…などなど。ごく普通の中学生だ。
今日もお父さんの手料理(今日はマーボー豆腐だった)を食べながらユウナちゃんは学校での出来事を話してくれた。家庭教師の日は家族が気を遣って、夕食はユウナちゃんの部屋に持って来てくれて二人で食べるのだ。私はこの食事の時間もユウナちゃんを知るために貴重だと感じている。
ユウナちゃんは中学二年生とは思えない、私も羨ましく思うほどのナイスバディだ。小柄だけれども胸がすごく大きくて(あれはきっとEカップくらいだろう)足は細くて、まつ毛がすごく長くてつぶらな瞳で…なのにいつも自信なさそうなオドオドした眼差しをしている。そんな表情とは裏腹に、本人も自分の大人っぽさを意識しているのか、いつもきわどい服を着ている。それにしても、どうしてこんなに不安そうなのだろう。私は彼女に自信をつけさせてあげたいのだ。
今日も、マーボー豆腐を食べながら、
「くりはいいなぁって思うんです。何にも苦労しないでいいんだもん…」 その発言には、さすがにどういうフォローをしていいか分からなかった。
自信をつけるには、とにかく少しでも、日常の授業について行けるようになるのがまず一番だ、と思い、食後に早速問題に取りかかった。
「三角形の内角の和は180度である、っていうのはこれからも色々応用で使うから、今日はなぜそうなるのかを証明してみようね。一回ちゃんと理屈を分かって覚えると、忘れないから心配ないよ」
ユウナちゃんはちょっと身構える。
「それじゃあいくよ。この三角形ABCのそれぞれの頂点の角度をa、b、cとするね。まず、辺ACに平行な線をちょうど頂点Bが重なるように引いてみて。…そうそう。そうするとaの同位角はどこでしょう?」
「ここ?」
「その通り。しかも平行線の同位角だから角度も等しいね。それじゃあついでにcの錯覚はどこでしょう?」
「ここ?」 ユウナちゃんはちょっと迷ったけれど当たっていた。
「そうだよ!よく覚えていたね。それで平行線の錯角も等しいんだったよね?っていうことは、見てごらん。abcが一直線上に並んだでしょう。だから180度となります」
「うわぁ本当だ。私ずっと分かんなくて」 ユウナちゃんの顔がパアッと明るくなった。
その日は、いつもにも増して満たされた気分で、足取りも軽く家路に着いた。
大学生になって、自分が何か役に立つことをしていると感じるのが、家庭教師をしている時だ。少なくともそこでは私はまぎれもなく『先生』であり、良いことをしてお金を頂いている。自分の存在が人のためになっているなんてこんないいことはないじゃないか。