京都盆地の東に位置する比叡山へ雲母坂(きららさか)から登ってきました。
紅葉はまだ色づき始めでしたが、ところどこで秋のいろいろな色を楽しませてもらいました。
雲母坂では親鸞が修行のために行き来したことを示す石碑や太平記ゆかりいの水飲対陣跡、後醍醐天皇の側近千種忠顕(ちぐさただあき)の祀られている石碑などから歴史に思いをはせたり、うっそうとした木立から霊山の空気を感じたりして・・・
何か、いつも行っている山とは違う空気が漂っているようでした。
雲母坂(きらら坂)と雲母橋
雲母坂は平安時代より比叡山と都を結ぶ主要道として賑わい、都からの勅使が通ったことから勅使坂とも呼ばれていました。また法然、親鸞らの名僧をはじめ多くの人たちもこの坂を行き来しました。比叡山の山法師が日吉神社の御輿を担いで都に強訴に押しかけたのもこの道とされ、南北朝の戦乱ではこの坂が戦場となり多くの将兵の血に染まりました。雲母坂の名は付近の花崗岩に含まれている雲母のきらきらした輝きからこう呼ばれたともいわれています。
紅葉はまだ色づき始めでしたが、ところどこで秋のいろいろな色を楽しませてもらいました。
雲母坂では親鸞が修行のために行き来したことを示す石碑や太平記ゆかりいの水飲対陣跡、後醍醐天皇の側近千種忠顕(ちぐさただあき)の祀られている石碑などから歴史に思いをはせたり、うっそうとした木立から霊山の空気を感じたりして・・・
何か、いつも行っている山とは違う空気が漂っているようでした。
雲母坂(きらら坂)と雲母橋
雲母坂は平安時代より比叡山と都を結ぶ主要道として賑わい、都からの勅使が通ったことから勅使坂とも呼ばれていました。また法然、親鸞らの名僧をはじめ多くの人たちもこの坂を行き来しました。比叡山の山法師が日吉神社の御輿を担いで都に強訴に押しかけたのもこの道とされ、南北朝の戦乱ではこの坂が戦場となり多くの将兵の血に染まりました。雲母坂の名は付近の花崗岩に含まれている雲母のきらきらした輝きからこう呼ばれたともいわれています。
数枚の写真で(ブログ)楽しませて戴きました
今日は、F氏と中山奥の院へ行って来ました
途中で、N氏にもお会いしましたよ・・・
13丁の紅葉数本は、真っ赤に染まって綺麗でした
ポイントポイントで秋カラーを見逃さずに撮影されてたんですね
東山魁夷の「富士山」という絵にも枯れ尾花が描かれていましたよ