

国技館通りから京葉道路を渡ったところにある回向院。
以前、小塚原の回向院へ行きましたが。
その時の記事でも比較しましたが、こちらは有名ですね。
回向院は、明暦3年(キリスト暦1657仏暦2201紀元2317)開基。
この年、江戸では、「振袖火事」と呼ばれる大火事がありました。
この振袖火事は、江戸三大大火(明暦の大火、明和の大火、文化の大火)の最大の被害を出したものであり、世界3大大火(ローマ大火、ロンドン大火、明暦大火)の一つにも数えられることもあるとのこと。
振袖火事は、火元が本郷、小石川、麹町の3ケ所あるといわれています。大火によくあるように、1ケ所が収束したあとに、次の火災がまた始まってしまうというパターンですね。

最初の本郷のところで、振袖火事の名前の由来となった伝説があります。
お江戸・麻布の裕福な質屋・遠州屋の娘・梅乃(数え17歳)は、本郷の本妙寺に母と墓参りに行ったその帰り、上野の山ですれ違った寺の小姓らしき美少年に一目惚れ。ぼうっと彼の後ろ姿を見送り、母に声をかけられて正気にもどり、赤面して下を向く。梅乃はこの日から寝ても覚めても彼のことが忘れられず、恋の病か、食欲もなくし寝込んでしまう。名も身元も知れぬ方ならばせめてもと、案じる両親に彼が着ていたのと同じ、荒磯と菊柄の振袖を作ってもらい、その振袖をかき抱いては彼の面影を思い焦がれる日々だった。しかし痛ましくも病は悪化、梅乃は若い盛りの命を散らす。両親は葬礼の日、せめてもの供養にと娘の棺に生前愛した形見の振袖をかけてやった。
当時、棺にかけられた遺品などは寺男たちがもらっていいことになっていた。この振袖は本妙寺の寺男によって転売され、上野の町娘・きの(16歳)のものとなる。ところがこの娘もしばらくして病で亡くなり、振袖は彼女の棺にかけられて、奇しくも梅乃の命日にまた本妙寺に持ち込まれた。寺男たちは再度それを売り、振袖は別の町娘・いく(16歳)の手に渡る。ところがこの娘もほどなく病気になって死去、振袖はまたも棺にかけられ、本妙寺に運び込まれてきた。
さすがに寺男たちも因縁を感じ、住職は問題の振袖を寺で焼いて供養することにした。住職が読経しながら護摩の火の中に振袖を投げこむと、にわかに北方から一陣の狂風が吹きおこり、裾に火のついた振袖は人が立ち上がったような姿で空に舞い上がり、寺の軒先に舞い落ちて火を移した。たちまち大屋根を覆った紅蓮の炎は突風に煽られ、一陣は湯島六丁目方面、一団は駿河台へと燃えひろがり、ついには江戸の町を焼き尽くす大火となった。
回向院は、無縁の方々を葬るため、万人塚という墳墓を設け、開基されたのが、始まりとのこと。
大火に追われた方々を守るように、山門には仁王様が鎮座されています。
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