先日のアフガニスタンの首都カプールに引き続き、今度はイギリスのロンドンで、またテロ事件があったとのことです。
イスラム国が犯行声明を発表したもようで、私は、「神の心、子知らずが!」と言いたい。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6242111
しかし、イスラム国だけを責める訳にはいきません。
なぜなら、あまり日本国内では報道されませんが、イスラム国のある中東シリア国内でにおいて、イスラム国支配地域は、欧米の連合軍による空爆を受け続けていて、多数の民間人が命を落としているからで、世界各地で起きているイスラム国関係と思われるテロ行為は、これら一連の報復と思われるからです。
であるならば、テロ根絶に対しては、一方的に断罪したり、感情的になって再報復行動に出るのではなく、まずは、憎しみの連鎖を止めることを考えなければならないです。
でなければ、永遠に報復の輪廻が繰り返され、この世が阿修羅地獄と化します。
それは映画『君のまなざし』で、主人公が、復讐に燃える出演者に対して、
「お前のやっていることは、その”鬼”と何が違うというのだ!」「お前のやっていることを見て、神が喜ばれると思っているのか!」
と呼びかけますが、まさしくその通り、報復は神の願いとはかけ離れています。
また、憎しみの連鎖や増幅を目的と使命として、人はこの世に生まれてくるのではないはずです。
さて、私は観てはいないのですが、フジテレビ系のドラマで、「クライシス・公安機動捜査隊特別班」というのが放送されていて、テロ組織と戦ういう趣旨の番組らしいです。
しかし、その第1回目の放送では、国家転覆をたくらむテロ組織は宗教団体で、大学不認可を恨んで、文部科学大臣を狙う、平成維新軍なる若者集団だそうで、すべて「どこかで聞いたことのあるフレーズ」ばかりです。(笑)
まぁ、それをとやかく言うつもりはありませんけど、フジテレビか関西テレビかは存じませんが、大きな大きな認識の間違いがあります。
それは、「テロを成すのは、テロリストだ。」ということです。
宗教はテロを起こしません。
テロを成した段階で、テロリストなのです。
なぜか?
宗教は「神の心」を説くものだからです。
そして「自らの心を、神の心に近づくための修行」を目指すものだからです。
神とは何か。
神は、我らの住まう宇宙を創り、世界を創り、我らを創りし「全ての生命の親」です。
そして、この世とあの世の全てを統べる統治者でもあります。
そのような神が、なにゆえに、我が子に対して、「報復」を命ずる必要がありましょうや。
「報復」の相手も、神にとっては同じく「神の子」です。
もしも宗教が、テロ事件を起こすことあれば、それはもはや宗教ではなく、テロリスト集団であり、神の心を離れ、魔道に堕ちたのです。
憎しみによって、憎しみは消えません。
「憎しみを捨て、愛を取れ!」
その神からの命令は、人にとっては、心が引きちぎれんばかりの、辛く厳しいものです。
しかし、この茨の道こそ、「神への道」なのです。
でなければ、『君のまなざし』の主人公が言うように、「この世が地獄となってしまう」からです。
この世を地獄にしようと、計画して生まれる人は一人もいません。
むしろ、「この世を少しでも、天上界のような、美しく、自由で、幸福な社会に近づけよう。」と決意し、人は生まれてくるはずなのです。
本日は、経典『政治と宗教の大統合』と『信仰のすすめ』の一部抜粋をご紹介いたします。
世界が平和で、神の願いが満ちた、幸福な社会になりますことを。
愛する子々孫々が、幸福な未来を享受できますことを。
そして、
私の残された人生において、その実現に向け、少しでもお役にたてますことを。
(ばく)
- 虹色の願い -
人は、何のために生きるのか-【特報第2弾】映画「君のまなざし」
https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=864
また、『コーラン』には、「宗教には強制があってはならない」という言葉が、はっきりと書かれていますが、これは守られていません。
二〇一一年九月、私はマレーシアに巡錫に行きましたが、事前に、「イスラム教徒に伝道してはいけませんし、イスラム教徒を改宗させてもいけません。そういうことをすると、その人の身にかなりの危害が及ぶこともあります。当局に捕まり、場合によっては、極刑に処せられることさえあるかもしれないのです」と言われました。
そういう脅しをかけられたわけです。
イスラム教の歴史のなかで、しだいに、そういうかたちになっていったのだろうと思います。
しかし、『コーラン』には、「宗教には強制があってはならない」と書いてあるのです。
それは当たり前のことであり、実際にそうでなければいけません。
イスラム教は、発祥の時点では、キリスト教やユダヤ教等にも親和性がある、寛容な宗教でした。
「イスラム」という言葉は、もともと「平和」というぐらいの意味であり、イスラム教は、本来、「寛容」を旨とする宗教なのです。
発祥から千数百年という時間がたち、イスラム教徒の考え方は、今では、そうとうカチカチに固まっています。
そして、キリスト教文化圏やユダヤ教文化圏とのぶつかり合いが次の戦争の火種になろうとしているので、この固まっているあたりを解きほぐさなければいけないと私は考えているのです。
『政治と宗教の大統合』(幸福の科学出版)P195~197
https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=136
この世のなかを見渡してみると、不幸の種はあちこちにたくさんあるので、「これを取り除かないかぎり、幸福になれない」という考え方をし、不幸の種を完全に取り除いて極楽浄土の姿をこの世に下ろそうとしても、それは極めて難しいことです。
しかしながら、
「この世という世界は、そういうものである。この世には、闘争や破壊、憎しみ、嫉妬、恨み、狂気の世界がたくさんある。また、この世は弱肉強食の世界でもある。この世は、生きていくのがなかなか難しい世界なのだ」
ということを認めつつも、それはそれとして、逆に、そのなかで、この世に自分が生まれた意義、生きている意味を見いだすことが、非常に大切なことなのです。
仏法では、これを「泥中の蓮華の花」にたとえています。
(中略)
大切なのは、「そのなかで、あなたは、いかにして一輪の花を咲かせるか。いかにして、蓮の花のような清らかな花を咲かせるか」ということです。
(中略)
「どのような環境のなかにあっても、泥沼のなかから咲く蓮の花のように、一輪の花を咲かそう。清らかに生きていこう。すがすがしく生きていこう」と決意して生きていけば、それなりの花を咲かせることは可能です。その花の大きさは、さまざまでしょうが、小さい花でもかまわないのです。
『信仰のすすめ』(幸福の科学出版)P42~46
Love surpasses Hatred ~「ファイナル・ジャッジメント」テーマ曲