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短編:想いのメモリ<19>あの頃に出会ったボクの師匠

2021-09-25 10:46:15 | 短編小説:想いのメモリシリーズ

短編:想いのメモリ第二部<19>あの頃に出会ったボクの師匠

あの頃に出会ったホームレスがボクの師匠で上野動物園にかなり通っていた時のことだ。
ホームレスの叔父さんと出会いがあって、その叔父さん画家さんなのか分からないけど、叔父さんから一緒に絵を描かないかって公園内で一緒に似顔絵を描きはじめた。
ホームレスの叔父さんは、ただの画家のホームレスだと思っていたボクだった。
ボクは師匠にデザインの専門学校に通っている事は伝えていた。
師匠の叔父さんは一件五千円貰ってたけど、この頃はボクは未熟なので千円で似顔絵を描いていた。
師匠は三十分ぐらい家族連れ人と会話をしながら似顔絵を描いていたが、ボクは何も考えず目の前の家族や子達を一件十分以内で黙々と描いてた。
「君は似顔絵を描くのが早いな」と師匠から言われていた。
師匠との会話とかでボクを理解してくれた存在であると思うようになっていた。
「お前さんはいつもそのままでいられるようにな」と言われた師匠からの言葉だった。
師匠の言葉の意味わかんなくても専門学校でも黙々と絵を描く事が出来て上野動物園でも動物を黙々と描いていた。
会社員となると人との付き合いも多くなり自身だけでなく人間関係を考えるようになるとボクは変わってしまったかも知れない。
三十分ぐらい家族連れ人と会話をする師匠の姿を忘れる事はなかった。
師匠の言葉の意味を理解した時でもあり感性や個性で社交性がある事をボクは自分を理解した時でもあった。
自分を理解した時に師匠に会いに行くとホームレスの師匠は企業の顧問や会長をしいていた事をボクは聞かされ知った。
何で師匠はホームレスの生活を送っていたのか不思議に思った。
師匠は企業の顧問や会長になっていても数回の会議に出るだけで自分の自由な生活を選んだと言っていた。
会社員になったボクも組織の中でも自由を選択しながら仕事をするようになっていた。
いつしか絵を描くことをしなくなった社会というものが怖くなっていった。
ただその畏怖を乗り越えられたのは、ホームレスの師匠の言葉で乗り越える事も出来た。
社会の中でボクはボクなりの生き方を見つけデザイナーとして始まったがイラストレーターとして生きる事が出来た。
ある意味、会社から認められたという事だったが時が過ぎると会社員としての生き方も変える必要があった。
退職願を出してある出来事で実家へ戻る事になってしまったのだ。
しかし環境は変わっても、ボクはボクなりに道を見つけていた。
今では師匠の言葉は一生忘れる事はないと思うようにしている。
そして人間関係での社交性や人生の生きい方を教えてくれた師匠に感謝をしている。


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短編:想いのメモリ<18>葛藤から解放へ動物大好き

2021-07-18 13:33:49 | 短編小説:想いのメモリシリーズ


首都圏へ○○○○年に高校を卒業後にボクは自身の肖像画を描いていた。
この頃には、たぶん無意識に肖像画は自分自身を表されたのだと思います。
何を考えてもメモリがないがないが何かに葛藤しているように感じてた。
何も考えず行動する事で周りの人から「何を考えているのかわからない」ってよく言われた。
ボク自身もよく解からなかった。
高校の仲間の同級生とボクは大学受験をしてたのだがボクは全ての受験で白紙提出で終わらせた。
担任の先生から教員室に呼ばれ何故白紙で受験したんだ?と言われた。
受験した大学からの連絡があった様だった。
ボクは最初は答える事をしなかった。
仲間がみんな大学へ行くからという事に葛藤と疑問を持ったからだ。
担任の先生は他の生徒達は受験をして不合格で代々木ゼミナールに通うんだぞと言われた。
ボクはボクのままでありたいと思っていた事を伝えると何か目的があるのかと言われた。
ボクにとっては絵を描く事で就職がしたいと答えると担任の先生は黙ってボクは教員室を出た。
仲間達といると孤独感が強くなっていくが仲間達はいつも通りに接してくる。
この時期には葛藤と疑問でかなり辛かった記憶がある。
しかし原宿にある専門学校へ入学しイラストレーション科へ入る事が出来た。
その後には担任の先生から連絡があり自分の現在を伝えると安堵し理解した様子だった。

専門学校の入学式前から上野動物園に週に3、4回は行っていたと思う。
動物が好きで、幼い頃には「パンダ」を観に何度も行って動物園の隅から隅まで回り知ってた。
多くの動物のデッサンを毎回スケッチブックに描いていると、動物園内で家族連れのお客さんがボクの周りを囲んでた。
そのデッサン欲しいって言う子供達もいて持ってたスケッチブックに描いた絵を無料で渡していた。
スケッチブックの枚数はいつも半分くらいになっていた。
観てる家族にはデッザンを渡すと、少ないけどって「千円」貰った事もあった。
この時、名前も知らない他人によって孤独感や葛藤から解放されたような気がした。
入学式後は竹下通りに行く事が多くなり外国人の留学生の多くの女性達と新たな出逢いもあった。
アニメーション学院や芸術短期大学の外国人の留学生達であった。
この頃は英語で話す事があり交流していた事もありアプローチされた事もあったが交際する気持ちはなかった。
新たな環境の中での多くの出会いがあった事で人は結びついて生きている事を考えるようになりボクは絵を描く事に没頭していた。
過去を振り返れば年齢もちかい留学生であったので交際しても良かったのかもしれないと思う事もある。
まことに面白い想いの出来事の記憶。


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短編:想いのメモリ<17>自由な感性と個性

2021-04-11 11:53:24 | 短編小説:想いのメモリシリーズ


自分の自画像に手を入れてみた。鉛筆でなぞり明暗をつけて、まだ完成してるようには思えない。
正直に言えば、もし自分が死んだ時、その絵も一緒に添えてもらえればと思っての事だ。
まだまだ、ボクの精神は管理することが出来ない。
絵画といえば、小学一年生の時、図画工作という授業があって、真っ白な紙を渡され絵を描いた。
終わったら先生に渡すのだが、ほとんどの子たちが先生に渡しに行った。
でも、ボクは持って行くことができなかった。
なぜかというと机の平面にまでクレヨンで絵を描いていまい持って行くとすると机ごとでなければ意味のないことだった。
ボクは黙って先生をみつめていると先生が来た。
クラスの生徒達もボクを囲んだ。
どうして良いかわからなかったので、ずっと黙っているとクラスの生徒達がクスクスと笑いはじめた。

ボクは恥ずかしくてしょうがなかった
先生も笑って教室を出て行きカメラを持ってきて机に描いた絵の写真を撮っていた。

その後は、真っ白な紙に生徒達と同じようにスケッチしたものを先生に渡しに持っていった。
机いっぱい描いたことについて何を言われたかはメモリにないが、雑巾を持ってきた子がいて拭きはじめたのは良いがクレヨンって油性でなかなか落ちなかった。
確か、左官屋(さかんや)の子の生徒が定規を持ってきてボクの机を綺麗にしてくれた。
あっという間で早かったな~と思った。ボクは驚いていたと思う。

どうして?聞いたら「お父さんの仕事見てるから」と言ったのです。
父母を見て子供は育つんだって今では思うようになった。

こんな事があったから成人を迎えると多趣味となり、いろんな人と会い技術を学ぶようになってたのかな?。
東京にいるときには工事現場でアルバイトしたり、らーめん屋、スーパー、パチンコ屋、陶芸家、画家さんとの様々な出会いがあった。
色々な事を話し合って、様々な技術を学ぶことができた。
ハーブガーデンデザイン制作でも平面図、立体図をデザインし模型を作ったりもしてた。

工事現場のバイトでは重機なども操作方法を教えてくれた。
クレーン車での操作やシャベルカー操作やフォークリフトの操作やブルドーザーの操作等の様々な重機の操作も出来るようになった。

資格はないけど工事現場の敷地では資格は必要ないとの事だったが資格は取っておけば良かったと今では後悔してる。
しかし、一軒家の自宅の建設地では重機を使って敷地整備をしていたボクだった。


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短編:想いのメモリ<16>生き方の違い竹馬の友よ

2021-03-22 10:02:51 | 短編小説:想いのメモリシリーズ


昔は町内で区切りがあった保育園の頃のことは前に書き記した通りです。
ただ、同じ年でも、学校に通えない友達もいた。
でも、町内対抗大会のソフトボールでは一緒に練習し試合にも出ていた。
でも、この頃も生活に格差というものがあって、家庭の問題を抱える事もあったが、そこに彼がいた。
彼の家で小学の時はテレビゲームやチャンバラなどをして遊んだ。
高学年のなると、彼の彼なりの苦しみを持っていて中学になると彼の席はあったが通う事はなく暴走族へ入ってしまっていた。
それからは彼とは遊ぶ事はなかった。
おそらく少年院へも・・・入ったのは良く分からなかった。
東京から戻ったボクは親が飲食店もしていたので、その手伝いなどもしていた。
そしてしばらくしてから飲食店のオーナーとなり、警察署へ行き挨拶を交わした。
「僕がオーナーになりましたのでよろしくお願いします」とボクは言った。
「問題を起こさないようにな」と警察官から言われ世間話もしていた。

そして、ある日突然、竹馬の友がはしごでボクの飲食店に飲みに来た。
お客はなく店を閉めようかという時であった。
遊ばなくなってから何年たったろうか。
「お前に話があってな、お前だけには俺と同じ人生を遅らせたくねぇんだ」
「俺は行くとこまでいったからな」
「お前はお前の生き方をしろよ」って言われたメモリがある。
数時間2人で飲んで会話して、会話というよりもボクはあまりしゃべる事なく頷く事の方が多かったように思う。
「お前を誇りに思う、お前は俺の友達だ」と言って店を出て行った。
この日から彼とはあってはいない。
彼は酔っていたから、そんな事を言ったのかも知れないけどね。
風の便りだが噂では、町内に戻っているらしいが会っていないので半信半疑だった。
しかし三社祭りの役員となった事は誰かから聞いていたが、ボクは祭りに参加する事もなかった。
そして別々の道を歩む友との再会をした事や彼の言葉を稀に思い出す事がある。
今では竹馬の友よ元気でいて欲しいと願っています。


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短編:想いのメモリ<15>忍者ねずみ小僧遊びで大怪我

2020-08-09 11:56:50 | 短編小説:想いのメモリシリーズ


小学校に入学する前の頃は何もかも怖いものはなかった。
瓦の屋根や高い場所で、忍者遊びねずみ小僧遊びというものをして遊んでいた。
昔は親同士、近隣のつながりがあって親以外の人も子供達を良くみていたものだ。

忍者ねずみ小僧遊びは近くには多くの倉庫があり、瓦屋根が密集していて、屋根から屋根へ飛んで鬼ごっこしながら隠されたものを見つけるというもの。
あるとき、ボクは倉庫の中に入り宝物を隠すため、しばらくしたら取りに行こうとしていたと思うって可笑しな話だよね。
隠した場所は、たぶんベルトコンベアーを登り光が当たる場所で上の方だったと思う。
倉庫の中は小さな小窓の光だけで、ほとんど下のほうは見えず手探りで隠した宝物を探していた時だった。
鍵がかかってない薄暗い倉庫の中に入って、ベルトコンベアーを登ろうとした時、何故か判らないけどコンベアーのスイッチが入ってしまい、左腕が挟まりコンベアーのベルトに巻かれたまま、吊り上げられた。

ベルトコンベアーの音で気づいたのかもしれないけど、その倉の持ち主の叔父さんが来てくれたので、助かったのだが体は血だらけ痛みは感じなくて意識が薄れ朦朧としていた。
たぶん叔父さんに抱かれて近くに外科の診療所へ運ばれたと思う。

叔父さんが、自宅にいる母に電話をして、記憶は曖昧な部分があるけど母の姿があり、左肩上腕上部の部位が、ばっくり切れて腕の骨が見えてたらしく気づかれなかったら「ベルトコンベアー」の上段まで行ってたら左腕を失っていたという事で母からは強い声でのお叱りを受けた。
ただ病院の診察室で目で見た記憶では、切れた皮膚の部分を数針縫っていたのを今でも思い出す。

中学生の頃には天気が悪くなると左腕がしびれていた。
痺れが強くなったり左腕が上がらなくなった時期もあった様な気がする。
当時はいつも左腕に違和感を感じたりして、事故の日のことを思い出していたと思う。
この事故から、ねずみ小僧遊びはなくなった。

左肩も脱臼しやすくなっていたが、成人を迎えると、脱臼しても自分ではめられるようになって今では脱臼する事は全くない。
切れた皮膚の部分を数針縫っていた時、記憶にあるのはにあるのは「頑張れ!」と医師の先生から何度も言われた声ぐらいかな。
たぶん全身麻酔ではなくて左腕だけの局所麻酔だったのかもしれない。
当時は、ねずみ小僧や忍者のドラマの影響があったからかもしれないと思うが忍者が好きったので、忍者になろうと思っていたのかもしれない。

馬鹿な遊びを1人でしてた事をしてたんだと、今では思っています。
こんな馬鹿な遊びをしないように。今でも少しだけ薄い傷跡は残ってます


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